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第43話 読み違いの線

 アルフ・メイナードは、失敗の字がうまい。


 これは褒め言葉なのかどうか分からない。


 少なくとも本人に言うと、たぶん首をかしげる。


 そして「失敗の字に、うまいも下手もない」と言う。


 でも、実際にうまいのだから仕方がない。


 午前の訓練場。


 グラナート軍事校の端にある補助訓練区画を借りて、俺たちは敗北の使い道表を実戦用に落とし込むことになった。


 壁は灰色。


 床は硬い石。


 線が引きやすく、消しやすい。


 昨日までなら、それだけで軍事校らしいと思ったかもしれない。


 今日は少し違う。


 線が引きやすいということは、線に頼りやすいということでもある。


 線が消しやすいということは、消したあとに何も残っていないように見えるということでもある。


 アルフは、その床の前でしゃがんでいた。


 手には白い石筆。


 隣には、昨日の試合記録と、自分の失敗をまとめた紙束。


「読めなかった方向」


 彼は床に一本目の線を引いた。


「遅れた結界」


 二本目。


「固定しすぎた基準線」


 三本目。


「味方の動きを止めた線」


 四本目。


「相手に読ませた線」


 五本目。


 次々と線が増える。


 訓練場の床に、失敗の地図ができていった。


 線はまっすぐだった。


 淡々としていた。


 だからこそ、少し怖かった。


「アルフ」


 俺は声をかけた。


「それ、全部昨日の失敗か」


「全部ではない」


 アルフは答えた。


「全部書くと、床が足りない」


「そこは冗談であってほしかった」


「冗談ではない」


 知っていた。


 アルフはこういうところで、あまり冗談を言わない。


 ただし、たまに本人が真面目に言ったことが、結果的に冗談より強いことはある。


 今日もそれだった。


「昨日の試合、俺の結界は五回使えた」


 アルフは線の横に小さな丸をつけた。


「成功は二回。失敗は三回」


「二回も成功してたか?」


 ジャックが不思議そうに言う。


 本人に悪気はない。


 ただ、戦っている側には、成功した守備より、失敗した守備のほうが大きく見える。


「一回目は、鉄旗の初動を半歩遅らせた」


 アルフは丸の一つを指した。


「二回目は、ジャックの誘導後、グラナート二番の視線を切った」


「あれ、成功だったのか」


「成功だった。次が失敗したから、目立たなかった」


 そう言って、アルフは次の線に×をつける。


「三回目。鉄旗が右に来ると読んだ。実際は右に見せて、左斜め後ろだった」


「あれは相手がうまかった」


 ロイが言った。


「グラナートの人たち、動きそろいすぎだし!」


「相手がうまいことと、俺が読み違えたことは両立する」


 アルフは淡々と返した。


 ロイが少し黙る。


 言い返せないからではなく、納得したからだと思う。


 アルフの言葉は、責める音が少ない。


 だから、失敗を置きやすい。


 俺たちがコレットの表に失敗を置いたように、アルフは床に線を置く。


「四回目」


 アルフは別の×をつけた。


「仮設基準線を出すのが早かった。相手に基準を渡した」


「渡した?」


 ネルが聞く。


「ああ」


 アルフは床にもう一本、薄い線を引く。


「俺たちは、基準線を味方のために置いた。だが、見える線は敵にも基準になる」


 彼はその線の外側に、グラナート側の動きを示す矢印を描いた。


「相手は、こちらの線を見て、こちらが守りたい場所を読んだ」


「つまり、守るための線が、守りたい場所の看板になったってこと?」


 ネルの言い方に、アルフは頷いた。


「そうだ」


「最悪じゃん」


「最悪ではない。情報だ」


「あんた、そういうところ本当にアルフだよね」


 ネルは呆れたように言った。


 褒めているのかどうか分からない。


 でも、アルフは少しだけ考えてから言った。


「たぶん、褒められた」


「なんで分かるの」


「ネルは、本当に駄目なものには、もっと短く言う」


「……よく見てんじゃん」


 ネルが少しだけ顔をそらした。


 俺は何も言わなかった。


 言うと蹴られそうだったからだ。


「五回目」


 アルフは最後の×をつけた。


「味方を止めた」


 その言葉で、訓練場の空気が少しだけ重くなった。


 昨日、アルフの結界は相手の動きを止めるために出された。


 でも、一方向にしか出せない結界は、味方にとっても壁になる。


 とくに、ネルやミラのように一瞬の動きで届く部員にとって、その半歩は大きい。


「あれ、あたしも悪い」


 ネルが先に言った。


「線を見るのが遅かった。あと、あんたの線を信用しきって突っ込んだ」


「信用したことは悪くない」


「でも止まった」


「止めたのは俺だ」


「そうやって全部持つなって昨日やったじゃん」


 ネルの声が少し強くなる。


 アルフは彼女を見た。


 静かな目だった。


「全部は持たない」


 彼は言った。


「だが、自分の担当は持つ」


 その言葉に、コレットが反応した。


 今日の彼女は、敗北の使い道表を胸に抱えている。


 表というより、もう小さな盾だ。


「アルフさんの担当は、線を置くことだけではありません」


「ああ」


「線を消すことも、ずらすことも、味方に渡すことも、担当です」


「分かっている」


 アルフは頷いた。


「だから、今日は再設計する」


 彼は床に大きな四角を描いた。


 訓練場の縮図だ。


 その中に、旗の位置、相手選手の位置、味方の位置を置いていく。


 石筆の音が、こつこつと響いた。


 グラナートの訓練場には、余計な装飾がない。


 だから、石筆の音がよく聞こえる。


「昨日の俺たちは、線を守りとして使った」


 アルフは言った。


「守りとしては、足りなかった」


「一方向だけだから?」


 ロイが聞く。


「それもある。だが、それだけではない」


 アルフは、最初の線を強くなぞった。


「線が、固定されていた」


 固定。


 その言葉に、鉄旗の姿が重なった。


 命令を待つ獣。


 命令で固まっている旗。


 昨日の俺たちは、自由な第七部のつもりで戦って、相手より先に自分たちを固定していたのかもしれない。


「基準線は必要だ」


 アルフは続けた。


「基準がなければ、味方は自分がどこにいるか分からない。だが、基準線を守る対象にすると、そこから動けなくなる」


「じゃあ、基準線って何にするの?」


 ネルが聞く。


「戻る場所」


 アルフは答えた。


「立ち止まる場所ではなく、戻る場所にする」


 少しだけ、誰も喋らなかった。


 短い言葉なのに、妙に腑に落ちた。


 基準線。


 そこに立つ線ではなく。


 そこから測る線でもなく。


 動いたあとに戻ってこられる場所。


「居場所みたいな言い方だな」


 俺が言うと、アルフは少しだけ首をかしげた。


「そうか」


「そうだろ。第七部っぽい」


「なら、使える」


 アルフはそう言って、床の線を一つ消した。


 手でこすって消す。


 白い粉が指につく。


「仮設基準線は、長く置かない」


 彼は新しい線を短く引いた。


「出す。見る。戻す。消す」


 次に、別の場所へ短く引く。


「また出す。見る。戻す。消す」


 線が、点のようになっていく。


 壁ではなく、足場。


 結界ではなく、合図。


「これ、相手から見ても分かるんじゃない?」


 ネルが言う。


「分かる」


 アルフは即答した。


「だが、長く残らなければ読みにくい」


「でも、味方も読みにくくない?」


「だから、事前に順番を決める」


 アルフは床の端に数字を書いた。


 一。


 二。


 三。


 そして、四は書かなかった。


「三つまで」


「なんで?」


「四つ以上は、ロイが忘れる」


「名指し!?」


 ロイが悲鳴のような声を出した。


 小さく出したつもりらしいが、普通に響いた。


「事実だ」


「いや、否定はできないけど!」


「それに、三つならミラも荷物に入れやすい」


 ミラが頷く。


「三つ、持てる」


「レイナも美しく覚えられる」


 レイナ先輩が当然のように頷いた。


「三は美しいわ」


「ジャックも撃つ前に確認できる」


「四つだと撃ちたくなくなる」


 ジャックが認めた。


「リリィの予定外も、三つの外側に置ける」


「予定外置き場、いいですね」


 リリィが少し楽しそうにした。


「クララは、古代契約の三点支持を読める」


「読めます」


 クララが即答する。


「ノルは」


 アルフはノル先輩を見た。


 ノル先輩は立ったまま眠りかけていた。


「夢で三回までなら、たぶん覚える」


「覚える」


 寝ぼけた声で返事があった。


「コレットは、三つの負け筋を表に入れられる」


「はい」


 コレットが頷く。


「ルカは」


 アルフは最後に俺を見た。


「風の前に三つを確認できる」


 俺は、床の三つの数字を見た。


 風の前に三つ。


 ネル一秒。


 ロイ合図。


 アルフ線。


 第41話の表に書いた代替手段。


 それが、今日の線に繋がっている。


「たぶんできる」


 俺は答えた。


「たぶんでは困る」


「できる」


「ならいい」


 アルフはあっさり頷いた。


 厳しいのか優しいのか分からない。


 たぶん、どちらでもない。


 必要な確認をしただけだ。


「三点基準」


 コレットが表に書いた。


「仮の名前です」


「仮でいい」


 アルフは言った。


「名前にこだわると、固定される」


「第七部らしからぬ冷静な意見」


 リリィが言った。


「第七部にも冷静さはある」


「あるときもあります」


「たまにはある」


 全員が少しずつ譲歩した。


 アルフはそれを否定しなかった。


 否定しないのが、逆に少し面白かった。


 練習は、三点基準から始まった。


 一点目。


 ロイの無声合図。


 無声といっても、ロイが完全に音を消せるわけではない。


 今のところは、足で床を一回踏む、肩を二度動かす、手を開く、の三種類だ。


「声を出さないって、意外と疲れるな」


 ロイが小声で言う。


「喋るな」


 リリィが言う。


「小声だからセーフでは?」


「アウトです」


「厳しい!」


 ロイは口を押さえた。


 二点目。


 ネルの一秒。


 合図から一秒だけ魔力を出し、すぐ切る。


 魔力が切れたあと、彼女は手で床に触れ、体勢を変える。


 昨日、彼女が言った通りだ。


 魔力がなくなっても、手と足は残る。


 三点目。


 アルフの短い結界。


 一方向だけ。


 ほんの一瞬。


 壁として置くのではなく、戻る場所として置く。


 最初の試行は、ひどかった。


 ロイが肩を二度動かすはずのところで、なぜか三度動かした。


 ネルは一秒より早く飛び出し、アルフの線が出る前に足を滑らせた。


 ジャックは撃たない役なのに、撃たないことを意識しすぎて、全員の邪魔な位置に立った。


 ミラは三点を荷物のように数えながら走った結果、本当に荷物を持っていないことに違和感を覚え、途中で訓練用の砂袋を拾った。


 レイナ先輩は「一度目の失敗を美しく見せる」と言って、失敗のポーズを作りすぎた。


 リリィは予定外置き場に本当に予定外の石を置いた。


 クララは古代契約の三点支持の説明を始め、誰も聞けなかった。


 ノル先輩は立ったまま寝た。


 そして俺は、風と言う準備をしすぎて、普通に走るのが遅れた。


「全滅だな」


 ジャックが言った。


「全滅ではない」


 アルフは床に丸を一つつけた。


「ロイが声を出さなかった」


「おお!」


 ロイが喜びかけて、口を押さえた。


 アルフはもう一つ丸をつける。


「ネルが魔力を切ったあと、手を使った」


 ネルが床に座ったまま、少し笑う。


「滑ったけどね」


「滑ったのは別の欄」


 さらに丸。


「ルカが風を言わなかった」


「言ってないのも成功なのか」


「今回は、まだ使う場面ではない」


「なるほど」


 失敗の中に、成功を拾う。


 コレットの「見えなかったもの」欄と同じだ。


 アルフの記録は冷静すぎると思っていた。


 でも、冷静だからこそ、落ちた小さな成功を見落とさない。


 感情が大きいと、失敗の音ばかり聞こえる。


 アルフは、失敗の音の中から、小さな丸を拾っていた。


 二回目の試行は、少しましだった。


 ロイの肩合図は二回で止まった。


 ネルは一秒を待った。


 アルフの線は短く出て、すぐ消えた。


 俺は、風を言う前に三点を確認した。


 一、ロイ。


 二、ネル。


 三、アルフ。


 まだ魔法は使わない。


 ジャックは撃たない位置に立った。


 ミラは砂袋を拾わなかった。


 レイナ先輩は失敗のポーズを少し控えめにした。


 リリィの石は、なぜか二つに増えた。


 クララの説明は短くなった。


 ノル先輩は座って寝た。


「改善」


 アルフが言った。


「低い改善だな」


 俺が言うと、彼は頷いた。


「低いところから始めると、改善が見える」


「名言みたいに言うな」


「事実だ」


 事実だった。


 三回目。


 ジャックを入れた。


 攻撃は撃たない。


 撃つふりだけ。


 味方の近くを通る攻撃の、気配だけを使う。


「撃つふりって、逆に難しいんだけど」


 ジャックが手をぶらぶらさせる。


「撃ちたいのか、撃ちたくないのか、どっちの顔をすればいい」


「撃てるが撃たない顔」


 アルフが答える。


「分かるか」


「昨日、できていた」


 ジャックは黙った。


 昨日、彼は撃たなかった。


 それは、彼にとってただの不発ではない。


 撃てるけれど、撃たない。


 壊せるけれど、壊さない。


 その顔を、戦術に入れる。


「俺の顔、使われすぎじゃねえか」


「便利」


 ミラが言った。


「便利って言うな」


 でも、ジャックは逃げなかった。


 立ち位置を確認し、手の角度を変え、撃つふりの距離を測った。


 アルフはそこに線を置く。


 短い線。


 ジャックが撃つふりをした瞬間、相手役のネルが半歩止まる。


 その半歩のあと、ロイが無声合図を出す。


 ネルが動く。


 アルフの線が消える。


 俺は風を言わない。


 言わずに、ネルの後ろへ一歩ずれる。


 訓練用の小さな旗が、床を滑るように逃げた。


 リメルではない。


 グラナートから借りた、ただの練習旗だ。


 意思は薄い。


 それでも、旗は線が消えた瞬間、少し迷った。


 ネルの手が、旗布の端をかすめる。


「触った!」


 ロイが叫びかけて、口を押さえた。


「……触った」


 小声で言い直す。


 ネルは床に膝をついたまま、指先を見た。


「今の、昨日より楽だった」


「どこが」


 アルフが聞く。


「線が壁じゃなかった。戻る場所っぽかった」


「具体的には」


「具体的にって言われると腹立つ」


「必要だ」


「分かってる」


 ネルは少し考えた。


「線が長く残ってると、そこに合わせなきゃって思う。でも今のは、一瞬だけ見えたから、そこを踏んでいいんだって思った。踏み台。壁じゃない」


 アルフは表に書いた。


 短線。


 踏み台。


 壁ではない。


「採用」


「あたしの雑な説明が採用された」


「分かりやすい」


「それは褒めてる?」


「かなり」


 リリィの言い方が移っている。


 ネルは少し笑った。


 コレットが嬉しそうにそのやりとりを見ていた。


 昨日の彼女なら、自分が見た失敗をどう潰すかに集中していただろう。


 今日は、見えなかった成功を拾っている。


 その違いは小さい。


 でも、たぶん大きい。


 四回目の試行で、失敗した。


 アルフの線が短すぎた。


 ネルが踏み台にする前に消えた。


 ロイの合図は正しかった。


 ジャックの撃つふりもよかった。


 俺も三点を確認していた。


 でも、線が消えた。


 ネルは空白を踏み、転びかけた。


 ガレス先輩が無言で支えた。


「短すぎ」


 ネルが言った。


「ああ」


 アルフはすぐに頷いた。


「俺の失敗だ」


「だから、そうやって」


「担当だ」


 アルフは床に×をつけた。


 その×は、さっきまでより少し強かった。


 石筆の先が、床に小さく欠ける。


 俺はその音に気づいた。


 たぶん、俺だけではない。


 コレットも気づいた。


 アルフの淡々とした顔は、変わっていない。


 でも、石筆の先が欠けた。


 悔しいのだ。


 アルフは、淡々としているから平気なのではない。


 平気ではないものを、淡々と置くことにしているだけだ。


「アルフ」


 俺は言った。


「悔しいか」


 訓練場が静かになった。


 聞き方が雑だったかもしれない。


 でも、回りくどく聞くほうが失礼な気がした。


 アルフは石筆を見た。


 欠けた先。


 白い粉のついた指。


 それから、床の×。


「悔しい」


 彼は言った。


 短い。


 でも、はっきり。


「昨日も、悔しかった」


 誰も茶化さなかった。


 アルフが自分から感情を口にするのは、多くない。


 その少ない機会を、雑に扱っていい人間はここにはいない。


「俺は、読めると思っていた」


 アルフは続けた。


「自分の魔法は一方向だけだから、方向を読むことに慣れていると思っていた。足りないなら、足りない分だけ正確に読めばいいと思っていた」


 彼は床の線を見た。


「だが、昨日は読めなかった」


 グラナートの統制。


 鉄旗の命令。


 揃いすぎた動き。


 それに対して、アルフの線は何度も遅れた。


「読めなかったことより」


 アルフの声は、少しだけ低くなった。


「読める前提で、味方を動かしたことが悔しい」


 コレットが表を握る手に力を入れた。


 それは彼女の痛みにも近いのだと思う。


 見える前提。


 読める前提。


 分かる前提。


 その前提で人を動かす怖さ。


「じゃあ、どうする」


 ジャックが聞いた。


 責める声ではなかった。


 続きを促す声だった。


 アルフは答えた。


「読めない前提で線を置く」


「読めない前提?」


「ああ」


 アルフは床の線をいくつか消した。


 それから、中央に小さな丸を描く。


「昨日までは、相手の動きを読んで、そこに線を置いた」


 丸の外に線。


「次は、相手を読む前に、味方が戻れる点を置く」


 丸の内側に、三つの点。


「読めたら伸ばす。読めなければ戻る。読み違えたら、線を捨てる」


「捨てる」


 コレットが繰り返した。


「捨ててもいい線、ですか」


「ああ」


「捨てる前提の基準線」


「仮設だからな」


 アルフは言った。


 その声は、さっきより少しだけ楽になっていた。


「仮設基準線は、正しい線ではない。戻るための仮の線だ。間違えたら、捨てる」


 俺は、昨日の試合を思い出した。


 コレットが言った。


 全部の仮設線を、一度捨てます。


 あの判断がなければ、リメルは押し潰されていた。


 捨てることで残るものがある。


 逃げることで見えるものがある。


 使わないことで残る記憶がある。


 この部は、そういう面倒なことばかり少しずつ覚えていく。


「名前」


 ミラが言った。


 全員が彼女を見た。


「捨てる線、名前いる」


「名前をつけると固定されるって言ったばかりだろ」


 俺が言うと、ミラは真剣に首を振った。


「荷物は名前がないと忘れる」


「それもそうだな」


 ミラ理論は強い。


 アルフも考え込んだ。


「仮設基準線、短線、踏み台、捨てる線」


「多い」


 ネルが言う。


「三つまでにしようって言ったの、誰?」


「俺だ」


「じゃあ減らして」


 アルフは床を見た。


 少し考えてから言った。


「戻り線」


 静かな名前だった。


 派手ではない。


 でも、今の第七部には合っている。


 戻るための線。


 立ち止まるためではなく。


 閉じこもるためでもなく。


 間違えたときに、もう一度動くための線。


「いいと思います」


 コレットが言った。


「戻り線。敗北の使い道表に入れます」


 リメルが旗待機区域から跳ねてきた。


 訓練場なので、食堂より動きが速い。


 旗布が揺れる。


 文字が浮かぶ。


 戻る。


 次に。


 待つ。


 そして。


 動く。


 アルフはその文字を見た。


 しばらく黙ったあと、床の中央に新しい線を引いた。


 短い。


 でも、はっきり見える線。


「リメルも採用」


 彼は言った。


 リメルが誇らしそうに揺れた。


 五回目の試行。


 戻り線を使った。


 ロイの無声合図。


 ネルの一秒。


 ジャックの撃つふり。


 アルフの戻り線。


 俺は風の前に三点を見る。


 練習旗が逃げる。


 ネルが届かない。


 ジャックのふりに旗が迷う。


 ロイの足踏みが一回。


 ネルが戻り線を踏む。


 アルフが線を消す。


 俺は一歩だけ前に出る。


 風。


 言いかけた。


 けれど、言わなかった。


 なぜなら、ネルが手を伸ばしていたからだ。


 魔力は切れている。


 でも、手は残っている。


 指先が旗布に触れた。


 今度は、かすっただけではない。


 掴んだ。


 練習旗が小さく震える。


 ネルが叫ぶ。


「取った!」


 ロイが叫ぶ。


「取った!」


 リリィが耳を押さえる。


「無声練習はどこへ」


 でも、誰も怒らなかった。


 ネルの手には、練習旗があった。


 ただの練習旗。


 鉄旗ではない。


 相手選手もいない。


 公式戦でもない。


 それでも、戻り線で一つ取った。


「成功」


 コレットが表に丸をつけた。


 アルフは床を見ていた。


 丸ではなく、線を見ていた。


「今のは」


 彼は言った。


「読めなかった」


「え?」


 ネルが旗を持ったまま振り返る。


「旗が右に逃げると思った。実際は左だった」


「でも取れたじゃん」


「戻り線があった」


 アルフはそう言って、欠けた石筆を見た。


「読み違えても、戻れた」


 その声には、ほんの少しだけ熱があった。


 アルフにしては、かなり大きな熱だ。


 コレットはその言葉を、表に書いた。


 読み違えても、戻れた。


 見えなかったものの欄に。


 リメルの旗布にも、同じような文字が浮かんだ。


 戻れた。


 たぶん、今日の記録はそれだ。


 読み違えた。


 だから終わりではない。


 戻れた。


 だから次がある。


 練習が終わる頃、床は白い粉だらけになっていた。


 線。


 丸。


 ×。


 矢印。


 三つの点。


 戻り線。


 失敗と改善が、床いっぱいに広がっている。


 グラナートの訓練場係が見たら、顔をしかめるかもしれない。


 でも、ガレス先輩があとで掃除する気でいる顔をしていた。


 たぶん、すごくきれいになる。


「アルフさん」


 コレットが声をかけた。


「今日の表、部の記録に入れます」


「ああ」


「でも、ひとつだけ確認していいですか」


「何を」


「悔しい、も入れていいですか」


 アルフは少しだけ黙った。


 訓練場の白い床。


 欠けた石筆。


 取られた練習旗。


 それから、仲間たち。


 アルフはゆっくり頷いた。


「入れていい」


「原因欄ですか」


「違う」


「担当欄?」


「違う」


「では」


 アルフは表を見た。


「使い道だ」


 コレットは目を少し大きくした。


「悔しいの使い道」


「ああ」


 アルフは淡々と言った。


「次の線を引く」


 コレットは、丁寧に書いた。


 悔しい。


 使い道。


 次の線を引く。


 それを見て、俺は少し笑った。


 失敗の字がうまいアルフは、悔しさの使い方もうまい。


 たぶん本人は、そんなつもりはない。


 ただ、持てる形にしているだけだ。


 でも、それが強い。


 戦術としても。


 仲間としても。


 午後の訓練場に、リメルが最後の文字を浮かべた。


 戻れた。


 それは勝利ではない。


 けれど、昨日の敗北から、確かに一本、線が伸びた。


 俺たちはその線を踏んで、次の練習へ進む。


 読み違えても戻れるように。


 戻ったあと、もう一度動けるように。


 勝つところがまだ見えなくても。


 次の線なら、引ける。


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