第30話 鉄の都市へ
巡業列車がグラナート市に近づくと、窓の外の色が変わった。
草原の緑が減り、土の赤が増える。
遠くに低い山脈が見え、その手前に灰色の城壁のようなものが伸びていた。
城壁ではない。
工場群だ。
煙突が並び、朝の空へ白い煙を吐いている。
線路沿いには訓練用の広場がいくつもあり、そこでは同じ制服を着た生徒たちが隊列を組んで走っていた。
列車の中からでも分かる。
揃っている。
足音も、腕の振りも、距離も。
俺たちの旧客室とは、まるで違う世界だった。
「うわ」
ロイが窓に額を近づけた。
「全員同じ動きっす」
「軍事校だからね」
アルフが資料を閉じる。
昨夜遅くまで読んでいたはずだが、顔に疲れが出ていない。
出にくいだけかもしれない。
「グラナート軍事魔法学院。隊列魔法、指揮伝達、旗命令制御に特化した強豪校。巡業リーグでは中上位の常連。下位校相手には、旗接触を許さないことで知られている」
「旗接触を許さないって、奪われないじゃなくて?」
ネルが聞く。
「触らせない」
アルフは短く答えた。
「触れなければ、奪取の可能性もない。相手に試合をさせないタイプだ」
旧客室が少し静かになる。
試合をさせない。
それは、かなり嫌な言葉だった。
第七部は、まだ試合をする前の段階にいる。
勝つどころか、触れる一拍を作ったばかりだ。
その相手が、触らせない強豪校。
「初戦に向いてない」
ジャックが言った。
「向いている相手なんているの?」
ネルが返す。
「いねえな」
「じゃあ同じ」
「雑だな」
ネルは窓の外を見たまま言う。
「でも、やるしかないでしょ」
その声に迷いはない。
昨日、俺に「本気で勝つ気があるのか」と聞いた人間の声だった。
俺は壁の紙を見る。
勝つって言える場所へ行く。
一拍。
まだ貼られている。
レイナ先輩の字は今日も整っている。
逃げにくい。
良くも悪くも。
「ルカさん」
コレットが言った。
「はい」
「今日も、単独判断禁止です」
「到着前から釘を刺すのか」
「到着前だからです」
彼女は真剣だった。
「強豪校を見て、何か思い出しかけるかもしれません。レガリアではありませんが、名門の空気に近いものがあるはずです」
その指摘は鋭かった。
グラナートの訓練風景を見ていると、胸の奥が少しざわつく。
整った隊列。
強い学校の空気。
勝つことを疑っていない生徒たち。
俺がいた場所にも、似たものがあった。
王立レガリアほど華やかではない。
だが、強さを当たり前にする匂いは同じだ。
「分かった」
俺は言った。
「何かあったら言う。一人で決めない」
「そこそこ絶対?」
ネルが窓際から言う。
「そこそこ絶対」
もう正式な誓約になりつつある。
列車が減速し始めた。
車輪の音が低くなる。
ロイが無意識に喉を震わせかけ、ミラに肩を押さえられる。
「まだ」
「はいっす」
ロイは深呼吸した。
彼の静かな大音量も、列車生活の中ではずいぶん安定してきた。
レイナ先輩は荷物表の見える位置にある箱を整えた。
「到着時の見え方が大事よ」
「誰に見られるの」
ネルが聞く。
「全員に」
レイナ先輩は当然のように答える。
リリィは迷子一号をポケットにしまった。
「迷子が迷子にならないように」
「名前がややこしいな」
俺が言うと、彼女は涼しい顔をした。
「迷子は保護者がいれば迷子ではありませんわ」
クララは読む棒を布で包んでいる。
「持っていくのか」
「もちろんです。グラナートの競技場にも古い契約文があるかもしれません」
「軍事校の競技場で床下を覗くのは、かなり怪しいぞ」
「許可を取ります」
「取れるのか」
「取れるまで理由を説明します」
それはそれで相手が大変だ。
ノル先輩は寝たまま、ガレス先輩に背負われている。
「起こさないのか」
ジャックが聞く。
「起きてる」
ノル先輩が背中で答えた。
「寝てるだろ」
「到着の夢、見てる」
「起きてねえじゃねえか」
ガレス先輩は何も言わない。
背負い方が安定している。
ミラがその結びを確認し、満足そうにうなずいた。
「よし」
「俺は荷物か」
ノル先輩が眠そうに言う。
「命」
ミラが答えた。
「なら仕方ない」
ノル先輩は納得した。
列車が駅へ入る。
グラナート市の巡業駅は、カルミアの駅とはまったく違った。
広い。
直線が多い。
柱は太く、無駄な装飾が少ない。
床には隊列用の白線が引かれている。
乗降位置まで細かく決まっているらしく、前方車両から降りる生徒たちは、線に沿って整然と移動していた。
上位校も、ここでは少し緊張して見える。
軍事校の土地だからだろう。
強豪には強豪の圧がある。
「カルミア魔法学園」
連盟職員の声がした。
いつもの灰色の制服。
「後部車両より降車。荷物は各自管理。グラナート側案内員の指示に従ってください」
「はい」
コレットが答える。
小さな声だが、しっかりしている。
第七部は荷物を持った。
ミラの荷物表通りに。
ロイは軽くて大きいもの。
ネルは紐とすぐ使う道具。
レイナ先輩は見える箱。
リリィはクララの紙束の一部と迷子一号。
クララは読む棒。
アルフは資料。
ガレス先輩は工具箱とノル先輩。
ジャックは予備金具。
コレットは手帳。
俺は記録箱。
リメルは自分で歩く。
いや、跳ねる。
列車の扉が開いた。
鉄の匂いが入ってくる。
冷たい風。
油。
磨かれた石の匂い。
駅のホームに降りた瞬間、足元の感触が変わった。
硬い。
列車の揺れる床とも、カルミアの古い廊下とも違う。
この街は、踏み外すことを許さないような硬さをしている。
「整列」
低い声が響いた。
グラナートの案内員だ。
俺たちと同じくらいの年齢の男子生徒。
背が高い。
制服は濃い鉄紺。
胸には、剣と歯車を組み合わせた校章。
彼の背後には、同じ制服の生徒が二人いる。
三人とも、姿勢が同じだった。
「巡業参加校は、学校別に二列。荷物は左。旗は右。私語は禁止」
ロイが口を押さえた。
早い。
私語禁止と言われた瞬間に、何か言いそうになったらしい。
ネルが小声で「耐えた」と言った。
ロイが親指を立てる。
私語だ。
声を出していないので、ぎりぎりかもしれない。
案内員の視線がこちらへ来た。
リメルを見る。
古い旗。
動く旗。
忘れ物の旗。
彼の眉が、ほんの少し動く。
「その旗は自走型か」
「はい」
コレットが答える。
「登録名、忘れ物の旗。個体名リメルです」
案内員は板に何かを記録した。
「自走許可区域外では、旗保持者が責任を持って制御すること」
「承知しました」
リメルが少し不満そうに揺れる。
制御という言葉が気に入らなかったのだろう。
俺も少し引っかかった。
旗は道具ではない。
証人なり。
床下の契約文が頭をよぎる。
でも、ここで言うことではない。
単独判断禁止。
俺はコレットを見る。
コレットも同じことを考えたのか、リメルへ小さくうなずいた。
今は従う。
あとで整理する。
リメルは一回だけ跳ねて、コレットの横に収まった。
案内員は次に、俺たちの荷物を見る。
「荷物の固定が独特だな」
ミラが一歩前に出た。
「山岳式」
「規定外の結びは、検査で外してもらう場合がある」
ミラの表情は変わらない。
「外すと、落ちる」
「規定が優先される」
空気が少し硬くなる。
レイナ先輩の眉が動く。
ネルが何か言いかける。
俺も少し引っかかった。
ミラの結びは、俺たちを守っている。
規定外だから外せと言われれば、荷物は不安定になる。
しかし、案内員の言うことも分からなくはない。
軍事校では、規定が安全を作る。
ミラがもう一度言った。
「外すと、落ちる」
声は静かだ。
でも、譲らない。
案内員の目が少し細くなる。
「検査担当に確認する」
彼はそれだけ言った。
即座に否定はしない。
ミラはうなずいた。
「確認、いい」
妙な緊張が少し解ける。
アルフが小声で言った。
「規律は敵ではない」
「分かってる」
ネルが答える。
「でも、こっちのやり方も捨てない」
「それでいい」
案内員に従い、俺たちは駅の外へ出た。
グラナート市は、鉄の都市だった。
比喩ではない。
街路の手すり、橋、掲示板、街灯、訓練場の柵。
あちこちに鉄が使われている。
錆びていない。
磨かれている。
無骨だが、手入れが行き届いている。
街を歩く人々も、どこか背筋が伸びている。
子どもたちでさえ、横断路の白線に沿って歩く。
「うわ、街全体が整列してるみたいっす」
ロイが小声で言った。
「比喩としては悪くない」
アルフが言う。
「やった、褒められたっす」
「静かに」
ミラが言う。
「はいっす」
レイナ先輩は街並みを見て、少し複雑そうだった。
「美しいわね」
「好きそう」
ネルが言う。
「嫌いではないわ。でも、息苦しくもある」
レイナ先輩の美意識は、ただ華やかなものだけを好むわけではない。
整ったもの、鍛えられたもの、手入れされたものも認める。
だからこそ、グラナートの街は彼女にとって魅力的で、同時に苦しいのだろう。
「カルミアとは真逆ですわね」
リリィが言った。
「カルミアは、何というか」
「ぼろい?」
ネルが先に言う。
「味がある、と言おうとしましたのに」
「今の間は、ぼろいって言う間だった」
「あなた、余計な読解力だけありますわね」
クララが小さく手を上げる。
「ぼろいと古いは違います」
「契約担当が来た」
ロイが小声で言う。
「カルミアには、古いものと壊れたものと放置されたものが混ざっています。区別が必要です」
「厳密だな」
俺が言うと、クララは真剣に頷いた。
「大事です。残ったものと残り物も違います」
レイナ先輩が少し満足そうにした。
言葉が部の中で生きている。
そういう顔だった。
グラナート軍事魔法学院は、街の中心から少し離れた高台にあった。
校門は巨大だ。
鉄の門扉。
左右に立つ旗柱。
その上で、グラナートの校旗が風に揺れている。
ただの布ではない。
金属の薄片が編み込まれているのか、光を受けるたび鈍く輝く。
門の奥には、広い訓練場が見えた。
そこで、鉄旗が動いていた。
俺たちは、全員足を止めた。
鉄旗。
資料で見たものとは違う。
実物は、もっと生き物に近かった。
四足の獣のように低く走る。
旗布は金属板の羽のように畳まれ、支柱は背骨みたいにしなる。
しかし、リメルのような気まぐれさはない。
動きに無駄がない。
指示が出る。
鉄旗が動く。
止まる。
方向を変える。
戻る。
すべてが速い。
すべてが揃っている。
「……硬そう」
ノル先輩がガレス先輩の背中で言った。
「起きてたんですか」
コレットが聞く。
「夢と同じ」
ノル先輩は鉄旗を見る。
「硬い夢」
リメルが小さく揺れた。
鉄旗を見ている。
相手も、こちらに気づいたようだった。
訓練場の端で停止していた一体の鉄旗が、わずかに頭を上げる。
頭ではない。
旗の先端だ。
でも、そう見えた。
リメルと鉄旗。
忘れ物の旗と、命令に忠実な鉄の旗。
二つの旗が、門越しに向かい合う。
その瞬間、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
これは強い。
勝つとか負ける以前に、触れるのか。
昨日作った一拍が、急に小さく見える。
ネルが隣で言った。
「びびった?」
「少し」
「あたしも」
意外だった。
ネルは鉄旗を睨んだまま続ける。
「でも、触る」
その声は震えていない。
俺は鉄旗を見た。
勝つ、と言えるか。
まだ言えない。
でも。
「一拍作る」
俺は言った。
ネルがこちらを見る。
「そこから?」
「そこから」
ネルは少しだけ笑った。
「弱い」
「知ってる」
「でも、昨日よりまし」
「それはよかった」
コレットが門の前で深く息を吸った。
小さな部長は、鉄の門を見上げる。
それから振り返った。
「第七魔法競技部」
全員が彼女を見る。
「ここが、最初の巡業先です」
声は少し緊張している。
でも、折れていない。
「相手は強豪です。たぶん、今のわたしたちでは勝てません」
はっきり言った。
誰も驚かなかった。
「でも、触れないまま終わるつもりはありません。負け筋を見ます。潰せるものを潰します。一拍を作ります。鉄旗に、カルミアがいたことを記録させます」
リメルが旗布を大きく揺らした。
記録。
証人。
旗は道具ではない。
鉄旗も、証人になりうるのかもしれない。
グラナートが何を証明する学校なのか。
俺たちが何を残せるのか。
まだ分からない。
「行きましょう」
コレットが言った。
俺たちは鉄の門をくぐる。
整列した案内員。
磨かれた訓練場。
規律の空気。
鉄旗の冷たい視線のようなもの。
旧客室の雑多な荷物と、壁に貼られた言葉と、迷子の小石と、読む棒と、リメルの記録を持って。
カルミア魔法学園第七魔法競技部は、最初の巡業先に到着した。
勝つとは、まだ言えない。
でも、触る。
一拍を作る。
そこから始める。
鉄の都市の空は、雲一つなく硬い青だった。
その下で、リメルの古い旗布だけが、少し柔らかく揺れていた。




