第44話 風を使わなかった理由
戻り線の練習が終わったあと、俺はしばらく訓練場に残っていた。
理由は特にない。
いや、ある。
でも、自分で理由を認めるのが少し面倒だった。
だから、とりあえず「特にない」ことにしていた。
訓練場の床には、まだ白い粉が残っている。
アルフが引いた線。
消した線。
丸。
×。
三つの点。
戻り線。
ガレス先輩があとで掃除すると言っていたが、彼は今、ジャックに連れていかれていた。
壊していいものと壊してはいけないものの区別を、もう一度確認するらしい。
言葉だけ聞くとかなり危険な補習だ。
でも、今の第七部では、それが必要な授業になっている。
俺はしゃがんで、床の粉を指でなぞった。
線は、指先についた。
ほんの少し。
それだけで消える。
戻り線。
壁ではなく、踏み台。
守る場所ではなく、戻る場所。
今日のアルフは、読み違えても戻れる線を作った。
それはたぶん、俺にも必要なものだった。
俺の魔法は、風だ。
正確には、風の形をした移動補助や軌道操作に近い。
昔の俺は、それを競技でよく使っていたらしい。
らしい、という言い方になる。
覚えていないことが多いからだ。
魔法を使うたびに、俺は過去の記憶を一つ失う。
何を失うかは選べない。
小さなもののときもある。
誰かの声。
昔食べた菓子の味。
寮の廊下の匂い。
エレナと交わした何気ない約束。
大きなもののときもある。
誰かに必要とされた記憶。
自分が本気で勝ちたいと思った理由。
たぶん、もっと大きなものもある。
失ったことを覚えていないから、失ったものの大きさが分からない。
それが、この魔法の嫌なところだ。
痛いなら、まだ分かる。
血が出るなら、止血できる。
倒れるなら、誰かが支えられる。
でも、記憶がなくなるのは、静かだ。
誰にも聞こえない。
俺自身にも、失う瞬間までは聞こえない。
「風」
俺は小さく言ってみた。
発動はしない。
言葉だけ。
昨日の試合で、俺は二回そう言った。
一回目は前半、押し潰されそうになったとき。
二回目は後半、ネルが鉄旗に触れる直前。
どちらも使わなかった。
使えなかった、ではない。
使わなかった。
この違いは、思っていたより重い。
「風」
もう一度言う。
何も起きない。
当たり前だ。
発動しないように、魔力を止めている。
でも、言葉だけでも、胸の奥が少しざらついた。
競技を嫌いになった理由。
それを、俺はまだうまく思い出せない。
エレナに負けたから。
名門から落ちたから。
魔法を使うたびに記憶を失うから。
全部、理由としては正しい。
けれど、それだけではない気がする。
もっと嫌な、もっと小さな、もっと情けない理由があった気がする。
俺は床の戻り線を見つめた。
白い粉の向こうで、記憶の端が少しだけ揺れた。
歓声。
眩しい照明。
広い競技場。
レガリアの青い旗。
カルミアではない。
もっと整った場所。
俺がまだ、元名門選手だった頃の競技場。
誰かが叫んでいる。
ルカ。
行け。
風を使え。
もう一度。
もう一度だけ。
俺は、使った。
たぶん。
記憶の中の俺は、笑っていたのかもしれない。
勝つために。
誰かの期待に応えるために。
自分がまだ戦えると証明するために。
風を使った。
そして、何かを失った。
何を失ったのかは、分からない。
でも、記憶の中で、俺は振り返った。
誰かがいたはずの場所を見る。
そこに、誰かがいる。
でも、その人が誰なのか、分からない。
顔は見える。
声も聞こえる。
なのに、名前が出てこない。
大切だったはずなのに。
必要だったはずなのに。
俺は、その人に向かって笑った。
笑うしかなかった。
覚えていないと悟られないように。
その瞬間、競技場の歓声が、全部嫌になった。
勝て、という声。
すごい、という声。
もう一度、という声。
全部が、俺から何かを削る音に聞こえた。
俺は息を吸った。
訓練場に戻る。
灰色の壁。
白い粉。
グラナートの硬い床。
ここには歓声はない。
あるのは、遠くの廊下から聞こえるロイの小さくない小声と、ジャックの「それは壊していいのか?」という不安な質問くらいだ。
「嫌いになった理由、そこか」
俺は呟いた。
競技そのものが嫌いだったわけじゃない。
負けるのが嫌だっただけでもない。
勝つたびに、誰かが「もう一度」と言う。
もう一度、風を使え。
もう一度、届かせろ。
もう一度、期待に応えろ。
そのたびに俺は、何かを失うかもしれない。
それでも勝てば、周りは喜ぶ。
誰かが泣くかもしれない。
誰かが俺を称えるかもしれない。
そして俺は、その誰かを少しずつ忘れていくかもしれない。
それが嫌だった。
競技が嫌いになったのではない。
勝つために失う俺を、周りが喜ぶ場所が嫌になったのだ。
「顔、ひどい」
声がした。
振り返ると、ネルが入口に立っていた。
訓練着の袖をまくり、手には水筒を持っている。
いつからいたのか。
かなり前からいた気がする。
最悪だ。
「人の顔を開口一番でひどいと言うな」
「ひどいものをひどいって言うのは優しさでしょ」
「かなり攻撃的な優しさだな」
ネルは訓練場に入ってきた。
床の線を踏まないように、少しだけ歩幅を調整している。
そういうところがある。
乱暴そうに見えて、残っているものを踏まない。
「何してたの」
「特に何も」
「嘘」
「早いな」
「顔がひどいから」
「顔診断をやめろ」
ネルは俺の隣にしゃがんだ。
床の白い粉を見て、指先で短い線をなぞる。
「戻り線」
「今日の新作」
「悪くない」
「アルフに言ってやれ。たぶん、かなり喜ぶ」
「あいつ、喜んでも分かりにくいじゃん」
「分かりにくいだけで、喜ぶ」
「あんた、人のことよく見てるよね」
ネルはそう言ってから、少しだけ黙った。
「なのに、自分のことは全然見ない」
嫌なところを突いてくる。
ネルはたぶん、こういうとき遠慮しない。
ありがたい。
腹も立つ。
両方ある。
「見ても忘れるからな」
俺は冗談っぽく言った。
冗談にしたかった。
でも、ネルは笑わなかった。
「そういう言い方、嫌い」
「すまん」
「謝るなら言わないで」
「難しいな」
「難しくない」
ネルは水筒を俺に差し出した。
受け取る。
中身は冷たい水だった。
飲むと、喉の奥が少し落ち着く。
「風、言ってた」
ネルが言った。
「聞こえてたか」
「聞こえた」
「発動してない」
「分かってる」
彼女は床の粉を払った。
「でも、言ってた」
「練習だ」
「練習に見えなかった」
「じゃあ何に見えた」
「思い出してるように見えた」
俺は水筒を返した。
ネルは受け取らず、俺の手に持たせたままにした。
話せ、ということらしい。
強引だ。
でも、今の俺にはちょうどいいのかもしれない。
「少しだけ思い出した」
俺は言った。
「昔、競技場で風を使った。たぶん勝った。周りが喜んだ。でも、俺は誰かを忘れた」
ネルは黙って聞いていた。
「その人が誰かは分からない。顔はあった気がする。声もあった気がする。でも、名前が出てこなかった。大切だったはずなのに、分からなかった」
言葉にすると、思ったより嫌だった。
記憶はぼんやりしている。
なのに、嫌な感じだけははっきり残っている。
「それで、競技が嫌になった」
「勝ったのに?」
「勝ったから、かもしれない」
ネルは眉をひそめた。
「勝ったから嫌になったって、変」
「俺もそう思う」
「でも、分からなくはない」
彼女は床の三つの点を見た。
「あたしはさ、魔力が一瞬しか出ないじゃん」
「ああ」
「前は、それを見られるのが嫌だった。魔力が切れたあと、みんなが『もう終わり?』って顔する。あたし自身も、もう終わりって思ってた」
ネルは自分の手を開いた。
昨日、鉄旗に触れた手。
今日、練習旗を掴んだ手。
「でも、魔力が切れたあとも手は残るって、最近ちょっと分かってきた」
「かなり大事な発見だな」
「大事。でも、もしみんなが、魔力が切れるたびに喜んだら嫌だと思う」
「喜ぶ?」
「『ほら、切れた。じゃあ手で頑張れ』って。あたしが痛いところを、勝つための部品としてだけ喜ばれたら、嫌」
俺は返事ができなかった。
ネルは続けた。
「あんたの風も、そういうことなんじゃないの」
そういうこと。
勝つために使える。
でも、使うと痛い。
痛いところを誰かが必要とする。
その必要とされ方が、嬉しいときもある。
嫌なときもある。
「第七部も、俺の魔法を使いたいと思ってる」
俺は言った。
「当然じゃん」
ネルはあっさり言った。
「戦力だし」
「そこは少し遠慮しても」
「しない。あんたの風は強い。たぶん、すごく強い。使えたら勝てる場面はある」
真正面から言われると、逃げ場がない。
「でも」
ネルは俺を見た。
「使わなかったから勝てない、って言うつもりはない」
昨日と同じだ。
要らない。
ネルは、鉄旗に触れる直前、俺の風を要らないと言った。
その言葉があったから、俺は使わなかった。
使わずに済んだ。
でも、それは俺が責任を免れたという意味ではない。
「使わない責任もある」
俺が言うと、ネルは頷いた。
「あるでしょ」
「厳しい」
「あるものはある」
ネルは水筒を取り返し、一口飲んだ。
「あんたが使わないなら、あたしが届く。ロイが合図する。アルフが線を引く。誰かが別のことをする。それを決めないで、ただ使わないのは逃げ」
「かなり厳しい」
「でも、決めて使わないなら、作戦」
俺は床の戻り線を見た。
風の前に三つ。
ネル一秒。
ロイ合図。
アルフ線。
代替手段。
使わないことを、誰かの一手にする。
そうすれば、俺が魔法を使わない時間は、ただの空白ではなくなる。
使わないことで、ネルの一秒が残る。
ロイの合図が残る。
アルフの線が残る。
リメルの逃げ道が残る。
俺の記憶も、残る。
「勝つために失うのが嫌だった」
俺は言った。
「でも、失わないために何もしないのも、たぶん嫌なんだな」
「面倒」
「自分でも思う」
「でも、あんたらしい」
「褒めてるか?」
「かなり」
リリィ語が広がっている。
ネルは少し笑って、それから真面目な顔に戻った。
「ねえ、ルカ」
「何だ」
「あたしは、あんたが風を使ったら怒るってわけじゃない」
その言葉は、思っていたより胸に入ってきた。
「使うなって言いたいんじゃない。使うときは、勝手に一人で使わないでって言いたい」
「一人で」
「うん。一人で勝とうとして、一人で失って、一人で笑ってごまかすの、やめて」
記憶の中の競技場。
誰かの名前が出てこないのに、笑った俺。
あの笑い方を、ネルは知らないはずだ。
でも、今の言葉はそこに届いた。
「難しい注文だ」
「知ってる」
「でも、たぶん必要だ」
「知ってる」
ネルは立ち上がった。
「午後、戻り線に風前確認を入れるって。コレット部長が探してた」
「今から?」
「休憩したら」
「休憩、表に入ったからな」
「そう。だから休め」
ネルは訓練場の出口へ向かう。
途中で振り返った。
「あんたが忘れた人のこと、今は分かんなくてもさ」
彼女は少し言葉を探した。
ネルにしては珍しい。
「忘れたことを責める場所には、ここはしないから」
列車でクララが読んだ古代契約の一節が、頭をよぎった。
忘れた者に、忘れたことを責むな。戻る道を問え。
戻る道。
戻り線。
偶然にしては、できすぎている。
でも、この旅には、そういう古い言葉がよく混ざる。
「ネル」
「何」
「ありがとな」
「水筒?」
「そこから離れてくれ」
「じゃあ、何に対して?」
「色々」
「雑」
ネルはそう言って、少しだけ笑った。
「あとでちゃんと言って」
「覚えてたらな」
言った瞬間、自分でしまったと思った。
でも、ネルは怒らなかった。
代わりに、こちらへ戻ってきて、床の白い粉を少し指につけた。
そして俺の手の甲に、短い線を引いた。
白い戻り線。
「忘れそうなら、戻ってきて」
それだけ言って、今度こそ出ていった。
手の甲に残った白い線を見る。
すぐ消える。
触れば消える。
汗でも消える。
でも、今はある。
それで十分かもしれない。
俺はしばらく座っていた。
風を使わなかった理由。
それは恐怖だった。
競技を嫌いになった理由。
それは、勝つことと失うことが、同じ歓声の中に混ざったからだった。
でも、今の第七部には、歓声より先に表がある。
線がある。
荷物を分ける人がいる。
負けを見る人がいる。
読み違えを記録する人がいる。
魔力が切れたあとも手を伸ばす人がいる。
声を出さない練習をする人がいる。
壊す前に見る人がいる。
眠りながら旗の声を聞く人がいる。
古い文字で戻る道を読む人がいる。
予定外を予定外のまま置く人がいる。
美しく失敗しようとする人がいる。
重いものを背負い方で軽くする人がいる。
そして、忘れたことを責めないと言う人がいる。
それなら。
風を使う日が来ても。
使わない日が続いても。
俺は、一人で笑わなくて済むかもしれない。
午後の練習で、コレットは俺の欄を少し修正した。
原因。
風を使うと記憶を失う。
風を使わないと届かない場面がある。
担当。
ルカ。
ネル。
ロイ。
アルフ。
コレット。
必要に応じて全員。
「必要に応じて全員って、かなり曖昧じゃないか」
俺が言うと、コレットは真面目に答えた。
「曖昧なままにするための欄です」
「どういうことだ」
「ルカさんの魔法を、固定された手段にしないためです。使うか使わないかを、毎回同じ人だけで決めない。状況によって、声をかける人を変えます」
アルフが頷く。
「固定すると、読まれる」
「読まれるだけならまだいい」
ネルが言う。
「ルカが一人で決める癖が戻る」
「癖扱い」
「癖でしょ」
否定できなかった。
コレットは使い道の欄を書いた。
風前確認。
三点。
一、ネル一秒。
二、ロイ合図。
三、アルフ戻り線。
追加欄。
使わないと決めたら、誰が代わりに届くかを言葉にする。
俺はその文を見た。
「言葉にする」
「はい」
コレットが頷く。
「昨日、ネルさんが『要らない』と言いました。あれで、ルカさんは使わずに済みました。でも、毎回ネルさんが言えるとは限りません」
「だから、俺が言う?」
「はい」
コレットは少しだけ迷ってから、言った。
「風を使わないなら、代わりに誰を信じるのか言ってください」
代わりに誰を信じるのか。
重い言葉だった。
使わない、と黙って決めるのではない。
ネルに任せる。
ロイの合図を見る。
アルフの線へ戻る。
リメルを逃がす。
誰かの名前を言う。
風を使わないことは、ただの拒否ではなくなる。
誰かを信じる選択になる。
「もし、使うと決めたら?」
俺は聞いた。
その場が少し静かになった。
避けてはいけない質問だった。
俺の魔法は、使わないまま最後まで進めるほど軽いものではない。
いつか、必要になるかもしれない。
そのときに「使わない」と決めているだけでは、ただの封印だ。
封印は、破れた瞬間に全部壊れる。
だから、使うときのことも決めなければならない。
コレットは表を見た。
アルフが言った。
「使うなら、戻り先を先に決める」
「戻り先」
「記憶を失う可能性がある。だから、使ったあとに戻る相手、戻る言葉、戻る記録を決める」
クララがすぐに反応した。
「古代契約的にも正しいです。忘却が起きる前に、戻る道を外部化する。旗と記録と人間を併用すれば、完全ではなくても迷子を減らせます」
「迷子」
リリィが自分の石を取り出した。
「迷子一号の出番ですね」
「違うと思う」
「でも、戻る印にはなります」
ミラが言う。
「山でも、戻る印つける」
ノル先輩が眠そうに言う。
「夢でも、目印あると戻れる」
レイナ先輩が腕を組む。
「なら、戻る言葉は美しいものにすべきね」
ジャックが言う。
「戻る相手って、誰でもいいのか」
ロイが手を上げる。
「俺でもいいぞ! 声で戻せる!」
「声で吹き飛ばすの間違いでは」
リリィが言う。
ロイは口を閉じた。
でも、目は真剣だった。
みんなが、真剣だった。
俺の魔法を使うかどうか。
それを、部の作戦として扱おうとしている。
怖い。
正直、かなり怖い。
自分の記憶喪失が、表に書かれる。
それは気持ちのいいことではない。
でも、隠したまま競技場に立つよりは、ずっとましだ。
「戻る言葉」
俺は呟いた。
「何がいいんだろうな」
「今決めなくていい」
アルフが言った。
「今日は、決める必要があると分かればいい」
「アルフ、たまに優しいな」
「たまにではない」
「常に?」
「必要なときに」
「それをたまにと言うんじゃないか」
ネルが小さく笑った。
コレットも少し笑った。
その笑いを見て、俺は少し息ができた。
「じゃあ、今日のところは」
俺は表の使い道欄を見た。
「風を使わないときは、代わりに誰を信じるか言う。風を使うときは、戻り先を先に決める」
「はい」
コレットが頷いた。
「それを、ルカさんの敗北の使い道表に入れます」
「俺の敗北表、どんどん重くなってないか」
ミラが真剣に言った。
「重い荷物ほど、背負い方が大事」
「ミラ理論がまた来た」
「便利」
便利だ。
たぶん、本当に便利だ。
午後の練習で、俺たちは風前確認を試した。
相手役は、グラナートから借りた練習旗。
こちらはネル、ロイ、アルフ、俺、リメル。
コレットは表と時計。
ジャックは外側で撃たない顔。
ガレス先輩は壊れそうな器具を見ている。
レイナ先輩は一度目の失敗をどこで使うか考えている。
ミラは回収役。
リリィは予定外置き場。
クララとノル先輩は旗反応の記録。
一回目。
旗が逃げる。
ネルが追う。
ロイが無声合図を出す。
アルフが戻り線を出す。
俺の体が、勝手に風を呼ぼうとした。
喉の奥に、言葉が上がる。
風。
言う前に、三点を見る。
ネル。
ロイ。
アルフ。
そして、言う。
「ネルに任せる」
風は出ない。
ネルが一瞬だけ魔力を出す。
届かない。
でも、手を伸ばす。
旗布をかすめる。
「惜しい!」
ロイが叫びかけて、口を押さえる。
惜しい。
届かなかった。
でも、俺は魔法を使わなかった。
ただ使わなかったのではない。
ネルに任せた。
その違いを、体が少しだけ覚えた。
二回目。
俺は「ロイを見る」と言った。
ロイの無声合図が少し遅れた。
失敗。
でも、失敗はロイだけのものではない。
俺が見ると言った。
だから、俺も担当だ。
コレットが表に書く。
風を使わず、ロイを見る。
結果、合図遅れ。
使い道。
無声合図の前段階を増やす。
三回目。
俺は「アルフの線へ戻る」と言った。
アルフの戻り線は出た。
短い。
ネルが踏む。
旗が迷う。
俺は一歩前に出る。
風、と言いそうになる。
でも、リメルが先に動いた。
カルミアの古い旗が、練習旗の進路へ滑る。
練習旗が止まる。
ネルが触る。
成功。
「リメルも信じる欄、要るな」
俺が言うと、リメルは誇らしそうに揺れた。
コレットがすぐに書いた。
リメルの進路妨害。
使い道。
旗同士の距離感を作戦に入れる。
四回目。
俺は言葉に詰まった。
旗の動きが速い。
ネルは遠い。
ロイは見えない。
アルフの線も間に合わない。
喉に風が来る。
使えば届く。
たぶん、届く。
記憶を一つ失うかもしれない。
でも、練習だ。
ただの練習旗だ。
使う場面ではない。
分かっている。
分かっているのに、体は昔の競技場を覚えている。
もう一度。
風を使え。
届かせろ。
勝て。
「ルカ!」
ネルの声が飛んだ。
強い声。
命令ではない。
戻るための声。
「戻って!」
俺は息を吐いた。
手の甲を見る。
白い粉の線は、もうほとんど消えていた。
でも、少し残っている。
戻り線。
「戻る」
俺は言った。
風は出ない。
旗は逃げた。
失敗。
完全に失敗。
でも、俺は戻った。
コレットが表に書く。
風を使いかけた。
ネルの声で戻った。
使い道。
戻る声を事前に決める。
アルフが言う。
「成功」
「旗、逃げたぞ」
「戻った」
彼は短く言った。
「今日は、それで成功だ」
俺は膝に手をついた。
少し息が荒い。
魔法は使っていない。
それなのに、疲れた。
たぶん、昔の歓声から戻ってきたからだ。
ネルが近づいてきた。
「戻れたじゃん」
「逃げられたけどな」
「練習旗相手に格好つけんな」
「それはそう」
彼女は俺の手の甲を見た。
白い線は、もうほとんどない。
「消えたね」
「消えた」
「また引けばいい」
そう言って、ネルは床の粉を指につけた。
今度は、俺ではなく、表の端に短い線を引く。
「こっちに残しとけば?」
コレットが、その線の横に書いた。
ルカの戻り線。
俺は少し笑った。
「俺の名前がどんどん表に増える」
「表に入るのが第七部です」
コレットが言った。
どこかで聞いたような言葉だ。
リメルが旗布を揺らす。
戻る。
今日の記録は、たぶんそれになる。
風を使わなかった。
ただ逃げたのではない。
戻った。
誰かの声で。
誰かの線で。
誰かの手で。
競技を嫌いになった理由は、まだ全部ではない。
思い出しかけた断片も、きっと欠けている。
忘れた人の名前も分からない。
でも、今日ひとつ分かった。
俺は、勝つために失うことが嫌だった。
そして同じくらい、失うのが怖くて誰も信じずに止まることも嫌だった。
だから、戻る線が要る。
風を使う前にも。
使わないと決める前にも。
俺が一人で笑ってごまかす前に、戻ってこられる線が。
夕方、訓練場の床をガレス先輩がきれいに掃除した。
白い粉は消えた。
線も消えた。
丸も、×も、三つの点も、戻り線も。
でも、コレットの表には残っている。
リメルの記録にも残っている。
俺の中にも、たぶん少し残った。
消える線。
残る線。
その両方を持って、俺たちは次の日の練習へ進む。
風を使わなかった理由は、まだ怖さの中にある。
でも、風を使わない理由は、少しだけ変えられる。
誰かを信じるために。
戻ってくるために。
そしていつか、使うと決めた日にも、一人で失わないために。




