第51話 白い塔の歓迎
貴族校の都市は、遠くから見ると絵のようだった。
白い塔。
青い屋根。
花の植えられた石橋。
丘の斜面に沿って並ぶ屋敷。
列車の窓から見える景色だけなら、かなり綺麗だ。
グラナートの街は、硬かった。
石と命令と規律でできていた。
こちらの街は、柔らかく見える。
曲線の道。
飾り窓。
噴水。
街路樹。
人々の服も明るい。
白、淡い青、薄い金。
どこを見ても、何かが磨かれている。
問題は、磨かれたものほど、反射がきついことだ。
「うわ」
ネルが窓の外を見て、心底嫌そうな声を出した。
「すごい顔だな」
俺が言うと、彼女はこっちを見た。
「あんたが顔の話する?」
「俺は顔診断される側だ」
「今はあたしがしてあげる。あんたもだいぶ嫌そう」
「否定はしない」
正直、俺も少し身構えていた。
貴族校。
礼節。
名誉。
格式。
そのどれもが、俺の昔に少し触れている。
元名門選手だったころ、似たような場所に立ったことがある気がする。
記憶は欠けている。
でも、欠けた形だけは残っている。
白い制服。
笑顔。
拍手。
丁寧な言葉。
丁寧だからこそ、逃げ場のない言葉。
「貴族校か」
ネルはもう一度言った。
今度は、窓ガラスに映る自分の顔を見ながら。
「何がそんなに嫌なんだ」
「全部」
「広い」
「じゃあ、狭く言う。綺麗に見下してくるところ」
彼女の声は低かった。
「汚い言葉で馬鹿にされるほうがまだまし。殴り返せるから」
「殴るな」
「たとえばの話」
「本当にたとえばか?」
「半分」
怖い。
でも、ネルの言いたいことは分かる。
グラナートは硬かったが、分かりやすかった。
低優先参加校。
危険。
記録対象。
そういう分類は刺さるが、直線的だった。
貴族校は、たぶん違う。
歓迎する。
微笑む。
褒める。
その上で、線を引く。
こちらへどうぞ。
ただし、そこまでです。
そういう場所なのだろう。
「ネル」
レイナ先輩の声がした。
振り返ると、彼女が通路に立っていた。
今日のレイナ先輩は、いつもより姿勢がいい。
いや、普段から姿勢はいい。
でも今日は、背筋に力が入りすぎている。
「到着前からその顔はやめなさい」
「顔に文句言われすぎじゃない?」
「礼節は顔に出るのよ」
「出したくないんだけど」
「だから問題なの」
火花。
早い。
まだ列車の中だ。
貴族校の門にも入っていない。
それなのにもう火花が出ている。
俺は胃にいい包みを握った。
ガレス先輩、本当にありがとう。
「レイナ先輩」
俺は慎重に声を挟む。
「ここ、来たことあるんですか」
レイナ先輩の表情が、ほんの少し止まった。
聞き方を間違えたかもしれない。
でも、彼女はすぐに顎を上げた。
「ないわ」
「ない?」
「ええ。招待状は、昔いただいたことがある」
招待状。
その言葉に、ネルの眉が動く。
「でも、来なかったんですか」
「来られなかったの」
レイナ先輩は窓の外を見た。
白い塔が近づいている。
「家の都合よ。よくある話」
よくある話。
たぶん、よくない話だ。
レイナ・オルコットは、没落校にいることを屈辱に感じていた。
貴族校に強い憧れを持っている。
その理由の一部が、今の言葉で少し見えた。
招待状をもらった。
でも、来られなかった。
今は、カルミア第七魔法競技部の一員として、巡業リーグの低ランク参加校として来ている。
それは、憧れと屈辱が同じ扉から入ってくるようなものだ。
「だから」
レイナ先輩はネルを見る。
「ここでは最低限、失礼のない振る舞いをしなさい」
「なんであたしだけ」
「顔に出るから」
「また顔」
ネルは不満そうに腕を組んだ。
「そっちこそ、なんかすごい顔してるけど」
レイナ先輩の目が細くなる。
「どういう意味?」
「嬉しそうで、悔しそうで、ちょっと怖い」
通路の空気が止まった。
ネルは、こういうところで妙に鋭い。
レイナ先輩の顔から、少しだけ余裕が消えた。
図星だったのだと思う。
「あなたに言われたくないわ」
レイナ先輩はそれだけ言って、踵を返した。
歩き方は美しい。
でも、少し速い。
ネルは黙って見送った。
「言いすぎたか?」
俺が聞くと、ネルは顔をしかめた。
「知らない」
「知らない顔じゃないな」
「うるさい」
彼女は窓の外に視線を戻した。
白い塔が、さらに近づく。
塔の先には、白い旗が揺れていた。
遠目にも分かる。
鳥のような形。
ただの旗ではない。
翼を畳んだ白い鳥。
貴族校の旗だろうか。
リメルが窓際で小さく揺れた。
旗布に文字が浮かぶ。
白い。
次に。
見る。
「あの旗、見てるのか?」
俺が聞くと、リメルは縦に揺れた。
「こっちを?」
もう一度、縦に揺れる。
まだ遠い。
でも、白い旗は見ている。
鉄旗は命令を待つ獣だった。
次の白旗は、礼節と名誉に敏感な鳥。
こちらを見る旗。
見られるのは、あまり得意ではない。
俺も。
ネルも。
たぶん、レイナ先輩も。
列車がゆっくり速度を落とした。
貴族校都市、ルミナリア。
駅名が告げられる。
響きからして、すでに飾られている。
ホームには、迎えの生徒たちが並んでいた。
白と金の制服。
肩に細い飾り紐。
手袋。
胸元の校章。
姿勢がいい。
笑顔もいい。
いい笑顔すぎて、逆に怖い。
ロイが小声で言った。
「きれい」
発声禁止札はもう持っていない。
でも、小さい声だった。
グラナートで得た成長が残っている。
えらい。
「きれいすぎ」
ネルがぼそっと言った。
「聞こえるぞ」
「小声」
「小声でも聞こえる距離だ」
彼女は不満そうに口を閉じた。
列車の扉が開く。
コレットが先頭に立つ。
小さな部長は、初ポイント通知を丁寧に鞄へしまい、表を抱えている。
その後ろに俺たち。
カルミア第七魔法競技部は、後方車両から降りた。
駅の華やかさと、俺たちの荷物の多さが、かなり合っていない。
ミラの荷物は大きい。
ガレス先輩の工具袋は無骨。
ジャックは壊れた支持金具の欠片を持っている。
リリィのポケットには迷子一号が入っている。
ノル先輩は半分寝ている。
ロイは小声の練習をしている。
ネルは顔が険しい。
レイナ先輩は、いつもより美しい姿勢で降りた。
迎えの生徒たちは、いっせいに礼をした。
動きが揃っている。
グラナートの揃い方とは違う。
あちらは命令で揃っていた。
こちらは、舞台で練習したみたいに揃っている。
柔らかいのに、ずれない。
「ようこそ、カルミア魔法学園第七魔法競技部の皆さま」
先頭の女子生徒が言った。
声は澄んでいる。
笑顔は完璧。
金髪を細く編み込み、白い手袋をしている。
年は俺たちと同じくらいだろう。
「私は、ルミナリア貴族魔法学院、競技部副代表のセシリア・グレイスです。皆さまを歓迎いたします」
歓迎。
その言葉は、綺麗だった。
綺麗すぎて、ネルの肩が少し動いた。
コレットが丁寧に礼を返す。
「カルミア魔法学園第七魔法競技部、部長のコレット・セインです。お迎えいただき、ありがとうございます」
セシリアは微笑む。
「グラナートでの合同訓練成果、拝見いたしました。巡業評価補助点の獲得、おめでとうございます」
情報が早い。
さすが貴族校。
いや、巡業リーグの記録を見ているだけかもしれない。
でも、言い方がすでに華やかだ。
「ありがとうございます」
コレットが答える。
「敗戦後の成果を評価に繋げる姿勢、たいへん興味深く存じます」
ネルの眉が動いた。
敗戦後の成果。
正しい。
間違っていない。
でも、言い方が少し刺さる。
グラナートなら「公式結果、敗北。補助点一」と言うだろう。
こちらは、微笑みながら綺麗に包む。
包まれた針は、針のままだ。
「興味深い、ね」
ネルが小さく言った。
俺は肘で軽く止めた。
早い。
まだ到着して一分も経っていない。
セシリアの視線が、ふわりとネルへ向いた。
聞こえていたのかもしれない。
あるいは、最初から見ていたのかもしれない。
「そちらがネル・アーレン様ですね」
ネルの表情が固まる。
「様?」
「鉄旗への接触記録で、お名前を拝見しております」
セシリアはにこやかに言った。
「一瞬の魔力で強豪校の旗へ届いた、と」
「届いただけだけど」
ネルが言う。
「届くこと自体が、簡単ではありませんわ」
褒めている。
たぶん、本当に褒めている。
でも、ネルは警戒している。
褒め言葉が、どこからどこまで本心なのか分からないからだ。
「あ、どうも」
ネルはぎこちなく答えた。
レイナ先輩が横で小さく息を呑む。
たぶん、今の返礼が気になったのだろう。
セシリアは気にした様子を見せない。
「そして、レイナ・オルコット様」
その名を呼ばれた瞬間、レイナ先輩の背筋がさらに伸びた。
「お会いできて光栄です」
セシリアが礼をする。
レイナ先輩も礼を返した。
美しい礼だった。
いつもの自信家の礼ではない。
少しだけ、緊張が混ざっている。
「こちらこそ、光栄ですわ」
声も違う。
いつもより少し高く、整っている。
ネルが横目で見た。
俺も少し驚いた。
レイナ先輩は、こういう場の言葉を知っている。
知っているのに、ここに所属していない。
その事実が、彼女の姿勢をさらに硬くしていた。
「オルコット家のお名前は、当学院でも古い交流記録に残っております」
セシリアは柔らかく言った。
レイナ先輩の指先が、ほんの少し動いた。
「恐れ入ります」
「本来であれば、もっと早くお迎えできればよかったのですが」
丁寧な言葉。
柔らかい声。
でも、俺は少しだけ嫌な感じがした。
本来であれば。
もっと早く。
お迎えできれば。
それは、昔の招待状に触れているのかもしれない。
レイナ先輩の顔は崩れなかった。
でも、目の奥だけが少し揺れた。
「巡業リーグという形で伺えたこと、嬉しく思います」
レイナ先輩はそう言った。
強い。
かなり強い。
自分が今どんな立場でここにいるのか、全部分かった上で、礼節の形に収めた。
ネルはそれを見て、少しだけ表情を変えた。
苛立ちだけではない。
何かを見た顔だ。
「皆さまのお荷物は、係の者が宿舎へお運びいたします」
セシリアが言う。
ミラがぴくっと反応した。
「荷物」
「はい。長旅でお疲れでしょうから」
「自分で持つ」
ミラは即答した。
セシリアは一瞬だけ瞬きをした。
すぐに微笑む。
「もちろん、ご希望でしたら」
ミラは大きな荷物を背負い直した。
「荷物は、背負い方」
「素敵な考え方ですわ」
セシリアはそう言った。
褒めている。
でも、ミラは少し首をかしげた。
素敵と言われる種類の話ではない、と思ったのかもしれない。
リリィが小声で言う。
「今のは、翻訳されましたね」
「どういう意味だ」
俺が聞く。
「実用が、上品な概念に変換されました」
「怖い」
「貴族校ですから」
なるほど。
グラナートは分類する。
ルミナリアは装飾する。
どちらも、こちらをそのまま置いてはくれない。
コレットは表を抱え直した。
「ありがとうございます。宿舎までご案内いただけますか」
「もちろんです」
セシリアは微笑んだ。
「まずは歓迎の庭を通ります。学院長代理と競技部代表が、そちらでご挨拶いたします」
「歓迎の庭」
ネルが小さく繰り返した。
「庭で歓迎されるの?」
「口」
俺が小声で言う。
「小声」
「聞こえる」
ネルは不満そうに黙った。
俺たちはホームから学院へ向かった。
駅から学院までは、専用の白い石道が続いている。
道の両側には、低い花壇。
花は白と青で統一されている。
風が吹くと、花びらが少し揺れる。
ロイが小声で言った。
「すごい」
「声、小さいな」
「ここ、大きい声出したら花が怒りそう」
「花は怒らないだろ」
そのとき、花壇の一部がふわりと揺れた。
ロイが口を押さえる。
「怒った?」
クララがすぐにしゃがみ込んだ。
「花壇にも簡易感応術式があります。音量と歩調に反応しているようです」
「花まで礼節を求めてくるの?」
ネルが嫌そうに言う。
「おそらく、歓迎演出と警備を兼ねています」
「最悪」
ネルの語彙が偏っている。
でも、気持ちは分かる。
セシリアが振り返る。
「当学院の歓迎路は、来客の歩みに合わせて花が開くよう調整されています」
その瞬間、俺たちの足元の花が、順番に開いた。
白い小さな花。
美しい。
確かに美しい。
ただ、歩みまで見られていると思うと、少し落ち着かない。
「歩き方まで見られてる」
ネルが言う。
「礼節は足元に出ます」
レイナ先輩が反射的に答えた。
ネルが顔を向ける。
「ここ、気に入った?」
「気に入ったかどうかの話ではないわ」
「じゃあ何」
「美しいものは、美しいと認めるべきよ」
「監視されてても?」
「歓迎演出と言いなさい」
「監視でしょ」
火花。
白い花の上で火花。
コレットが小さく「二人とも」と言いかけたが、セシリアが微笑んだ。
「率直なご感想、ありがとうございます」
ネルが眉を寄せる。
「皮肉?」
「いいえ。歓迎は、受け取る方によって違って見えるものですから」
セシリアの返しは柔らかい。
柔らかすぎて、ネルの拳がわずかに握られた。
俺はすぐに言った。
「すみません。ネルは正直なので」
庇ったつもりだった。
かなり不器用な庇い方だった。
ネルがこちらを見た。
「正直って何」
「褒め言葉」
「雑」
セシリアは俺を見た。
「ルカ・ヴァレン様ですね」
「はい」
「王立レガリアでのお名前は、こちらでも伺っております」
心臓が少しだけ嫌な跳ね方をした。
王立レガリア。
エレナ。
俺が落ちた場所。
彼女がいる場所。
貴族校は、そういう情報も当然のように持っている。
「今はカルミアです」
俺は言った。
少し早口だったかもしれない。
セシリアは微笑みを崩さない。
「失礼いたしました。カルミアのルカ・ヴァレン様」
丁寧に修正された。
それはありがたい。
ありがたいのに、少し刺さる。
カルミアのルカ。
そう言われることが、嬉しいような、怖いような。
ネルが横で小さく言った。
「今のは、まあまあ」
「顔診断?」
「言葉診断」
「新しい」
レイナ先輩が、セシリアを見ている。
その目には、憧れがあった。
悔しさもあった。
セシリアの礼節は完璧だ。
言葉も、歩き方も、相手の扱い方も。
レイナ先輩が欲しかったものが、そこに自然にある。
だからこそ、痛いのだと思う。
歓迎の庭は、学院の正門の内側にあった。
白い石のアーチ。
水路。
円形の花壇。
中央には、白い鳥の像がある。
翼を閉じ、首を少し傾げた鳥。
その鳥像の上に、本物の旗がいた。
白旗。
鳥の形をした旗。
遠くから見たときより、ずっと生き物に近い。
旗布は羽のように細かく重なり、軸は細い脚のように見える。
風がないのに、白い羽布が静かに動いている。
白旗は、俺たちを見ていた。
見下ろしている。
いや、見守っている。
どちらにも見える。
リメルが小さく揺れた。
旗布に文字が浮かぶ。
鳥。
次に。
礼。
「礼?」
俺が呟く。
白旗が、ほんの少し首を傾けたように見えた。
反応した。
クララがすぐに記録する。
「白旗、リメルの文字に微反応。礼に敏感」
「早いですね」
セシリアが感心したように言う。
「記録係が多いので」
俺が答える。
ノル先輩は半分寝ながら言った。
「白い鳥、見てる」
「何を?」
クララが聞く。
「手」
手。
俺たちは自分の手を見る。
ネルの手。
昨日、鉄旗に触れた手。
レイナ先輩の手。
一度失敗してから成功する魔法を使う手。
俺の手。
風を使うか使わないか迷う手。
白旗は、手を見ている。
礼節と名誉に敏感な旗。
手の出し方。
差し伸べ方。
奪い方。
失敗の見せ方。
そういうものを見るのかもしれない。
「白旗、アウレリア」
セシリアが言った。
「当学院の競技旗です。礼を知る者には近づき、礼を欠く者からは遠ざかります」
ネルが小さく言った。
「最悪」
俺は肘で止める。
セシリアは聞こえなかったふりをした。
聞こえていただろう。
レイナ先輩は白旗を見上げていた。
目がきらきらしている。
本人は隠しているつもりだろう。
でも、分かる。
綺麗なものを、素直に綺麗だと思っている顔。
同時に、自分がそこに選ばれなかったことを思い出している顔。
「美しい」
レイナ先輩が呟いた。
白旗アウレリアが、羽布を少し広げた。
反応。
セシリアが微笑む。
「ありがとうございます。アウレリアも、礼ある言葉を喜んでおります」
ネルが不満そうに腕を組む。
「旗まで褒め言葉好きなんだ」
「ネル」
俺は小声で止める。
「小声」
「小声でも」
白旗が、ネルのほうを見た。
たぶん見た。
首を傾ける。
その動きは優雅だ。
でも、俺には少しだけ鋭く見えた。
ネルも感じたらしい。
彼女は口を閉じた。
白旗は、礼を欠く者から遠ざかる。
ネルと相性が悪そうだ。
かなり。
歓迎の庭の奥から、別の生徒たちが現れた。
先頭の男子生徒は、銀色の髪を後ろでまとめている。
制服の飾り紐が、セシリアより少し多い。
たぶん競技部代表だ。
「ようこそ、カルミア第七魔法競技部」
彼は優雅に礼をした。
「ルミナリア貴族魔法学院競技部代表、アドリアン・ヴァロワです」
名前まで貴族校だった。
いや、名前に罪はない。
でも、響きが強い。
コレットが礼を返す。
「カルミア魔法学園第七魔法競技部、コレット・セインです。よろしくお願いいたします」
「グラナートでの成果、実に興味深いものでした」
また興味深い。
ネルの肩が動く。
「勝たずして評価を得る。なかなか、珍しい歩みです」
丁寧な声。
微笑み。
でも、今のはかなり刺さった。
勝たずして。
正しい。
間違っていない。
でも、そこだけを抜き出すと、負け惜しみのようにも聞こえる。
コレットは少しだけ表を抱く手に力を入れた。
俺が何か言う前に、レイナ先輩が一歩前に出た。
「評価とは、勝敗のみに宿るものではありませんわ」
声が美しい。
でも、芯がある。
「記録、礼節、相手への敬意、そして敗北後の振る舞い。貴学院であれば、その価値をよくご存じでは?」
アドリアンの目が、少しだけ細くなった。
セシリアも、レイナ先輩を見る。
ネルが驚いた顔をした。
俺も驚いた。
レイナ先輩が、カルミアを庇った。
しかも、貴族校の言葉で。
アドリアンはすぐに微笑みを戻した。
「もちろんです。失礼いたしました。オルコット嬢」
オルコット嬢。
レイナ先輩の指が、また少し動いた。
「お気になさらず」
彼女は答えた。
笑顔。
完璧ではない。
でも、美しい。
ネルが小さく言う。
「今の、やるじゃん」
レイナ先輩は聞こえていたらしい。
横目でネルを見る。
「当然よ」
でも、少しだけ嬉しそうだった。
歓迎の挨拶は、そのあとも続いた。
学院長代理。
競技部顧問。
宿舎担当。
旗管理係。
次々に丁寧な言葉が重なる。
どれも礼儀正しい。
どれも美しい。
そして、どれも少しずつ疲れる。
グラナートの命令は、まっすぐ体に当たる。
ルミナリアの礼節は、薄い布のように何枚も重なる。
気づくと、息がしにくくなっている。
歓迎が終わるころ、ネルはかなり限界に近かった。
ロイですら小声で「長い」と呟いた。
レイナ先輩は最後まで姿勢を崩さなかった。
でも、顔色は少し白い。
「宿舎へご案内いたします」
セシリアが言った。
「本日は長旅のお疲れもあるでしょうから、正式練習は明日から。夕刻に、軽い歓迎茶会をご用意しております」
「茶会」
ネルの声が死んだ。
「軽い?」
俺も少し死んだ。
セシリアは微笑む。
「ええ、軽いものです」
その軽いが、どの程度軽いのか。
カルミア基準か。
貴族校基準か。
たぶん後者だ。
俺は胃にいい包みをもう一度握った。
ガレス先輩が、無言で追加の包みをくれた。
「ありがとうございます」
心から言った。
宿舎へ向かう途中、レイナ先輩は白旗を何度も振り返った。
ネルはそれを見ていた。
口は悪い。
でも、何か言うのをこらえている。
珍しい。
「何」
レイナ先輩が気づいて言う。
「別に」
「その別には、何かある顔よ」
「顔に出るの、そっちもじゃん」
レイナ先輩が黙る。
ネルも黙る。
火花は出た。
でも、さっきより少し違う。
お互いに、相手の痛いところが少し見えてしまった。
だから、殴りにくい。
いや、ネルならまだ殴る可能性がある。
口で。
「レイナ先輩」
俺は声をかけた。
「何かしら」
「大丈夫ですか」
彼女は少し驚いた顔をした。
そして、すぐにいつもの顔を作る。
「当然よ」
「その当然、信用していいやつですか」
「失礼ね」
「すみません」
レイナ先輩は少しだけ視線を外した。
「大丈夫ではないかもしれないわ」
小さな声だった。
ネルも俺も、黙った。
「でも、崩れるつもりはない」
彼女は白い塔を見上げる。
「ここに来たかった私と、ここに来られなかった私と、カルミアの一員としてここに来た私が、今かなり面倒なことになっているだけよ」
「かなり正確な自己分析」
俺が言うと、レイナ先輩は少しだけ笑った。
「グラナートで記録癖が移ったのかしら」
「第七部、感染力ありますね」
「ええ。本当に困るわ」
ネルがぼそっと言った。
「でも、さっき庇ったのは、ちょっとよかった」
レイナ先輩の足が止まりかけた。
「ちょっと?」
「ちょっと」
「そこは素直に褒めなさい」
「まあまあよかった」
「増えていないわ」
「増えたし」
いつもの二人に戻りかける。
でも、空気は少し柔らかい。
俺はほっとした。
ほっとしたところで、セシリアが振り返った。
「皆さま、こちらがご滞在いただく白鳩寮です」
白い建物。
窓には薄いレース。
玄関には花飾り。
扉の前には、また小さな鳥の紋章。
白鳩寮。
名前からして、もう丁寧だ。
宿舎に入ると、玄関ホールで小さな鐘が鳴った。
柔らかい音。
ロイが目を輝かせる。
「いい音」
セシリアが微笑む。
「来客を歓迎する鐘です」
「俺の音も、こういうのにしたい」
ロイが小声で言った。
かなりいい目標かもしれない。
グラナートで覚えた小声。
ルミナリアで聞く歓迎の鐘。
ロイの音が、また少し変わる可能性がある。
コレットはすぐに表へ書いた。
ロイ。
歓迎の鐘。
命令ではない音の次段階。
「部長、早い」
「忘れないうちに」
ノル先輩が頷く。
「大事」
宿舎の部屋割りが発表された。
男女別。
部屋は綺麗。
ベッドは白い。
机には花。
窓からは学院の庭が見える。
あまりにも整っていて、ジャックが落ち着かない顔をした。
「壊したら終わりだな」
ガレス先輩が頷く。
「触るな」
「分かってる」
「見るだけ」
「子ども扱いすんな」
でも、ジャックは本当に何にも触らなかった。
成長している。
少しずつ。
夕刻の歓迎茶会まで、自由時間となった。
自由時間。
ただし、貴族校の自由時間は、たぶん自由ではない。
コレットはすぐに作戦席を作った。
場所は宿舎の談話室。
白いテーブル。
花瓶。
柔らかい椅子。
そこへコレットの表、クララの紙、ノル先輩の記録帳、ミラの荷物表、リリィの迷子一号が置かれる。
見た目が台無しだ。
いや、第七部らしくなったと言うべきかもしれない。
「第6章の初期記録を作ります」
コレットが言った。
「また章って言った?」
ロイが小声で聞く。
「言っていません」
「言った気がする」
「気のせいです」
いつもの儀式が終わる。
コレットは新しい紙に題名を書いた。
貴族校の白旗。
その下に、初日の観察。
一、歓迎が華やか。
二、礼節が監視にもなる。
三、白旗アウレリアは手と礼に反応。
四、ネルさんが苛立つ。
五、レイナ先輩が揺れる。
「四と五、もう書くの?」
ネルが言う。
「重要なので」
クララの言い方が完全に移っている。
「あたし、観察対象?」
「全員、表に入ります」
コレットは真面目だった。
レイナ先輩が腕を組む。
「私の欄は、美しく書きなさい」
「揺れる、では駄目ですか」
「駄目ではないけれど、もう少し」
コレットは少し考え、書き直した。
レイナ先輩が憧れと屈辱の間で姿勢を保つ。
レイナ先輩はそれを見て、しばらく黙った。
「……悪くないわ」
かなり良いのだろう。
ネルが自分の欄を覗く。
ネルさんが苛立つ。
「あたしの雑じゃない?」
「では」
コレットは書き直す。
ネルさんが、綺麗に包まれた見下しを警戒する。
ネルは黙った。
「それならいい」
いいらしい。
表は便利だ。
痛いものも、言葉にすると少しだけ持てる。
軍事校で覚えたやり方が、貴族校でももう働き始めている。
ただし、相手が変われば、使い方も変えなければならない。
命令ではない返事を聞くための表は、今度は礼節の中に隠れた線を読む表になる。
「白旗アウレリア」
クララが言った。
「あの旗は、鉄旗とはまったく違います。命令ではなく、振る舞いを見ています。手、礼、言葉、視線、歩調。おそらく、旗そのものが礼節の判定者です」
「判定者」
俺は嫌な予感がした。
「つまり、失礼だと逃げる?」
「逃げるだけではないかもしれません」
「他に何が」
「近づかない。見ない。あるいは、わざと相手の礼節不足を露出させる」
ネルが顔をしかめる。
「性格悪い旗?」
「礼節と名誉に敏感な旗です」
「それを性格悪いって言うんじゃないの」
レイナ先輩が眉をひそめる。
「ネル」
「何」
「白旗を悪く言うのは早いわ」
「じゃあ、警戒」
「それならよろしい」
少しだけ歩み寄った。
たぶん。
かなり小さいが。
夕方の茶会まで、あと少し。
白い塔の影が、窓の向こうで長く伸びている。
アウレリアは庭の鳥像の上で、たぶんこちらを見ている。
ネルは苛立ちを隠せない。
レイナ先輩は憧れと屈辱を抱えたまま姿勢を保っている。
俺は胃にいい包みを机の端に置いた。
ガレス先輩がもう一つ追加してくれた。
「多くないですか」
「必要」
「未来が見えてるんですか」
ガレス先輩は黙って頷いた。
怖い。
でも、たぶん正しい。
第六章は、白い花の香りと、柔らかい笑顔と、見えない線の中で始まった。
グラナートで得た初ポイントは、鞄の中にある。
勝ちの手前の一点。
それは、たしかに俺たちを少し支えている。
けれど次の相手は、その一点を祝うのではなく、微笑みながら見てくる。
あなたたちは、どのように振る舞いますか。
どの手で旗へ触れますか。
どんな失敗を、どんな顔で見せますか。
白旗アウレリアは、たぶんそう聞いている。
そして俺たちは、まだ答え方を知らない。




