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第40話 負けた旗の傷

 負けたあと、拍手は少しだけ遅れて聞こえた。


 グラナートの勝利に対する拍手。


 それは当然のものだった。


 ホームの強豪校が、低優先参加校に勝った。


 点差は一点。


 旗捕獲はなし。


 試合として見れば、グラナートの安定勝利。


 カルミアがよく粘った、と言う人もいるかもしれない。


 でも、結果は負けだ。


 スコアボードには、はっきりそう出ている。


 カルミア魔法学園、第七魔法競技部、〇。


 グラナート軍事魔法学院、一。


 負け。


 その一文字が、身体の中で重く沈む。


 俺たちは整列礼を終え、控え区域へ戻った。


 誰もすぐには喋らなかった。


 ロイでさえ、静かだった。


 静かな大音量ではなく、本当に静かだった。


 ネルは指先を見ている。


 鉄旗に触れた指。


 そこに怪我はない。


 でも、彼女はずっと見ている。


 触った感触を逃がさないように。


 ジャックは腰の小袋を握っていた。


 破片の記録。


 今日の誘導攻撃。


 壊さなかったこと。


 全部がそこに詰まっているみたいに。


 アルフはスコアボードを見ていた。


 表情は変わらない。


 だが、目が細い。


 かなり悔しいときの目だ。


 コレットは手帳を抱えている。


 書くべきことが多すぎるのに、まだ書き切れていない。


 リメルは彼女の足元にいる。


 旗布には、傷、の文字。


 それが消えずに残っていた。


 鉄旗一号の旗布端にも、細い擦過痕がある。


 グラナートの整備担当が確認している。


 損傷ではない。


 だが、接触痕として記録されるらしい。


 ヴォルク教師が、その傷を見ていた。


 彼は険しい顔をしていなかった。


 ただ、見ていた。


 隠さないために。


「負けたっすね」


 ロイが小さく言った。


 誰も否定しなかった。


 慰めも出なかった。


 負けた。


 まず、それを置く必要があった。


「負けました」


 コレットが言った。


 声は震えている。


 でも、逃げていない。


「でも、記録します」


 彼女は手帳を開いた。


 手がまだ震えている。


 レイナ先輩が横から手帳の端を押さえた。


「字が乱れるわ」


「すみません」


「乱れても、書きなさい」


 レイナ先輩はそう言った。


 少し驚いた。


 彼女なら、美しく書けと言うと思ったからだ。


 レイナ先輩は前を向いたまま続ける。


「今日の負けは、綺麗に整える前に残すべきよ。あとで清書すればいいわ」


 コレットは小さく頷いた。


「はい」


 彼女は書く。


 公式戦結果。


 敗北。


 グラナート一点。


 カルミア零点。


 旗捕獲なし。


 被接触一点。


 鉄旗接触一回。


 命令遅延一拍。


 誘導攻撃成功。


 風使用なし。


 前半、押し潰された。


 後半、傷を残した。


 その文字を見て、胸が痛んだ。


 前半、押し潰された。


 後半、傷を残した。


 きれいな勝利ではない。


 負けを飾る言葉でもない。


 でも、事実だった。


「カルミア魔法学園」


 声がした。


 振り返ると、イリス・カイザーが立っていた。


 グラナートの部長。


 背筋は試合前と同じ。


 息も乱れていない。


 いや、よく見ると、少しだけ肩が上下している。


 彼女も走っていたのだ。


 当然だ。


 でも、グラナートの生徒は疲れまで整えて見える。


「試合記録の確認に来ました」


 イリスは言った。


 コレットが立ち上がる。


 小さな部長は、少しふらついた。


 ネルが支えようとして、コレットは自分で立った。


「お願いします」


 イリスは記録板を開く。


「公式結果。グラナート軍事魔法学院、一点。カルミア魔法学園、零点。旗捕獲なし。鉄旗一号、被接触一回。接触箇所、旗布端。損傷なし。擦過痕あり。命令線遅延、一拍。原因、カルミア側攻撃線誘導および一方向結界による補助線形成」


 淡々と読み上げる。


 でも、その内容はグラナート側の勝利記録だけではなかった。


 カルミアがしたことも、ちゃんと入っている。


 コレットが息を呑む。


「そこまで記録してくださるんですか」


「事実です」


 イリスは言った。


「グラナートは、試合で起きた事実を削りません」


 削らない。


 その言葉が、少し重く響いた。


 レイナ先輩の「残ったもの」。


 クララの「旗は証人」。


 ヴォルク教師の「傷を隠すと、次に折れる」。


 全部が、ここにつながる。


「あなた方は敗北しました」


 イリスは続けた。


 はっきり言う。


「ただし、グラナートの鉄旗に接触した低優先参加校は、今季初です」


 ロイが息を吸った。


 声を出しそうになって、口を押さえる。


 ネルの指が止まる。


 ジャックが顔を上げる。


 アルフの目が少しだけ動く。


 コレットは、手帳を握った。


「今季初」


 彼女が繰り返す。


「はい」


 イリスは頷く。


「グラナート側として、再発防止の訓練を行います」


「再発防止」


 ジャックが少し笑った。


 嫌な笑いではなかった。


 疲れた笑いだ。


「こっちは必死で一回触っただけなのに、そっちは再発防止かよ」


 イリスは彼を見る。


「当然です」


 揺れない。


 グラナートらしい。


「だが」


 イリスは少しだけ間を置いた。


「一回は一回です。記録上、消えません」


 ジャックは黙った。


 その言葉は、彼にも刺さったらしい。


 一回。


 壊しかけた一回。


 撃たなかった一回。


 誘導で撃てた一回。


 鉄旗に傷をつけた一回。


 記録上、消えない。


 コレットは頭を下げた。


「ありがとうございました」


 イリスも礼を返す。


 角度がきれいだった。


 彼女は去ろうとして、少しだけ足を止めた。


「セドから聞きました。あなた方は旗を証人と呼ぶそうですね」


 クララがぴくりと反応する。


「古代契約文上は、そう読めます」


 イリスは鉄旗一号を見る。


 整備担当に確認されている鉄の旗。


 旗布端の細い傷。


「グラナートでは、旗は指揮媒体です」


 彼女は言った。


「ですが、今日の鉄旗一号は、カルミアが接触したことを証明します。その意味では、証人と言えるかもしれません」


 クララの目が大きくなる。


 ロイが口を押さえたまま震える。


 リリィが小声で「硬い歩み寄りですわ」と言った。


 イリスには聞こえていない。


 たぶん。


「では」


 イリスは今度こそ去っていった。


 グラナートの背中。


 整った歩幅。


 勝者の歩き方。


 でも、そこに少しだけ、こちらの傷が残った。


「負けたけど」


 ネルが言った。


 指先を握る。


「触った」


「うん」


 俺は答えた。


「負けたけど、触った」


 ロイが小さく言う。


「負けたけど、音、止められました」


 ミラが続ける。


「負けたけど、紐、少し道になった」


 レイナ先輩。


「負けたけれど、一度目を捨てる判断もできたわ」


 リリィ。


「負けましたけれど、銀の糸は有能でしたわ」


 クララ。


「負けました。でも、読めないことを記録できました」


 ノル先輩。


「負けた。でも、硬い夢、少し薄いところあった」


 ガレス先輩。


「負けた。壊さなかった」


 ジャックは少し遅れて言った。


「負けた。壊してねえ。傷はつけた」


 アルフは記録板を閉じる。


「負けた。一方向は足りなかった。だが、基準線は一拍機能した」


 みんなが、自分の負けを言う。


 負けたけれど、何が残ったかを言う。


 コレットはそれを、必死に手帳へ書いていた。


 涙が一粒だけ落ちた。


 紙が少し濡れる。


 レイナ先輩が何か言いかけて、やめた。


 字が乱れるわ、とは言わなかった。


 コレットは袖で目元を拭く。


「わたしは」


 彼女は言った。


「負ける未来を見ました。前半で押し潰される未来を見ました。でも、後半の傷は、見えていませんでした」


 全員が少し静かになる。


「見えなかったんです」


 コレットの声が震える。


「負けは見えました。でも、傷は見えませんでした」


 それは、小さな光だった。


 彼女の魔法は負けを見せる。


 勝つ未来は見えない。


 でも、負けの中に残る傷までは、全部見えていたわけではない。


 つまり、敗北幻視の外に、まだ何かがある。


 勝利ではない。


 でも、ただの負けでもない。


「部長」


 俺は言った。


「それ、かなり大事だ」


「はい」


 コレットは頷いた。


「だから、記録します」


 彼女は手帳に書いた。


 敗北幻視で見えなかったもの。


 鉄旗の傷。


 命令遅延一拍。


 グラナート記録上、今季初接触。


 その文字は、涙で少しにじんでいた。


 でも、読めた。


 リメルが近づく。


 旗布の傷の文字が、少し揺れる。


 そして、隣に新しい文字が浮かんだ。


 使い道。


 誰もすぐには喋らなかった。


 負けの使い道。


 第5章の名前になる言葉。


 まだ俺たちは知らない。


 でも、リメルはもうそれを選んだ。


 負けた旗の傷。


 それは、次に使えるものになる。


 宿舎へ戻る道、グラナートの街はいつも通り整っていた。


 勝った学校の街。


 規律の街。


 でも、俺たちは昨日までより少し違う目で見ていた。


 ここは強い。


 俺たちは負けた。


 それでも、ここの鉄旗に傷を残した。


 壊したのではない。


 傷つけて終わりにしたのでもない。


 記録された。


 その違いが、妙に大きかった。


 宿舎の部屋に戻ると、コレットは手帳を机に置いた。


 全員が集まる。


 疲れている。


 悔しい。


 でも、誰もすぐ寝ようとはしなかった。


「責任の話は、明日します」


 コレットが言った。


 その言葉に、空気が少し重くなる。


 負けたあとには、必ずそれが来る。


 誰が悪かったのか。


 どこでミスをしたのか。


 なぜ勝てなかったのか。


 責任。


 逃げられない。


 でも、今すぐやるには全員が疲れすぎている。


「今日は、残ったものだけを言います」


 コレットは続けた。


「各自、一つずつ。責める言葉ではなく、残ったものを」


 それは、さっき競技場で自然に始まったことの続きだった。


 負けたけれど、残ったもの。


 ロイは静かな音。


 ネルは触った指。


 ミラは滑った紐。


 レイナ先輩は捨てた一度目。


 リリィは銀の糸。


 ノル先輩は薄い夢。


 クララは読めない記録。


 ガレス先輩は壊さなかったこと。


 ジャックは誘導距離。


 アルフは一拍機能した基準線。


 コレットは見えなかった傷。


 俺は。


 少し迷った。


 みんながこちらを見る。


 ネルも。


 リメルも。


「風を使わなかった」


 俺は言った。


「使いかけたけど、言えた。下ろせた」


 それは勝利ではない。


 誰かを救ったわけでもない。


 点を取ったわけでもない。


 でも、俺に残ったものはそれだった。


 魔法を使わなかった。


 記憶を失わなかった。


 その代わり、負けた。


 そういう見方もできる。


 でも、今日はそれを残ったものとして置く。


 ネルが小さく頷いた。


「一秒こっち、できた」


「そうだな」


 俺は頷く。


 コレットが手帳に書く。


 ルカ、風を言えた。使わなかった。


 その一行を見て、胸が少し痛んだ。


 でも、消してほしくはなかった。


「今日はここまでです」


 コレットが言った。


「明日、敗北の使い道を考えます」


 敗北の使い道。


 リメルの文字と同じ。


 次の章の入り口が、そこにあった。


 その夜、俺はなかなか眠れなかった。


 窓の外には、グラナートの訓練場が見える。


 遠くで鉄旗一号が整備されている。


 旗布端の傷は、たぶん記録され、処置される。


 消されるかもしれない。


 磨かれるかもしれない。


 でも、記録上は残る。


 カルミアが触ったこと。


 命令が一拍遅れたこと。


 負けたこと。


 全部残る。


 俺は胸の中で、まだ言えない言葉を転がした。


 勝つ。


 やはり、まだ言えない。


 でも、負けを使う、なら少し言える気がした。


 勝つ前に、負けをどう使うか。


 たぶん、次に必要なのはそれだ。


 リメルの旗布が、部屋の隅で静かに揺れている。


 傷。


 使い道。


 二つの文字が、夜の中で薄く光っていた。


 第七部は負けた。


 でも、負けた旗の傷は、まだ消えていない。


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