第38話 規律に押し潰される
公式戦の朝、グラナートの空は硬かった。
雲がない。
風も少ない。
訓練場の旗が、ほとんど揺れていない。
まるで、天気まで整列しているみたいだった。
ロイがそれを言いかけて、やめた。
声を出す前に、口を押さえる。
静かな大音量の応用が進んでいる。
ただ、今日は静かすぎた。
誰も、いつものようには喋らない。
ネルは指先を何度も開いたり閉じたりしている。
訓練標的に触った指はもう赤くない。
でも、彼女はまだその感触を確認しているようだった。
鉄に触った硬さ。
今日触るのは、訓練標的ではない。
本物の鉄旗だ。
ロイは喉に手を当てている。
レイナ先輩は制服の襟を整え、誰かの襟も直し、最後に自分の髪を確認した。
リリィは迷子一号と銀の糸を小袋に入れている。
ミラは紐を短く結び直した。
ガレス先輩は工具を持てない。
公式戦に持ち込める道具は制限されている。
だから彼は、手ぶらに近かった。
その手ぶらが、少しだけ落ち着かなさそうに見える。
ジャックは腰の小袋に触れていた。
補助金具の破片。
罰ではなく、記録。
アルフは基準線の配置図を見ている。
固定線ではない。
仮設基準線。
場面ごとに作り直す線。
コレットは手帳を閉じていた。
今日は試合中、手帳を開けない時間が多い。
敗北幻視を見た部長が、記録するのではなく、指揮する時間だ。
ノル先輩は起きていた。
これはかなり珍しい。
「寝ないのか」
俺が聞くと、彼女は目を半分閉じたまま答えた。
「寝ると、鉄がうるさい」
「起きてても眠そうだぞ」
「起きてる夢で見る」
分かったような、分からないような。
クララは競技場の壁に刻まれた現代契約標識を読んでいる。
古代文字はほとんどない。
それでも、読めるものを探している。
リメルは、俺たちの中央にいた。
古い旗布。
柔らかい揺れ。
鉄の都市には似合わない。
でも、ここにいる。
忘れ物の旗。
証人。
「第七魔法競技部」
コレットが言った。
小さな声。
でも、全員が聞いた。
「勝つとは、まだ言えません」
いきなり正直だった。
ロイが少しだけ笑いそうになり、すぐ引き締める。
コレットは続ける。
「でも、触れないまま終わりません。一拍を作ります。仮設基準線を作ります。押し潰される道とは別の道を、試合中に作ります」
彼女はリメルを見る。
「リメル。記録は一つだけ」
リメルが一回跳ねた。
「ルカさん」
「はい」
「風の前兆は、言ってください」
「分かった」
「ジャックさん」
「分かってる」
ジャックは短く言った。
「撃てない線は、先に言う。誘導距離は、言ってから撃つ」
コレットが頷く。
「アルフさん」
「基準線は固定しない」
「ネルさん」
「一瞬で線を渡る」
「ロイさん」
「音は必要なところにだけ」
「ミラさん」
「紐は道。引きすぎない」
「レイナさん」
「一度目は、置き場所を選ぶ」
「リリィさん」
「予定外は、名前を聞く前に踏まれない場所へ」
「ノルさん」
「硬い夢、見すぎない」
「クララさん」
「読めない場所も、読めないと記録します」
「ガレスさん」
「壊す場所、なければ探さない」
最後の言葉は重かった。
グラナートの競技場は整備されている。
壊して守る場所が少ない。
無理に壊す場所を探せば、それはただの破壊になる。
ガレス先輩はそれを分かっている。
コレットは深く息を吸った。
「行きましょう」
競技場へ入る。
観客席は、思ったより埋まっていた。
グラナートの地元観客。
巡業リーグ関係者。
他校の生徒。
カルミアを見に来た人間は、多くないだろう。
それでも視線はある。
低優先参加校。
後部補助車両の学校。
欠陥魔法の部。
そういう視線。
レイナ先輩が背筋を伸ばした。
コレットの背筋も少し伸びる。
グラナート側は、すでに整列していた。
五人。
全員、同じ鉄紺の制服。
中央に指揮役。
左右に防衛役。
後方に支援役。
そして、鉄旗。
鉄旗は昨日の四号ではない。
試合用の本旗。
背の金属旗布が美しく畳まれ、視覚魔石が低く光っている。
個体名はない。
番号だけ。
グラナート鉄旗一号。
そう紹介された。
リメルが小さく揺れた。
鉄旗一号の視覚魔石が、こちらを向く。
接点。
そう思った瞬間、セドの声がした。
彼は今日は補佐ではなく、グラナート側の控え記録員として立っている。
試合中の直接指揮は別の生徒。
背が高く、短い黒髪の女子生徒だった。
名前は、イリス・カイザー。
グラナート二年、旗指揮班。
彼女の目は、リメルではなくコレットを見ていた。
部長同士。
小さなコレットと、背の高いイリス。
対照的だった。
「礼」
審判の声。
両校が礼をする。
グラナートは全員の角度が同じ。
カルミアは少しずれている。
レイナ先輩が気にした顔をしたが、今は直せない。
試合形式は、十五分一本。
旗捕獲または時間内ポイント判定。
今回は公式戦前半にあたる最初の七分半が重要だ。
コレットの敗北幻視で見た時間。
押し潰される道。
それが来る。
「開始」
笛が鳴った。
グラナートが動いた。
速い。
いや、速いだけではない。
迷いがない。
開始と同時に、前方二人が隊列を作る。
鉄旗一号は後方に低く構える。
イリスの指が短く動く。
「第一、前進」
声は大きくない。
だが、鉄旗が動く。
選手が動く。
同じ命令に、複数の動きが乗る。
カルミアは、リメルを左へ逃がす予定だった。
「リメル、左」
コレットの声。
リメルが跳ねる。
ロイの無声合図。
しかし、観客席の反響が床を揺らした。
ロイの合図が、わずかに遅れる。
リメルの跳躍と合わない。
「音、遅れ!」
ロイが自分で叫びかけ、抑える。
遅れた合図を、アルフが拾う。
「仮設、左」
結界ではなく、まず言葉。
ミラが紐を置く。
だが、公式戦の地面は硬く、紐が滑る。
グラナートの防衛役が、その滑りを見て即座に進路を塞ぐ。
リメルの左が消える。
「右へ」
俺が言う。
遅い。
自分で分かる。
リメルは右へ跳ねるが、グラナートの二人目がすでにいる。
隊列の圧。
ぶつかっていない。
攻撃もされていない。
ただ、進む場所がない。
押し潰される。
コレットの幻視通りだった。
ネルが動く。
一瞬の魔力。
鉄旗一号の方向転換を狙う。
訓練標的で触った動き。
しかし、鉄旗は低い。
重心がさらに低い。
ネルの指先が、鉄の脚の上を空振る。
「届かなっ」
彼女の声が切れる。
鉄旗一号はネルを無視し、リメルの逃走線へ入る。
無視。
それがきつい。
ネルがそこにいるのに、いないものとして処理された。
ロイが短音を出す。
反響が遅れる。
アルフが基準線を作る。
グラナートはそれを見る。
正面ではなく、側面ではなく、上。
鉄旗一号の金属旗布が開いた。
朝の光を反射する。
魔力圧が上から落ちる。
攻撃ではない。
圧。
リメルの跳躍が鈍る。
アルフの結界は左側にある。
ロイの音は遅れている。
ミラの紐は滑る。
リメルの上が潰される。
「上!」
俺が叫ぶ。
遅い。
分かっている。
遅い。
レイナ先輩の一度目が弾ける。
控えめな失敗。
だが、グラナートは記録している。
イリスが指を動かす。
「視覚刺激、無視」
鉄旗一号は反応しない。
レイナ先輩の顔が歪む。
美しい失敗が、ただ処理された。
リリィの召喚陣が開く。
出てきたのは、小さな紙片。
迷子一号ではない。
古い紙。
だが、床に落ちた瞬間、グラナートの隊列がその上を踏む。
紙片は潰れた。
リリィの目が冷える。
でも、毒舌を吐く暇はない。
ノル先輩がふらつく。
「音、硬い」
彼女が呟く。
グラナートの指揮音が、彼女の夢を叩いている。
眠れない。
読めない。
クララが壁面を見る。
「読める古層、なし」
声が悔しそうだ。
読めないことを記録する。
それは大事だ。
でも、今は力になりにくい。
ガレス先輩は床を見ている。
壊す場所がない。
整備された競技場。
壊していい古い金具も、逃がせる破片もない。
ジャックが腕を上げる。
「撃てない線、正面!」
言った。
言えた。
だが、グラナートはそれを待っていた。
鉄旗一号が、その線へ入る。
撃てない場所。
こちらの合図にするはずの線が、相手の通路になる。
「誘導距離、右へ」
アルフが言う。
ジャックが歯を食いしばる。
「誘導で撃つ」
黒い魔法が走る。
ロイの無声合図。
ミラの紐。
リリィの銀の糸。
全部が仮設線になる。
魔法は味方の近くを通り、命令線を切るはずだった。
だが、イリスの指が先に動く。
「攻撃線予測。隊列、半歩停止」
半歩。
グラナートの隊列が、全員で半歩止まる。
それだけで、ジャックの魔法が通る先に命令線がなくなった。
黒い魔法は空を切り、標的のない床へ落ちる。
損傷はない。
だが、一拍も取れない。
ジャックの顔が歪む。
「読まれた」
俺は言った。
口の中が苦い。
仮設基準線。
誘導距離。
全部、練習した。
それでも、読まれる。
グラナートの規律は、こちらの自由を粗さとして処理するだけではない。
こちらの工夫を、記録して、次に潰す。
コレットの敗北幻視通りだった。
押し潰される。
「第二、包囲」
イリスの声。
グラナートの隊列が狭まる。
リメルの周囲に、見えない壁ができる。
鉄旗一号はまだ捕獲しない。
追い詰める。
こちらの手を全部見てから、捕まえるつもりだ。
それが分かる。
分かってしまう。
俺の右手が動く。
リメルの上に、もう一度魔力圧。
ネルは届かない。
ロイの音は遅れる。
ジャックの線は読まれる。
アルフの基準線は固定される。
リメルが少し沈む。
風。
小さく吹かせれば、リメルを圧の外へ出せる。
使えば。
使う前に。
言う。
「風」
声が出た。
小さい。
でも、出た。
ネルが即座に叫ぶ。
「一秒こっち!」
彼女が動く。
届かないかもしれない。
でも動く。
ロイが無声合図。
アルフが仮設基準線を一瞬だけ右へ移す。
ミラの紐が滑りながらも、ネルの戻る道を示す。
俺はまだ魔法を使っていない。
手は上がっている。
風は出ていない。
リメルがこちらを見る。
旗布が重くなりかける。
記録しようとしている。
「一つだけ!」
コレットが叫ぶ。
リメルが震える。
鉄旗一号の視覚魔石が光る。
接点。
その一拍。
イリスが指を動かす。
接点を囮にする命令。
分かっている。
でも、今は。
「ネル、下!」
俺は叫んだ。
風ではなく、言葉。
ネルが姿勢を落とす。
鉄旗一号の圧は上から。
なら、跳ぶのではなく潜る。
ネルの一瞬の魔力はもう切れかけている。
でも、彼女は手で地面を叩き、体を低く滑らせた。
リメルの下。
鉄旗一号の魔力圧の下。
ネルの指先が、リメルの旗棒を押す。
ほんの少し。
リメルが横へ滑る。
捕獲はされない。
だが、逃げ切れてもいない。
鉄旗一号の金属旗布が、リメルの端をかすめた。
触れた。
グラナートが先に、リメルに触れた。
観客席がざわつく。
判定はまだ捕獲ではない。
旗布接触のみ。
でも、ポイントはグラナート。
「グラナート、接触一点」
審判の声。
コレットの顔が青くなる。
ネルが床に転がる。
俺は右手を下ろした。
魔法は使っていない。
使わなかった。
だが、失点した。
リメルは無事。
でも、先に触られた。
触った、ではない。
触られた。
その差が、重い。
「まだ」
コレットが言った。
声は震えている。
でも、聞こえた。
「まだです。リメル、右奥へ。アルフさん、基準線を捨ててください」
アルフの目が動く。
基準線を捨てる。
昨日作ったものを、一度捨てる。
固定されるから。
「了解」
アルフが言う。
結界を消す。
グラナートの隊列が一瞬だけ反応する。
あるはずの基準線が消えた。
だが、それも一瞬。
イリスがすぐ命じる。
「再計算。包囲継続」
速い。
こちらが捨てても、相手は立て直す。
ロイの音が揺れる。
レイナ先輩の一度目が置き場を失う。
リリィの偶然は踏まれる。
ジャックは撃てない線を言うたび、そこを通られる。
ガレス先輩は壊す場所を見つけられない。
クララは読めない。
ノル先輩は硬い夢に目を細める。
ネルは立ち上がるが、指先はまだ届かない。
俺は風を使わずに済んだ。
でも、リメルは追い詰められている。
前半残り一分。
スコアは、グラナート一点。
カルミア、ゼロ。
旗捕獲はされていない。
それだけが救いだった。
だが、試合内容は圧倒されていた。
こちらの工夫は全部見られ、読まれ、処理される。
自由さが粗さになる。
コレットの言葉が、現実になっていく。
「第三、締め」
イリスの声。
鉄旗一号が低く走る。
リメルの逃げ道が、また消える。
コレットが叫ぶ。
「全員、仮設を捨ててください!」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
仮設を捨てる。
道を作るための仮設線を、捨てる。
だが、コレットは続けた。
「全部読まれています! 今は、道を作らない!」
道を作らない。
それは、グラナートの再計算を遅らせるためだった。
線があれば読まれる。
なら、一瞬だけ線を消す。
ロイが音を止める。
ミラが紐を引かない。
レイナ先輩が一度目を出さない。
リリィが召喚を止める。
ジャックが腕を下ろす。
アルフが結界を張らない。
ネルが動かない。
俺も手を下ろす。
第七部が、一瞬だけ何もしない。
グラナートの隊列が、ほんのわずかに迷った。
相手は、こちらの粗さを処理していた。
その粗さが、一瞬消えた。
リメルだけが動いた。
自分の判断で。
古い旗が、線のない場所を跳ねる。
鉄旗一号の横を抜ける。
捕獲はされない。
接触もされない。
笛が鳴った。
前半終了。
カルミア、ゼロ。
グラナート、一。
旗捕獲なし。
リメルは、まだ生きている。
俺たちは、全員息を切らしていた。
たった七分半。
それだけで、全身が重い。
戦ったというより、潰され続けた。
観客席は、グラナートの安定した優勢に拍手している。
大きくはない。
当然の結果を見る拍手。
カルミアが少し粘った。
でも、点は取られた。
鉄旗には触れていない。
それが現実だった。
コレットは肩で息をしながら、リメルを見る。
リメルは旗布を少し重くしている。
記録したいことが多すぎるのだろう。
「一つだけ」
コレットが言った。
リメルは震えた。
そして、旗布に文字を浮かべた。
押し潰された。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
その通りだったからだ。
触った、ではない。
接点、でもない。
基準線、でもない。
誘導距離、でもない。
押し潰された。
前半の記録は、それだった。
悔しい。
かなり悔しい。
でも、見えた。
押し潰される道が、現実に見えた。
後半まで、休憩は五分。
コレットは手帳を開いた。
手が震えている。
でも、ページを開いた。
「負け筋を、潰します」
声はかすれていた。
「今、ここで」
グラナートは、まだ崩れていない。
第七部は、まだ鉄旗に触れていない。
でも、リメルは捕まっていない。
押し潰された。
なら、次は。
押し返すのではなく。
潰された形を、そのまま使うしかない。
後半が、始まろうとしていた。




