第50話 勝ちの手前の一点
巡業評価点の通知は、朝食のスープが少し冷めたころに届いた。
ちょうど、ロイが発声禁止札を朝食の横に置いて、スプーンを持つたびに札へ目を落としているところだった。
食べるときまで必要なのかと聞いたら、本人は真剣な顔で答えた。
「油断すると、おいしいって大きく言う」
成長の方向が地味に切実だった。
ネルは向かいでパンをちぎりながら、眠そうな顔をしている。
昨日は鉄旗に触れなかったのに、触った日より疲れたらしい。
アルフは食事の横に線の図を置いている。
スープがこぼれたら大惨事だ。
コレットは朝から表を確認している。
クララは古代契約の写しを読んでいる。
ノル先輩はスープに顔が近い。
寝ているのか、食べているのか、境目が危うい。
ガレス先輩がさりげなく椀を少し遠ざけた。
レイナ先輩は姿勢よく食事をしている。
ミラは荷物表に「食べ物も荷物」と書いている。
リリィは迷子一号を食卓の端に置いて、食堂係に二度見されている。
ジャックは昨日より少し静かだった。
壊れた支持金具の欠片を、今日は机の上に置いている。
握りしめてはいない。
リメルは旗待機区域で、朝の光を浴びながら揺れていた。
そんな、第七部としては比較的落ち着いた朝だった。
比較的、だ。
そこへ、グラナートの連絡係がやって来た。
制服の襟まで整った男子生徒で、手には封書を持っている。
封には、巡業リーグの簡易印と、グラナート軍事魔法学院の確認印が並んでいた。
「カルミア魔法学園第七魔法競技部、部長コレット・セイン殿」
連絡係はそう言って、封書を差し出した。
コレットが立ち上がる。
背は小さい。
でも、昨日から少しだけ立ち方が違う。
「はい」
彼女は封書を受け取った。
「巡業評価補助点の仮通知です。グラナート側提出の合同訓練成果報告を受け、連盟巡業管理部より速報が入りました」
食堂の空気が止まった。
巡業評価補助点。
仮通知。
速報。
言葉が硬い。
でも、硬い言葉ほど、グラナートでは本気だ。
コレットの指が少し震える。
「ここで開封しても?」
「問題ありません」
連絡係は答えた。
ロイが息を吸った。
札を見る。
口を押さえる。
ネルが俺を見る。
俺もネルを見る。
アルフが静かに椅子を引いた。
ガレス先輩がノル先輩のスープ椀をさらに遠ざけた。
レイナ先輩は胸を張る。
ミラは荷物表に空欄を作った。
リリィは迷子一号を少し中央へ寄せた。
ジャックは欠片を指で押さえた。
クララは古代契約の紙を閉じる。
全員が、封書を見ていた。
コレットは封を切った。
中の紙を取り出す。
文字を追う。
小さな部長の目が、一行ずつ動く。
途中で、彼女の表情が止まった。
「コレット」
俺は思わず呼んだ。
彼女は顔を上げた。
目が少し潤んでいる。
でも、泣いてはいない。
「巡業評価補助点」
声が少し震えていた。
「一点」
ロイが札を握りしめた。
ネルが目を見開く。
ジャックが「は」と小さく言う。
レイナ先輩の姿勢がさらに伸びる。
ミラが荷物表の空欄に何かを書き込む。
アルフが、ほんの少しだけ息を吐いた。
クララが眼鏡を押さえる。
ノル先輩が目を半分開けた。
「一点」
彼女が眠そうに繰り返す。
コレットは紙を見ながら、続けた。
「公式勝点ではありません。巡業評価補助点です。合同訓練成果、旗反応研究、相手校記録への貢献、安全条件遵守。以上の四項目が評価対象」
「一点」
ロイが小さく言った。
今度は札を見なくても小さかった。
「第七部、初ポイント?」
「はい」
コレットは頷いた。
「初ポイントです」
その瞬間、ロイは立ち上がった。
全員が身構えた。
しかし、彼は札を両手で掲げた。
しゃべるな。
そして、震える小声で言った。
「やった」
小さい。
でも、食堂の端まで届いた。
いや、届いたのは音量ではなく、気持ちのほうかもしれない。
ネルが笑った。
「あんた、本当に小声できるようになったじゃん」
「今だけかも」
「今できたなら記録」
ノル先輩が言った。
寝ぼけた声で、しかし確信を持って。
「記録する」
彼女は記録帳を開き、書いた。
初ポイント。
ロイ、小声で喜ぶ。
「そこも記録するんですか」
ロイが恥ずかしそうに言う。
「大事」
ノル先輩は短く答えた。
大事だ。
かなり大事だと思う。
公式戦には負けた。
鉄旗を奪っていない。
勝点ではない。
それでも、点が入った。
負けた翌朝に作った敗北の使い道表。
コレットの苦しさ。
アルフの戻り線。
俺の風の前。
ノル先輩の夢。
クララの核文。
ネルの「そこ」。
ロイの命令ではない音。
レイナ先輩の戻る失敗。
ミラとガレス先輩の回収。
ジャックの撃たなかった圧。
リリィの迷子一号。
リメルの怖いまま見る文字。
全部が、たった一点に繋がった。
たった一点。
でも、ゼロではない。
カルミア第七魔法競技部の巡業リーグ初ポイント。
「勝ったわけじゃないのに」
ジャックが呟いた。
「点、入るんだな」
「勝ち点ではありません」
コレットが丁寧に言う。
「でも、点です」
「そこが変なんだよ」
ジャックは少し笑った。
「負けたのに、点が入った」
「負けの使い道」
ミラが言った。
その言葉で、食堂が少し静かになる。
そうだ。
第五章の題名みたいなものが、ようやく形になった。
負けの使い道。
責任を分けた。
敗北を表にした。
見えなかったものを拾った。
鉄旗の返事を聞いた。
グラナートの記録に残った。
そして、巡業評価点になった。
負けをなかったことにしたわけではない。
負けは負けのままだ。
公式戦の結果は、グラナート一、カルミア零。
旗捕獲なし。
その事実は消えない。
でも、負けの中に残ったものは、点になった。
「これ」
レイナ先輩が静かに言った。
「美しいわ」
誰も茶化さなかった。
たぶん、本当にそうだったからだ。
完全な勝利ではない。
華やかな逆転でもない。
観客が総立ちになるような決着でもない。
負けたあとで、記録を積み、表を作り、相手に提案し、訓練し、返事を聞いて、ようやく一点。
地味だ。
でも、美しい。
「コレット」
ネルが言った。
「勝つところ、見えた?」
かなり踏み込んだ質問だった。
コレットは少しだけ目を伏せた。
「見えません」
彼女は答えた。
「でも」
表を見た。
通知を見た。
俺たちを見た。
「見えなかったものが、点になりました」
その声は、泣きそうで、でも笑っていた。
ネルは少しだけ顔をそらした。
「なら、いい」
「はい」
ロイがまた小さく言う。
「勝ちの手前の一点」
コレットは通知の下に、その言葉を書き足した。
勝ちの手前の一点。
レイナ先輩が満足そうに頷く。
「悪くないわ」
「レイナ先輩基準で悪くないなら、かなりいいな」
俺が言うと、レイナ先輩は当然のように言った。
「そうよ」
強い。
朝食後、俺たちはグラナートを発つ準備を始めた。
巡業列車は昼過ぎに出る。
次の目的地は、貴族校の都市。
白旗を持つ華やかな学院。
身分、格式、礼節、名誉。
今までとはまったく別の硬さを持つ相手だ。
グラナートの硬さは、規律と命令だった。
次の硬さは、たぶん笑顔と礼儀の中にある。
ネルが嫌そうな顔をしていた。
「貴族校か」
「顔に出すぎ」
「出してる」
「自覚的だった」
レイナ先輩は反対に、少し落ち着かない顔をしている。
憧れと屈辱が混ざったような顔。
次章の主役の一人は、たぶん彼女だ。
もう一人はネル。
この二人を同じ場所に置くと、だいたい火花が散る。
今から少し胃が痛い。
「ルカさん」
コレットが声をかけてきた。
「何だ」
「グラナートの記録写し、保管用に二部作ります。一部は部記録。一部は巡業列車で確認する用です」
「仕事が速い」
「必要です」
「クララみたいになってきたな」
「理論ではなく運用です」
「もっと怖い」
コレットは少しだけ笑った。
初ポイント通知は、すでに部記録の先頭に挟まれている。
大事にしすぎて、逆に折れそうで怖い。
「ルカさんの欄も更新します」
「俺の欄?」
「風を使わなかった理由と、使わない理由」
彼女は表を見せた。
風前確認。
誰を信じるか言う。
使う場合、戻り言葉を先に決める。
戻り言葉。
ルカ、と呼ぶ。
その下に、新しく一行が増えていた。
使わなくても、点に繋がることがある。
俺はその文字を見た。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
魔法を使わなかった。
風を出さなかった。
それでも、点に繋がった。
俺一人のおかげではない。
むしろ、俺は使わないことで、みんなの一手を残しただけだ。
でも、それでいい。
使わないことが、ただの逃げではないと、少しずつ証明されていく。
「悪くないな」
「はい」
コレットは頷いた。
「ただし、使わないことを固定しないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「部長、最近厳しい」
「必要なので」
また誰かの言い方が移っている。
でも、必要だ。
使わないことが点に繋がったからといって、ずっと使わないと決めるのは違う。
いつか使う日が来るかもしれない。
そのときは戻り言葉を先に決める。
記憶を失う可能性を、一人で抱えない。
今はそれでいい。
出発前、俺たちは旗保管棟へ向かった。
鉄旗一号に別れを言うためだ。
正式な面会ではない。
イリスが短時間だけ許可してくれた。
許可。
鉄旗の夢では、許可を出すことすら難しかった。
今は、グラナートの主将が許可を出した。
それもまた、少しだけ変化なのかもしれない。
旗保管棟の廊下は、相変わらず硬かった。
鉄扉。
油と金属の匂い。
規則正しい足音。
でも、前に来たときほど息苦しくはない。
ノル先輩が廊下の端を見て、眠そうに言った。
「ここで寝た」
「寝ましたね」
「働いた」
「働きました」
「評価点」
「入りました」
ノル先輩は満足そうに目を閉じかけた。
「今は寝ないでください」
「少し」
「駄目です」
クララが止める。
ノル先輩は残念そうだった。
鉄旗一号は、整備台の上にいた。
昨日と同じように見える。
でも、旗布が少しだけ柔らかく垂れている気がした。
気のせいかもしれない。
証人に結論を押しつけない。
でも、そう見えた。
イリスが横に立っている。
旗管理官もいる。
時間は短い。
触れることは禁止。
近づきすぎることも禁止。
それで十分だった。
ネルが一歩前へ出た。
五歩以上の距離を保つ。
手は伸ばさない。
「そこ」
彼女は言った。
鉄旗の擦過痕を見ている。
「見た。覚えてる」
鉄旗の旗布が、ほんの少し揺れた。
旗管理官が記録しようとする。
イリスが手で止めた。
「今は別れだ」
旗管理官が少し驚いた顔をした。
でも、頷いた。
記録しないのではない。
たぶん、別の種類の時間として扱ったのだ。
ロイが札を胸に当てて、小さく言った。
「またね」
鉄旗は動かない。
でも、旗布が少しだけ揺れる。
アルフは何も言わず、足元に短い線を引いた。
戻り線。
すぐに消す。
来た。
戻る。
それだけを示す線。
リメルが前へ出た。
旗布に文字が浮かぶ。
怖い。
また。
鉄旗の旗布が、ゆっくり揺れた。
怖い。
でも、また。
旗同士の会話に、俺たちは余計な言葉を挟まなかった。
ノル先輩が眠そうに言う。
「聞いた」
クララが小さく頷く。
「記録しますか」
ノル先輩は少し考えた。
「心に」
珍しい。
ノル先輩が紙ではなく心と言った。
クララも驚いた顔をした。
「紙には?」
「あとで」
やはり記録するらしい。
イリスが俺を見た。
「ルカ・ヴァレン」
「はい」
「君は、風を使わなかった」
「はい」
「次も使わないとは限らない」
「分かっています」
「使うなら、戻れ」
命令のようで、命令ではない声だった。
グラナートの主将にそんなことを言われるとは思わなかった。
俺は少しだけ笑った。
「戻り言葉、決めてます」
「ならよい」
イリスは短く言った。
俺は鉄旗を見た。
「またな」
鉄旗に向かって言う。
「次に会うときは、たぶんもっと対策されてる」
イリスが言う。
「当然だ」
「こっちも更新する」
「当然だ」
鉄旗の旗布が、少し揺れた。
返事か。
命令保持か。
風か。
分からない。
でも、それでいい。
全部を決めつけないまま、俺たちは礼をした。
鉄旗に。
イリスに。
グラナートに。
そして、負けた試合に。
巡業列車へ向かう道、グラナートの街はやはり整っていた。
石畳。
直線の道。
等間隔の街灯。
規律の街。
でも、最初に来たときとは見え方が違う。
硬いだけではない。
硬くならなければ守れなかったものがある。
そして、硬くなりすぎると見えなくなるものもある。
鉄旗はそれを教えてくれた。
「次、貴族校だっけ」
ネルが嫌そうに言う。
「そうだな」
「絶対面倒」
「今から決めつけるな」
「決めつけじゃなくて予測」
「かなり正確そうなのが嫌だ」
レイナ先輩が前から振り返る。
「貴族校を悪く言わないでちょうだい」
「まだ何も言ってないし」
「顔に出ているわ」
「ルカみたいなこと言わないで」
「俺、そんなに顔診断される側なんだが」
ネルとレイナ先輩が、早くも火花を散らしている。
第6章が見える。
かなりはっきり見える。
コレットは少し困ったように二人を見ている。
「次の白旗は、礼節と名誉に敏感だそうです」
「最悪」
ネルが即答する。
「最高ではなくて?」
レイナ先輩が言う。
「どこが」
「礼節と名誉よ」
「それが最悪って言ってる」
もう始まっている。
俺は頭を抱えたくなった。
ガレス先輩が横から、小さな包みを渡してくる。
「何ですか」
「胃にいい」
「未来を読まれている」
ガレス先輩は頷いた。
ありがたい。
ものすごくありがたい。
巡業列車の駅に着くと、カルミアの車両は相変わらず後方だった。
最低ランクに近い位置。
豪華ではない。
揺れる。
狭い。
でも、最初に乗ったときより、少しだけ違って見えた。
ここが、俺たちの戻る場所になりつつあるからだ。
荷物を積み込む。
ミラが荷物表を確認する。
「初ポイント通知、どこ」
「コレットが持ってる」
「重要荷物」
「確かに」
コレットは通知を胸に抱えている。
リリィが言った。
「額装したいですね」
「まだ一点です」
コレットが困る。
「一点だからです」
リリィは真顔だった。
「最初の一点は、後から見ると一番扱いに困ります。大事すぎて」
それは少し分かる。
ノル先輩が記録帳を開く。
「初ポイント。額装検討」
「検討しなくていいです」
コレットが止める。
ロイが小声で言う。
「俺、見たい」
「あとで見せます」
「やった」
小さい。
まだ小さい。
すごい。
列車の汽笛が鳴った。
ロイより大きい。
本人は少し悔しそうだった。
競うな。
列車が動き出す。
グラナートの街が、ゆっくり後ろへ流れていく。
鉄旗の保管棟は見えない。
イリスの姿も見えない。
でも、グラナートの記録には残った。
カルミア第七魔法競技部。
戦術検証相手。
合同訓練成果。
巡業評価補助点、一。
俺たちの部の記録にも残った。
負けた。
傷を残した。
返事を聞いた。
相手になった。
初ポイントを得た。
リメルが窓際で揺れた。
旗布に文字が浮かぶ。
忘れない。
俺はその文字を見た。
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
忘れない。
俺には、簡単に言えない言葉だ。
魔法を使えば、また何かを忘れるかもしれない。
今日の一点も。
鉄旗の返事も。
ネルの「そこ」も。
ロイの小声も。
コレットの泣きそうな笑顔も。
いつか失うかもしれない。
でも、俺一人の中だけではない。
表にある。
記録帳にある。
グラナートの記録にもある。
リメルの旗布にもある。
そして、たぶんみんなの中にもある。
「ルカ」
ネルが隣に座った。
「顔」
「ひどい?」
「まあまあ」
「改善した」
「少し」
彼女は窓の外を見る。
グラナートの街が遠ざかる。
「忘れそう?」
直球だった。
でも、嫌ではなかった。
「今は大丈夫」
「今は、か」
「未来のことは分からない」
「じゃあ、忘れたら言う」
「何を」
「一点取ったって」
ネルは当然のように言った。
「あと、あたしが鉄旗に触ったこと。触らなかったこと。ロイが小声で喜んだこと。コレット部長が初ポイントで泣きそうだったこと」
「多いな」
「大事でしょ」
「大事だ」
ネルは少しだけ笑った。
「じゃあ、覚えとく」
その言葉は、かなり軽く言われた。
でも、重かった。
俺の外側に、記憶を持ってくれる人がいる。
それは怖い。
頼るのは怖い。
でも、少し楽でもある。
「ありがとな」
「貸し」
「また増えた」
「初ポイント記念で倍」
「容赦ない」
ネルは笑った。
列車は進む。
グラナートを離れ、次の都市へ。
貴族校。
白旗。
礼節と名誉。
ネルの嫌いなもの。
レイナ先輩が複雑な顔をするもの。
きっとまた、面倒なことになる。
でも、今の第七部には一点がある。
公式勝点ではない。
巡業評価補助点。
勝ちの手前の一点。
それでも、ゼロではない。
負けの使い道で作った、最初の数字。
第五章は、そこで終わる。
負けを抱えたまま。
返事を聞いたまま。
次の相手へ向かう。
窓の外、グラナートの石の街が完全に見えなくなった。
代わりに、遠くの丘の向こう、白い塔の影が薄く見え始める。
貴族校の都市だ。
レイナ先輩がそれを見て、背筋を伸ばした。
ネルは露骨に顔をしかめた。
俺は胃にいい包みを握った。
第七魔法競技部の次の面倒が、もう始まっている。




