第35話 直す顔
ガレス・モルン先輩は、朝が早い。
カルミアにいたころからそうだった。
部室の壊れた椅子を直す。
練習用具を点検する。
鍋を火にかける。
誰かが来る前に、何かを整えている。
言葉は少ない。
音も少ない。
でも、彼が先に動いていたことだけは、あとから分かる。
グラナートの宿舎でも同じだった。
翌朝、俺が目を覚ましたとき、ガレス先輩の寝台は空だった。
工具箱もない。
部屋の隅には、昨日のまま座っているジャックがいた。
眠ったのかどうか分からない顔をしている。
リメルは少し離れた場所にいる。
距離。
その文字は、まだ旗布に薄く残っていた。
近づかない。
逃げない。
昨日からずっと、その距離を保っている。
それが優しさなのか、警戒なのか、両方なのか。
たぶん、両方だ。
「ガレス先輩は?」
俺が小声で聞くと、ミラが荷物表から顔を上げた。
「修復」
「一人で?」
「整備担当と」
ミラはジャックを一度見た。
「ジャック、まだ」
ジャックが反応した。
「まだって何だよ」
声が低い。
怒っている。
だが、昨日のように魔力が揺れてはいない。
疲れが怒りを重くしているのかもしれない。
「直す顔じゃない」
ミラは短く言った。
ジャックの表情が歪む。
「お前までそれか」
「見れば分かる」
「何が分かんだよ」
「壊したい顔」
ミラは真顔だ。
遠慮がない。
でも、雑ではない。
山で荷物の重さを見るように、彼女はジャックの状態を見ている。
「壊したいわけじゃねえ」
ジャックは吐き捨てる。
「じゃあ、何したいの」
ネルが窓際から言った。
彼女も起きていた。
寝癖があるが、目ははっきりしている。
ジャックは答えない。
「謝りたい? 直したい? 消えたい? 怒鳴りたい? 誰かに危険だって言われる前に、自分で壊れたことにしたい?」
「うるせえ」
ネルは怯まない。
「うるさいのは知ってる」
「お前じゃねえ」
「じゃあ誰」
ジャックは拳を握る。
リメルが少しだけ旗布を揺らした。
距離。
まだ距離がいる。
コレットが起き上がる。
寝起きで髪が跳ねている。
レイナ先輩が無言で直した。
もう習慣になっている。
「ジャックさん」
コレットの声は、眠気を含んでいるのにまっすぐだった。
「修復に行きたいですか」
「当たり前だろ」
「何をしに」
ジャックはまた黙った。
コレットは待つ。
急かさない。
だが、逃がさない。
「俺が壊した」
ジャックは言った。
「だから」
「だから?」
「……直さなきゃ、気が済まねえ」
コレットは少し考える。
「直したい、ですか」
「そう言ってんだろ」
「壊したことを消したい、ではなく?」
その言葉に、ジャックの肩が強張った。
コレットは、時々ものすごく鋭い。
昨日の記録を全部書いた人の鋭さだ。
壊したことを消す。
直す。
似ているようで違う。
ガレス先輩が直すとき、壊れた事実は消えない。
むしろ、壊れたところを見て、残して、使える形にする。
ジャックが今したいのは、どちらなのか。
ジャック本人にも、分からないのかもしれない。
「……分かんねえよ」
彼はようやく言った。
怒鳴らなかった。
それだけで、少し空気が変わった。
「では、まだ一人では行かせません」
コレットは言った。
ジャックが顔を上げる。
「でも、行かないとは言っていません。ガレスさんが戻ったら、判断してもらいます」
「あいつが?」
「はい。昨日、ガレスさんが言いました。直す顔になったら、来い、と」
ジャックは舌打ちしかけ、やめた。
代わりに、壁を見た。
宿舎の壁は硬い。
グラナートらしく、傷一つない。
殴っても、たぶん拳のほうが痛い。
その硬さが、今は少しだけありがたかった。
朝食後、ガレス先輩は戻ってきた。
工具箱を持ち、制服の袖に少し鉄粉がついている。
表情はいつも通り。
だが、目の下に少しだけ疲れがある。
「修復は」
コレットが聞く。
「途中」
ガレス先輩は答えた。
「補助金具、古い。代替、要る。床亀裂、浅い。標的胴体、直る」
短い報告。
でも、必要な情報は揃っている。
ジャックが立ち上がった。
「俺も行く」
ガレス先輩は彼を見る。
長い沈黙。
部屋全体が、息を止めた。
「何しに」
ガレス先輩が聞く。
同じ問いだ。
ジャックは拳を握る。
でも、すぐには答えない。
昨日なら、怒鳴っていたかもしれない。
今は、少しだけ言葉を探している。
「壊したとこを、見に行く」
彼は言った。
直す、ではなかった。
消す、でもなかった。
まず、見る。
ガレス先輩は小さく頷いた。
「来い」
それだけだった。
ジャックの顔が、一瞬だけ歪む。
ほっとしたのか、悔しいのか。
たぶん両方だ。
コレットが言う。
「わたしも同行します」
「俺も」
俺が言うと、コレットはこちらを見た。
「単独判断禁止ですし」
「言われる前に言った」
「では、お願いします」
ネルも立ち上がりかけた。
しかし、リメルが彼女の前に跳ねた。
旗布を小さく揺らす。
「リメル?」
ネルが首をかしげる。
リメルはジャックを見る。
それから、自分はその場に留まった。
距離。
まだ、リメルは行かない。
ジャックの顔が曇る。
でも、今度は目をそらさなかった。
「……分かったよ」
彼は低く言った。
「まだ、来なくていい」
リメルが一回だけ跳ねた。
逃げない。
でも、行かない。
それが今日の距離だった。
修復現場は、昨日の訓練場だった。
グラナートの整備担当が二人、すでに作業している。
年上の生徒と、教師らしい男性。
床の亀裂には白い線が引かれ、標的は横に倒され、支柱の根元は仮固定されていた。
壊れた補助金具は、台の上に並べられている。
昨日の事故が、きちんと分解されていた。
何が壊れたのか。
どこまで壊れたのか。
何が無事だったのか。
見える形にされている。
ジャックは、そこへ入った瞬間に足を止めた。
顔から血の気が引く。
自分の魔法の跡を、直視したからだ。
標的胴体のへこみ。
床の浅い亀裂。
砕けた金具。
それから、支柱の角度。
もしガレス先輩が金具を壊していなければ。
もし魔法が支柱本体へ行っていたら。
もし鉄旗四号へ引かれていたら。
想像できる。
想像できてしまう。
「吐くなら外」
ガレス先輩が言った。
ジャックは睨む。
「吐かねえよ」
「なら、見る」
ガレス先輩は台の上の金具を指した。
「これ、俺が壊した」
「俺が」
ジャックが言いかける。
「違う」
ガレス先輩は首を横に振った。
「これは、俺が壊した」
砕けた補助金具。
ガレス先輩が意図的に破壊したもの。
ジャックの魔法の引き先をずらすために。
「床、ジャック」
ガレス先輩は次に床を指す。
「標的、ジャック。金具、俺」
分類。
グラナートのように。
だが、冷たい分類ではない。
責任を押しつけるためではなく、直すための分類。
ジャックは床を見た。
「俺が全部」
「違う」
ガレス先輩は同じ声で言った。
「全部背負うと、直せない」
ミラの言葉にも似ている。
荷物は背負い方で軽くなる。
大事なものは強く抱えすぎると割れる。
壊した責任も、全部まとめて抱え込むと、たぶん直せなくなる。
ジャックは何も言わない。
整備担当の教師がこちらへ来た。
硬そうな人だ。
グラナートの教師らしく、姿勢がまっすぐで、声が低い。
「カルミアの破壊魔法保持者か」
ガレス先輩が頷く。
「ガレス・モルン」
「整備担当、ヴォルク・ライナーだ。昨日の破壊判断は適切だった。支柱本体の損傷を避け、魔力誘導先を変更した」
ガレス先輩は頷く。
褒められても変わらない。
ヴォルク教師はジャックを見る。
「君は、攻撃制御不安定の当事者」
言い方。
また硬い。
ジャックの肩が動く。
だが、今度は怒鳴らなかった。
「ジャック・バーネル」
名乗った。
それだけだが、昨日よりは前に進んでいる。
「修復に参加したいか」
ヴォルク教師が聞く。
ジャックは一瞬、ガレス先輩を見る。
ガレス先輩は何も言わない。
「見に来た」
ジャックは言った。
「今は」
ヴォルク教師は頷いた。
「妥当だ。では見る。手は出すな。質問は許可する」
グラナート式の優しさは、やはり硬い。
でも、確かに優しさだった。
ジャックは黙って頷いた。
修復作業が始まった。
まず、床亀裂の確認。
亀裂は浅い。
魔力残圧が表面を割っただけで、下層の補強板までは届いていない。
ヴォルク教師が説明する。
「ここで重要なのは、亀裂の長さではなく、方向だ。魔力がどこへ逃げたかを読む」
ガレス先輩が頷く。
「支柱へ行きかけた」
「そうだ。途中で誘導先が変わった。砕けた補助金具に吸われている」
ジャックは床の線を見る。
魔力の跡。
自分の攻撃がどこへ行こうとしたのか。
それが白線で示されている。
目を背けたくなるはずだ。
でも、彼は見ていた。
次に、標的胴体。
へこみは軽微。
ただし、指定位置ではない。
ヴォルク教師は言う。
「威力は高い。だが、着弾点が上へ逃げる。怒り、焦り、自己否定のいずれかで腕が浮く癖がある」
「自己否定?」
ジャックが低く聞く。
「自分の攻撃を危険だと見なしすぎる攻撃者は、制御の最後に目標を拒否する。結果、目標から外れる」
俺は思わずジャックを見た。
彼は固まっている。
危険だから撃つな。
危険だから下がれ。
そう言われ続けた人間が、撃つ瞬間に目標を拒否する。
壊したくない。
だから外れる。
外れた結果、もっと危ないものへ向かう。
皮肉すぎる。
「直るのか」
ジャックが聞いた。
ヴォルク教師は即答しなかった。
それから言った。
「癖は消えにくい。だが、扱える」
昨日のセドと同じ系統の言葉だった。
危険は消えない。
だから扱う。
「扱うには、何が必要だ」
ジャックの声が、少しだけ変わった。
怒りではなく、知ろうとする声。
ヴォルク教師は標的のへこみを指す。
「まず、見ることだ。どこへ外れたか。なぜ外れたか。誰が止めたか。何が壊れたか。何が壊れなかったか」
ガレス先輩が短く言う。
「直す顔」
ジャックが彼を見る。
ガレス先輩は工具を手に取った。
「直す顔は、見る顔」
それは、彼にしては長い言葉だった。
ジャックは何も言わなかった。
でも、目をそらさなかった。
ガレス先輩は壊れた補助金具を台に固定した。
破片を並べる。
ヴォルク教師と確認しながら、どの破片を残し、どこを新しい部品に替えるか決める。
グラナートの整備は、かなり厳密だ。
壊れた部品をただ元通りにするのではない。
損傷の記録を残し、交換部品に刻印し、次の点検で分かるようにする。
「傷を隠さないんですね」
コレットが言った。
ヴォルク教師は頷く。
「隠すと、次に折れる」
レイナ先輩がいたら、かなり気に入りそうな言葉だ。
古さを嘘にしない。
失敗を一度目と呼ぶ。
傷を隠すと次に折れる。
言い方は違うが、つながっている。
ガレス先輩は破片の一つを持ち上げた。
「これは残す」
「なぜ」
ヴォルク教師が聞く。
「割れ方、教える」
ヴォルク教師は少しだけ目を細めた。
「同意する」
ジャックがその破片を見る。
「割れ方」
「そう」
ガレス先輩は破片を彼に見せた。
「力、ここから来た。ここで逃げた。ここで止まった」
破片の断面。
小さな金属片。
そこに、昨日の危険が刻まれている。
「俺の魔法」
ジャックが言う。
「一部」
ガレス先輩が訂正する。
「一部?」
「ジャックの魔法。俺の破壊。金具の古さ。床の硬さ。鉄旗の動き。全部」
全部背負うと直せない。
だから分類する。
ジャックは破片を見続けた。
長く。
そして、ようやく言った。
「……俺が全部壊したわけじゃない」
小さな声だった。
でも、重要だった。
俺はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
責任逃れではない。
むしろ、やっと責任を正しい大きさで見ようとしている。
「そう」
ガレス先輩が言った。
「でも、俺が危なかった」
ジャックは続けた。
「そう」
ガレス先輩はまた頷く。
「それも、見る」
ジャックの喉が動いた。
何かを飲み込むように。
「……見る」
そのあと、ジャックはしばらく手を出さなかった。
ヴォルク教師の許可通り、見ていた。
ガレス先輩が破片を整え、新しい補助金具を合わせ、床亀裂を埋め、標的胴体のへこみを戻す。
グラナートの整備担当が寸法を測り、記録を付ける。
コレットが第七部側の記録を書く。
俺は、ジャックの横に立っていた。
何も言わない。
言う必要がない時間もある。
昼近くになって、ヴォルク教師が言った。
「バーネル」
ジャックが顔を上げる。
「破片保持」
「は?」
「この破片を持て。手を出す作業ではない。保持だ」
ガレス先輩が破片を差し出す。
昨日、彼が壊した補助金具の一部。
ジャックは一瞬ためらった。
それから、両手で受け取る。
雑ではなかった。
力も入りすぎていない。
ガレス先輩が少しだけ頷く。
「直す顔」
ジャックの目が揺れた。
「これがか」
「少し」
「少しかよ」
「少しでいい」
その言葉に、ジャックは笑いそうになって失敗した。
泣きそうにも見えた。
でも、どちらにもならなかった。
ただ、破片を持っていた。
修復が終わったのは、午後に入ってからだった。
支柱は元の角度に戻り、床亀裂は補修され、標的胴体も直った。
ただし、補助金具の一部には小さな刻印が入った。
修復日。
損傷記録番号。
そして、グラナート整備担当とカルミア修復協力者の記号。
ガレス先輩の名前は短縮符号で入った。
ジャックの名前は入らない。
彼は作業者ではないからだ。
だが、ヴォルク教師は、残った破片を小さな袋に入れてジャックへ渡した。
「持つか」
ジャックは袋を見る。
「俺が?」
「不要なら廃棄する」
ジャックはすぐに袋を取った。
「持つ」
声は低かった。
でも、はっきりしていた。
「これは罰ではない」
ヴォルク教師が言った。
「記録だ」
「……分かってる」
ジャックは袋を握る。
強く握りすぎていない。
ミラがいたら、たぶん「いい持ち方」と言っただろう。
宿舎へ戻ると、リメルが部屋の中央で待っていた。
距離はまだある。
でも、昨日より少し近い。
ジャックは部屋に入って、リメルを見た。
リメルも彼を見る。
全員が、何も言わない。
ジャックはゆっくり近づいた。
リメルの一歩手前。
いや、一跳ね手前。
そこで止まる。
「見てきた」
彼は言った。
「壊したとこ」
リメルが旗布を揺らす。
「全部俺じゃなかった。でも、俺が危なかった」
言葉を一つずつ置く。
逃げていない。
言い訳にもしていない。
「まだ、触んない」
ジャックは手を下ろしたまま言った。
「でも、逃げんな」
ひどい言い方だ。
でも、ジャックらしい。
リメルは一回跳ねた。
逃げない。
そして、ほんの少しだけ近づいた。
触れない距離。
でも、昨日より近い距離。
旗布に、文字が浮かぶ。
見る。
昨日の「距離」の隣に、新しい文字。
見る。
ジャックはそれを見て、目を閉じた。
「……分かったよ」
声が震えていた。
誰も茶化さなかった。
ロイも。
ネルも。
リリィも。
レイナ先輩も。
みんな、黙っていた。
ガレス先輩は工具箱を置き、静かに言った。
「次、直す」
ジャックが目を開ける。
「俺もか」
「少し」
「少しばっかだな」
「少しでいい」
ガレス先輩は同じ言葉を繰り返した。
少しでいい。
触った、も少し。
一拍、も少し。
基準線、も少し。
距離、も少し。
見る、も少し。
第七部は、少しずつしか進めない。
でも、進む。
コレットは手帳に今日の記録を書いた。
ガレス、修復参加。
ジャック、損傷箇所を確認。
責任の分類。
破片保持。
リメル記録、見る。
ジャック、次回修復に少し参加予定。
その最後に、コレットは小さく書き足した。
壊したことを消さず、直す。
レイナ先輩がそれを見て、静かに頷いた。
「悪くない言葉ね」
「はい」
コレットは頷く。
ジャックは壁際に座り、破片の入った小袋を見ていた。
罰ではない。
記録。
彼はそれを、捨てなかった。
リメルは少し離れたところで揺れている。
昨日より近く。
でも、まだ触れない。
距離と見る。
その二つの文字が、同じ旗布に並んでいた。
壊す顔から、直す顔へ。
完全に変わったわけではない。
そんなに簡単な話ではない。
でも、ジャックは壊した場所を見た。
自分だけが全部壊したわけではないことも、自分が危なかったことも、両方見た。
それはたぶん、直す顔の始まりだった。




