第29話 勝つと言えない練習
翌朝、俺の仮目標は旧客室の壁に貼られていた。
勝つって言える場所へ行く。
レイナ先輩の字だ。
整っている。
整いすぎている。
まるで立派な標語のように見える。
問題は、それが俺の情けない言葉だということだ。
「外してくれ」
俺は言った。
「嫌よ」
レイナ先輩は即答した。
「なぜ」
「字が美しく書けたから」
「理由が字」
「それに、見えるところに置いたほうが逃げにくいでしょう」
本音はそちらだろう。
旧客室の壁には、いつの間にか第七部の言葉が増えていた。
見える負けは、まだ負けではない。
残り物ではなく、残ったもの。
一度目。
静かな大音量。
荷物は背負い方で軽くなる。
迷子一号。
待ってた。
みんなで持つ。
戻る道を問え。
そして、勝つって言える場所へ行く。
壁がうるさい。
文字でうるさい。
「俺のだけ浮いてないか」
俺が聞くと、ロイが首をかしげた。
「そうっすか? むしろ第七部っぽいっす」
「どのあたりが」
「弱いところから始まってるあたり」
「褒めてるのか」
「はいっす」
迷いがない。
少し救われるが、少し傷つく。
ネルは窓際で腕を組んでいた。
こちらを見ない。
昨日の会話のあと、彼女は少しだけ距離を取っている。
怒っているわけではない。
たぶん、照れている。
そう思うと俺も気まずい。
リメルは壁の文字の下で跳ねている。
自分が記録した言葉が大きく貼られているのが嬉しいのか、俺を追い込むのが楽しいのか、判断できない。
「今日の練習予定です」
コレットが手帳を開いた。
「午前は後部簡易スペースで旗自走訓練。午後は軍事系強豪校、グラナート軍事魔法学院の資料読み合わせ。夕方に対鉄旗想定の初期練習を行います」
「いよいよ軍事校っすね」
ロイが言う。
声は抑えているが、緊張が混ざっている。
グラナート軍事魔法学院。
最初の巡業先。
規律と統制を重んじる強豪校。
旗は鉄旗。
命令に忠実な鉄の獣。
資料によれば、グラナートは直近五年で下位校相手に一度も旗を奪われていない。
勝敗以前に、触れない。
そんな相手だ。
「勝てますか」
誰かが聞いた。
ロイだった。
全員が少しだけ黙る。
コレットは正直に答えた。
「現時点では、かなり難しいです」
「ですよね」
ロイは苦笑した。
「でも、負け筋は見ます」
コレットは続けた。
「勝つ方法が分からないなら、まず負け方を見ます。第七部のやり方です」
その言葉は、もう部の中心にある。
勝ち筋より先に、負け筋。
弱いからこその手順。
強豪校には笑われるかもしれない。
だが、俺たちはそれでここまで来た。
「それと」
コレットは俺を見る。
「今日は、ルカさんの練習も入れます」
「俺の?」
「はい。勝つと言えない練習です」
旧客室が静かになった。
ロイが小さく首をかしげる。
「言えない練習って、何すか」
「勝つ、と言えない状態を確認し、その手前の言葉を決めます」
コレットは真面目だった。
本当に真面目に言っている。
「つまり」
リリィが扇子もないのに手を口元へ添えた。
「言い訳の整備ですわね」
「違います」
コレットが即答する。
「逃げ道の管理です」
「さらに危険な言葉になりましたわ」
「逃げ道は必要です。でも、逃げっぱなしにならないよう、戻る道も決めます」
クララが反応する。
「契約文の『戻る道を問え』ですね」
「はい」
コレットは手帳に書く。
勝つと言えない練習。
一、言えない理由を隠さない。
二、言える手前の言葉を決める。
三、練習行動と結びつける。
四、単独判断禁止。
「また最後に俺への命令が入ってる」
「必要なので」
コレットはもう揺るがない。
ネルが小さく笑った。
俺はそれを見て、少しだけ安心した。
午前の旗自走訓練は、後部簡易スペースで行われた。
通路は狭い。
列車は揺れる。
壁には古い配管。
天井は低い。
練習場としては最悪に近い。
ただし、第七部には合っていた。
悪い条件ほど、負け筋が見えやすい。
リメルは通路の奥に立つ。
迷子一号が床に置かれ、揺れの方向を示す。
ロイが無声合図を出す。
ミラが荷物紐で仮の障害物を固定する。
レイナ先輩が一度目の火花で進路変更の合図を作る。
リリィはランダム召喚を封じず、出たものを通路の地形として扱う。
ノル先輩は通路の端で半分寝ながら、リメルの反応を寝言で補足する。
クララは床下契約文の読取と練習場所の安全確認。
アルフは一方向結界で逃走線を作る。
ガレス先輩は壊れかけた通路金具を直す。
ジャックは攻撃魔法を撃たない位置を宣言する。
コレットは負け筋を見る。
俺は。
「ルカさん」
コレットが言った。
「はい」
「今日は、指示を出してください」
「俺が?」
「はい。魔法は使わず、勝つための一手ではなく、負けないための一手を」
「それはいつもと同じじゃないか」
「違います」
コレットは首を横に振る。
「今日は、補助ではなく、指示です。自分が外にいる位置からではなく、中にいる位置から言ってください」
簡単に言ってくれる。
だが、たぶんそこが練習なのだ。
俺は通路を見た。
リメル。
障害物。
揺れ。
部員の位置。
仮想敵は、グラナートの鉄旗。
命令に忠実な鉄の獣。
今はガレス先輩が直した自走標的を鉄旗役にしている。
動きは単純だが、重い。
通路をまっすぐ進み、リメルを壁際へ追い込む。
「開始」
コレットが言った。
自走標的が動く。
重い音。
カタン、ではなく、ゴン、に近い。
通路の床が震える。
リメルが後退する。
ロイの無声合図。
ネルが動きかける。
俺は言うべきだった。
でも、一瞬遅れた。
ネルはそのまま踏み込み、魔力を一瞬だけ使う。
標的の足元を崩そうとする。
しかし、列車が揺れた。
ネルの肩が壁にぶつかる。
「っ」
俺の手が動きかける。
風。
使えばネルを支えられる。
だが、ミラの紐が先に動いた。
ネルの腰にかけていた補助紐が張る。
ミラが引いた。
ネルは転ばない。
俺は魔法を使わない。
ただし、指示も出していない。
「負け」
コレットが言った。
練習が止まる。
ネルが壁に手をつきながら、こちらを見る。
痛そうだが、怪我はない。
「今の、あんたが言うところ」
「分かってる」
「分かってるだけじゃ遅い」
「分かってる」
同じ言葉しか出ない。
情けない。
コレットが手帳に書く。
ルカ、観察後に指示が遅れる。
魔法使用未遂。
補助紐で回避。
「もう一度」
コレットが言った。
二回目。
自走標的が動く。
今度は、俺は先に声を出した。
「ネル、待て」
ネルが止まる。
ほんの一瞬。
その一瞬で、ロイの無声合図が入る。
リメルが左へ跳ねる。
アルフが右側の逃走線を守る。
標的はリメルを追う。
だが、レイナ先輩の一度目の火花が標的の視界役の魔石を刺激した。
標的の向きが少しずれる。
「ネル、今」
俺が言う。
ネルが踏み込む。
一瞬の魔力。
今度は届いた。
標的の足元ではなく、通路に置かれた迷子一号の横の紐を弾く。
紐が張り、ミラの固定具が動き、標的の進路に荷物止めが出る。
標的が止まる。
リメルが抜ける。
「成功」
コレットが言った。
全員が少しだけ息を吐く。
俺は自分の手を見た。
魔法は使っていない。
指示を出した。
中にいた、のかどうかは分からない。
でも、少なくとも外から眺めてはいなかった。
ネルがこちらへ歩いてくる。
「今のは、まあ」
「まあ?」
「そこそこ」
「評価が渋い」
「最初が遅かったから」
「厳しい」
「勝つって言える場所に行くんでしょ」
ネルはまっすぐ言った。
「道、甘くないから」
その言葉は厳しい。
でも、昨日より少し柔らかい。
たぶん、彼女なりの応援だった。
昼までに、同じ練習を何度も繰り返した。
俺は失敗した。
かなり失敗した。
指示が遅い。
状況を見すぎる。
誰かが危ないと、魔法を使う前提で体が動く。
ネルを見ろと言われているのに、全部を見ようとする。
リメルを守ろうとして、リメル自身の動きを待てない。
アルフの結界が間に合う場面で、口を挟みすぎる。
ジャックの撃たない宣言を信用するのが半拍遅い。
ロイの無声合図を聞き逃す。
ミラの荷物止めを障害物ではなく危険物として見てしまう。
レイナ先輩の一度目に、まだ少し身構える。
リリィの召喚物を不確定要素として避けようとする。
ノル先輩の寝言を情報として扱うのに迷う。
クララの契約文由来の注意を、試合中に重く受け取りすぎる。
ひどい。
自分でもひどい。
補助役としては器用にやっているつもりだった。
だが、中に入って指示を出そうとすると、途端に俺の迷いが露出した。
「ルカさんの負け筋、増えました」
コレットが言った。
「嬉しくない報告だ」
「でも、見えました」
「見える負けは、まだ負けではない、か」
「はい」
コレットは頷く。
「ルカさんは、全員を守ろうとして、全員を信用するのが遅れる」
痛い。
かなり痛い。
でも、正確だった。
守ろうとしている。
そのつもりだった。
だが、裏返せば信用が遅れている。
ネルの一瞬。
ロイの音。
ミラの紐。
ジャックの宣言。
リメルの判断。
それぞれが動けるのに、俺が先に手を伸ばそうとする。
それは、優しさだけではない。
傲慢かもしれない。
「きついな」
俺は言った。
「きついです」
コレットはまた正直だった。
「でも、ルカさんがそれを直せば、第七部の動きはかなり速くなります」
「俺が何もしないほうが速い場面もある」
「はい」
「正直すぎる」
「必要なので」
ネルが横から言う。
「あんた、何もしない練習もしたほうがいい」
「昨日から、俺の練習が変な方向に増えていく」
「必要だから」
みんな同じことを言う。
必要なので。
必要だから。
逃げ道を潰す言葉だ。
午後の資料読み合わせでは、グラナート軍事魔法学院の情報が共有された。
相手は強い。
分かっていたが、資料で見るとさらに強い。
隊列が崩れない。
旗と選手の距離が一定。
命令系統が明確。
鉄旗は選手の指示に忠実で、自己判断をほとんどしない。
その代わり、指示が速い。
迷いがない。
「うちと真逆だな」
ジャックが言った。
「うちは迷いだらけ」
「ただし、迷いを共有できます」
アルフが資料を見ながら言う。
「グラナートは迷わない代わりに、命令系統が読めれば動きが硬い可能性がある」
「鉄旗は自分で考えないんすか?」
ロイが聞く。
「資料上は、ほとんど考えない。命令への反応が速く、命令外の行動は少ない」
リメルが不満そうに旗布を揺らした。
旗の自己判断がないというのが嫌なのかもしれない。
ノル先輩が寝ながら言う。
「鉄旗、夢で硬そう」
「まだ見ていないんですよね」
クララが聞く。
「見てない。でも硬そう」
予感らしい。
レイナ先輩は資料の写真を見ている。
「美しくはあるわね」
軍事校の隊列。
磨かれた装備。
統一された制服。
鉄旗の金属光沢。
確かに、美しい。
だが、息苦しそうでもある。
「あれに勝つには?」
ネルが聞いた。
誰に向けた問いか分からない。
たぶん全員に。
俺は資料を見た。
勝つ。
まだ言えない。
だが、練習は始まっている。
「命令系統を見つける」
俺は言った。
全員がこちらを見る。
少し緊張する。
「鉄旗が自分で考えないなら、考えているのは選手だ。旗を追うより、命令がどこから出ているかを見る。命令を止めるか、遅らせるか、誤認させる」
アルフが頷く。
「妥当だ」
ジャックが言う。
「旗じゃなくて、人を崩すのか」
「崩すというより、命令を曲げる」
レイナ先輩が少し笑う。
「言い方が見苦しくなくなったわね」
「褒められているのか」
「半分」
ネル語が広まっている。
コレットは手帳に書く。
鉄旗対策。
旗ではなく命令系統を見る。
命令の遅れを作る。
誤認を作る。
「これ、勝ち筋ですか」
ロイが聞いた。
俺は一瞬、答えに詰まる。
勝ち筋。
言えるか。
まだ無理だ。
「負け筋を減らす筋だ」
俺は言った。
ロイは少し考えた。
「でも、勝ちに近づくっすよね」
「そうだな」
そこまでは言えた。
ネルがこちらを見る。
厳しいが、少しだけ満足そうだった。
夕方の練習では、鉄旗役の自走標的に「命令役」を設定した。
命令役はアルフ。
標的はアルフの指示だけで動く。
俺たちは標的そのものではなく、アルフの指示を遅らせる練習をする。
もちろん、アルフ本人は味方なので、実際に妨害するわけではない。
視線、合図、音、障害物、偽の進路。
命令を出す前の判断を増やす。
ロイの静かな大音量で一瞬だけ床を震わせる。
レイナ先輩の一度目で視界を揺らす。
リリィの迷子一号で足元の揺れを見せる。
ネルの一瞬で通路の紐を切り替える。
ミラの荷物止めで進路を変える。
ジャックが撃たない宣言で危険線を作る。
ガレス先輩が壊れかけの金具を意図的に外し、通路の音を変える。
クララが古い床文字を踏まないよう、移動可能範囲を示す。
ノル先輩が寝言で「そっち硬い」と言う。
コレットが負け筋を読む。
俺は指示を出す。
何度も失敗した。
だが、最後の一本で、標的の命令が一拍遅れた。
アルフが言った。
「今のは、迷った」
その一言で、全員が少し静かになる。
迷わない役のアルフが、迷った。
命令に忠実な鉄旗を相手にするなら、その一拍が大事になる。
リメルが標的の横を抜けた。
捕獲ではない。
勝利でもない。
でも、触れない相手に近づくための一拍だった。
「成功」
コレットが言った。
俺は息を吐いた。
「勝てるかは分からない」
言ってから、ネルを見る。
彼女は何も言わずに待っている。
俺は続けた。
「でも、近づいた」
ネルは小さくうなずいた。
「うん」
それだけだった。
今日は、それで十分だった。
夜、旧客室の壁に新しい紙が貼られた。
鉄旗対策。
命令を一拍遅らせる。
その下に、コレットが小さく書いた。
ルカ、指示成功一回。
「わざわざ書くのか」
「書きます」
「一回だけだぞ」
「一回目は大事です」
レイナ先輩が言う。
「それ、わたくしの言葉よ」
「第七部の言葉にもなりました」
コレットは容赦がない。
リメルが旗布に文字を浮かべる。
一拍。
今日の記録は、それだった。
一拍。
命令が遅れた一拍。
俺が魔法を使わず、指示を出せた一拍。
ネルが待ってくれた一拍。
勝つと言えない俺が、少しだけ勝つ場所へ近づいた一拍。
それは、かなり小さい。
でも、ゼロではない。
俺は壁の仮目標を見た。
勝つって言える場所へ行く。
まだそこには着いていない。
でも、今日、一拍だけ近づいた。
旧客室の外では、列車が夜の線路を走っている。
明日には、最初の巡業先に着く。
グラナート軍事魔法学院。
規律の強豪。
鉄旗の学校。
俺たちはまだ勝つと言えない。
少なくとも、俺は。
でも、触れない相手に近づく一拍を作った。
第七部らしい、ひどく小さな前進だった。
それでも、リメルは記録した。
一拍。
その文字は、列車の揺れに合わせて、静かに光っていた。




