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第45話 命令される旗の夢

 ノル先輩は、昼寝をするのがうまい。


 これはもう、技術というより職能だと思う。


 椅子でも寝る。


 床でも寝る。


 列車の揺れでも寝る。


 ロイの声が横で爆発しても、片目だけ開けて「うるさい」と言って、また寝る。


 普通の人間なら怠惰と呼ばれそうなそれが、ノル先輩の場合は記録になる。


 夢の中で試合を再生できる。


 眠っている間だけ旗と会話できる。


 それが彼女の欠陥魔法だ。


 欠陥、と呼ばれている。


 でも、第七魔法競技部では、最近その言葉の意味がどんどん怪しくなっている。


 魔法を使うと記憶を失う俺。


 負けだけを見るコレット。


 一瞬しか魔力が続かないネル。


 音が大きすぎるロイ。


 壊すことしかできないガレス先輩。


 一度失敗しないと成功しないレイナ先輩。


 筋力強化のあと動けなくなるミラ。


 ランダムにしか召喚できないリリィ。


 古代魔法しか読めないクララ。


 一方向にしか結界を張れないアルフ。


 味方の近くを攻撃が通るジャック。


 そして、眠らないと旗と話せないノル先輩。


 欠けている。


 足りない。


 不便。


 危険。


 そういう言葉で括られてきたものが、ここでは少しずつ、別の名前を持ち始めている。


 戻り線。


 敗北の使い道表。


 見えなかったもの。


 風前確認。


 そういう名前だ。


 その日の昼、ノル先輩はグラナート軍事校の旗保管棟の前で寝ようとしていた。


 正確には、もう半分寝ていた。


 石造りの廊下の端に座り、壁に背を預け、膝の上に記録帳を置いている。


 羽根ペンは右手に挟んだまま。


 落ちそうで落ちない。


 口元には、いつもの眠そうな無表情。


「ここで寝るんですか」


 俺が聞くと、ノル先輩は片目を開けた。


「ここが近い」


「何に」


「鉄旗」


 保管棟の奥には、グラナートの鉄旗がいる。


 公式戦では命令を待つ獣のように動き、俺たちを押し潰した旗。


 ネルが傷をつけた旗。


 リメルが怖いと記録した旗。


 鉄旗は今、試合後の整備と記録確認のため、旗保管棟に戻されている。


 グラナートの管理は厳しい。


 部外者が勝手に触れることはできない。


 ただし、廊下の外から見るだけなら許可された。


 見るだけ。


 聞くだけ。


 夢で話すだけ。


 その最後の部分は、たぶん許可の範囲に入っていない。


 でも、グラナートの教官も、ノル先輩が廊下で寝るだけなら止めにくいらしい。


 ノル先輩は危険物に見えない。


 眠そうな記録係に見える。


 実際、眠そうな記録係なのだが、眠ったあとが問題なのだ。


「付き添い、俺でいいんですか」


「うん」


「クララとかのほうがよくないですか。古代契約の話になるかもしれないし」


「クララは、起きて読む」


 ノル先輩は目を閉じかけながら言った。


「私は、寝て聞く」


「役割分担がはっきりしてる」


「ルカは」


 ノル先輩は俺を見た。


「忘れたら困ることを、起きて聞く」


 妙な言い方だった。


 でも、たぶん正しい。


 俺は記憶を失う。


 ノル先輩は夢で記録する。


 彼女の記録は、俺の外側に残る。


 俺が忘れたとしても、ノル先輩の帳面には残る。


 それが救いかどうかは、まだ分からない。


 でも、必要なものではある。


「了解です」


 俺は廊下の反対側に腰を下ろした。


 旗保管棟の扉は重い鉄製だ。


 表面にはグラナートの紋章が刻まれている。


 剣と盾。


 その奥に、旗。


 いかにも軍事校らしい。


 カルミアの旧競技棟とは違う。


 あちらは埃と古い木の匂いがする。


 こちらは油と金属と、規則正しく磨かれた床の匂いがする。


 ノル先輩の呼吸が、少しずつ深くなった。


 眠りに落ちる。


 でも、完全に無防備に見えるわけではない。


 眠っているのに、どこか耳を澄ませているような顔だった。


 俺は記録帳の端を見た。


 開かれたページには、昨日からの記録が並んでいる。


 鉄旗。


 命令を待つ。


 傷。


 震え。


 怖い。


 戻れた。


 短い言葉ばかりだ。


 ノル先輩の記録は、長い説明よりも、核だけを残す。


 眠っている人間の文字なのに、妙に正確だ。


「……硬い」


 ノル先輩が呟いた。


 寝言だ。


 俺は姿勢を正した。


「硬い夢、ですか」


「うん」


 返事がある。


 寝ているのに返事がある。


 もう慣れてきた自分が少し怖い。


「前と同じ?」


「もっと硬い」


 ノル先輩の指が、記録帳の上で少し動いた。


 羽根ペンが紙に触れる。


 ゆっくりと文字を書く。


 命令。


 その一語。


「鉄旗と話せていますか」


「まだ」


 ノル先輩は小さく首を振った。


「扉がある」


 現実の扉か。


 夢の扉か。


 たぶん、両方だ。


「開きますか」


「開かない」


「鍵がある?」


「鍵じゃない」


 ノル先輩の眉が少し動いた。


 珍しい。


 彼女は寝ているときのほうが、表情が出る。


「許可」


「許可?」


「入っていい、って言われないと、入れない」


 グラナートらしい夢だ。


 夢の中にまで許可が要る。


 俺は扉を見た。


 現実の鉄扉は、もちろん閉まっている。


 その奥に、鉄旗がいる。


 命令を待つ獣。


 でも、ノル先輩は夢の中で、扉の前に立っているらしい。


「誰に許可をもらうんですか」


「旗」


「鉄旗に?」


「うん」


 ノル先輩の手が止まった。


 廊下が静かになる。


 遠くで訓練の号令が聞こえた。


 グラナートの生徒たちの声。


 一、二。


 一、二。


 揃っている。


 少し気味が悪いくらいに。


 ノル先輩の唇が動いた。


「入っていい?」


 それは、夢の中の鉄旗へ向けた言葉だった。


 返事はすぐにはなかった。


 しばらくして、ノル先輩の指が震えた。


 記録帳に、短い線が引かれる。


 縦線。


 横線。


 まるで檻のような形。


「返事、ありましたか」


「あった」


「何て」


「命令は」


 ノル先輩の声が、少し低くなった。


「ない」


 俺は黙った。


 命令はない。


 だから、入っていいのか。


 それとも、命令がないから何もできないのか。


 ノル先輩は目を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。


「鉄旗は、命令がないと、許可も出せない」


 その言葉で、胸の奥が少し沈んだ。


 命令を待つ獣。


 俺たちはそう見た。


 昨日まで、それは強さだった。


 命令に忠実。


 迷わない。


 整っている。


 統制された動き。


 だから強い。


 でも、命令がないと許可も出せないのなら。


 それは強さだけではない。


「どうします」


 俺は小さく聞いた。


 ノル先輩は少しだけ首をかしげた。


「待つ」


「命令を?」


「違う」


 ノル先輩は言った。


「返事を」


 廊下に、時間が落ちた。


 時計の音はない。


 でも、待つ音がした。


 ノル先輩は寝ている。


 俺は起きている。


 鉄扉の向こうには、鉄旗がいる。


 命令がないと許可も出せない旗が、夢の扉の向こうで、返事を探している。


 俺は自分の手を見る。


 昨日、ネルが白い粉で引いた戻り線はもうない。


 でも、感触だけは残っている。


 戻って。


 ネルの声。


 俺は戻れた。


 鉄旗には、戻る声があるのだろうか。


 命令ではなく。


 戻っていい、と言う声が。


「……きた」


 ノル先輩が呟いた。


「返事?」


「うん」


 彼女の手が動く。


 文字を書く。


 ゆっくり。


 ぎこちなく。


 まるで、鉄でできたものが初めて言葉を選ぶみたいに。


 待て。


 紙に、そう書かれた。


「待て、ですか」


「うん」


「命令じゃないんですか」


「たぶん」


 ノル先輩は少しだけ眉を寄せた。


「自分に言ってる」


 待て。


 自分に言う。


 動くな。


 許可を出すな。


 命令を待て。


 それは、鉄旗の内側の声なのかもしれない。


 ノル先輩の夢が、少し深くなった。


 彼女の呼吸が変わる。


 記録帳のページが、かすかに揺れた。


 廊下の空気まで、少し冷えたような気がした。


 そして、ノル先輩が低く言った。


「鉄の森」


 場面が変わったのだろう。


 俺には見えない。


 けれど、ノル先輩の言葉で、少しだけ見える。


 夢の中の鉄の森。


 木々ではなく、槍。


 葉ではなく、旗布。


 風ではなく、号令。


「旗が、いっぱい」


 ノル先輩の声は眠い。


 でも、少し緊張している。


「全部、同じ向き」


「グラナートの旗ですか」


「古い」


 彼女は紙に短く書く。


 古い旗列。


「昔の旗?」


「うん。軍旗。競技旗になる前」


 クララが聞いたら飛び起きそうな話だ。


 いや、クララは起きている。


 ここに呼ぶべきか迷った。


 でも、ノル先輩は寝て聞く。


 クララは起きて読む。


 今は、寝ている人の時間だ。


「鉄旗は、そこにいる?」


「いる」


「どんな感じですか」


「小さい」


「小さい?」


「今より、小さい。まだ、獣じゃない」


 ノル先輩の指が、紙の端に小さな旗の絵を描いた。


 簡単な線だけの旗。


 でも、どこか寂しい。


「命令を覚えてる」


 彼女は言った。


「最初の命令」


「何ですか」


 ノル先輩の唇が、少しだけ動かなくなった。


 聞いている。


 遠くの、古い命令を。


 やがて、彼女は言った。


「倒れるな」


 俺は息を止めた。


 倒れるな。


 軍旗への命令。


 戦場で掲げられた旗なら、当然の命令なのかもしれない。


 旗が倒れれば、隊が崩れる。


 士気が落ちる。


 戦場では、それが命に関わる。


 倒れるな。


 だから、鉄旗は倒れない。


 命令を守る。


 どれだけ重くても。


 どれだけ怖くても。


 どれだけ傷ついても。


「次の命令」


 ノル先輩が言う。


「迷うな」


 紙に書く。


 倒れるな。


 迷うな。


「次」


「退くな」


 倒れるな。


 迷うな。


 退くな。


 強い言葉だ。


 けれど、並ぶほどに息苦しい。


 倒れてはいけない。


 迷ってはいけない。


 退いてはいけない。


 それは勝つための命令だ。


 同時に、戻れなくなる命令でもある。


「鉄旗は、それをずっと?」


「うん」


 ノル先輩の声が少し小さくなった。


「競技旗になっても、同じ」


「命令が変わらない?」


「言葉は変わった」


「でも」


「中身は同じ」


 俺はグラナートの試合を思い出した。


 鉄旗は迷わなかった。


 命令に忠実だった。


 こちらの即興を押し潰した。


 でも、ネルが傷をつけたとき、震えた。


 コレットはそれを見えなかった。


 ネルが見た。


 リメルが怖いと記録した。


 その震えは、単なる損傷ではなかったのかもしれない。


「鉄旗は、傷をどう思ってますか」


 俺は聞いた。


 聞いていいのか迷った。


 でも、聞かなければならない気がした。


 ノル先輩の指が止まる。


 夢の中で、鉄旗に近づいているのだろう。


「近い」


 彼女は言った。


「触れる?」


「触らない」


「どうして」


「命令がない」


 また、それだ。


 命令がないと、許可も出せない。


 命令がないと、触れられない。


 夢の中でさえ。


 ノル先輩は、しばらく黙っていた。


 そして、珍しく自分から言った。


「触っていい?」


 誰に向けたのか。


 鉄旗に。


 夢の中の小さな旗に。


 返事は、また待たされた。


 待つ。


 命令ではなく、返事を。


 やがて、ノル先輩の手が動いた。


 紙に一文字。


 否。


「駄目?」


「うん」


「拒否できるんだ」


 俺は思わず言った。


 ノル先輩の口元が、ほんの少し動いた。


 笑ったのかもしれない。


「拒否、できた」


 それは、大事なことだった。


 命令を待つ旗が、拒否した。


 触っていいかと聞かれて、いいえと言った。


 命令ではない。


 自分の返事だ。


「じゃあ、傷は?」


 俺は慎重に聞いた。


「傷のことだけ、聞けますか」


 ノル先輩は頷く。


 夢の中で、質問したのだろう。


 返事。


 今度は、少し早かった。


「熱い」


 彼女は言った。


「痛い?」


「痛い、じゃない」


「怒ってる?」


「怒る、違う」


「じゃあ」


 ノル先輩は、紙に文字を書いた。


 そこ。


「そこ?」


「うん」


「傷がある場所?」


「うん」


 ネルが触れた場所。


 細い傷。


 鉄旗が震えた場所。


「そこが、分かる」


 ノル先輩は言った。


「自分のどこを、誰かが見たか」


 廊下の空気が、さらに静かになった。


 傷は痛みではない。


 怒りでもない。


 そこ。


 自分の場所。


 誰かが触れ、誰かが見た場所。


 命令され続ける旗にとって、それは初めて自分の輪郭を感じる出来事だったのかもしれない。


「ネルが聞いたら、変な顔しそうだな」


 俺は小さく言った。


「する」


 ノル先輩も小さく言った。


 寝ているのに、妙に断言する。


 たぶん正しい。


「鉄旗は、ネルを覚えてますか」


「覚えてる」


「リメルは?」


「怖い旗」


「リメルが?」


「うん」


 俺は少し驚いた。


 リメルは鉄旗を怖いと言った。


 でも、鉄旗から見ても、リメルは怖い旗なのか。


「どうして」


「命令が薄い」


 ノル先輩は言った。


「薄い?」


「リメルは、命令じゃなくて、気配で動く。記録で動く。人の名前で動く。忘れられた場所で動く」


 なるほど。


 命令で固められた鉄旗から見れば、リメルは怖いのかもしれない。


 何で動いているのか分からない。


 命令ではないものに従っている。


 いや、従っているという言葉すら少し違う。


 リメルは、待っていた。


 部室で。


 カルミアで。


 忘れられたまま。


 それでも、誰かの名前や記録に反応して動く。


 倒れるな、迷うな、退くな。


 そう命じられてきた旗からすれば、たしかに怖い。


「鉄旗は、リメルを嫌ってる?」


「違う」


「怖いけど、嫌いじゃない?」


「うん」


 ノル先輩の指が動く。


 羨。


「羨ましい?」


「少し」


 鉄旗が、リメルを羨ましいと思っている。


 命令が薄い旗を。


 忘れられた旗を。


 怖いと思いながら、羨ましいと思っている。


 それは、勝敗表には載らない情報だ。


 でも、たぶん次の試合で重要になる。


 鉄旗はただの道具ではない。


 ただの強い旗でもない。


 命令に縛られた証人だ。


「証人」


 ノル先輩が呟いた。


 俺が考えた言葉を拾ったのか。


 それとも、夢の中で鉄旗が言ったのか。


「旗は道具にあらず」


 彼女は続けた。


「証人なり」


 クララが列車で読んだ古代契約の言葉。


 ノル先輩の夢の中にも、それが出てきた。


「鉄旗は、何を証言してますか」


 俺は聞いた。


「命令」


 ノル先輩は即答した。


「誰が、何を、何度、命じたか」


「それを覚えてる?」


「うん」


「全部?」


「多すぎる」


 彼女の眉がまた少し動いた。


「重い」


 ミラが聞いたら、荷物の話にするだろう。


 でも、今は違う。


 鉄旗が覚えている命令は、荷物よりもっと硬い。


 降ろすことを許されない重さだ。


「グラナートの生徒たちの命令も?」


「覚えてる」


「昨日の試合も?」


「覚えてる」


「俺たちのことは?」


 ノル先輩は少し沈黙した。


 そして、紙に一つずつ書いた。


 音。


 線。


 危ない火。


 短い魔力。


 古い旗。


 風の前。


「これ、俺たちですか」


「うん」


 音はロイ。


 線はアルフ。


 危ない火はジャックだろうか。


 短い魔力はネル。


 古い旗はリメル。


 風の前は、俺。


「風の前」


 俺はその文字を見た。


「鉄旗には、俺がそう見えたんですか」


「うん」


「風じゃなくて?」


「前」


 ノル先輩の声は、眠ったまま淡々としている。


「使わなかったから」


 風の前。


 発動前の俺。


 言いかけて、止めた俺。


 鉄旗は、それを見ていた。


 勝敗だけではない。


 点数だけではない。


 鉄旗は、誰が命令し、誰が待ち、誰が止まり、誰が戻ったかを見ていた。


 証人として。


「鉄旗は、俺が使わなかったことをどう思ってますか」


 聞くつもりはなかった。


 でも、聞いていた。


 ノル先輩は夢の中で質問したらしい。


 返事は、少し遅かった。


 紙に文字が書かれる。


 命令ではない。


「それだけ?」


「うん」


 命令ではない。


 俺が風を使わなかったこと。


 ネルが「要らない」と言ったこと。


 戻ったこと。


 それは、鉄旗にとって命令ではない何かだった。


 だから気になるのかもしれない。


 怖いのかもしれない。


 羨ましいのかもしれない。


「……奥」


 ノル先輩が呟いた。


「奥に、いる」


「鉄旗の奥?」


「うん」


「何が」


「もっと古い命令」


 俺は背筋を伸ばした。


 ノル先輩の呼吸が少し乱れる。


 夢が深すぎるのかもしれない。


 どこまで潜っていいのか分からない。


「ノル先輩」


 俺は声を低くした。


「危なそうなら戻ってください」


「うん」


 返事はある。


 でも、目は開かない。


「奥の命令、聞こえますか」


「少し」


 ノル先輩の手が、ゆっくり動いた。


 紙に、歪んだ文字が並ぶ。


 旗は、兵を忘れるな。


 俺は息を呑んだ。


 倒れるな。


 迷うな。


 退くな。


 その奥にある、もっと古い命令。


 旗は、兵を忘れるな。


 それは、鉄旗がただ命令を守るための道具ではなかったことを示している。


 証人。


 倒れた兵。


 戻らなかった者。


 命令を出した者。


 命令で動いた者。


 旗は、それを忘れないためにあった。


 それなのに、いつの間にか命令だけが残った。


 忘れるな、という命令が、倒れるな、迷うな、退くなに覆われた。


「鉄旗は」


 ノル先輩の声が少し震えた。


「忘れてない」


「何を」


「忘れてはいけないってこと」


 でも、何を忘れてはいけないのかは、命令の層に埋もれている。


 そんな感じがした。


 俺の魔法とは逆だ。


 俺は記憶を失う。


 鉄旗は命令を失えない。


 俺は忘れたくないものを忘れる。


 鉄旗は忘れられないものに押し潰されている。


 どちらがまし、という話ではない。


 どちらも、息苦しい。


「ノル先輩、戻れますか」


 俺はもう一度言った。


 彼女の指が、紙の上で止まる。


 唇が小さく動く。


「戻る」


 でも、目は開かない。


 鉄扉の向こうで、何かが鳴った。


 現実の音だ。


 金属が、ほんのわずかに震える音。


 俺は立ち上がった。


 扉には触れない。


 触れれば、グラナートの規則に触れる。


 でも、音はした。


 鉄旗が動いたのか。


 保管具が揺れたのか。


 分からない。


「ノル先輩」


 俺は少し強く呼んだ。


「戻ってください」


 返事がない。


 まずい。


 こういうとき、どうすればいい。


 起こすべきか。


 でも、無理に起こして夢の中の接続が切れたら、ノル先輩に負担がかかるかもしれない。


 クララを呼ぶか。


 コレットを呼ぶか。


 いや、今すぐできること。


 戻り線。


 戻る言葉。


 俺は床を見た。


 白い粉はない。


 でも、言葉はある。


「ノル先輩」


 俺は落ち着いて言った。


「記録係、戻って」


 ノル先輩の指が、ぴくりと動いた。


 記録帳の端に、短い線が引かれる。


「リメルが待ってます」


 もう一本、線。


「コレットの表、まだ空欄があります」


 ノル先輩の眉が動いた。


「クララが、今の話を聞いたら絶対うるさいです」


 小さく、息が漏れた。


 笑ったのか。


「ロイが静かにする練習をしています。記録しないと、たぶん誰も信じません」


「それは」


 ノル先輩が呟いた。


「記録、必要」


 目が開いた。


 半分だけ。


 いつもの眠そうな目。


 でも、少し濡れているように見えた。


「戻った」


 彼女は言った。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 ノル先輩は記録帳を見下ろした。


 そこには、夢の中で書かれた文字が並んでいる。


 命令。


 倒れるな。


 迷うな。


 退くな。


 旗は、兵を忘れるな。


 命令ではない。


 風の前。


 羨。


 拒否、できた。


 戻った。


 ノル先輩はそれを見て、しばらく黙っていた。


「重い」


 彼女は言った。


「鉄旗が?」


「うん」


 そして、少しだけ付け足す。


「でも、ただ重いんじゃない」


「どういうことですか」


「重いものを、ずっと一人で持ってる」


 ミラなら、背負い方の話をするだろう。


 コレットなら、表に分けるだろう。


 アルフなら、戻り線を引くだろう。


 クララなら、古代契約を読むだろう。


 俺は、鉄扉を見た。


 その奥にいる旗は、強い。


 でも、強いだけではない。


 命令を待ち続ける。


 命令を覚え続ける。


 忘れるなという命令まで、命令の層に埋もれさせている。


 それは孤独だ。


 命令される旗の孤独。


「コレットに報告しましょう」


 俺が言うと、ノル先輩は頷いた。


「クララにも」


「はい。たぶん飛び跳ねます」


「飛ぶクララ、珍しい」


「比喩です」


「残念」


 ノル先輩は立ち上がろうとして、少しふらついた。


 俺は慌てて支える。


 軽い。


 眠い人間の重さだ。


「大丈夫ですか」


「寝不足」


「寝てましたよね」


「夢で働いた」


「なるほど」


 夢で働いた。


 ノル先輩らしい表現だ。


 旗保管棟の扉の向こうで、もう一度、小さく金属が鳴った。


 俺とノル先輩は同時に振り返る。


 扉は閉じたまま。


 誰もいない。


 でも、音はした。


 ノル先輩が記録帳に一言書く。


 聞いていた。


「鉄旗が?」


「うん」


 彼女は扉を見た。


「たぶん」


 俺も扉を見た。


「また来ます」


 そう言っていいのか分からなかった。


 でも、言った。


 命令ではない。


 約束でも、まだない。


 ただの言葉。


 鉄扉の向こうから、返事はない。


 でも、ノル先輩の記録帳の端に、なぜか短い線が一本増えていた。


 誰が書いたのか。


 ノル先輩の手が勝手に動いたのか。


 それとも、夢の残りが書かせたのか。


 分からない。


 線は短かった。


 戻り線に似ていた。


 俺たちはその線を持って、みんなのいる訓練場へ戻った。


 戻る途中、ノル先輩は眠そうに言った。


「ルカ」


「はい」


「忘れたくないものと、忘れられないものは、似てるけど違う」


 俺はすぐには答えられなかった。


 彼女は続ける。


「鉄旗は、忘れられない。ルカは、忘れたくない」


「はい」


「どっちも、一人だと重い」


 そう言って、ノル先輩は記録帳を胸に抱えた。


「だから、記録する」


 眠そうな声だった。


 でも、まっすぐだった。


 ノル・フェインは、眠る記録係だ。


 夢の中で試合を再生し、旗と話し、誰かが忘れたものや、忘れられないものの重さを、紙の上に移す。


 欠陥魔法。


 そう呼ばれた力で。


 訓練場に戻ると、コレットが表を広げて待っていた。


 クララはその横で、すでに顔が近い。


 近すぎる。


「何か読めましたか」


 クララが言う。


「読んだのは私じゃない」


 ノル先輩が答えた。


「聞いた」


「何を」


「命令」


 その一語で、クララの目が変わった。


 コレットも、表の上に手を置く。


「報告をお願いします」


 ノル先輩は椅子に座った。


 そして、夢の記録を一つずつ読み上げた。


 倒れるな。


 迷うな。


 退くな。


 旗は、兵を忘れるな。


 命令ではない。


 風の前。


 拒否、できた。


 羨。


 戻った。


 読み上げるたびに、部員たちの表情が変わる。


 ネルは「そこ」という言葉で、自分の指先を見た。


 ロイは「音」と呼ばれたことに、少し照れたような顔をした。


 アルフは「線」のところで黙って頷いた。


 ジャックは「危ない火」に不満そうだったが、否定はしなかった。


 リメルは「怖い旗」と言われて、なぜか誇らしそうに揺れた。


 クララは「旗は、兵を忘れるな」のところで完全に固まった。


「クララ?」


 俺が声をかける。


 彼女はゆっくり息を吸った。


「それは」


 声が震えていた。


「軍事旗契約の、古い核文に近いです」


「核文?」


「契約の中心です。旗が何のために存在するかを定める文です」


 クララは記録帳を見つめる。


「もし鉄旗の核が、兵を忘れるな、なら」


 彼女は言葉を探した。


「グラナートの今の教育方針は、鉄旗の本来の役割から少しズレているかもしれません」


 コレットが表に新しい欄を作った。


 鉄旗。


 原因。


 命令を覚えすぎている。


 核文が命令層に埋もれている。


 担当。


 ノル、クララ、リメル、コレット。


 使い道。


 鉄旗を奪う前に、命令ではない返事を増やす。


 それを見て、アルフが言った。


「次の練習試合で使える」


「どう使う」


 ネルが聞く。


「命令系統を崩すのではなく、命令以外の反応を増やす」


 コレットが頷く。


「鉄旗を奪わず、動かせない命令系統を崩す。第5章の再戦方針に合います」


「部長、今ちょっと章とか言わなかった?」


 ロイが首をかしげる。


「言っていません」


「言った気がする」


「気のせいです」


 コレットは真顔だった。


 俺は何も聞かなかったことにした。


 ノル先輩は表の端に、最後の記録を書いた。


 命令される旗は、命令ではない返事を待っている。


 それは長い文だった。


 ノル先輩にしては珍しい。


 でも、今日の夢には、それくらいの長さが必要だったのだと思う。


 リメルが旗布を揺らした。


 文字が浮かぶ。


 聞いた。


 今日の記録は、それだった。


 見た、ではない。


 触った、でもない。


 戻った、でもない。


 聞いた。


 命令ではなく。


 返事を。


 鉄旗の孤独を。


 忘れられない重さを。


 ノル先輩はその文字を見て、眠そうに頷いた。


「うん」


 彼女は言った。


「聞いた」


 そして、そのまま机に突っ伏した。


 寝た。


 働いたあとの、きれいな寝落ちだった。


 誰も起こさなかった。


 コレットはそっと表をずらし、ノル先輩の頬に紙の角が当たらないようにした。


 ミラは自分の上着を持ってきて、ノル先輩の肩にかけた。


 ロイは声を出さないように口を押さえた。


 ジャックは椅子を蹴りそうになって、踏みとどまった。


 ガレス先輩は無言で窓を少し閉めた。


 レイナ先輩は「美しい休息ね」と小声で言った。


 リリィは「寝落ちまで記録に残すべきです」と言った。


 クララはすでに別の紙に古代契約の仮説を書き始めている。


 アルフは、床に短い線を引いた。


 戻り線。


 たぶん、ノル先輩が夢から戻ってきた場所だ。


 俺はそれを見て、鉄旗のことを考えた。


 命令される旗。


 倒れるな。


 迷うな。


 退くな。


 でも、その奥にある。


 旗は、兵を忘れるな。


 もし鉄旗が証人なら。


 俺たちが次にやるべきことは、奪うことだけではない。


 命令の外にある返事を、聞くことだ。


 そして、聞いたものを、忘れないことだ。


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