第5話 負け筋を潰す練習
練習場へ向かう途中で、俺は三回帰ろうと思った。
一回目は、ロイが「僕、頑張ります!」と小声で言おうとして失敗し、廊下の窓を鳴らした時。
二回目は、ジャックが「名前忘れるくらいでびびってんなら、最初から来んなよ」と言い、ネルとレイナとロイが同時に反応しかけた時。
三回目は、コレットが青ざめた顔のまま「大丈夫、たぶん負け筋は一つだけじゃないから」と言った時だ。
大丈夫の使い方がおかしい。
負け筋は一つだけじゃない。
それは普通、安心材料ではない。
俺は前を歩くコレットの背中に声をかけた。
「部長」
「何?」
「今からでも昼寝に変更しないか」
「ノル先輩みたいに?」
「あそこまで本格的じゃなくていい」
ノル・フェインはすでに歩きながら半分寝ていた。
ミラ・ガルドがさりげなく隣についている。万が一倒れたら支えるつもりなのだろう。山育ちらしい安定感がある。
俺はノルの横顔を見た。
「眠ってるのに歩けるのか」
「夢の中で道を見てる……」
ノルがぼんやり言った。
俺が言う。
「危ないから現実の道を見ろ」
「現実の道、時々つまらないから……」
「つまらなくても安全を優先しろ」
ノルは小さく頷いた。
頷いたが、目は半分閉じたままだった。
この部活は、目を離すと誰かが壊れる。
あるいは何かを壊す。
ガレス・モルンが最後尾で工具袋を担いでいるのは、たぶんそのためだ。壊れたものを直す人間が後ろにいる。安心感があるような、壊れる前提なのが怖いような。
「ルカ」
横に来たアルフ・メイナードが、平坦な声で言った。
「さっきの部長の幻視について、確認したい」
「俺に?」
「君が魔法を使う未来が含まれていた。回避条件を考えるには、君の魔法の発動条件が必要だ」
「発動条件も何も、普通に魔法を撃てば発動する」
「全ての魔法で記憶喪失が起きるのか」
「強さや種類で差はある。小さい魔法なら、軽い記憶で済むこともある」
「軽い記憶」
アルフはその言葉を繰り返した。
「例えば?」
俺は指を折る代わりに、思いつくものを並べた。
「昨日の夕食の味。授業で当てられたこと。誰かとした短い会話」
「軽いとは言い切れない」
「そうだな」
俺は少しだけ歩調を落とした。
アルフは速度を合わせる。
「でも、失うまで軽いかどうか分からないこともある」
「危険だ」
「知ってる」
「なら、今日の練習では君の魔法を禁止する」
「俺が決めることだ」
「部長の幻視では、君が魔法を使った後に誰かの名前を忘れる。負け筋を潰すなら、まず発動そのものを消すべきだ」
理屈は正しい。
腹が立つくらい正しい。
俺はアルフを横目で見た。
「お前、淡々と嫌なことを言うな」
「淡々と言わないと、嫌なことは余計に嫌になる」
「名言みたいに言うな」
「事実だ」
アルフは本当に扱いやすいのか扱いにくいのか分からない。
ただ、一方向にしか結界を張れないという欠陥魔法には似合っている。
見ている方向がはっきりしている。
それ以外は守れない。
だからこそ、見るべき方向を決める。
俺は話題を変えた。
「今日の練習、守備に入るのか」
「入る。部長が見た負け筋では、こちらの旗が奪われる。なら私は旗の防衛に回る」
「一方向だけで守れるか」
「一方向なら守れる」
「また正直だな」
「嘘をついても結界の向きは増えない」
「それ、気に入ってるのか」
「事実だから繰り返している」
前方でネルが振り返った。
ネルが俺たち二人を見比べる。
「二人で何こそこそ話してるの」
「負け筋の話」
「こそこそする内容としては最悪ね」
「堂々と話しても最悪だろ」
「それはそう」
練習場に着くと、青い練習旗はコレットの腕から飛び降り、すぐに中央へ向かった。
昨日まで逃げていたくせに、今日は妙に積極的だ。
小さな支柱で地面を叩き、こちらを振り返る。
待っている。
そう見えた。
「やる気だな」
俺が言うと、クララ・ヴェルムが眼鏡を押し上げた。
「旗の反応としては、挑発に近いです」
「旗に挑発される人生も想定外だ」
「古代旗の系譜では、旗は所有物ではなく契約相手でした。試練を与えることもあります」
俺はクララに釘を刺した。
「昼休みに神話を始めるな」
「神話ではなく基礎資料です」
「その基礎、普通の学校では習わないだろ」
「だから私は現代魔法の成績が悪いのです」
「理由になっているようでなってない」
リリィ・クロフトが小さく笑った。
「現代魔法が読めない魔法理論担当と、入部していないのに仕切り始めた元名門。素敵な練習ですね。事故の香りがします」
俺はリリィに言い返した。
「仮入部だ」
「なお悪いです」
「何が」
「責任を取らない人ほど、現場で口を出したがるものですから」
毒が鋭い。
ただ、的外れではない。
俺はまだ責任を取るつもりがない。
なのに、負け筋を潰すだの、魔法を使わないだの、考えている。
矛盾している。
自分でも分かっている。
「今日の練習は、五人制の簡易形式で行います」
コレットが練習場の中央で言った。
顔色はまだ少し悪い。
それでも声は落ち着いていた。
「目的は、私が見た敗北幻視の検証。条件は三つ。ロイ君の発動音、ネルさんの一瞬魔法、ルカ君が魔法を使う可能性。この三つが絡んだ時、私たちの旗が奪われる」
レイナが扇子のない手を軽く上げた。
「相手役は?」
レイナが聞く。
「ジャック君、ミラさん、リリィさん、レイナさん、クララさん」
コレットが順に指名する。
「攻撃側として、青旗を奪ってください」
ジャックが口の端を上げた。
「いいね。壊していいのか」
コレットが即答した。
「壊さないで」
「壊さなきゃ奪えねえ時は?」
それでもコレットは首を横に振った。
「壊さないで」
「二回言った」
コレットは青旗を抱え直す。
「大事だから」
ガレスが無言でジャックを見た。
圧。
ジャックは舌打ちした。
「分かったよ。壊さねえよ、たぶん」
俺が言うと、ジャックは楽しそうにこちらを見た。
「たぶんはやめろ」
「お前は守備側か」
「見学側だ」
「まだ言ってんのか」
「言ってる」
コレットが少し申し訳なさそうに続けた。
「守備側は、私、ネルさん、ロイ君、アルフ君、ルカ君」
俺はコレットを見た。
「部長」
「何?」
「見学の定義を辞書で調べろ」
コレットは悪びれずに言った。
「旗の近くで見学してくれればいいわ」
「それは守備だ」
「限りなく守備に近い見学」
「詐欺師の言い方だ」
ネルが肩をすくめた。
「諦めなさい。部長はこういう時、ふわっと押し切る」
「お前は止めろ」
「私も巻き込まれてる側だから」
アルフが作戦盤を持ってきた。
そこには簡易フィールドが描かれている。
中央に青旗。
守備側は自陣側に配置。
攻撃側は練習場の反対端から開始。
五対五。
正式試合の縮小版だ。
「制限時間は十分」
アルフが説明する。
「攻撃側は青旗に触れ、指定線まで運べば勝ち。守備側は時間終了まで旗を保持、または攻撃側全員の進行を止めれば勝ち。危険な攻撃は禁止。ルカの魔法は禁止」
俺はアルフを睨む。
「最後だけ強調するな」
「重要だ」
「分かってる」
「分かっていても、人は追い詰められると使う」
アルフの言葉は、まっすぐだった。
俺は返せなかった。
そうだ。
追い詰められれば、使う。
競技者だった頃の俺なら、間違いなく。
勝つために。
誰かを守るために。
旗に届くために。
だから今日の負け筋には、俺が魔法を使う未来が含まれている。
俺がそういう人間だからだ。
コレットが近づいてきた。
「ルカ君」
「無理はしないで」
「無理する前に逃げる」
「それはそれで困るわ」
「注文が多い」
コレットは胸元の青旗を抱え直した。
「ええ。部長だから」
彼女は少しだけ笑った。
そして、小さく付け加えた。
「もし危ないと思ったら、私が止める」
「負ける未来だけ見る部長に?」
「負ける未来が見えるから、止める場所は分かる」
俺は言葉に詰まった。
頼りない。
でも、頼りになる。
妙な部長だ。
*
開始の合図は、ロイの発動音ではなく、ガレスが工具で金属板を叩く音になった。
かん。
短く、澄んだ音。
それを合図に、攻撃側が動く。
先頭はミラ。
山岳地方出身の筋力系。まだ魔法は使っていない。だが走り方だけで分かる。重心が低い。地面の凹凸を踏み抜かず、滑らず、最短よりも確実な線を選ぶ。
その後ろにジャック。
攻撃魔法を撃つ気配を見せながら、あえて撃たない。こちらに警戒だけを強いる動き。
右側にレイナ。
上品な足運びなのに、妙に位置取りが嫌らしい。
左側にリリィ。
小さな召喚陣を指先で転がしている。
後方にクララ。
紙を持っている。
走りながら紙を見るな。
転ぶぞ。
アルフが結界を張る手を上げた。
「来る」
アルフが言った。
「見れば分かる」
「どこを止める」
俺は青旗を見た。
旗は中央で震えている。
いや、震えているのではない。
迷っている。
攻撃側のどこへ逃げるか。
守備側のどこを信用するか。
旗はただ守られるものではない。動く。選ぶ。逃げる。
なら守備は、旗の逃げ道を守ることでもある。
「ミラは止めるな」
「なぜ」
「今止めると、ジャックが撃つ」
ジャックの指先に魔力がある。
強敵相手ほど暴れる攻撃魔法。
今の相手は俺たちではなく、青旗と守備陣。格上という認識はないかもしれない。だがジャック自身がこの練習を壊したいと思えば、魔法は一番壊してはいけないものを狙う。
つまり、旗。
俺はロイに短く命じた。
「ロイ」
「はい!」
「まだ撃つな」
「はい」
声は抑えられている。
偉い。
いや、今は本当に偉い。
続けてネルへ視線を送る。
「ネル」
「何」
「ミラが旗の三歩前に来たら、右足の前に一瞬だけ土を跳ねさせろ」
「転ばせるの?」
「転ばせるな。止まらせる」
「細かい」
「一瞬しかないんだろ」
「分かってる」
ネルの口調は尖っているが、反応は早い。
ミラが距離を詰める。
ジャックが笑う。
レイナが右から視線を散らす。
リリィの召喚陣が光る。
リリィが指先の召喚陣を弾ませた。
「召喚します。何が出ても責任は取りません」
「取れ」
リリィの足元から、小さな影が飛び出した。
丸い。
耳が長い。
毛玉みたいな使い魔。
弱そうだ。
だが、青旗が反応した。
布の端がぴんと立つ。
「旗があの使い魔に寄る」
俺が言うと、クララが遠くから声を上げた。
「古代旗は小型召喚体に警戒反応を示す場合があります!」
「説明は後で!」
ネルが叫ぶ。
ミラが旗へ踏み込む。
その瞬間、ネルの魔力が光った。
一瞬。
土が跳ねる。
ミラの右足前。
ミラは転ばなかった。
むしろ見事に止まった。
止まった反動で体勢を低くし、次の踏み込みに変えようとする。
強い。
止めたつもりが、力を溜めさせた。
俺はミラの進路を指した。
「アルフ、正面」
「了解」
アルフが結界を張る。
一方向。
薄い光の壁が、ミラの進路にだけ立つ。
読みは当たった。
ミラの肩が結界にぶつかり、止まる。
だが左が空いた。
レイナがそこへ入る。
レイナが微笑む。
「ごきげんよう。隙だらけですわ」
レイナの指先に魔力が灯る。
華やかで、整った魔法。
ただし、最初の一発は失敗する。
知っている。
だから彼女は、その失敗を見せてくる。
光が歪み、わざとらしく散る。
青旗が驚いて右へ跳ねる。
そこにリリィの毛玉使い魔がいる。
旗が嫌がって戻る。
戻った先に、ジャックがいる。
上手い。
即席にしては、攻撃側が噛み合っている。
いや、噛み合っているというより、事故が連鎖している。
その事故が旗を追い込んでいる。
俺は振り返らずに叫んだ。
「ロイ!」
俺は叫んだ。
「旗の後ろじゃない。ジャックの右!」
「はい!」
ロイの光弾が生まれる。
轟音。
練習場の空気が震える。
青旗がびくりと止まる。
ジャックが一瞬、右を向く。
音はジャックの右後方で鳴った。
旗を押すのではなく、ジャックの反応をずらす。
ジャックの攻撃魔法は、強敵相手ほど暴れる。
だが今、彼の意識は旗からロイへ逸れた。
標的が揺れる。
攻撃の気配が散る。
「ちっ」
ジャックが舌打ちした。
撃たない。
まだ。
青旗が跳ねる。
今度は俺の方へ。
嫌な未来が近づく。
そう感じた。
コレットが息を呑む。
幻視と同じ流れなのだろう。
ロイの音。
ネルの一瞬。
旗が俺の方へ来る。
ジャックが狙う。
誰かが届かない。
俺が魔法を使う。
たぶん、そういう流れ。
使わない。
使わずに潰す。
青旗は俺の足元へ来た。
その背後から、レイナの二発目が来る。
今度は成功する魔法。
光の帯が旗の逃げ道を塞ぐ。
左からミラ。
右からリリィの毛玉。
正面に俺。
後ろにレイナ。
詰んだ。
普通なら。
俺の手に魔力が集まりかけた。
癖だ。
考える前に、体が動く。
旗を守る。
逃げ道を作る。
魔法を撃つ。
「ルカ君!」
コレットの声。
俺は歯を食いしばった。
魔力を握り潰す。
痛い。
指先が熱くなる。
使わない。
名前を失わない。
誰の名前かも分からないものを、失ってたまるか。
俺は旗から目を離さずに叫んだ。
「ネル!」
俺は叫んだ。
「もう出ないわよ!」
「魔力じゃない! 布!」
ネルは一瞬だけ目を見開いた。
それから、すぐに動いた。
足元に落ちていた訓練布を、魔法ではなく手で蹴る。
青旗の前へ。
布が舞う。
旗は布に驚いて、わずかに支柱を止めた。
その止まり方を見て、俺は体をずらす。
正面を空ける。
俺が壁になるのではない。
壁をやめる。
旗に逃げ道を見せる。
逃げろ。
そう思った。
青旗が俺の横を抜ける。
レイナの光帯が空を切る。
ミラの手が届かない。
リリィの毛玉が転がる。
ジャックが笑った。
「そこだ!」
攻撃魔法の気配。
強い。
俺が魔法を使わなかったことで、ジャックの意識がこちらへ戻った。
強敵と見なしたのか。
厄介なやつだ。
魔力が暴れる。
一番壊してはいけないものへ向かう。
青旗。
俺はアルフの位置を確認した。
「アルフ!」
「向きは?」
一方向。
一瞬で決めなければならない。
ジャックの攻撃は直線では来ない。
味方の近くを通る。
なら、狙いは旗だとしても、軌道は誰かの近くをかすめる。
誰の。
ジャックが一番意識している味方。
さっきロイに音で意識を逸らされた。
今も、その苛立ちが残っている。
俺は一息で答えた。
「ロイの左前!」
アルフが結界を張った。
薄い一方向の壁。
ロイの左前。
何もない空間。
次の瞬間、ジャックの攻撃魔法がそこを通った。
結界にぶつかり、火花を散らす。
防いだ。
読みが当たった。
青旗が、その隙にコレットの後ろへ逃げ込む。
コレットが両手でそっと受け止めた。
かん。
ガレスが金属板を叩く。
「そこまで」
低い声。
練習場が静かになる。
ロイは口を開けたまま固まっている。
ネルは肩で息をしている。
アルフは結界を解き、手元の作戦盤に何かを書き込んだ。
ミラは悔しそうに手を見ている。
レイナは乱れた髪を整えながら、少しだけ笑っていた。
リリィの毛玉使い魔は、青旗の方へ転がろうとしてリリィに首根っこを掴まれている。
ジャックは舌打ちしながらも、目は笑っていた。
コレットは青旗を抱えたまま、俺を見ていた。
コレットは青旗を抱えたまま、俺の右手を見た。
「魔法」
彼女が言った。
「使わなかったわ」
俺は自分の右手を見た。
指先に、まだ魔力を握り潰した痛みが残っている。
記憶は。
何かを失った感覚は。
ない。
少なくとも、今は。
俺は息を吐いた。
「だから言っただろ」
俺は息を吐いた。
「負け筋は潰せばいい」
言った後で、少しだけ膝から力が抜けた。
ネルがこちらを見ている。
「あんた、今の最後」
「何だ」
「私に魔法じゃなくて布を蹴らせた」
「魔力はもう出ないと言ったから」
「そうだけど」
「手と足は残ってる」
ネルはしばらく黙った。
それから、少しだけ口元を歪めた。
「むかつく」
「それ、褒めてる時の言い方だろ」
「違う」
「違うのか」
「……半分くらい」
ロイが飛び跳ねる。
「すごいです! 今の、ちゃんと音が役に立ちましたよね!」
「声」
俺が注意すると、ロイは口元を押さえた。
「役に立ちましたよね」
「立った」
ロイの顔が輝いた。
「本当ですか」
「本当だ。ジャックの意識を逸らした」
「僕、攻撃じゃなくて邪魔できました!」
「言い方は微妙だが、そうだな」
ロイは両手を握って喜んだ。
その横でジャックが不満げに言う。
その横でジャックが不満げに言う。
「俺は邪魔された側なんだけどな」
「お前が撃ったら旗が壊れかけた」
「壊れてねえ」
「ガレス先輩が金属板を構えた」
見ると、ガレスは本当に金属板を構えていた。
何かが壊れた時に即座に受け止めるつもりだったらしい。
無言の備え。
怖いが頼もしい。
ジャックは肩をすくめた。
「ま、読まれたのは事実だ」
「悔しくないのか」
「悔しいに決まってんだろ」
彼は笑った。
「でも、読まれたなら次は変える。そういうもんだろ、競技って」
その言葉に、胸の奥が反応した。
そういうもの。
競技。
読んで、読まれて、変えて、また読む。
旗の動き。
相手の癖。
味方の呼吸。
観客の熱。
フィールドの風。
嫌いになったはずのものが、少しだけ形を取り戻す。
俺はそれを押し戻した。
まだだ。
まだ、戻るつもりはない。
アルフが作戦盤から顔を上げた。
「部長」
「幻視との差異は?」
コレットは青旗を抱え、少し考える。
「ロイ君の音、ネルさんの一瞬、旗の逃走、ジャック君の攻撃。そこまでは近かった。でも、ルカ君が魔法を使わなかった」
「分岐点は?」
「ネルさんが魔法ではなく布を使ったところ。それから、ルカ君が旗の前に立つのをやめたところ」
アルフは頷き、作戦盤に書き込む。
「負け筋を潰すには、魔法以外の選択肢を残す必要がある」
「当たり前のようで、大事ね」
コレットが言う。
クララが眼鏡を押し上げた。
「欠陥魔法の制約を前提にした場合、魔法を使わない行動も戦術資源として評価すべきです」
俺はクララの方を見る。
「難しく言うな」
「手と足も使え、ということです」
「最初からそう言え」
リリィが毛玉使い魔を抱えたまま、ため息をついた。
「つまり、第七部の戦術は『魔法が欠陥だから物理も使いましょう』という原始的な結論に達したわけですね」
「ひどいまとめ方だな」
「でも間違っていません」
ミラが真面目に頷く。
「手と足は大事」
「山の説得力がある」
「山では大事」
レイナが髪を整え終え、こちらへ歩いてきた。
「ですが、悪くありませんでしたわ。少なくとも、ただの元名門ではないようです」
「それは褒めているのか」
「評価を保留しているのです」
「貴族っぽい保留だな」
「オルコット家の保留は、それなりに価値がありますわ」
ネルが小声で「面倒」と言った。
レイナが聞き逃さずに「何か?」と返す。
部室ならぬ練習場で、また空気が騒がしくなる。
俺は少し離れて、青旗を見た。
コレットの腕の中で、旗は落ち着いている。
逃げなかった。
守られたからではない。
たぶん、選んだのだ。
俺たちの側へ逃げることを。
変な旗だ。
怖がりのくせに、妙なところで信用してくる。
コレットが近づいてきた。
「ルカ君」
「ありがとう」
「今日は何度も言うな」
コレットは旗の布端をそっと押さえた。
「何度も助けられたから」
「俺は魔法を使わなかった」
「だから、ありがとう」
言葉に詰まった。
魔法を使わなかったから、ありがとう。
そんなことを言われたのは、初めてかもしれない。
昔は違った。
魔法を使え。
届かせろ。
勝て。
そう言われていた。
たぶん、俺自身もそう思っていた。
使えるなら使うべきだと。
勝てるなら代償を払うべきだと。
けれど、ここでは使わなかったことに意味があった。
使わずに守ったことに、礼を言われた。
「変な部活だな」
俺は言った。
コレットは微笑む。
コレットは微笑む。
「ええ」
「否定しろ」
「でも、まだ終わっていない部活よ」
その言葉は、昨日も聞いた気がする。
まだ終わっていない。
カルミアも。
第七部も。
俺も。
認めるのは癪だった。
だから俺は何も言わなかった。
練習場の端で、ガレスが再び金属板を叩いた。
かん。
短く澄んだ音。
その音に合わせるように、青い旗が布の端を少しだけ揺らした。
負け筋は、一つ潰れた。
勝ち筋は、まだ見えない。
でも、少なくとも今日は。
俺は誰の名前も忘れなかった。




