第28話 本気で勝つ気があるのか
ネル・アーレンは、怒ると静かになる。
これは最近分かったことだ。
最初に会ったころの彼女は、怒ればすぐ噛みついてきた。
元名門の俺が気に入らない。
カルミアを雑に見るな。
勝つ気がないなら邪魔だ。
そういう言葉が、遠慮なく飛んできた。
だから俺は、ネルは怒ると声が大きくなる人間だと思っていた。
でも、違った。
本当に怒ると、彼女は静かになる。
声の温度が下がる。
目がこちらをまっすぐ見る。
逃げ道を塞ぐように。
その日、俺は旧客室の後ろのデッキで、ネルにその目を向けられていた。
列車は夕方の草原を走っている。
風は冷たい。
車輪の音は一定で、旧客室の中からはロイの抑えた笑い声と、クララが読む棒の改良について語る声がかすかに聞こえる。
リメルは旗金具で休んでいる。
コレットは明日の練習予定を組んでいる。
ミラは荷物表を直している。
レイナ先輩は窓を磨いている。
リリィは迷子一号を転がしている。
ノル先輩は寝ている。
ガレス先輩とジャックは、壊さないための留め具を作っている。
アルフは前方車両から借りた軍事校の資料を読んでいる。
それぞれが、それぞれの役割を少しずつ持ち始めていた。
俺は、その外にいる。
少なくとも、ネルにはそう見えていたらしい。
「ルカ」
彼女が言った。
「あんた、本気で勝つ気あるの?」
列車の風が、間に入る。
俺はすぐには答えられなかった。
その沈黙が、たぶん答えの半分だった。
ネルは目を細める。
「ほら」
「ほら、とは」
「そうやって逃げる」
「逃げているつもりは」
「あるでしょ」
静かな声。
きつい。
大きな声で怒鳴られるより、ずっときつい。
「あんたは手伝う。助ける。止める。忘れるかもしれないから魔法は使わないようにする。誰かが危なければ、たぶん使う。そこまでは分かる」
ネルは指を一本ずつ折る。
「でも、勝つって言わない」
俺は手すりに手を置いた。
金属が冷たい。
「勝ちたいとは思ってる」
「勝ちたい、じゃない」
「何が違う」
「全然違う」
ネルは即答した。
「勝ちたい、は遠くから見てる人でも言える。勝つ、は中にいる人が言う」
その言葉は、胸の真ん中に来た。
遠くから見ている。
それは、たぶん俺の姿勢そのものだった。
第七部の練習に付き合う。
負け筋を潰す。
リメルを守る。
ロイの音を調整する。
ミラの荷物表に従う。
レイナ先輩の言葉を見届ける。
リリィの小石を拾う。
ノル先輩の夢から戻る道を探す。
クララの契約文を一緒に持つ。
いろいろやっている。
でも、競技の中心に戻ってはいない。
「俺は」
言いかけて、止まる。
ネルは待たない。
「元名門だから?」
「違う」
「エレナに負けたから?」
名前が出た瞬間、少し息が詰まった。
エレナ・フォルティス。
王立レガリア魔法学院の ace。
俺の昔の友人。
たぶん、もっと近かった人。
俺が競技から落ちた試合にいた人。
忘れたくないのに、少しずつ失っている人。
「ネル」
「言うよ」
ネルは引かなかった。
「あんたが言わないから」
その通りだった。
俺は言わない。
エレナのことも。
競技に戻る理由も。
勝ちたいのか、勝ちたくないのかも。
言わずに、気の利いた補助役の顔をしている。
雑用係。
そう名乗っていれば、少し楽だった。
「エレナに勝ちたいの?」
ネルが聞く。
俺は答えられない。
「レガリアを倒したいの?」
答えられない。
「カルミアを勝たせたいの?」
答えられない。
ネルの顔が、少し歪む。
怒っている。
でも、傷ついてもいる。
「あたしたちは、勝ちたいよ」
彼女は言った。
「部長は負けしか見えないのに、それでも勝つ方法を探してる。ロイは黙れって言われても、音の届く場所を探してる。ミラは荷物を背負い方で変えてる。レイナは失敗を一度目って呼んでる。リリィは笑われた小石に名前つけてる。ノルは怖い夢見て戻ってくる。クララは床下まで読んでる。ガレスは壊れたものを直す。ジャックは撃たないって言えるようになってる。アルフは一方向だけでも守るものを決めてる」
全員の名前が並ぶ。
それは、部員紹介ではなかった。
戦う理由の列挙だった。
「あんたは?」
ネルが言った。
「ルカは、何でそこにいるの?」
言葉が、出なかった。
何でそこにいるのか。
俺はなぜ、第七部にいるのか。
最初は巻き込まれた。
コレットに案内された。
ネルに喧嘩を売られた。
ロイの音に振り回された。
リメルが動いた。
居心地が悪いのに、居心地がよかった。
でも、それは理由だろうか。
勝つ理由ではない。
ここにいる理由にしかならない。
「怖いんだと思う」
俺は、ようやく言った。
ネルは黙る。
「勝つって言うと、競技の中に戻ることになる。競技の中に戻れば、たぶん魔法を使う場面が来る。使えば忘れる。勝つために忘れるのか、誰かを守るために忘れるのか、分からなくなる」
言葉にすると、ひどく情けなかった。
でも、一度出すと止まらない。
「俺は競技が好きだったんだと思う。たぶん、かなり。でも、今は好きだったことも全部覚えてるわけじゃない。エレナとどんな気持ちで試合をしてたのかも、ところどころ抜けてる。勝ちたいって言った瞬間に、また昔の俺に戻ろうとしてるのか、第七部のために言ってるのか、分からなくなる」
ネルは何も言わない。
風が強く吹いた。
夕日が、線路の向こうへ落ちかけている。
「勝つって言って、負けたら怖い」
俺は続けた。
「勝つって言って、勝つために誰かを失ったら怖い。勝つって言って、エレナに近づいたら、忘れてたものが戻るんじゃなくて、また何かが壊れる気がする」
言い訳だ。
自分でもそう思う。
でも、言わなければずっと言い訳のまま腐る。
ネルは、静かに聞いていた。
そして、言った。
「怖いのは分かった」
短い。
慰めはない。
「でも、あたしはそれでも聞いてる」
「何を」
「本気で勝つ気があるのか」
逃げ道がない。
ネルは、俺の怖さを否定しなかった。
分かったと言った。
その上で、同じ問いを置いた。
「ネルは、あるんだな」
「ある」
即答だった。
「あたしは勝ちたい。平民だからって見下したやつらに勝ちたい。魔力が一瞬で切れるから無理だって決めたやつらに勝ちたい。カルミアが残り物だって笑うやつらに勝ちたい」
ネルの声は低い。
でも、燃えている。
「でも、それだけじゃない」
彼女は続けた。
「部長を勝たせたい。ロイの音がちゃんと届くところを見たい。ミラが止まっても回収される試合を見たい。レイナが一度目を誇るところを見たい。リリィの変な召喚が役に立つところを見たい。ノルの夢がただ怖いだけじゃないって証明したい。クララが読めるものが戦えるって見せたい。ガレスが壊して守るところも、ジャックが壊す場所を選ぶところも見たい」
彼女は一度息を吸った。
少しだけ、声が揺れた。
「それで、あんたが勝つって言うところも見たい」
胸が詰まった。
ネルは目をそらした。
言い過ぎたと思ったのかもしれない。
頬が少し赤い。
夕日のせいだけではなかった。
「別に、あんたが中心じゃなきゃ嫌って話じゃない」
彼女は早口になる。
「でも、あんたがずっと外にいるのは嫌。助けるだけの人みたいな顔してるの、腹立つ。あたしたちを大事にしてるのは分かるけど、大事にするなら中に入れって思う」
「中に」
「そう」
ネルは俺を見る。
「一秒、見るって言ったでしょ。あれ、助けるためだけじゃない。あたしも、あんたを見る。だから、逃げたら分かる」
逃げたら分かる。
それは脅しに近い。
でも、少し嬉しかった。
見られている。
存在感が薄くなっていく俺を、ネルは見ている。
逃げたら分かるくらいに。
「俺は」
もう一度、言いかける。
今度は止まらなかった。
「勝つって、まだ言えない」
ネルの表情が少しだけ強張る。
俺は続けた。
「でも、勝つ気がないわけじゃない。たぶん、勝つって言うのが怖いだけだ」
「同じじゃないの」
「違う」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
「怖いから言えないのと、勝つ気がないのは違う。俺はまだ、勝つって言い切れない。でも、勝つって言える場所まで行きたい」
それが、今の精一杯だった。
格好よくない。
主人公らしくもない。
でも、嘘ではない。
ネルはじっと俺を見た。
風で髪が揺れる。
彼女の目は、まだ厳しい。
でも、少しだけ温度が戻っていた。
「そこまで?」
「今は」
「弱い」
「分かってる」
「でも」
ネルは手すりから手を離した。
「勝つ気がない、よりはまし」
判定は厳しいが、保留解除くらいはもらえたらしい。
「ありがとう」
「お礼言うところじゃない」
「じゃあ、何て言えば」
「練習するって言えば」
「練習する」
「何の」
「勝つって言えるようになる練習」
ネルは少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
小さな笑い。
強い笑いではない。
でも、俺はその笑いを失いたくないと思った。
魔法を使ったら失うかもしれない。
そう考えた瞬間、胸が痛む。
俺は手すりを握り直した。
「今の笑い、リメルに記録してもらうか」
「は?」
ネルの顔が一気に赤くなる。
「しなくていい!」
「大事かもしれないだろ」
「大事じゃない!」
「そうか」
「そう!」
ネルはそっぽを向いた。
耳まで赤い。
俺は少し笑った。
その笑いが、思ったより自然に出たことに気づく。
緊張していた肩が、少しだけ落ちた。
そのとき、旧客室の扉が開いた。
リメルがひょこっと顔を出す。
いや、旗なので顔はない。
でも、そう見えた。
リメルの後ろから、ロイが小声で言う。
「すみません、聞こえちゃったっす」
「どこから」
ネルの声が危険になる。
「勝つって言える場所まで行きたい、あたりから」
「ほぼ最後じゃん」
ネルが怒る。
ロイは慌てて手を振った。
「違うんす! リメルが急に出ていったから追いかけたら」
リメルが旗布を揺らす。
旗布には、すでに文字が浮かびかけていた。
勝つって言える場所。
ネルが悲鳴に近い声を出した。
「記録するな!」
リメルは不満そうに跳ねた。
「そこじゃない! そこはいいけど、その前後を記録するな!」
「どの前後だ」
俺が聞くと、ネルが俺を蹴ろうとした。
寸前で避ける。
魔法は使っていない。
成長だ。
「何してるんですか」
コレットが旧客室から顔を出した。
その後ろに、全員がいる。
ほぼ全員いる。
ガレス先輩まで工具を持ったまま立っている。
ノル先輩は寝たままミラに支えられている。
「聞いてたのか」
俺が言うと、アルフが答えた。
「全部ではない」
「一部です」
コレットが言う。
「重要そうな一部だけ」
「それを全部と言うんじゃないか」
ジャックが鼻を鳴らす。
「勝つって言えねえのか」
直球。
ネルがジャックを睨む。
「今それ言う?」
「言うだろ」
ジャックは俺を見る。
「俺も撃つって言えなかった。言わねえと周りが動けなかった。だから言う練習はいる」
荒い。
でも、正しい。
ガレス先輩が短く言う。
「言葉も、道具」
レイナ先輩がうなずく。
「ただし、雑に置くと見苦しいわ」
リリィが迷子一号を指で弾く。
「言葉が迷子なら、仮名から始めればよろしいのでは」
「仮名?」
俺が聞く。
「『勝つ』が無理なら、『勝つ場所へ行く』。仮名の目標ですわ」
クララが手帳に書き始める。
「仮目標。勝つって言える場所へ行く」
「記録しなくていい」
「大事です」
コレットと同じことを言われた。
ミラが荷物表を見ながら言う。
「重い言葉は、半分ずつ」
「誰と」
「みんな」
簡潔だった。
ロイが拳を握る。
「俺、戻る音も出すし、勝つ場所へ行く音も出すっす」
「音が増えるな」
アルフが言う。
「整理が必要だ」
「整理しましょう」
コレットが即座に手帳を開く。
「部長、今じゃなくていい」
俺が止める。
だが、コレットは真剣だった。
「今です。言葉は、出たときに置き場所を決めないと迷子になります」
リリィが少し嬉しそうにする。
「迷子の専門家として同意しますわ」
「いつ専門家に」
「迷子一号の保護者ですもの」
妙な肩書きが増えている。
ノル先輩が寝ながら言った。
「勝つ夢、まだ見えない」
全員が少し静かになる。
ノル先輩は続けた。
「でも、勝つって言う前の夢は、見える」
「どんな夢ですか」
コレットが聞く。
ノル先輩は目を閉じたまま、俺とネルのほうを指さした。
「今みたいな、寒いところ」
ネルが固まる。
俺も固まる。
「ノル先輩、どこまで夢で見た」
「赤い顔」
「忘れて」
ネルが即答した。
「夢は忘れにくい」
「忘れて!」
旧客室に笑いが起きる。
ネルは本気で怒っている。
でも、さっきまでの静かな怒りとは違う。
ちゃんと温度がある。
俺は、その笑いの中で少しだけ楽になった。
勝つって言える場所へ行く。
仮目標。
弱い。
曖昧。
まだ逃げ道がある。
でも、完全な外ではない。
たぶん一歩だけ、中に入った。
コレットは手帳に新しい欄を作った。
ルカ。
競技復帰未定。
魔法使用制限継続。
単独判断禁止。
仮目標:勝つって言える場所へ行く。
俺はその欄を見て、微妙な気持ちになった。
「弱いな」
「弱いです」
コレットは認めた。
「でも、見えました」
「何が」
「今までより、少しだけ」
彼女は俺を見る。
「ルカさんの負け筋が」
負け筋。
そう言われて、俺は不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しほっとした。
見える負けは、まだ負けではない。
俺が競技に戻れない未来。
勝つと言えないまま、補助役の顔で逃げる未来。
魔法を使うたび、守ることと言い訳が混ざっていく未来。
それが見えたなら。
潰すこともできるのかもしれない。
「潰せるか」
俺が聞くと、コレットはすぐには答えなかった。
少し考える。
そして言った。
「一人では無理です」
「だろうな」
「でも、部でなら」
彼女は手帳を閉じる。
「練習できます」
練習。
勝つって言えるようになる練習。
変な練習だ。
でも、第七部は変な練習ばかりしてきた。
撃たない宣言。
静かな大音量。
荷物表。
一度目。
迷子一号。
読む棒。
戻る道。
そこに、俺の仮目標が加わる。
リメルが旗布に文字を残した。
勝つって言える場所。
ネルはまだ不満そうだった。
だが、止めなかった。
その夜、俺は旧客室の後ろの窓から、過ぎていく線路を見ていた。
ネルは少し離れた長椅子に座り、わざとこちらを見ないようにしている。
見ないようにしているのが、逆に分かる。
ロイは静かな大音量の練習をしている。
ミラは荷物表に「重い言葉」の欄を作ろうとして、コレットに相談している。
レイナ先輩は「言葉の置き場所は美しく」と言っている。
リリィは迷子一号を俺の足元に転がし、「仮目標も迷子ですわね」と言った。
クララは契約文の「戻る道」と俺の仮目標を関連づけすぎないよう、慎重に整理している。
ノル先輩は「勝つ前の夢」と寝言で言った。
ガレス先輩は壊れた金具を直している。
ジャックはそれを壊さないよう手伝っている。
アルフは、次の巡業先である軍事系強豪校の資料を机に広げた。
軍事校。
統制。
鉄旗。
規律。
俺たちとは正反対の相手。
そこへ向かう前に、ネルは俺に聞いた。
本気で勝つ気があるのか。
俺は、まだ勝つと言えなかった。
でも、勝つって言える場所へ行きたいとは言った。
弱い言葉だ。
けれど、今の俺の言葉だ。
窓に映るリメルの旗布が、静かに揺れる。
勝つって言える場所。
その文字は、俺が思っていたより長く残っていた。
俺はそれを見ながら、胸の中で小さく練習する。
勝つ。
まだ声には出ない。
でも、完全には逃げなかった。
今日は、それで十分かもしれない。
いや。
十分ではない。
だから、練習する。




