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第2話 音が大きすぎる後輩と、逃げ癖のある旗

 ロイ・キャベルの声は、魔法ではなかった。


 少なくとも本人はそう主張した。


「違います! これは地声です!」


 ロイは胸を張って言った。


「その主張そのものがうるさい」


 俺が返す。


「すみません!」


「謝る時は音量を下げろ」


「はい!」


「下がってない」


 俺が言うと、ロイは両手で自分の口を押さえた。


 それでも「すみません」と聞こえた気がした。


 幻聴かもしれない。


 そう思いたかった。


 第七魔法競技部の部室は、朝から妙な熱気に包まれていた。いや、熱気というより混沌だ。雨漏りの桶が規則正しく音を立て、机の上では青い練習旗がこちらを警戒するように揺れ、ネル・アーレンは俺を見張るように腕を組んでいる。


 コレット・セインは、そんな状況をなぜか穏やかな顔で見ていた。


 部長とは、精神に異常な耐久性が求められる役職なのかもしれない。


「それで」


 俺は部室の入口に立ったまま言った。


「音量測定器が壊れたという話だったな」


「はい!」


 ロイが元気よく答える。


 窓がびりびり震えた。


 机の上の練習旗が、ぷいっと布の端を丸める。怒っているのか怯えているのかは分からないが、とにかく不快そうだった。


「壊れた原因は?」


 俺はロイを見た。


「僕が魔法を使いました!」


「だろうな」


「そしたら測定器が、ばーんって!」


 ロイが両手を広げる。


「擬音だけで説明するな」


「ロイの魔法は、発動音が大きすぎるの」


 コレットが補足した。


「大きすぎるというか、異常音域まで跳ねるのよ。魔力自体はそこまで強くないのだけど、発動時の音だけが競技場全体に響くくらい大きい」


「欠陥魔法か」


 俺が言うと、ロイはなぜか明るく頷いた。


「はい!」


 ロイが少し誇らしげに胸を張った。


「胸を張るところか?」


 俺は思わず聞いた。


「部長が、欠陥は使い方次第だって言ってくれたので!」


「便利な言葉だな」


「ルカ君」


 コレットが困ったように俺を見る。


「言い方」


 コレットがやんわり注意する。


「俺はまだ入部していない。部内の士気に配慮する義務はない」


「じゃあ見学者として、少しだけ優しく」


「見学者は普通、部員の欠陥魔法の説明を受けない」


「普通の部活じゃないから」


「知ってる」


 知っていた。


 入った瞬間に分かった。


 雨漏りする部室。


 逃げる練習旗。


 口の悪い平民女子。


 負ける未来だけが見える部長。


 発動音が大きすぎる後輩。


 普通という言葉は、ここではたぶん床の桶より役に立たない。


「で、測定器は?」


 俺は話を戻した。


「練習場です!」


「俺にどうしろと」


「見に行きましょう」


 コレットが当然のように言った。


「なぜ」


 俺が聞くと、コレットは少しも迷わなかった。


「ロイの発動音を、今日中に少しでも競技に使える形にしたいから」


「音がでかいだけなら、敵に位置を教えるだけだ」


「ええ。だから困っているの」


「困っているなら使わなければいい」


「でも、使えたら強い」


 コレットの声は静かだった。


 静かだが、妙に揺らがない。


「ロイの音は、奇襲には向かない。隠密にも向かない。けれど、陽動、合図、観客の注目、旗の誘導には使えるかもしれない」


 コレットは指を折るように可能性を並べた。


「かもしれない、で測定器を壊されたのか」


「ええ」


「部費は?」


「少ないわ」


「弁償は?」


「考えたくないわ」


「現実から目を逸らすな、部長」


 ネルが鼻で笑った。


「いいじゃない。元名門様なんだから、何か高尚な助言でもしてくれるんじゃない?」


 ネルの視線が俺に向く。


「高尚な助言。測定器を壊すな」


「普通すぎる」


「普通は大事だぞ。ここには特に足りてなさそうだ」


 ネルの眉が跳ねる。


「あんた、いちいちむかつくわね」


 ネルが眉を跳ねさせた。


「最初に喧嘩を売ってきたやつに言われたくない」


「売ったんじゃなくて、値踏みしたの」


「もっと悪い」


 ロイが俺とネルを交互に見た。


「仲いいんですね!」


 ロイが俺とネルを交互に見て言った。


「よくない」


「よくない」


 俺とネルの声が重なった。


 ロイは嬉しそうに笑った。


「息ぴったりです!」


 ロイは本気で感心していた。


「ロイ」


 コレットが優しく言った。


「火に油を注ぐのは、今はやめましょう」


「はい!」


 だから声が大きい。


 部室の青い練習旗が、ついに机の端から飛び降りた。


 ぴょん、と床へ。


 そのまま、桶の陰へ走る。


「あっ、また逃げた」


 コレットが声を上げる。


 ネルが素早く手を伸ばしたが、練習旗は桶の取っ手をくぐり、椅子の下へ滑り込んだ。


「ロイの声で怯えたな」


 俺は桶の陰へ逃げる旗を見ながら言った。


「すみません!」


 謝罪の音圧で、練習旗がさらに奥へ逃げた。


「謝るな。今だけは」


 俺が止める。


「えっ」


「謝罪が攻撃になってる」


 ロイは衝撃を受けた顔をした。


 たぶん悪いやつではない。


 悪いやつではないが、周囲への被害は出る。


 世の中にはそういう人間がいる。


「捕まえる?」


 コレットが俺を見た。


「俺を見るな」


「昨日、うまかったから」


「昨日じゃなくて、ついさっきだ」


「体感では昨日くらい濃かったわ」


「同感なのが嫌だ」


 俺はため息をつき、床の練習旗を見た。


 青い旗は椅子の下にいる。


 震えている。


 ロイの声に驚いたのは間違いない。だが、逃げる方向に癖がある。風を嫌い、水を嫌い、人の手を嫌い、けれど完全な暗闇には入らない。見通しが悪すぎる場所も避ける。


 怖がり。


 ただし、臆病なだけではない。


 逃げる時、常に次の逃走路を確保している。


 部室の練習旗としては優秀すぎる。


「ロイ」


「はい!」


「声を出すな」


 ロイは口を閉じ、勢いよく頷いた。


 その頷きにも音がつきそうだった。


「ネル」


「何」


「一瞬だけ、あの棚の上の布を落とせるか」


 俺は部室の壁際にある棚を指差した。古い布が畳まれている。たぶん競技旗の予備布か何かだろう。埃をかぶっているが、軽い。


「落とすだけなら」


「床には落とすな。椅子の右側にかぶせろ」


「細かい」


「一瞬しか魔力が出ないなら、細かい方が向いてる」


 ネルは一瞬だけ黙った。


 何か言い返そうとして、やめた顔だった。


「……分かった」


 彼女が指先を上げる。


 魔力が灯る。


 本当に短い。


 まばたき一つの間に生まれ、消える魔力。


 普通の授業なら、教師は眉をひそめるだろう。持続力がない。展開が不安定。基礎不足。そういう言葉で片づけられる。


 けれど今、その一瞬は十分だった。


 棚の布がふわりとずれ、椅子の右側に落ちる。


 逃走路が一つ塞がった。


 練習旗が反応する。


 左へ逃げようとする。


「ロイ」


 俺は小さく言った。


「今、床を一回だけ踏め」


 ロイは口を閉じたまま、全力で頷いた。


 そして床を踏んだ。


 どんっ。


 声ではない。


 魔法でもない。


 ただの足音。


 だが体重のかけ方が素直すぎて、床板が思ったより大きく鳴った。


 練習旗がびくりと止まる。


 一瞬。


 その一瞬で、コレットが屈み、両手でそっと包んだ。


「捕まえた」


 コレットの声が嬉しそうに弾んだ。


 ロイが口を押さえたまま、目だけで喜んでいる。


 ネルは布を拾いながら、こちらをじっと見ていた。


「あんた」


「何だ」


「ロイの音、魔法じゃなくても使った」


「今のは足音だ」


「そういう意味じゃない」


 ネルは苛立ったように髪をかき上げた。


「普通、欠陥魔法って、その魔法そのものをどう使うか考えるでしょ。でもあんた、ロイのうるささを性格とか体の使い方ごと見た」


「うるささを総合評価するな」


「褒めてるんだけど」


「分かりにくい」


「褒め慣れてないのよ」


「だろうな」


 ネルが睨む。


 けれど、その睨み方はさっきより少しだけ角が取れていた。


 コレットは練習旗を机に戻し、両手を合わせた。


「やっぱり、ルカ君は第七部に必要だわ」


「そういう結論に持っていくな」


「持っていったわけじゃなく、辿り着いたの」


「迷子の結論だ」


「着いたなら迷子じゃないわ」


 言い切られた。


 この部長、見た目よりずっと押しが強い。


 俺は部室の扉へ視線をやった。


 帰るなら今だ。


 受付は終わった。教室の場所も聞けば分かる。寮に荷物を置いて、午後から授業に出ればいい。第七魔法競技部などという、面倒の匂いしかしない部活からは距離を置くべきだ。


 競技は嫌いだ。


 俺はもう、あの場所へ戻らない。


 そう決めた。


 たぶん、何度も決めた。


 なのに。


 机の上の青い練習旗が、布の端を少しだけ持ち上げた。


 まるで、こちらを呼ぶように。


 名前もない小さな旗に呼ばれる義理はない。


 そもそも旗に呼ばれるとは何だ。


 疲れているのかもしれない。


「練習場を見るだけだ」


 俺は言った。


 コレットが目を細める。


「ええ」


「測定器を見たら帰る」


「分かったわ」


「入部はしない」


「聞いたわ」


「その顔は聞いていない顔だ」


「聞いている顔よ」


「信用できない」


「部長の信用は、これから積み立てるものだから」


「初期残高が低いな」


 コレットは笑った。


 ロイが元気よく手を上げる。


 口はまだ押さえている。


 偉い。


 いや、偉いの基準が低い。


「ロイ、もう喋っていいぞ」


 俺が言うと、ロイはぱっと顔を輝かせた。


「ありがとうございます!」


 部室の窓が震えた。


 青い練習旗が机の上でひっくり返った。


 ネルが耳を押さえた。


 コレットは苦笑した。


 俺は思った。


 やはり、帰るべきだった。


     *


 カルミア魔法学園の練習場は、校舎の裏手にあった。


 王都の競技場を見慣れた目には、正直、頼りない。


 広さはある。


 ただし、芝は場所によって伸び方が違い、白線は薄れ、観客席らしい石段には雑草が生えている。魔法障壁の支柱は古く、いくつかは補修跡が目立つ。旗の逃走用に設置された地形模型も、半分は歪んでいた。


 だが、完全な廃墟ではない。


 使われている。


 誰かが、使い続けている。


 それは見れば分かった。


 地面には新しい足跡がある。支柱の一つには新しい縄が巻かれている。訓練用の低い壁には、最近ついた焦げ跡が残っている。古い練習場を、今いる部員たちがどうにか生かしている。


 そういう場所だった。


「どう?」


 コレットが聞いた。


「ぼろい」


 俺は正直に答えた。


「正直ね」


「嘘をついてほしかったのか」


「少しだけ」


「趣がある」


「ありがとう。嘘でも嬉しいわ」


「ばれてるなら意味がない」


 ネルが横から口を挟む。


「王都の練習場と比べたら、そりゃぼろいでしょ」


 ネルが横から口を挟む。


「比べなくてもぼろい」


「あんた、本当に遠慮ないわね」


「先に言った方が親切なんだろ」


 ネルはぐっと言葉に詰まった。


 自分の言葉が返ってくるとは思っていなかったらしい。


「……むかつく」


「語彙が少ないな」


「増やす必要を感じない相手なの」


 ロイが楽しそうに見ている。


 その顔はやめろ。


 仲が良いわけではない。


 練習場の中央には、問題の音量測定器があった。


 いや、あったものが散らばっていた。


 木箱型の魔法具。音域を測り、発動音の強さを数値化するものだ。競技場では選手の魔法音が観客席や審判席へ過剰に影響しないように測定する。普通は頑丈に作られている。


 その普通は、ロイの前では無力だったらしい。


 測定器は蓋が外れ、内部の針が曲がり、側面にひびが入っていた。


「爆発したのか」


 俺は壊れた測定器を見下ろして言った。


「ばーんってなりました!」


「擬音説明はもう聞いた」


 俺はしゃがんで測定器を見た。


 内部の魔法針は、最大値のさらに先で止まっている。針が振り切れた衝撃で軸が曲がり、蓋を内側から押し飛ばしたのだろう。


「発動した魔法は?」


 俺はしゃがんだままロイに聞いた。


「光弾です!」


「威力は」


「弱いです!」


「堂々と言うな」


「はい!」


「下げろ」


「はい」


 少しだけ下がった。


 成長が早い。


 低いところで。


「見せて」


 コレットがロイに言った。


「はい!」


 ロイは練習場の端へ走っていく。的として置かれた古い木板に向かい、両足を開いた。


 ネルがさりげなく耳を塞ぐ。


 コレットも少し身構える。


 俺は塞がなかった。


 音を聞く必要がある。


「いきます!」


 ロイが練習場の端で構えた。


 ロイの右手に魔力が集まる。


 光弾。


 基礎中の基礎だ。


 魔力を圧縮し、指向性を持たせ、目標へ飛ばす。威力は術者の魔力量と制御精度に左右される。競技では牽制、妨害、旗の進路変更に使われる。


 ロイの魔力は、確かに弱かった。


 光弾の大きさは拳より小さい。色も薄い。速度も普通。


 だが。


「発射!」


 轟音が鳴った。


 空気が震えた。


 練習場の端にいた鳥が一斉に飛び立ち、俺の前髪が揺れ、壊れた測定器の蓋がさらに遠くへ転がった。


 光弾そのものは、木板に当たって小さく弾けた。


 傷は浅い。


 音だけが異常。


「……なるほど」


 俺は耳の奥に残る震えを感じながら言った。


「これは嫌われる」


「やっぱりですか!?」


 ロイが目を丸くする。


「褒めてない」


「知ってます!」


「明るいな」


 ロイは照れたように笑った。


 嫌われ慣れている笑い方ではない。


 嫌われても、嫌われたことをまだ全部飲み込めていない笑い方だ。


 俺は少し黙った。


 ロイの音は、競技では致命的だ。


 位置がばれる。


 作戦がばれる。


 味方の集中を乱す。


 旗を怯えさせる。


 審判から注意を受ける可能性もある。


 けれど、音そのものに魔力が乗っているわけではない。つまり、攻撃音ではなく発動音。なら、規定上は反則ではない。音量制限に引っかかるかどうかは、測定器を直して測る必要があるが。


 使い道はある。


 嫌になるほど。


「部長」


 俺はコレットを見た。


「何?」


「ロイは今まで、音を抑える練習をしていたのか」


「ええ」


「成果は」


「測定器が三台壊れたわ」


「逆方向に才能があるな」


 ロイが嬉しそうにする。


「褒めてない」


「はい!」


「だから声」


「はい」


 今度はちゃんと下がった。


「抑えるより、鳴らす場所を決めた方がいい」


 俺は言った。


 コレットの目がわずかに開く。


 ネルが腕を組み直した。


「どういう意味?」


 コレットが聞く。


「音が消せないなら、音を出す意味を作る。合図、囮、進路制御。さっき部室で床を踏ませたのと同じだ」


「でも、発動するたびに場所がばれる」


 ネルが口を挟んだ。


「ばれていい場所で撃てばいい」


「敵が寄ってくるわ」


「寄せたい時に撃てばいい」


 ネルが黙った。


 コレットは考え込むように練習場を見た。


「旗にも使える?」


 コレットの目が少しだけ明るくなる。


「性格による。怖がりな旗なら、逃げ道を絞れる。目立ちたがりの旗なら、逆に寄ってくるかもしれない。観客の声に反応する旗なら、ロイの音で環境を変えられる」


「観客の声に?」


「旗は土地やチームの性質を映す。興行性の強い学校なら、観客反応に寄る旗を使うこともある」


「王都では、そういう旗も?」


 コレットが静かに聞いた。


「あった」


 言ってから、胸の奥が小さく痛んだ。


 あった。


 見たことがある。


 誰と。


 観客席の歓声。


 白い競技場。


 隣に立つ誰か。


 金色の髪。


 唇が動く。


 ルカ、と。


 呼んだ気がした。


 けれど声が聞こえない。


 思い出そうとした瞬間、記憶は水面の光みたいに割れた。


「ルカ君?」


 コレットの声。


 俺は瞬きをした。


「何だ」


 俺は瞬きをして、コレットを見返した。


「今、少しぼうっとしていた」


「音がでかすぎて意識が飛んだ」


「すみません!」


「違う。いや、少しは違わないが、今は謝るな」


 ロイがまた口を押さえる。


 ネルは俺をじっと見ていた。


 さっきまでの敵意とは違う。


 何かを測る目。


「あんた、さ」


 ネルは俺を測るように見た。


「何だ」


「本当に競技嫌いなの?」


 嫌いだ。


 そう答えるつもりだった。


 けれど、また口が動かなかった。


 どうして。


 自分でも分からない。


 嫌いなら嫌いでいい。


 戻らないなら戻らないでいい。


 なのに、旗の性格を見て、音の使い道を考えて、練習場の地形を目で追っている。


 体が先に覚えている。


 心が拒んでも、目と耳と指先が競技を覚えている。


 それが腹立たしかった。


「嫌いだ」


 今度は言えた。


 ネルは少しだけ目を伏せた。


「そう」


 ネルは少しだけ目を伏せた。


「何だ、その反応」


「別に」


「言いたいことがあるなら言え」


「あるけど、今はやめとく」


「珍しく賢明だな」


「やっぱり言おうかな」


「やめろ」


 コレットがぱん、と小さく手を叩いた。


「では、見学者の助言をもとに、ロイの発動音を使った旗誘導練習をしましょう」


 コレットがぱん、と小さく手を叩いて言った。


「見学者を巻き込むな」


「助言したからには、最後まで見届ける責任があるわ」


「ない」


「あることにしましょう」


「勝手に制度を作るな」


「第七部は制度が少ないから、作り放題なの」


「それは組織として終わっている」


 コレットはにこりと笑った。


「でも、まだ終わっていないわ」


 その言葉に、なぜか誰もすぐには返さなかった。


 練習場を風が抜ける。


 壊れた測定器の針が、かすかに揺れた。


 まだ終わっていない。


 カルミアも。


 第七魔法競技部も。


 たぶん、ここにいる欠陥魔法持ちたちも。


 そして俺も。


 そう言われた気がして、俺は少しだけ居心地が悪くなった。


「ルカ先輩!」


 ロイが手を上げた。


「先輩ではない」


「でも二年生ですよね!」


「入部していない」


「じゃあルカさん!」


「距離の詰め方が雑だ」


「僕、どこで撃てばいいですか!」


 ロイはまっすぐ聞いてきた。


 まっすぐ聞いてくる。


 疑わない目。


 人から必要とされることに、慣れていないわけではなかったはずだ。


 昔は。


 誰かと一緒に、頂点を目指していた頃は。


 たぶん。


 けれど今、その感覚はところどころ穴が空いている。


 必要とされた記憶が、薄い。


 誰が、どんな声で、俺に何を頼んだのか。


 思い出そうとしても、うまく掴めない。


 だからロイの声は、うるさくて、眩しくて、少し痛かった。


「……あの低い壁の裏」


 俺は練習場の左側を指差した。


「旗が中央から右へ逃げたら撃て。狙いは旗じゃない。旗の右後ろの地面だ」


「地面ですか?」


 ロイが聞き返す。


「音で押す。光弾は当てるな」


「はい!」


「声」


「はい」


 ロイは走っていった。


 コレットが部室から連れてきた青い練習旗を、練習場の中央に置く。


 旗はすぐに逃げようとした。


 ネルが一瞬魔法で進路を折る。


 青い旗が右へ跳ねる。


 ロイが撃つ。


 轟音。


 旗が怯えて、左へ戻る。


 そこへコレットが先回りする。


 捕まらない。


 旗は彼女の手前で急停止し、後ろへ跳ぶ。


「ネル、布」


 俺が叫ぶ。


「分かってる」


 一瞬の魔力で、地面に置いた訓練布が跳ねる。


 旗の逃げ道がまた変わる。


 ロイの音。


 ネルの一瞬。


 コレットの先読み。


 三つとも、単体では不完全だ。


 うるさいだけ。


 一瞬だけ。


 負ける未来だけ。


 けれど組み合わさると、旗の逃走路が少しずつ削れていく。


 青い旗はついに、練習場の端へ追い込まれた。


 コレットが手を伸ばす。


 その瞬間、旗は地面のくぼみに支柱を引っかけ、ありえない角度で跳ねた。


 上。


 誰も見ていなかった。


 いや。


 俺は見ていた。


「ロイ、撃つな!」


 叫んだ。


 ロイの手に集まっていた魔力が揺れる。


 撃っていたら、旗は音に驚いてさらに跳ね、コレットの顔へぶつかっていた。


 ロイは必死に魔法を止めた。


 止めた、というより不発にした。


 その不発音だけで、練習場が小さく震える。


 旗が空中で一瞬固まった。


 ネルが舌打ちしながら走る。


 魔力はもう出ない。


 一瞬しか使えないから。


 けれど彼女は手を伸ばした。


 届かない。


 俺の足が、勝手に動いた。


 走る。


 体が覚えている。


 旗の落下点。


 風の向き。


 ネルの届かない距離。


 コレットの体勢。


 ロイの位置。


 全部、見える。


 嫌になるほど。


 俺はネルの横を抜け、落ちてくる旗へ手を伸ばした。


 捕まえる。


 その直前、旗が俺の指先でまた迷った。


 見失ったのだ。


 俺の存在を。


 その一瞬の迷いを、俺は利用した。


 布の端ではなく、支柱の下を押さえる。


 青い旗がぴたりと止まった。


 練習場が静かになる。


 俺の手の中で、旗が小さく震えていた。


 怖がっている。


 けれど、逃げない。


「……捕まえた」


 ロイが小さく言った。


 本当に小さかった。


 初めて、普通の声量に近かった。


「ルカさん、すごいです」


 ロイは今度も小さな声で言った。


 その言葉が、まっすぐ胸に入ってきた。


 俺はすぐに皮肉を返そうとした。


 すごくない。


 たまたまだ。


 元名門ならこのくらい。


 入部はしない。


 いくらでも言えたはずだ。


 けれど、言葉が出なかった。


 手の中の旗が、布の端で俺の指に触れている。


 誰かに必要とされた記憶。


 それは失われていく。


 魔法を使えば、もっと。


 けれど今のこれは、まだ失われていない。


 ロイの声。


 ネルの視線。


 コレットの笑顔。


 古い練習場の風。


 青い旗の震え。


 今ここにあるものなら、まだ覚えていられる。


「ルカ君」


 コレットが近づいてきた。


 彼女は旗を受け取ろうとはしなかった。


 ただ、俺の手の中の旗を見て、静かに言った。


「ありがとう」


 コレットが言った。


「見学の範囲を超えてる」


「ええ」


「認めるな」


「でも、助かった」


 その言葉はずるい。


 皮肉で返しにくい。


 ネルが腕を組んで、そっぽを向いた。


「まあ、少しは使えるかもね」


 ネルがそっぽを向いたまま言った。


「褒めるのが下手すぎる」


「褒めてない」


「さっきも同じような流れを見た」


「じゃあ学習して」


 ロイが拳を握った。


「僕、もっと練習します! 音を消すんじゃなくて、使えるようにします!」


 ロイが拳を握った。


「まず声量から練習しろ」


「はい!」


「戻った」


「すみません!」


「謝るな」


 青い旗が俺の手の中で、ぴくりと動いた。


 まるで笑ったように。


 旗が笑うわけがない。


 でも、そう見えた。


 コレットは練習場の端に転がった壊れた測定器を見て、少し困った顔をした。


「測定器、どうしましょう」


 コレットが壊れた測定器を見て言った。


「弁償」


「現実的ね」


「現実だからな」


「ガレス先輩なら直せるかな」


 ネルが言った。


「ガレス?」


 俺が聞き返す。


「三年の先輩。無口ででかくて、夜食作るのがうまくて、壊れたものを直すのが好き」


「便利な先輩だな」


「でも魔法では物を壊すことしかできない」


「……この部、本当にそういうのばかりだな」


 コレットが微笑む。


「ええ。そういう部なの」


 そういう部。


 欠陥魔法持ちが集まる、廃部寸前の第七魔法競技部。


 普通なら、近づくべきではない。


 面倒に決まっている。


 痛い記憶に触れるに決まっている。


 また失うに決まっている。


 それでも俺は、手の中の青い旗をすぐには離さなかった。


 怖がりな旗は、もう逃げなかった。


 俺が捕まえているからではない。


 たぶん、こちらを見ていた。


 誰にも呼ばれない転入生を。


 名前を忘れられていく俺を。


 この古い練習場で、まだ終わっていない何かとして。


 その視線が、少しだけ痛かった。


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