第34話 撃つなと言われるほど
ジャック・バーネルは、命令されるのが嫌いだ。
これは別に、観察力がなくても分かる。
顔に書いてある。
態度に出ている。
椅子の引き方にも、歩き方にも、返事の遅さにも出ている。
ただ、グラナート軍事魔法学院では、その嫌い方がいつもより目立った。
なぜなら、ここではほとんどすべてが命令だからだ。
起床。
整列。
移動。
待機。
発言。
訓練開始。
訓練停止。
休憩。
再開。
記録。
修正。
行動の一つ一つに、言葉がある。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、強い。
グラナートの選手たちは、命令を受けると迷わず動く。
鉄旗も同じだ。
命じられれば動く。
止まれと言われれば止まる。
その速さと正確さが、この学校の強さを作っている。
だが、ジャックにはその空気が合わない。
彼は命令を聞くたび、少しずつ肩を硬くした。
最初は小さなことだった。
「攻撃班は指定線の外で待機」
セド・ランヴァルトが言う。
ジャックは一拍遅れて動く。
「攻撃魔法の事前展開は禁止」
ジャックの眉が動く。
「模擬攻撃は許可された対象にのみ実行」
ジャックの舌が、歯の裏で止まる。
舌打ちを飲み込んだ音がした。
その時点で、俺は嫌な予感がしていた。
コレットも気づいていた。
手帳を持つ指が少し強くなっている。
アルフは無言でジャックの立ち位置を確認している。
ガレス先輩は工具箱の留め具を閉め、いつでも動けるようにしていた。
ジャック本人だけが、自分が危ういことを認めていない顔をしていた。
いや、認めているのかもしれない。
認めているからこそ、さらに腹を立てている。
今日の訓練は、攻撃制御だった。
グラナート側の説明では、対鉄旗戦における攻撃許可線の確認。
要するに、どの状況なら攻撃していいか、どの状況なら撃ってはいけないかを体に叩き込む訓練だ。
グラナートの生徒にとっては基礎だろう。
ジャックにとっては、地雷だった。
「攻撃許可線、第一」
セドが指示する。
訓練場の床に、赤い光の線が走った。
その先に、訓練標的。
標的は鉄旗型ではない。
厚い金属板を組み合わせた四足標的だ。
かなり頑丈そうだが、鉄旗ではない。
グラナートは旗を訓練台にしない。
損傷回避が徹底している。
そこは、少しだけ好感が持てた。
「攻撃者、前へ」
グラナートの生徒が一人進み出る。
短く詠唱。
細い光弾が標的の右脚だけを撃つ。
標的が揺れる。
命中。
損傷は最小。
次に別の生徒。
同じように撃つ。
光弾の角度、威力、着弾点。
すべてが揃っている。
ロイが小さく言った。
「攻撃まで整列してるっす」
セドがちらりと見た。
ロイは口を押さえる。
記録されるほどではなかったらしい。
「カルミア、攻撃者」
セドの声。
コレットが言う。
「ジャックさん、お願いします」
ジャックが前へ出た。
歩き方が荒い。
グラナートの床が硬いせいで、足音がいつもより響く。
セドは記録板を見た。
「事前申告。ジャック・バーネル。攻撃魔法制御不安定。味方近接時、攻撃線逸脱のおそれあり」
読み上げた。
淡々と。
事実として。
ジャックの目が変わった。
まずい。
「おそれあり、ね」
ジャックが低く言う。
「記録上の表現だ」
セドは答える。
「攻撃制御訓練では、危険要因を明確化する」
「俺が危険要因ってことか」
「攻撃制御不安定は危険要因だ」
間違っていない。
だが、言い方が最悪だった。
グラナートにとっては正確な分類。
ジャックにとっては、昔から貼られてきた札。
危険。
壊す。
近づくな。
退部しろ。
そういう言葉が、たぶん全部乗った。
「ジャック」
俺が呼ぶ。
彼は振り返らない。
「分かってる」
分かっていない声だった。
「攻撃許可線を確認する」
セドが続ける。
「赤線内に味方、旗、非対象物がない場合のみ攻撃可。攻撃目標は標的右脚。威力は制限値三。標的胴体への着弾は失敗。赤線外への魔法逸脱は即時停止」
「細けえな」
ジャックが吐き捨てる。
「細部が安全を作る」
セドは揺れない。
ジャックの魔力が揺れた。
黒い攻撃魔法が、腕の周りで歪む。
以前より制御されている。
少なくとも、即座に暴発しそうではない。
だが、怒りが混ざっている。
怒りが混ざると、彼の魔法は強い対象へ引かれる。
壊してはいけないものへ近づく。
標的右脚ではなく、胴体へ。
あるいは、近くにいる鉄旗へ。
「ジャックさん」
コレットの声。
「撃つ前に、宣言を」
撃つ宣言。
撃たない宣言。
第七部で決めた手順だ。
ジャックは歯を食いしばる。
「撃つ」
短い。
でも、言った。
俺は少しだけ息を吐く。
魔法が走った。
黒い線。
速い。
標的の右脚へ。
途中までは正確だった。
だが、着弾直前に、少しだけ上へずれた。
右脚ではなく、関節の上。
胴体に近い位置。
標的が大きく揺れる。
金属音。
命中。
だが、指定位置ではない。
「失敗」
セドの声。
即座だった。
「目標逸脱。威力制限値超過。胴体損傷軽微」
ジャックの顔が歪む。
「軽微ならいいだろ」
「よくない」
セドは淡々と言う。
「指定目標から逸脱した。競技中なら味方または旗への損傷につながる」
「分かってる」
「分かっているなら、制御せよ」
空気が凍った。
制御せよ。
正しい。
正しいが、ジャックには刺さる。
彼は笑った。
嫌な笑い方だった。
「制御できりゃ苦労しねえよ」
「制御できない攻撃者は、攻撃許可線に立つべきではない」
セドは言った。
その瞬間、ジャックの魔力が一段強くなった。
黒い歪みが腕の周りで広がる。
ロイが小さく息を呑む。
ネルが一歩踏み出す。
アルフが結界を張る準備をする。
ガレス先輩が動く。
俺も、体が動きかけた。
風を使えば、魔力線を逸らせるかもしれない。
だが、使うな。
一秒。
誰かを見る。
ジャックが低く言った。
「じゃあ、立たなきゃいいんだな」
「攻撃訓練を中止するなら、後方へ下がれ」
「違う」
ジャックの声が低くなる。
「俺が立たなくても危険だって、見せてやるよ」
まずい。
標的ではない。
魔法が、訓練場の横にある補助支柱へ引かれている。
そこには、グラナートの訓練用可動壁を支える古い鉄柱があった。
壊してはいけないもの。
強く、目立ち、支えているもの。
ジャックの魔法が、そこへ行きたがっている。
「撃たない!」
コレットが叫んだ。
いつもより大きな声だった。
ジャックが一瞬止まる。
だが、魔力は止まらない。
セドが手を上げる。
「緊急停止」
グラナートの生徒たちが動く。
速い。
防護壁。
退避線。
鉄旗四号まで動こうとする。
命令に忠実な鉄の獣が、危険線へ入りかける。
それが、ジャックの魔法をさらに引いた。
旗。
壊してはいけないもの。
また、旗だ。
「くそっ」
ジャックが歯を食いしばる。
止めようとしている。
でも、怒りと恐怖が魔法を押し出している。
撃ちたくて撃つのではない。
撃ちたくないから、余計に制御が崩れている。
俺の右手が動く。
風。
使えば。
使うしか。
「ルカ!」
ネルの声。
一秒。
見る。
ネルではない。
ガレス先輩だ。
彼はすでに支柱の根元へ走っていた。
工具箱を投げる。
いや、違う。
工具箱ではない。
小さな留め具。
昨日の基準線訓練で使った、古い補助金具だ。
ガレス先輩はそれを支柱の根元へ噛ませる。
そして、短く言った。
「壊す」
破壊魔法。
支柱ではない。
支柱を固定していた古い補助金具だけを壊す。
金具が砕ける。
支柱が、ほんの少しだけ角度を変えた。
ジャックの魔法の引かれる先がずれる。
標的でも、旗でも、支柱本体でもない。
砕けた金具の破片へ。
ジャックが叫んだ。
「撃たない!」
今度は、宣言だった。
ロイの無声合図が走る。
アルフの基準線が立つ。
ネルが一瞬でジャックの横へ入り、腕ではなく、足元の線を蹴る。
ミラの紐がジャックの踏み込みを止める。
レイナ先輩の一度目の火花が、視界の端で弾ける。
リリィの召喚陣から、なぜか小さな鈴が出た。
鈴が床に落ち、澄んだ音を鳴らす。
ジャックの魔力が、その音に一瞬揺れた。
ほんの一瞬。
その一瞬で、彼は腕を下げた。
魔法が、消えた。
完全には撃たなかった。
だが、訓練場の空気には黒い魔力の残滓が残っている。
支柱の根元の補助金具は壊れた。
床には亀裂が入っている。
グラナートの生徒たちは防護姿勢のまま、こちらを見ていた。
セドの顔は硬い。
鉄旗四号は停止している。
視覚魔石だけが、ジャックを見ている。
沈黙。
かなり長い沈黙。
最初に動いたのは、ガレス先輩だった。
彼は砕けた金具を拾い、床の亀裂を見る。
「直す」
いつもの声。
だが、セドが言った。
「許可なく触れるな」
ガレス先輩が止まる。
ジャックが顔を上げる。
目が赤い。
怒りか、恐怖か、悔しさか。
「俺が」
声がかすれている。
「俺が壊した」
「正確には」
セドが言う。
「支柱固定補助金具をガレス・モルンが破壊。床面亀裂はジャック・バーネルの魔力残圧による可能性。訓練標的胴体損傷軽微。緊急停止手順発動」
「お前」
ジャックの声が低くなる。
「そうやって全部、記録すんのか」
「する」
セドは揺れない。
「事故は記録する。原因を分類し、再発を防ぐ」
「俺を分類して終わりだろ」
「違う」
セドが初めて、少し強い声を出した。
ジャックが黙る。
「分類して終わるなら、訓練に戻さない。記録は再発防止のためだ。君が攻撃許可線に立つためには、危険要因を記録する必要がある」
「危険要因」
ジャックが笑う。
今度は弱い笑いだった。
「やっぱりそれかよ」
「そうだ」
セドは言った。
「危険は消えない。だから扱う」
その言葉に、旧客室で何度も出た考えが重なった。
欠陥は消えない。
置き場所を決める。
背負い方を決める。
足りないまま使う。
グラナートの言い方は硬い。
冷たい。
でも、完全に違うわけではない。
危険は消えない。
だから扱う。
ジャックはそれを受け取れる状態ではなさそうだった。
彼は拳を握り、開き、また握った。
「俺は」
言葉が切れる。
コレットが一歩前へ出た。
「ジャックさん」
小さな声。
でも、届く。
「戻ってください」
ジャックの顔が歪んだ。
「退場しろってか」
「違います」
コレットは首を横に振る。
「部のところへ、戻ってください」
その違い。
退場ではなく、戻る。
戻る道を問え。
床下契約文の言葉が、ここでも響く。
ジャックはしばらく動かなかった。
やがて、荒く息を吐く。
「……くそ」
それだけ言って、彼は攻撃許可線から下がった。
部のほうへ戻る。
リメルが近づこうとして、止まった。
昨日までなら、すぐに近づいたかもしれない。
でも今日は、止まった。
ジャックがまだ危ういと分かっているからだ。
それも、リメルの判断だ。
ジャックはそれを見て、さらに顔を歪めた。
傷ついた顔。
でも、リメルは逃げたわけではない。
距離を置いただけだ。
コレットがセドへ向き直る。
「訓練を中断します。損傷箇所の確認と、こちらの行動記録を提出します」
「承知した」
セドは頷く。
「グラナート側も緊急停止記録を作成する。損傷の修復は、こちらの整備担当立ち会いのもと行う」
「ガレスさんの修復参加は可能ですか」
コレットが聞いた。
セドは少しだけ迷う。
「整備担当の判断による」
「お願いします」
コレットは頭を下げた。
ガレス先輩は黙っている。
砕けた金具を見ている。
たぶん、もう直し方を考えている。
その横で、ジャックは床を睨んでいた。
リリィが小さな鈴を拾う。
「こんなときに鈴とは、わたくしの召喚も空気を読みますわね」
声は軽い。
でも、無理に軽くしている。
ロイは何も言わない。
静かな大音量どころか、完全に静かだった。
ネルはジャックを見ている。
怒っているようで、怒っていない。
アルフは基準線の消えた床を見ている。
レイナ先輩は背筋を伸ばしたまま、指先を握っていた。
ミラは紐を片づける。
ノル先輩は眠そうに言った。
「撃たなかった」
誰も反応しなかった。
いや、反応できなかった。
撃ちかけた。
危なかった。
壊した。
止まった。
どの言葉を選ぶべきか、まだ分からない。
ノル先輩は続けた。
「でも、撃たなかった」
ジャックの肩が、わずかに震えた。
その言葉は慰めではない。
記録だ。
リメルはまだ近づかない。
でも、旗布に文字を浮かべた。
距離。
短い文字。
撃たなかった、ではない。
危険、でもない。
距離。
ジャックとリメルの間に必要だったもの。
近づかないことも、逃げることではない。
距離を置くことも、戻る道の一部なのかもしれない。
訓練は中止になった。
宿舎へ戻る道で、ジャックは誰とも話さなかった。
ガレス先輩だけが、少し離れて後ろを歩いた。
見張るためではない。
たぶん、戻る道を塞がないために。
宿舎の部屋に戻ると、コレットはすぐ記録を書いた。
攻撃制御訓練。
指定目標逸脱。
セドによる危険要因指摘。
ジャック、挑発的反応。
魔力が補助支柱、鉄旗へ引かれる。
ガレス、補助金具を破壊し誘導先を変更。
ジャック、撃たない宣言。
魔法消失。
損傷、補助金具破壊、床面亀裂、標的胴体軽微。
リメル記録、距離。
コレットの字は、途中で少し震えていた。
でも、最後まで書いた。
ジャックは部屋の隅に座っている。
誰もすぐには近づかない。
リメルも。
それが余計につらい。
でも、必要だった。
距離。
近づけば救えるわけではない。
近づかないと見捨てるわけでもない。
ガレス先輩が立ち上がった。
工具箱を持つ。
「修復、行く」
「許可出たのか」
俺が聞くと、彼は頷いた。
「整備担当、呼んでる」
ジャックが顔を上げる。
「俺も」
声がかすれていた。
「行く」
ガレス先輩は少しだけ黙った。
そして言った。
「まだ」
短い。
ジャックの顔が歪む。
「俺が壊したんだぞ」
「だから、まだ」
ガレス先輩は工具箱を持ったまま、ジャックを見る。
「今行くと、壊す顔」
ジャックは何も言えなくなった。
ガレス先輩は続ける。
「直す顔になったら、来い」
それだけ言って、部屋を出た。
静かに。
扉が閉まる。
ジャックは拳を握っていた。
今にも何かを殴りそうだった。
でも、殴らなかった。
ロイが小さく息を吐く。
ネルは窓の外を見た。
レイナ先輩は何か言いかけて、やめた。
リリィは鈴を机に置く。
ミラは荷物表の端に、ジャック、修復待機、と書いた。
クララは床下契約文の写しを開き、「戻る道」の行を見ていた。
ノル先輩は寝たふりではなく、本当に寝ていた。
コレットは手帳を閉じる。
俺はジャックを見た。
何か言うべきか。
言わないべきか。
単独判断禁止。
俺はコレットを見る。
彼女は小さく首を横に振った。
今は、言わない。
距離。
リメルの記録が、部屋の空気を決めていた。
その夜、グラナートの宿舎はいつも通り静かだった。
規律の街は、こちらの事故など関係なく消灯時間へ向かう。
でも、第七部の部屋だけは、静かさの種類が違っていた。
撃ちかけた魔法。
壊れた金具。
床の亀裂。
撃たなかった宣言。
距離。
それらが、全部同じ部屋にあった。
ジャックは隅でうずくまったまま、長い間動かなかった。
リメルは少し離れたところで、旗布を静かに揺らしていた。
近づかない。
逃げない。
距離を置いて、そこにいる。
それが今日、第七部にできる精一杯だった。
次の日、ガレス先輩が壊れた訓練場を直す。
たぶん、ジャックはそこへ行きたがる。
でも、行けるかどうかは分からない。
壊す顔から、直す顔になるまで。
その距離を、どう埋めるのか。
まだ誰にも分からなかった。




