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第31話 揃いすぎた練習

 グラナート軍事魔法学院の練習は、音からして違った。


 カルミアの練習は、だいたい何かしら変な音が混ざる。


 ロイの発動音。


 ネルが床を蹴る音。


 レイナ先輩の一度目の失敗が弾ける音。


 リリィの召喚物が落ちる音。


 ガレス先輩が何かを直す音。


 ジャックが舌打ちする音。


 ノル先輩の寝息。


 ミラの紐が張る音。


 リメルが跳ねる音。


 そして、コレットが負け筋を書き込むペンの音。


 揃っていない。


 うるさい。


 でも、だんだん意味が出てきた。


 グラナートの練習には、意味のない音がなかった。


 それが最初に怖かった。


「第一隊、前進」


 訓練場の中央で、指揮役の生徒が短く命じる。


 十人の選手が同時に動く。


 足音が一つに重なる。


 ざっ。


 魔力の展開音が一つに揃う。


 低い振動。


 鉄旗が地面を蹴る。


 金属の爪が訓練場の床を叩く。


 かん。


 その音が、気持ち悪いくらい綺麗に響いた。


 鉄旗は、獣の形をしている。


 四足で走り、背中に金属の旗布を畳んでいる。


 旗というより、命令を聞く鉄の生き物だ。


 だが、リメルとは違う。


 リメルは自分で迷う。


 跳ねる。


 近づく。


 嫌がる。


 記録する。


 気まぐれに見えて、その中に意志がある。


 鉄旗は迷わない。


 命じられた通りに動く。


 止まれと言われれば止まる。


 走れと言われれば走る。


 曲がれと言われれば曲がる。


 その速さが、怖い。


「第二隊、妨害線」


 別の命令。


 三人の選手が左右へ展開する。


 魔法の壁が、同時に立ち上がる。


 高さも幅も、角度も揃っている。


 アルフの一方向結界とは違う。


 彼の結界は一方向だけを守る。


 こちらは複数人で、隙間なく壁を作る。


 強い。


 それはもう、見れば分かる。


 ロイが小さく息を呑んだ。


「すごいっす」


 誰も茶化さなかった。


 すごいからだ。


 ネルでさえ、黙っている。


 ジャックも腕を組んだまま、眉間に皺を寄せていた。


 レイナ先輩は美しいものを見る目で、しかし少し苦い顔をしている。


 ミラは足元の動きを見ている。


 ガレス先輩は訓練場の金具や支柱を見ている。


 クララは壁面の契約文を探している。


 ノル先輩は立ったまま寝そうになっている。


 リリィは迷子一号を指で撫でていた。


 コレットは手帳を開いているが、まだ何も書いていない。


 書けないのだろう。


 負け筋が多すぎると、最初はペンも止まる。


「第三隊、旗回収想定」


 指揮役の声。


 鉄旗が走る。


 相手役の旗を模した赤い標的が、訓練場の端を逃げる。


 鉄旗は一直線には追わない。


 先に逃げ道を塞ぐ。


 選手たちが壁を作る。


 別の選手が標的の進路を切る。


 旗役の標的が方向転換する瞬間、鉄旗が低く跳んだ。


 金属の旗布が開く。


 赤い標的に触れる。


 捕獲。


 開始から、十七秒。


「十七秒」


 アルフが呟いた。


「記録では平均二十秒台だ。今日はさらに速い」


「あれ、うち相手にやられたら」


 ロイが言う。


 続きは誰も言わなかった。


 リメルが捕まる。


 たぶん、一瞬で。


 俺は無意識にリメルを見た。


 リメルは俺の足元で、鉄旗を見ている。


 怖がっているようにも、怒っているようにも見えない。


 ただ、じっと見ている。


 証人のように。


「カルミア魔法学園」


 声をかけられた。


 案内役の男子生徒が近づいてくる。


 さっき駅で荷物の結びに注意した生徒だ。


 姿勢が良い。


 感情は薄い。


 だが、敵意があるわけではない。


「見学時間は十五分。質問は一校につき三つまで」


「質問、三つ」


 ロイが小声で言う。


「少ないっす」


「質問の質を上げろということだ」


 アルフが返す。


 コレットが一歩前に出た。


「カルミア魔法学園第七魔法競技部、部長のコレット・セインです。質問よろしいでしょうか」


「許可する」


 許可。


 言い方がいちいち硬い。


 コレットは少しだけ背筋を伸ばした。


 レイナ先輩が後ろから小さく頷く。


 歩き方と立ち方の練習が、ここで効いている。


「鉄旗は、選手の命令以外で自律判断を行いますか」


 一つ目から核心だ。


 案内役の生徒は即答した。


「限定的に行う。障害物回避、転倒回避、旗布損傷回避。ただし、競技判断は指揮系統に従う」


「競技判断とは」


「追跡、捕獲、撤退、囮、陣形変更」


 コレットが手帳に書く。


 アルフも資料に線を引く。


「二つ目」


 コレットは続ける。


「指揮系統が乱れた場合、鉄旗はどの命令を優先しますか」


 案内役の生徒の眉が少し動いた。


 良い質問だったのだろう。


「上位指揮者の直近命令。命令が矛盾した場合、事前設定された旗保護命令を優先する」


「旗保護命令」


「鉄旗自身の損傷回避、校旗防衛、味方保護」


 味方保護。


 ジャックの目が少し動く。


 攻撃が味方の近くを通る彼にとって、重要な言葉だ。


「三つ目」


 コレットが少し迷った。


 質問は三つまで。


 ここで何を聞くか。


 全員の視線が集まる。


 俺は鉄旗を見た。


 命令に従う旗。


 道具ではなく証人。


 でも、ここでは道具のように扱われているのか。


 いや、決めつけるのは早い。


 単独判断禁止。


 俺は口を挟まなかった。


 コレットはリメルを見た。


 そして聞いた。


「鉄旗は、命令されていないとき、何をしていますか」


 案内役の生徒は、今度は少しだけ沈黙した。


 想定外の質問だったのかもしれない。


「待機している」


「待機中に、旗同士で反応することはありますか」


「それは四つ目の質問だ」


「失礼しました」


 コレットが頭を下げる。


 案内役の生徒は少し迷ったように見えた。


 そして、低い声で付け足す。


「公式回答ではないが、反応することはある。鉄旗は命令下に置かれていないとき、他旗の動きを観察する。特に自律型旗には反応が強い」


 リメルが小さく跳ねた。


 鉄旗も、こちらを見ている。


 待機中。


 命令されていない時間。


 その時間に、鉄旗は何を見ているのか。


「ありがとうございます」


 コレットが言った。


 案内役の生徒は頷く。


「見学時間、残り六分」


 厳密だ。


 彼が離れると、ロイが小声で息を吐いた。


「質問だけで緊張したっす」


「でも、得たものはある」


 アルフが言う。


「鉄旗は完全な道具ではない。命令外では観察する」


「そこを使う?」


 ネルが聞く。


「まだ分からない」


 アルフは即答しなかった。


「ただ、待機中の反応は弱点かもしれない」


「弱点って言い方、嫌だな」


 俺は思わず言った。


 アルフが俺を見る。


「なぜ」


「鉄旗が道具じゃないなら、観察する時間を弱点と呼ぶのは少し引っかかる」


 言ってから、少し迷った。


 戦術として甘いかもしれない。


 相手の隙を弱点と呼ぶのは普通だ。


 だが、リメルを道具扱いされたときに感じた引っかかりが、まだ残っている。


 アルフはしばらく考えた。


「なら、接点」


「接点?」


「鉄旗が命令以外のものを見る時間。弱点ではなく、接点。戦術上は利用するが、言葉を分ける」


 レイナ先輩が満足そうに言った。


「良い言い換えね」


 クララも頷く。


「契約文にも合います。旗は道具ではなく証人。弱点ではなく、証言できる接点」


「難しくなったっす」


 ロイが言う。


「でも、何か大事そうっす」


 そう。


 大事そうだ。


 まだ使い方は分からない。


 でも、鉄旗をただ倒す対象として見るのか、証人として見るのかで、試合の意味は変わる。


「見学時間、終了」


 案内役の声が響いた。


 俺たちは訓練場の外へ移動する。


 その途中、グラナートの選手たちがすぐ横を通った。


 全員、同じ歩幅。


 同じ姿勢。


 同じ制服。


 こちらを見る視線は少ない。


 見下しているというより、興味がないように見える。


 そのほうが少しこたえる。


 侮辱されれば言い返せる。


 無関心には、言葉が届きにくい。


 ネルが拳を握った。


「見えてないみたい」


「そうだな」


 俺は答える。


 存在感が薄い俺には、少し慣れた感覚だ。


 見られない。


 そこにいるのに、いないように扱われる。


 だが、部全体がそう扱われるのは、やはり嫌だった。


「一拍作る」


 ネルが小さく言った。


 俺を見る。


「でしょ」


「ああ」


 俺は頷いた。


「一拍作る」


 勝つとはまだ言えない。


 でも、見えないままでは終わらない。


 それは言える。


 見学後、カルミアに割り当てられた練習場所は、訓練場の端にある副通路だった。


 また通路だ。


 第七部は通路と縁があるらしい。


 グラナートの広大な主訓練場ではなく、用具搬入口に近い細いスペース。


 床は硬い。


 壁は鉄板。


 音がよく反響する。


 ロイが少し顔をしかめた。


「ここ、音が前に跳ねるっす」


「後ろへ逃がす場所が少ない」


 アルフが壁を見て言う。


「静かな大音量、調整が必要だ」


 ミラは床を踏む。


「硬い。紐、滑る」


 レイナ先輩は壁を見る。


「見た目は悪くないけれど、こちらを飾る余地は少ないわ」


 リリィは迷子一号を床に置いた。


 小石はほとんど転がらない。


「迷子一号が迷えませんわ」


「床がまっすぐだから」


 ミラが言う。


 クララは壁に顔を近づける。


「古い文字は少ないです。現代契約の上書きが強い」


 ノル先輩は眠そうに壁へ寄りかかった。


「夢、硬い」


 ガレス先輩は床の隅にある古い傷を見る。


「直されてる」


 ジャックが鼻を鳴らす。


「壊れたらすぐ直すんだろ。隙がねえな」


 そう。


 隙がない。


 練習場所まで、グラナートの規律でできている。


 カルミアの旧客室のように、古い文字や壊れた金具や偶然の石が入り込む余白が少ない。


「では」


 コレットが手帳を開いた。


「負け筋を出します」


 ペンが動く。


 一、鉄旗に触れない。


 二、隊列の圧でリメルの逃走線が消える。


 三、ロイさんの音が反響して味方を乱す。


 四、ミラさんの紐が滑る。


 五、レイナさんの一度目が相手に隙ではなく失態として処理される。


 六、リリィさんの召喚物が床で役割を得られない。


 七、クララさんが読める古い文字が少ない。


 八、ノルさんの夢が硬すぎて読めない。


 九、ガレスさんが直すものを見つけにくい。


 十、ジャックさんが挑発に乗る。


 ジャックが顔を上げた。


「何で俺だけ未来形じゃなくて性格なんだよ」


「負け筋です」


 コレットは真面目に言った。


 ジャックは言い返せない。


 自覚はあるのだろう。


「十一、アルフさんが相手の攻撃方向を読み切れない」


 アルフは静かに頷いた。


「ありうる」


「十二、ルカさんが全員を守ろうとして指示が遅れる」


「俺も性格だな」


「負け筋です」


 コレットは容赦がない。


「十三、リメルが鉄旗を記録しようとして動きが止まる」


 リメルが旗布を揺らした。


 不満そうだが、否定はできないらしい。


「多い」


 ロイが言った。


「かなり多いっす」


「はい」


 コレットは頷く。


「でも、見えました」


 見える負けは、まだ負けではない。


 その言葉が旧客室の壁から、ここまでついてきた気がした。


「まずは、一つだけ潰します」


 コレットは言った。


「鉄旗に触れない」


 全員が、最初の負け筋を見る。


 鉄旗に触れない。


 最も大きい。


 最も単純。


 最も厳しい。


「触る練習」


 ネルが言った。


「そうです」


 コレットは手帳を閉じる。


「勝つ練習ではありません。奪う練習でもありません。まず、触る練習をします」


「弱い練習だな」


 ジャックが言う。


「弱いところから始めます」


 コレットは返した。


 誰も笑わなかった。


 第七部は、弱いところから始める部だ。


 触る練習が始まった。


 鉄旗役は、グラナートから借りた重い訓練標的。


 ただし、本物の鉄旗ほど速くない。


 それでも、硬い。


 動きが直線的で、こちらの障害物を押し潰すように進む。


 ネルが一瞬の魔力で近づく。


 届かない。


 標的が方向を変える。


 ロイの音が壁で跳ね、合図がずれる。


 ミラの紐が床で滑る。


 リリィの召喚物は、小さな花だった。


 床に落ちても、すぐ標的に踏まれた。


 リリィの顔が少しこわばる。


「負け」


 コレットが言う。


 二回目。


 レイナ先輩の一度目の火花。


 標的は反応しない。


 グラナート式の訓練標的は、無駄な刺激を無視する設定らしい。


「腹立つわね」


 レイナ先輩が静かに言う。


「美しくない無視だわ」


「負け」


 三回目。


 アルフが一方向結界を張る。


 標的は別方向から回り込む。


 結界の向きが合わない。


「負け」


 四回目。


 ジャックが撃たない宣言を出す前に、標的がリメルの逃走線を塞ぐ。


 撃てる場所がない。


「負け」


 五回目。


 俺が指示を出すのが遅れる。


 ネルが先に動き、標的に弾かれかける。


 ミラの紐で止まる。


「負け」


 負けが重なる。


 触れない。


 届かない。


 動きが速い。


 硬い。


 こちらの小さな工夫が、全部正面から潰される。


 ロイの顔から明るさが少し消えていく。


 リリィは花を拾い、何も言わずにポケットへ入れた。


 レイナ先輩は背筋を伸ばしているが、指先が硬い。


 ネルは唇を噛んでいる。


 アルフは失敗した結界の向きを記録している。


 ジャックは壁を睨んでいる。


 ガレス先輩は床の傷を見ている。


 ミラは紐の滑りを確かめている。


 クララは読める文字の少なさに悔しそうだ。


 ノル先輩は「硬い」と寝言で繰り返す。


 コレットの手帳には、負けが増えていく。


 俺は、手すりのない通路で立っていた。


 守ろうとすると、遅れる。


 指示を出そうとすると、迷う。


 勝つと言えないどころか、触ることすら遠い。


 それでも。


「もう一回」


 ネルが言った。


 声は荒い。


 だが、折れていない。


「もう一回やる」


 コレットが彼女を見る。


「休憩を」


「まだ」


 ネルは標的を見る。


「一回だけ。触るところまで」


 無茶だ。


 そう言いかけた。


 でも、ネルの目を見て止まった。


 昨日、彼女は俺に聞いた。


 本気で勝つ気があるのか。


 今、彼女は触る気でいる。


 なら、俺は外から止めるだけでは駄目だ。


 中から、負けないための一手を出す。


「ネル」


 俺は言った。


「正面から触るな」


「じゃあどこ」


 標的を見る。


 硬い。


 速い。


 直線的。


 無駄な刺激を無視する。


 なら、刺激ではなく接点。


 鉄旗が命令以外のものを見る時間。


 この訓練標的にはないかもしれない。


 でも、標的にも方向転換の瞬間はある。


 命令が切り替わる一拍。


「曲がる瞬間」


 俺は言った。


「標的が方向を変えるとき、足が一つ遅れる。そこに触る。奪うんじゃない。止めるんじゃない。触るだけ」


 アルフが資料を見て頷く。


「確かに、方向転換時に重心が外側へ流れる」


 ミラが床を見た。


「紐、滑るなら、引かない。置く」


「置く?」


「滑る床なら、紐を止め具にしない。触る場所の印にする」


 リリィがポケットから小さな花を取り出した。


「踏まれた花も、印にはなりますわね」


 レイナ先輩が指を鳴らす。


「一度目の火花も、相手を止めるのではなく、ネルの目印にする」


 ロイが口を押さえたまま喉を震わせる。


「無声合図、短く」


 アルフが言う。


「結界は守らない。ネルの戻る方向だけ一瞬」


 ジャックが低く言う。


「撃たない。危険線、なし」


 ガレス先輩が床の小さな傷を指す。


「ここ、滑らない」


 クララが壁を見た。


「現代契約の補修印です。そこだけ摩擦が違います」


 ノル先輩が寝言で言う。


「硬い夢、曲がるときだけ、少し柔らかい」


 コレットが手帳を閉じた。


「やりましょう」


 六回目。


 標的が動く。


 重い音。


 ロイの無声合図。


 レイナ先輩の一度目の火花。


 止めるためではない。


 ネルの目印。


 ミラの紐が床に置かれる。


 引くのではなく、線として。


 リリィの踏まれた花が、その端に置かれる。


 アルフの結界は、ネルの戻る方向にだけ薄く出る。


 ジャックは撃たない。


 ガレス先輩が示した床の傷。


 クララが読んだ補修印。


 ノル先輩の寝言。


 コレットの負け筋。


 俺は標的の足を見る。


 方向転換。


 一拍。


「今」


 ネルが動いた。


 一瞬の魔力。


 すぐ切れる。


 でも、切れたあとも彼女は体で進む。


 踏まれた花の横を抜ける。


 滑らない床の傷に足を置く。


 標的の外側の足へ、指先を伸ばす。


 触れた。


 本当に、触れただけだった。


 標的は止まらない。


 倒れない。


 捕獲でもない。


 勝利でもない。


 ネルの指先が、硬い鉄の足をかすめる。


 それだけ。


 それだけで、通路の空気が変わった。


「触った」


 ロイが小さく言った。


 ネルは床に手をつき、息を切らしている。


 指先が少し赤い。


 でも、笑っていた。


「触った」


 彼女は言った。


 コレットのペンが、震えながら動く。


 負け筋一。


 鉄旗に触れない。


 横に、細い線が引かれる。


 完全に潰れたわけではない。


 でも、傷がついた。


「成功」


 コレットが言った。


 その声が、少し震えていた。


「触る練習、成功です」


 大きな勝利ではない。


 誰かに見せれば、笑われるかもしれない。


 ただ訓練標的に触れただけ。


 本物の鉄旗ではない。


 試合でもない。


 でも、第七部には大きかった。


 触れない相手に、触る道を作った。


 一拍。


 指先。


 踏まれた花。


 滑らない傷。


 無声合図。


 一度目。


 置いた紐。


 戻る結界。


 撃たない宣言。


 硬い夢。


 全部が重なって、ネルの指先が届いた。


 俺は胸の奥で、小さく言葉を練習する。


 勝つ。


 まだ声にはならない。


 でも、触る、は言えた。


「触ったな」


 俺がネルに言うと、彼女は荒い息のままこちらを見た。


「触った」


「痛いか」


「ちょっと」


「大丈夫か」


「大丈夫」


 彼女は指先を見て、笑った。


「硬かった」


「だろうな」


「でも、触れた」


 その顔は、昨日のデッキで見た笑いとは違った。


 赤くなって目をそらす笑いではない。


 戦う人間の笑いだった。


 俺はそれも失いたくないと思った。


 リメルが近づき、ネルの指先を旗布で軽く叩いた。


 記録するように。


 ネルが慌てる。


「これは記録していい」


 自分で言った。


 リメルが得意げに揺れる。


 旗布に浮かんだ文字は、短かった。


 触った。


 ひどく単純だ。


 でも、今の第七部には、それが一番よかった。


 練習後、グラナートの案内役が通路の入口に立っていた。


 いつから見ていたのか分からない。


 彼は無表情でこちらを見る。


「訓練標的への接触を確認した」


 コレットが少し緊張する。


「破損はありません」


「確認済みだ」


 案内役はネルを見る。


「接触角度は危険だった。だが、意図は理解した」


「意図?」


 ネルが聞く。


「捕獲ではなく、接触。初期目標としては妥当だ」


 褒めているのか。


 軍事校の言葉は硬すぎて分かりにくい。


 案内役は続けた。


「明日の合同基礎訓練に、カルミアも参加できる。希望するなら申請せよ」


 全員が少し驚いた。


 合同基礎訓練。


 グラナートの練習に、混ざる。


 圧倒されたあの練習に。


 コレットが一瞬だけ迷う。


 そして、うなずいた。


「申請します」


「承知した」


 案内役はそれだけ言って去っていく。


 ロイが小声で言った。


「認められたんすか?」


 アルフが答える。


「少なくとも、参加を許された」


「それ、認められたより硬いっす」


「軍事校だからな」


 ネルは指先を握りしめた。


 少し痛そうだ。


 でも、誇らしそうでもある。


「触ったから」


 彼女が言う。


「そうだな」


 俺は頷く。


「触ったからだ」


 その夜、グラナートの宿舎に割り当てられた部屋で、リメルの旗布にはまだ「触った」の文字が残っていた。


 旧客室ではない。


 鉄の都市の、硬い宿舎。


 それでも、リメルは記録を持っている。


 コレットは負け筋表に細い線を引いた。


 鉄旗に触れない。


 その横に、ネル接触成功、と書く。


 完全に潰れたわけではない。


 でも、負け筋に傷がついた。


 俺はその線を見て、思った。


 勝つとはまだ言えない。


 でも、触ったとは言える。


 一拍作ったとは言える。


 なら、次は。


 次は、何と言えるようになるのか。


 グラナートの夜は静かだった。


 規律の街らしく、消灯時刻も早い。


 窓の外では、遠くの訓練場に鉄旗の影が見える。


 命令がない時間。


 待機中の鉄旗は、こちらを見ているのだろうか。


 接点。


 弱点ではなく、接点。


 リメルが旗布を揺らす。


 触った。


 その文字を見ながら、俺は胸の中で小さく繰り返した。


 触った。


 まだ勝てない。


 でも、触った。


 第七部の初めてのグラナート練習は、圧倒されるところから始まり、指先が鉄に届くところで終わった。


 それは強豪校から見れば、取るに足りない一歩だろう。


 でも、俺たちには一拍だった。


 硬い夢が、ほんの少しだけ柔らかくなる一拍だった。


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