第3話 壊す魔法と夜食の匂い
壊れた音量測定器を運ぶことになった。
なぜ俺が。
当然の疑問だったが、口に出すタイミングを逃した。
コレットは青い練習旗を抱え、ネルは測定器の蓋と外れた魔法針を持ち、ロイは「僕が壊したので僕が持ちます!」と主張して本体を持とうとしたが、持ち上げた瞬間に内部から嫌な音がしたため、全員に止められた。
結果、本体は俺が持っている。
見学者とは何か。
哲学的な問いになりつつあった。
「部長」
測定器を抱えたまま、俺はコレットに声をかけた。
「何?」
「俺は入部していない」
「ええ」
「音量測定器を運んでいる」
俺は腕の中の壊れた箱を見下ろした。
「助かっているわ」
「質問に答えろ」
「入部していなくても、物は運べるわ」
「理屈が雑だ」
「でも正しい」
正しいのが腹立たしい。
俺は測定器を抱え直した。内部で曲がった針がかたりと鳴る。ロイの発動音に耐えきれなかった哀れな魔法具。壊れ方を見る限り、単に部品を戻せば直るものではなさそうだった。
「本当に直せるのか」
俺はネルに聞いた。
「ガレス先輩なら、たぶん」
ネルが答えた。
「たぶん?」
「あの人、直せるって言わないのよ。黙って持っていって、黙って直して、黙って返す」
「便利なのか不便なのか分からないな」
「便利」
「即答か」
「夜食もうまい」
ロイが横から言った。
声量は少し抑えられている。
第七魔法競技部に来てから、彼なりに成長しているのかもしれない。まだ常人の二倍くらいはあるが。
「修理と夜食の評価が同列なのか」
俺が聞き返す。
「夜の練習後のスープは重要です!」
「それは分かる」
言ってから、俺は少し驚いた。
分かる。
夜の練習後。
汗が冷え、指先の魔力が鈍くなり、誰かが差し出した温かいスープを飲む。
そういう記憶が、どこかにある。
誰が作った。
誰と飲んだ。
思い出そうとすると、やはり布の向こうへ逃げる。
俺は測定器を持つ手に少し力を込めた。
壊すなよ、と自分に言う。
記憶も。
測定器も。
これ以上。
練習場から校舎裏の作業棟へ向かう道は、石畳がところどころ沈んでいた。古い排水溝には落ち葉が詰まり、風に揺れる木々の向こうに、小さな煙突のある建物が見える。
「あれが作業棟か」
俺は煙突のある建物を見た。
「ええ。昔は競技用魔法具の整備棟だったの」
コレットが言う。
「今は?」
「ガレス先輩の巣」
ネルが言った。
「本人に聞かれたら怒られるぞ」
「怒らないわよ。黙って鍋をかき混ぜるだけ」
「それは怒っているんじゃないのか」
「たぶん」
また、たぶん。
この部活の情報は全体的に精度が低い。
作業棟の扉は半分開いていた。
中から、金属を削る音がする。
きい、きい、と規則正しい音。
それに混じって、何かを煮込む匂いがした。
野菜と塩と、少しの香草。
腹が鳴った。
鳴ってから、俺は何食わぬ顔をした。
ネルがこちらを見る。
「今、鳴った?」
ネルがこちらを見る。
「測定器だ」
「お腹が?」
「測定器の内部音だ」
「往生際が悪い」
コレットが小さく笑った。
ロイは何か言おうとして、俺の顔を見て口を閉じた。少し賢くなっている。
作業棟に入ると、中は思っていたより整っていた。
古い棚には工具が大きさ順に並び、壁には競技旗の支柱、訓練用の魔法具、壊れた結界杭が掛けられている。床には木屑一つ落ちていない。窓際には小さな鍋があり、香草入りのスープが静かに湯気を立てていた。
部室とは違う。
ここは、誰かが秩序を保っている場所だった。
その中央で、大柄な男子生徒が作業台に向かっていた。
背が高い。
肩が広い。
黒に近い茶色の髪を短く切り、制服の袖を肘までまくっている。手には細かい傷がいくつもあり、指先は工具を扱う人間のそれだった。
彼は顔を上げた。
無言。
目が合う。
目つきは怖くない。
ただ、静かだった。
「ガレス先輩」
コレットが声をかける。
「測定器が壊れました」
コレットは俺の腕の中の測定器を示した。
ガレス・モルンと思われる男子先輩は、俺の腕の中の測定器を見た。
次にロイを見る。
ロイが勢いよく頭を下げた。
「すみません!」
ロイが勢いよく頭を下げた。
作業棟の窓が鳴った。
ガレスは無言で棚から布を取り出し、窓辺に置かれた小瓶を押さえた。
慣れている。
慣れてしまっている。
「すみません……」
ロイが今度は小さく言う。
ガレスは首を横に振った。
気にしていない、という意味なのだろう。
「これ、直せますか?」
ネルが曲がった魔法針を差し出す。
ガレスは針を受け取り、光にかざした。
目が細くなる。
それから作業台を指差した。
「置けってこと?」
ネルが聞く。
ガレスは頷いた。
俺は測定器を作業台に置いた。
ガレスは蓋、針、本体、外れた留め具を順番に並べた。動作が丁寧だ。無駄がない。壊れたものを前にした時の手つきに、焦りも苛立ちもない。
彼は工具を取った。
それから俺を見た。
ほんの少し。
「何だ」
俺が聞く。
返事はない。
代わりに、コレットが紹介する。
「ガレス・モルン先輩。三年生。第七部の整備担当みたいな人」
コレットが代わりに紹介した。
「みたいな?」
「正式には部員よ」
ガレスが小さく頷く。
「話さないのか」
俺はガレスを見た。
「話すわ」
「いつ」
「必要な時」
「今は?」
ガレスは測定器の内部を見ながら、低く言った。
「壊れてる」
「見れば分かる」
それきり、ガレスは黙った。
必要な時の基準が厳しい。
ネルが肩をすくめる。
「だいたいこんな感じ」
ネルが肩をすくめた。
「説明が少なすぎる」
「でも便利でしょ」
便利かどうかはまだ分からない。
ただ、ガレスが測定器に触れる手つきは確かだった。
魔法具の修理には、普通、微細な魔法制御が要る。内部に残った魔力を抜き、歪んだ術式を整え、部品同士の魔力同期を取る。手作業だけでできることには限界がある。
けれどガレスは魔法を使わなかった。
工具だけで蓋を外し、曲がった針の軸を確認し、壊れた魔力導線を細い金属線で仮止めしていく。
その横顔は、静かで、少しだけ楽しそうだった。
「魔法は使わないのか」
俺が聞くと、作業棟の空気が少し変わった。
ロイがあっと口を開き、ネルが眉をひそめ、コレットがこちらを見る。
地雷だったか。
まあ、この部活は床が全部地雷みたいなものだ。
ガレスは手を止めなかった。
少しして、低く答える。
「使うと壊れる」
ガレスが低く答えた。
「修理魔法じゃないのか」
「破壊」
ガレスは短く言った。
「物を壊す魔法しか使えない、と聞いた」
ガレスは頷いた。
「だから、手で直す」
ガレスは工具を持ったまま言った。
それだけだった。
それだけなのに、妙に重かった。
物を壊す魔法しか使えない人間が、壊れたものを直す。
皮肉にしては出来すぎている。
いや、欠陥魔法というものは、だいたい出来すぎた皮肉みたいな顔をしている。
俺は自分の手を見た。
魔法を使うたび、記憶を失う。
人から忘れられる。
旗奪競技の選手が、勝利のために魔法を使うほど、自分が何のために戦っていたのかを失っていく。
笑えない冗談だ。
「あの」
ロイが小さく手を上げた。
ちゃんと小さい。
「先輩、直りそうですか」
ロイが小さな声で聞いた。
ガレスは測定器の内部を覗いたまま、少しだけ首を傾げた。
「直る」
ロイの顔が明るくなる。
「本当ですか!」
ロイの声が一瞬だけ戻った。
鍋の蓋がかたんと鳴った。
ガレスは無言でロイを見た。
「すみません……」
ロイが小さくなる。
この二人、意外と相性がいいのかもしれない。
音が大きすぎる後輩と、無言で直す先輩。
うるさいものと、静かなもの。
壊すものと、直すもの。
第七部の組み合わせは、だいたい極端だ。
「修理にどれくらいかかる?」
コレットが聞いた。
ガレスは指を二本立てた。
「二時間?」
コレットが指の数を見て確認する。
頷く。
「じゃあ、その間に練習メニューを考えましょう。ルカ君」
コレットの視線が俺に移った。
「俺は帰る」
「まだ午後の授業まで時間があるわ」
「寮に荷物を置く」
「作業棟に置けるわ」
「置くな」
「スープもある」
コレットがさらりと言った。
ガレスが鍋の方を見た。
湯気。
香草。
野菜。
腹が鳴った。
今度は誰も何も言わなかった。
それが逆に腹立たしい。
「……一杯だけだ」
俺は言った。
コレットが嬉しそうに微笑む。
「ええ。一杯だけ」
その「だけ」は、信用できない響きだった。
*
ガレスのスープは、うまかった。
悔しいが、うまかった。
木の器に入れられたそれは、派手な料理ではない。細かく刻まれた根菜、少しの豆、干し肉の端、香草。味つけは薄いが、練習後に飲むにはちょうどいい。体の内側から温まる。
「どう?」
コレットが聞く。
「普通」
俺は器を見たまま答えた。
ガレスがこちらを見る。
無言。
圧がある。
「……うまい」
ガレスは小さく頷いた。
満足したらしい。
ネルがにやにやしている。
「素直に言えばいいのに」
ネルがにやにやしている。
「お前にだけは言われたくない」
「私は素直よ」
「むかつく、しか言わないやつが?」
「むかつくものをむかつくって言うのは素直でしょ」
「開き直りが強い」
ロイはスープを両手で持って、幸せそうに飲んでいた。
こうして見ると、ただの部活だ。
古い作業棟で、壊れた測定器を直す先輩を待ちながら、スープを飲む。
口の悪いやり取り。
雨漏りの話。
次の練習の相談。
欠陥魔法だの、巡業リーグだの、学校存続だの、そういう重い話を外せば、ただの午後前の隙間時間。
ただの部活。
俺は、そういうものを持っていたのだろうか。
前にも。
王都で。
誰かと。
スープの湯気の向こうに、白い記憶が揺れる。
金色の髪。
練習後の息。
差し出された水筒。
笑っていたのか。
怒っていたのか。
名前は分かる。
エレナ。
でも、その声が曖昧だ。
記憶の中の彼女は、いつも少し遠い。
「ルカ君」
コレットが俺を呼んだ。
まただ。
この部長は、俺が記憶の穴に足を取られるたび、妙なタイミングで呼び戻す。
「何だ」
俺は湯気から顔を上げた。
「午後の授業、同じ教室まで案内するわ」
「部長業務か」
「ええ」
「転入生案内係ではなく?」
「兼任」
「便利だな、部長」
「人手不足なの」
それは笑えない。
コレットはスープの器を置き、作業台に広げた古い紙をこちらへ向けた。
試合図。
旗奪競技の基本陣形。
攻撃役、防衛役、撹乱役、支援役、旗奪取役。
五人制の標準配置だ。
「第七部は、今年の巡業リーグに出る」
コレットが言った。
その声で、作業棟の空気が少し引き締まる。
「今年、一定以上の戦績を残せなければ、カルミアは競技部門を廃止される可能性が高いわ。競技部門がなくなれば、欠陥魔法持ちを受け入れる名目も消える。学校全体の存続にも関わる」
「重い話をスープの後にするな」
俺が言うと、コレットは少しだけ首を傾げた。
「空腹の時にするよりいいでしょう?」
「そういう問題じゃない」
ネルは目をそらした。
ロイは器を握る手に力を入れた。
ガレスは修理の手を止めない。
けれど聞いている。
全員が。
「今の第七部は、正式部員が十二人」
コレットは図面に駒を置きながら言った。
「意外といるな」
「問題児、転校生、欠陥魔法持ち、行き場のない子を集めたら、十二人になったの」
「集め方が雑」
「でも、十二人いる」
コレットは図面の上に、小さな駒を置いた。
五つ。
「試合に出るのは五人。残りは控え、作戦、旗設計、記録、補助に回る。全員が毎試合出られるわけではない」
「揉めそうだな」
俺は五つの駒を見た。
「揉めるわ」
「予言か」
「経験」
コレットは少しだけ苦笑した。
「でも、五人制だからこそ、組み合わせで戦える。欠陥魔法は単体では弱い。でも組み合わせれば、普通の魔法にはない勝ち筋が生まれる」
「理想論だ」
俺は言った。
「ええ」
「認めるのか」
「理想がなければ、こんな部活の部長はできないわ」
その言い方が、やけに静かだった。
コレットは小柄で、柔らかくて、頼りなさそうに見える。
けれど、この部の中心にいる。
負ける未来だけを見続けながら、それでも部員を集め、旗を設計し、巡業リーグに出ようとしている。
強いのか。
壊れかけているのか。
まだ分からない。
「ルカ君」
コレットが改めてこちらを見る。
「嫌な予感がする」
「あなたには、正式に第七魔法競技部へ入ってほしい」
コレットは逃げずに言った。
「断る」
即答した。
作業棟が静かになる。
ロイが何か言いかけて、口を閉じた。
ネルは俺を見ている。
ガレスは修理の手を止めた。
「理由を聞いてもいい?」
コレットが聞く。
「競技が嫌いだから」
俺は即答した。
「それだけ?」
「魔法を使えば記憶を失う。人から忘れられる。試合に出れば、俺はもっと消える」
言葉にすると、思っていたより重かった。
けれど、言うべきことだ。
俺はここに長くいるべきではない。
名前を呼ばれれば、呼ばれるほど。
誰かに必要とされれば、されるほど。
失う時に痛くなる。
「俺は役に立つかもしれない。でも、使えば壊れる道具だ。ガレス先輩の作業台に乗せるには、少し面倒すぎる」
皮肉に逃げた。
逃げたのに、誰も笑わなかった。
ガレスが低く言った。
「道具じゃない」
短い言葉だった。
だが、妙に重かった。
俺はガレスを見る。
彼は測定器を直しながら、もう一度言った。
「壊れるなら、直す」
ガレスは測定器から目を離さずに言った。
「記憶は直らない」
「なら、残す」
それだけ言って、ガレスはまた作業に戻った。
作業棟の中で、金属線を締める小さな音が響く。
残す。
何を。
記録か。
部誌か。
誰かの記憶か。
俺が忘れても、誰かが覚えていればそれでいいのか。
そんな簡単な話ではない。
忘れるのは俺だ。
失うのは俺だ。
誰かが覚えていても、その記憶は俺のものではない。
けれど。
もし、誰も覚えていなかったら。
その方が、もっと怖い。
コレットが静かに口を開いた。
「今すぐ試合に出てほしいとは言わないわ」
コレットの声は、さっきより慎重だった。
「勧誘の割に弱気だな」
「負け筋が見えるから」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「あなたを急に試合へ出せば、きっと壊れる。そういう未来はいくつか見える。でも、あなたがここから完全に離れてしまう未来も、私は怖い」
コレットはそう言って、俺を見た。
「それも見えるのか」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「ただの私の不安」
コレットは正直に言った。
正直だった。
この部長は、ときどきずるいくらい正直になる。
「だからまずは、仮入部でいい」
コレットが続けた。
「結局そこへ持っていくのか」
「ええ」
「仮入部と見学の違いは」
俺は警戒しながら聞いた。
「部室でスープを飲んでも罪悪感が減る」
「そんな理由で制度を作るな」
「練習メニューに口を出せる」
「見学でも出していた」
「部誌に名前が載る」
コレットが言った。
その言葉で、俺は黙った。
部誌に名前が載る。
記録に残る。
ルカ・ヴァレン。
第七魔法競技部。
仮入部。
たったそれだけの文字が、なぜか胸に引っかかった。
名前は、呼ばれなければ薄れていく。
記憶は、使えば失われる。
存在は、誰かが見失えば消えていく。
なら、書くことには意味があるのだろうか。
誰かが俺を忘れても。
俺が俺を忘れても。
紙の上に残っていれば。
「……仮だ」
俺は言った。
コレットが瞬きをする。
ネルが目を丸くする。
ロイが顔を輝かせる。
「仮、だぞ」
俺は念を押した。
「はい!」
ロイの声で鍋の蓋が跳ねた。
「声」
「はい」
今度は小さかった。
コレットは笑った。
明るくしようとしている笑顔ではなく、少しだけ本当に嬉しそうな笑顔だった。
「ようこそ、第七魔法競技部へ。仮だけど」
コレットは笑って言った。
「その念押しはいらない」
「大事でしょう?」
「俺にとってはな」
ガレスが作業台の上で、測定器の蓋を閉じた。
かちり。
音量測定器の魔法灯が、小さく点いた。
「直った」
ガレスが言う。
ロイが感動した顔で測定器を見た。
「ありがとうございます、ガレス先輩!」
ロイが感動した顔で言った。
今度は少し大きかった。
測定器の針が、ぴくんと揺れた。
全員が固まる。
針は、壊れなかった。
ガレスが無言で親指を立てた。
ロイが泣きそうな顔で笑った。
ネルが小さく吹き出す。
コレットが胸をなで下ろす。
俺は、その光景を見ていた。
古い作業棟。
湯気の残る鍋。
直った測定器。
壊す魔法しか使えない先輩。
音が大きすぎる後輩。
口の悪い同級生。
負ける未来だけを見る部長。
そして、仮入部したらしい俺。
帰る理由はいくらでもあった。
残る理由は、まだ名前にできない。
けれど、部誌に名前が載る。
そのことを考えると、胸の奥の痛みが少しだけ形を変えた。
失うためではなく。
残すために。
ここにいる。
そういう考えが、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
もちろん、すぐに打ち消した。
仮入部だ。
仮。
それ以上でも、それ以下でもない。
たぶん。




