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第39話 鉄旗に傷をつける

 休憩五分は、短い。


 とても短い。


 特に、前半で押し潰されたあとでは。


 息を整える。


 水を飲む。


 怪我を見る。


 リメルの状態を確認する。


 コレットの手帳を見る。


 グラナートの動きを思い出す。


 それだけで五分は消える。


 でも、コレットはその五分で負け筋を机に広げた。


 机はない。


 競技場脇の控え区域だ。


 だから彼女は、手帳を膝に置いた。


 そこに、震える字で書いていく。


 押し潰された。


 音が読まれた。


 紐が滑った。


 一度目が処理された。


 偶然が踏まれた。


 夢が硬い。


 読める文字なし。


 壊す場所なし。


 撃てない線を通られた。


 誘導距離を半歩停止で避けられた。


 基準線を固定された。


 風の前兆、共有成功。


 リメル、捕獲されず。


 最後の二つだけ、少し違う色に見えた。


 負け筋の中に残った、まだ潰されていないもの。


 俺は手を見た。


 前半、風を使わなかった。


 使いかけた。


 言えた。


 ネルが一秒をくれた。


 それでも点は取られた。


 リメルは触られた。


 でも、捕まっていない。


「後半で勝つ方法は」


 ロイが聞きかけて、止まった。


 たぶん、自分でも分かっている。


 勝つ方法。


 今は遠い。


 コレットは顔を上げた。


「勝つ方法ではなく、傷をつける方法を探します」


「傷」


 ネルが言う。


「鉄旗に?」


「はい」


 コレットの声はかすれている。


 でも、芯がある。


「旗を壊すという意味ではありません。グラナートの完全な規律に、初めて処理しきれない一拍を作ります。鉄旗に、カルミアが触った記録を残します」


 リメルが旗布を揺らす。


 押し潰された。


 その文字はまだ残っている。


 でも、少しだけ薄くなった。


「どうやって」


 ジャックが低く聞いた。


 前半、彼の誘導距離は読まれた。


 撃てない線も通られた。


 悔しいはずだ。


 だが、昨日のように魔力は荒れていない。


 小袋に触れている。


 破片。


 記録。


「グラナートは、こちらの仮設線を読んでいます」


 アルフが言った。


 彼の声はいつも通り静かだ。


 だが、少し速い。


「なら、仮設線を作らない時間を使う」


「前半最後の?」


 俺が聞くと、アルフは頷いた。


「部長が全部捨てた瞬間、グラナートは一拍迷った。こちらの粗さを処理していたから、粗さが消えると再計算が必要になる」


「でも、何もしなかったら点は取れない」


 ネルが言う。


「何もしない時間に、一人だけ動く」


 アルフはリメルを見る。


「リメルではない。リメルが動くと鉄旗が見る。そこを読まれる」


「誰」


 ロイが聞く。


 アルフはジャックを見た。


「ジャック」


 空気が少し重くなる。


 ジャック自身も眉を動かした。


「俺?」


「君の攻撃は、味方の近くを通る。誘導距離を作ると読まれる。なら、誘導距離を先に作らない」


「意味が分かんねえ」


「撃ったあとで、距離を作る」


 アルフの言葉に、全員が少し黙った。


 撃ったあとで、距離を作る。


 危ない。


 かなり危ない。


 普通は逆だ。


 距離を決めてから撃つ。


 危険距離、誘導距離、安全距離。


 そう分けて、訓練した。


 それを、撃ったあとで作る。


「駄目だ」


 ジャックが即座に言った。


「人を入れねえって決めただろ」


「人は入れない」


 アルフは言う。


「入るのは、鉄旗だ」


 俺はようやく分かった。


 ジャックの攻撃が通る。


 グラナートは半歩停止で避ける。


 前半、それで命令線を外された。


 なら、後半はその半歩停止を逆に使う。


 攻撃を避けるために鉄旗が止まる場所を、誘導距離にする。


 撃つ前には線がない。


 だから読まれない。


 撃った後、相手が避けた場所が線になる。


「暴走誘導」


 コレットが小さく言った。


 言葉としては危ない。


 だが、正確だった。


 ジャックの魔法を完全に制御するのではない。


 暴れようとする性質を、相手の回避へ誘導する。


「暴走って言うな」


 ジャックが低く言う。


「ごめんなさい」


 コレットはすぐ謝った。


「でも、言葉は必要です。危険を隠さないために」


 ジャックは歯を食いしばった。


「……分かってる」


 その一言が出るまで、少し時間がかかった。


「俺は何をすりゃいい」


 アルフが短く答える。


「撃つ。ただし、当てにいかない。半歩停止を誘う」


「当てねえ攻撃か」


「そうだ」


「気持ち悪いな」


「君向きではない」


「はっきり言うな」


「必要だから」


 アルフまでその言葉を使うようになった。


 ジャックは小さく笑った。


 笑った。


 この状況で。


 少しだけ、良い兆候だと思った。


「ルカ」


 アルフが俺を見る。


「何だ」


「君が見る」


「何を」


「グラナートの半歩停止。イリスの指。鉄旗の重心。俺は基準線を捨てるタイミングを見る。ジャックは撃つ。ネルは動く。君が半歩を言う」


 胸が冷える。


 俺が言う。


 半歩。


 それが遅れれば、ジャックの攻撃は外れるか、危険な線になる。


 早すぎれば、グラナートに読まれる。


「魔法は」


 ネルが言った。


「使わない」


 俺は答えた。


 言い切った。


 少しだけ、自分で驚く。


「使いかけたら」


「風って言う」


 ネルは頷いた。


「一秒こっち」


 コレットが手帳を閉じる。


「いきます」


 休憩終了の笛が鳴った。


 後半。


 グラナートは、変わらず整列していた。


 イリスの表情も変わらない。


 鉄旗一号も低く構えている。


 前半一点。


 グラナート優勢。


 彼らは焦っていない。


 崩れていない。


 当然だ。


 崩す。


 いや、崩せなくてもいい。


 傷をつける。


 「開始」


 笛。


 グラナートが動く。


 前半と同じ。


 いや、少し違う。


 こちらが前半で全部捨てたことを警戒している。


 イリスの指が、ほんの少し遅い。


 ほんの少しだ。


 だが、見える。


「ロイ、鳴らすな」


 コレットが言う。


 ロイは合図を出さない。


 ミラも紐を置かない。


 レイナ先輩も一度目を出さない。


 リリィも召喚しない。


 アルフも結界を張らない。


 何もしない。


 観客席がざわつく。


 カルミアが止まったように見える。


 イリスの指が動く。


「包囲」


 グラナートが前に出る。


 鉄旗一号も動く。


 リメルは、動かない。


 いや、ほんの少しだけ揺れる。


 自分で動きたいのを抑えている。


 コレットが小さく言う。


「待って」


 リメルが待つ。


 グラナートの隊列が近づく。


 前半より、さらに狭い。


 リメルが捕まる距離。


 俺の右手が動きかける。


 風。


 言う前に、ネルがこちらを見る。


 何も言わない。


 それで止まる。


 俺はイリスを見る。


 指。


 手首。


 視線。


 鉄旗の重心。


 半歩停止。


 いつ来る。


 ジャックはまだ構えていない。


 構えたら読まれる。


 彼は腕を下げたまま、歯を食いしばっている。


 怖いだろう。


 自分の魔法が怖いはずだ。


 でも、待っている。


 イリスの指が動いた。


「第三、締め」


 前半と同じ命令。


 鉄旗一号が低く走る。


 リメルの逃走線を消す。


 その瞬間、コレットが叫んだ。


「今です!」


 ジャックが腕を上げる。


「誘導で撃つ!」


 誘導距離はまだない。


 だが、宣言はする。


 黒い魔法が走る。


 イリスが即座に反応する。


「攻撃線予測。隊列、半歩停止」


 来た。


 半歩。


 グラナートの隊列が止まる。


 鉄旗一号も、ほんのわずかに重心を落とす。


「半歩!」


 俺が叫ぶ。


 アルフが結界を張る。


 正面ではない。


 鉄旗の半歩停止した足元の外側。


 基準線ではなく、壁でもなく、滑らせる線。


 ロイが無声合図を出す。


 ミラが紐を投げる。


 地面で滑る紐。


 レイナ先輩の一度目が、控えめに弾ける。


 リリィの召喚陣から、銀の糸がまた出た。


 偶然か、呼んだのか分からない。


 銀の糸が、ミラの紐と交差する。


 仮設線が、撃った後に生まれる。


 ジャックの魔法はそこへ引かれた。


 鉄旗一号の近く。


 危険距離ではない。


 誘導距離。


 魔法は鉄旗本体へ当たらない。


 だが、鉄旗の足元の命令線を横切った。


 黒い線が、地面の魔力指揮線を切る。


 鉄旗一号の動きが止まった。


 一拍。


 本当に一拍だけ。


 でも、止まった。


 観客席がざわめく。


 グラナートの隊列が、初めて乱れた。


 半歩。


 いや、半歩にも満たない。


 でも、揃わなかった。


「ネル!」


 俺が叫ぶ。


 ネルはもう動いていた。


 一瞬の魔力。


 低く。


 前半で届かなかった指先が、今度は鉄旗の横へ伸びる。


 触る。


 いや、触ろうとした。


 鉄旗一号の金属旗布が開く。


 反射板。


 上から圧。


 ネルの体が沈む。


「上じゃない!」


 アルフの声。


 結界が上ではなく、横に立つ。


 基準線。


 いや、仮設線。


 圧を止めるのではなく、横へ逃がす。


 ガレス先輩が叫ぶ。


「床、右」


 壊す場所はない。


 でも、修復跡の硬さの違いは見えた。


 クララがすぐに言う。


「右の白線、補修材が違います!」


 ネルが右足をそこへ置く。


 滑らない。


 体が沈みきる前に、もう一歩。


 リメルが跳ねる。


 鉄旗一号がリメルを見る。


 接点。


 一拍。


 ノル先輩が目を細める。


「硬い夢、今、薄い」


 ロイの無声合図がもう一度。


 ジャックの魔法の残滓がまだ地面にある。


 危険だ。


 でも、その残滓が鉄旗一号の命令線を一拍遅らせている。


 ネルの指先が、鉄旗一号の金属旗布の端をかすめた。


 触った。


 今度は本物の鉄旗に。


 観客席がどよめく。


「カルミア、鉄旗接触!」


 審判の声。


 ポイントにはならない。


 捕獲ではない。


 旗布端への接触。


 それでも、記録される。


 鉄旗一号の金属旗布に、細い擦過痕がついた。


 傷。


 壊したわけではない。


 損傷ではない。


 だが、触れた跡。


 カルミアがいたことの跡。


 グラナートの隊列がすぐに再編する。


 イリスの声が鋭い。


「再整列。旗保護」


 速い。


 やはり強い。


 鉄旗一号はすぐに後退し、再び低く構える。


 ネルは床に転がる。


 俺は手を上げかける。


「風」


 言った。


 ネルがこちらを見ずに叫ぶ。


「要らない!」


 強い。


 俺は手を下ろす。


 彼女は自分で転がり、ミラの紐を掴んで戻る。


 リメルがその横を跳ねる。


 ジャックは腕を押さえている。


 魔力の反動。


 でも、目は逸らしていない。


「壊してねえ」


 彼が言った。


 自分に言っているようだった。


「壊してない」


 ガレス先輩が言う。


 短く。


 確かに。


 試合は続く。


 グラナートはすぐに立て直した。


 こちらの奇手はもう見られた。


 次は通じない。


 イリスはそれを分かっている。


 コレットも分かっている。


「リメル、後退。全員、捕獲阻止へ」


 後半残り三分。


 勝つには遠すぎる。


 点差は一点のまま。


 カルミアは鉄旗に触れたが、得点にはならない。


 グラナートは無理に捕獲へ来ない。


 隊列を保ち、確実に時間を削る。


 強い。


 本当に強い。


 こちらが一拍を作っても、すぐに塞ぐ。


 ジャックの誘導距離は、もう警戒されている。


 ネルの接触も、二度目は届かない。


 ロイの音はまた読まれる。


 リリィの銀の糸も、次は避けられる。


 レイナ先輩の一度目も、使いどころを失う。


 アルフの結界は再び圧を受ける。


 それでも、前半とは違った。


 押し潰されるだけではない。


 鉄旗に傷がある。


 細い、細い擦過痕。


 その一本が、グラナートの完全さを少しだけ変えた。


 観客席も気づいている。


 ざわめきが消えない。


 グラナートの旗に、下位校が触れた。


 それは、得点ではない。


 でも、記録だ。


 残る。


 残ったものになる。


 終了の笛が鳴った。


 カルミア、ゼロ。


 グラナート、一。


 旗捕獲なし。


 接触記録、両校一。


 公式結果は、グラナート勝利。


 俺たちは負けた。


 負けた。


 それは事実だ。


 勝っていない。


 点も取っていない。


 鉄旗を奪っていない。


 でも、鉄旗に傷をつけた。


 損傷ではない。


 触れた跡。


 カルミアがいた証拠。


 整列礼。


 グラナートの選手たちは、乱れなく礼をした。


 こちらは少しずれた。


 でも、誰も下を向かなかった。


 イリス・カイザーが、コレットの前へ来る。


 背の高い部長と、小さな部長。


「試合記録に、鉄旗接触を明記します」


 イリスが言った。


 声は硬い。


 でも、無関心ではない。


「カルミア魔法学園第七魔法競技部。鉄旗一号への非捕獲接触一回。攻撃線誘導による命令遅延一拍」


 コレットの目が少し開く。


「記録してくださるんですか」


「事実です」


 イリスは答えた。


「グラナートは事実を記録します」


 その言葉は、少しだけセドに似ていた。


 硬い。


 でも、今日はありがたかった。


 ジャックが少し離れたところで、鉄旗一号を見ていた。


 鉄旗の旗布端には、細い傷。


 彼はそれを壊したのではない。


 ネルの指先が触れた跡だ。


 でも、その一拍を作ったのは、ジャックの攻撃でもある。


「壊してない」


 彼がもう一度言った。


 今度は、少しだけ信じられている声だった。


 リメルが近づく。


 今度は、かなり近い。


 ジャックは手を出さない。


 リメルも触れない。


 でも、距離は昨日よりずっと近い。


 リメルの旗布に文字が浮かぶ。


 傷。


 短い。


 痛そうな言葉。


 でも、今日の記録はそれだった。


 押し潰された、の次に。


 傷。


 傷を隠すと、次に折れる。


 ヴォルク教師の言葉を思い出す。


 なら、この傷は隠さない。


 鉄旗一号の傷も。


 俺たちが負けたことも。


 押し潰されたことも。


 全部、隠さない。


 コレットは手帳を開いた。


 手が震えている。


 でも、字は書けた。


 公式戦結果。


 カルミア敗北。


 グラナート一点。


 旗捕獲なし。


 鉄旗接触一回。


 命令遅延一拍。


 ジャック、誘導攻撃成功。


 ネル、鉄旗接触。


 ルカ、風使用なし。


 リメル記録、傷。


 最後の行を見て、俺はようやく息を吐いた。


 負けた。


 悔しい。


 かなり悔しい。


 でも、何もできなかったわけではない。


 勝つとはまだ言えない。


 でも、傷をつけたとは言える。


 それはたぶん、次の言葉への一拍だった。


 グラナートの空は、相変わらず硬い青だった。


 その下で、リメルの古い旗布が揺れる。


 傷。


 その文字は、敗北の中で、細く光っていた。


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