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第1話 誰にも呼ばれない転入生

 ルカ・ヴァレンの名前は、王都の競技場から消えた。


 正確には、記録にはまだ残っている。


 王都南区選抜、元推薦候補、旗奪競技の観察眼に優れた有望選手。書類だけなら、そう書ける。昔の試合表を掘り返せば、俺の名前はたぶん見つかる。相棒の名前の隣に、勝利数と、捕獲補助の回数と、将来性を褒める短い評語つきで。


 けれど、観客はもう俺の顔を思い出せない。


 かつて隣に立っていた相棒の声も、俺の中ではところどころ欠けている。


 魔法を使うたび、記憶が削れる。


 ついでに、人から認識されにくくなる。


 そんな選手に、名門の椅子は残らなかった。


 だから俺は、カルミア魔法学園の校門の前にいた。


 その校門は、思っていたよりも低かった。


 王都の学園みたいに、金属の獅子が門柱に乗っているわけでもない。正門の上に刻まれた校名は雨風で削れていて、魔法灯も昼間だというのに一つだけ頼りなく点滅している。門扉の片側は少し傾いていて、開け閉めするたびにきっと嫌な音がするのだろうと、見るだけで分かった。


 名門だった。


 案内書にはそう書いてあった。


 かつては王立レガリア魔法学院と並び称された地方の古豪。魔法旗奪競技において、幾度も巡業リーグの上位に食い込んだ伝統校。現在は少人数教育を重視し、各生徒の特性に合わせた指導を行う。


 まあ、案内書というものは便利だ。


 廃校寸前、競技成績は低迷、生徒数は年々減少、連盟から問題児と欠陥魔法持ちを押しつけられる受け皿校。


 そういうことを、少人数教育という言葉に包める。


「……なるほど。だいぶ少人数だ」


 俺は校門の向こうに広がる中庭を見ながら、ひとりで呟いた。


 誰もいなかった。


 朝の登校時間は少し過ぎている。けれど、王都の学園ならまだ門の近くに生徒が残っている時間だ。友人を待つ者、教師に呼び止められる者、遅刻ぎりぎりで走り込む者。どんな学校でも、入口には多少のざわめきがある。


 カルミアには、それがなかった。


 風が古い校舎の窓を鳴らしているだけだった。


 俺は鞄の紐を握り直し、門をくぐった。


 その瞬間、校門脇の小さな魔法灯がぱちんと弾けた。


「歓迎の花火にしては、貧相だな」


 もちろん返事はない。


 返事がないことには慣れている。


 慣れたくはなかったが、慣れた。


 今の俺に残っている肩書きは、転入生くらいのものだ。それも、受付の教師が俺の名前をちゃんと覚えていればの話だけど。


 中庭を抜けると、正面に本校舎があった。古い石造りの三階建てで、蔦が壁の半分を覆っている。窓は磨かれているところと曇ったところが混在していて、手入れの行き届かなさと、まだ諦めていない誰かの手つきが同時に見えた。


 校舎に入ると、廊下には木と薬草と古い紙の匂いがした。


 悪くない。


 悪くないと思ってから、俺は少しだけ嫌な気分になった。


 こういう匂いを、前にも好きだと思ったことがある気がしたからだ。


 どこで。


 誰と。


 考えようとすると、頭の奥で薄い布が揺れる。そこに何かがあるのは分かる。形も重さもある。けれど指を伸ばした瞬間、布ごと向こうへ逃げていく。


 忘れたのか。


 最初からなかったのか。


 その区別が、最近はときどき分からなくなる。


「転入生?」


 声がした。


 振り向くと、廊下の曲がり角に女子生徒が立っていた。


 小柄だった。


 いや、小柄というより、廊下の古い柱や高い窓のせいで余計に小さく見えるのかもしれない。肩までの淡い栗色の髪をきちんと結び、制服の上に少し大きめのカーディガンを羽織っている。胸元には上級生を示す銀の小さなピン。


 上級生。


 なのに第一印象は、迷子の後輩だった。


「たぶん」


 俺が答えると、彼女は首をかしげた。


「たぶん?」


「受付に行く前に誰かから『帰っていい』と言われる可能性もある」


「それは困るわ」


「そっちが?」


「ええ。だって、せっかく来てくれたんだもの」


 彼女はにこりと笑った。


 その笑顔は、明るいというより、明るくしようとしている笑顔だった。


 俺はその手の笑顔を知っている。


 だいたい、面倒な人間がする。


「名前は?」


「ルカ・ヴァレン」


 彼女は一瞬だけ目を伏せた。


 ほんの一瞬。


 けれど俺は、それを見逃せなかった。


「……ああ」


「今の『ああ』には、何種類か嫌な意味が含まれていそうだ」


「ごめんなさい。そういうつもりじゃないの。ただ、聞いていた名前だったから」


「有名人で悪かったな」


「有名というより……」


 彼女は言葉を選ぶように少し黙った。


 廊下の窓から、風が入った。壁に貼られた古い行事予定表がかさりと鳴る。


「必要な人だと思っていたの」


 俺は眉をひそめた。


「俺が?」


「ええ」


「人違いだな。必要な人間は、王都の選抜候補からカルミアに流れてきたりしない」


「そうかしら」


「そうだろ」


「じゃあ、まだ分からないということにしておきましょう」


 会話が噛み合っているようで、噛み合っていない。


 彼女は一歩近づき、胸に手を当てた。


「私はコレット・セイン。三年生。第七魔法競技部の部長をしています」


「第七?」


「ええ。第七」


「第一から第六は?」


「ないわ」


「だろうな」


「あったのよ、昔は」


 コレットは廊下の奥を見た。


 その視線の先に、古い階段がある。立入禁止の札が斜めにぶら下がっていて、そこだけ空気が少し冷たい。


「カルミアがまだ強かった頃、魔法競技部は七つあったの。第一は王道の攻撃型、第二は防衛、第三は偵察、第四は旗設計、第五は研究、第六は演武、そして第七は……」


「雑用?」


「失礼ね」


「じゃあ何だ」


「全部を少しずつ」


「雑用じゃないか」


 コレットは笑った。


 怒らないのか。


 そう思った。


「今は第七だけが残っているの。だから、ただの第七じゃないわ。カルミア最後の魔法競技部」


「最後という言葉は便利だな。格好よく聞こえる」


「ええ。だから使っているの」


 正直だった。


 俺は少しだけ返す言葉に困った。


「受付はどこだ」


「案内するわ」


「部室以外に」


「もちろん」


 コレットは自然な顔で歩き出した。


 俺は二歩遅れてついていく。


 廊下には生徒の姿がちらほらあった。少ない。けれどゼロではない。教室の中から声も聞こえる。カルミア魔法学園は、まだ完全には死んでいないらしい。


 すれ違った生徒が、コレットに会釈した。


「おはようございます、セイン先輩」


「おはよう」


 その生徒は俺の方をちらりと見た。


 目が合った。


 はずだった。


 けれど次の瞬間には、彼は何も見なかったように歩き去っていた。


 俺は足を止めかけた。


 コレットも止まった。


「どうしたの?」


「いや」


「今の子、あなたを無視したわけじゃないと思う」


「慰めが早いな」


「慰めじゃないわ。確認」


 コレットの声は柔らかい。


 けれど、その目は妙に真剣だった。


「ルカ・ヴァレン。あなたの欠陥魔法について、少しだけ聞いている」


「だったら話が早い。俺を競技部に誘うのはやめた方がいい」


「どうして?」


「知っているなら分かるだろ。旗奪競技どころか、日直にも向いてない」


「日直は黒板を消せればできるわ」


「そこは励ますところじゃない」


「それに、あなたは完全に消えているわけじゃない」


「今のところはな」


 俺はわざと軽く言った。


 軽く言えば、重い話ではなくなる。


 少なくとも、少しの間は。


「競技は嫌い?」


 コレットが聞いた。


 不意打ちだった。


 俺は答えなかった。


 嫌い。


 そう言えばいい。


 実際、嫌いになったはずだ。


 あのフィールドの白い線も、観客席の熱も、旗が逃げるときの魔力の匂いも、試合前に手袋を締める感覚も、全部。


 嫌いになった。


 嫌いになったから、ここにいる。


 なのに、口が動かなかった。


「嫌いなんでしょうね」


 コレットは、俺の代わりに言った。


「だったら」


「でも、目は追っていたわ」


「何を」


「さっき廊下に貼ってあった、去年の巡業リーグ表」


 俺は無意識に振り返りかけた。


 振り返ってから気づく。


 確かに廊下の壁に、古い試合表が貼られていた。色あせた紙。カルミアの名前は下の方。ほとんど黒星。


 見ていた。


 見たくもないのに。


「癖だ」


「いい癖ね」


「悪い癖だ」


「じゃあ、悪い癖を少しだけ貸して」


「嫌だ」


「まだ何も言っていないわ」


「言う前から嫌な予感がする」


 コレットはまた笑った。


 彼女は笑うたびに、少しだけ疲れて見えた。


 受付のある職員室まで案内され、転入手続きは拍子抜けするほど簡単に終わった。担当教師は俺の書類を三度見直し、二度名前を間違え、一度俺の存在を忘れて別の書類を取りに行った。


 最後に戻ってきたとき、教師は申し訳なさそうに頭を下げた。


「すまない、ヴァ……」


「ヴァレンです」


「そう、ヴァレン君。最近どうにも忙しくてね」


「よくあることです」


 嘘だ。


 よくあることではない。


 でも、俺にはよくある。


 職員室を出ると、コレットはまだ待っていた。


「暇なのか、部長」


「授業は?」


「転入初日だから午後からでいいと言われた」


「私は自習時間」


「つまり暇か」


「部長業務よ」


「転入生を捕獲するのが?」


「ええ。とても重要」


 コレットはそう言って、俺の鞄をちらりと見た。


「荷物、寮に置く?」


「先に教室を見たい」


「本当に?」


「本当に、とは」


「第七魔法競技部の部室を見たい顔をしている」


「していない」


「しているわ」


「人の顔を勝手に読むな」


「ごめんなさい。癖なの」


 その言い方が、少し引っかかった。


 癖。


 ただの観察癖にしては、コレットの目は迷いがなさすぎた。


 さっきから彼女は、俺が言葉にする前の反応を拾いすぎている。


「部長」


「何?」


「お前の魔法は?」


 コレットは足を止めた。


 廊下の先で、誰かの笑い声が小さく響く。それが遠ざかってから、彼女は答えた。


「未来が見えるの」


「便利だな」


「便利だったら、ここはもう少し強い部活になっているわ」


「じゃあ何が見える」


「負けるところ」


 短い答えだった。


「勝つ未来は見えない。見えるのは、失点する瞬間、旗を奪われる瞬間、仲間が倒れる場面、作戦が破綻するところ。そういうものだけ」


「……趣味が悪い魔法だな」


「ええ。本当に」


 コレットは冗談にしなかった。


 俺は少し後悔した。


 皮肉は便利だ。


 けれど、ときどき相手の傷口にそのまま刺さる。


「だから負けないための準備はできるの。勝つ方法は、いつも誰かに見つけてもらうしかないけれど」


「その誰かが俺だと?」


「候補の一人」


「買いかぶりだ」


「そうかもしれない」


「否定しないのか」


「買いかぶっているかどうかは、試してみないと分からないもの」


 ああ。


 やっぱり面倒な人間だ。


 そう思った。


 けれど、俺はなぜかその場を離れなかった。


 教室へ行く道と、古い階段へ向かう道。


 コレットは何も言わず、二つの分かれ道の手前で立っていた。


 こちらに選ばせるつもりらしい。


 ずるい。


 人に選ばせるやつは、だいたいずるい。


「見るだけだ」


「ええ」


「入部はしない」


「分かったわ」


「分かってない顔だ」


「そう?」


「そうだ」


 俺は古い階段へ向かった。


 階段は軋んだ。


 踏むたびに、校舎の奥で眠っていたものを起こしているような音がする。壁には昔の試合写真が並んでいた。色あせているが、写っている生徒たちの顔はどれも誇らしげだった。


 その中に、いくつもの旗があった。


 古い競技旗。


 布と骨組みと魔力で作られた、意思を持つ競技具。


 旗奪競技の中心。


 選手たちは旗を奪い、守り、追い、騙し、時には説得する。旗はただの目標物ではない。逃げる。隠れる。怒る。怖がる。好みもある。土地の魔力やチームの性質を映す。


 昔、俺は旗を読むのが得意だった。


 たぶん。


 誰かに、そう言われた。


 誰に。


 思い出そうとした瞬間、頭の奥が痛んだ。


 白い光。


 観客の声。


 金色の髪が揺れる。


 まっすぐな目。


 エレナ。


 名前だけが浮かんだ。


 その先がない。


「大丈夫?」


 コレットの声で、俺は我に返った。


「何が」


「顔色が悪い」


「元からだ」


「そういう返事は便利ね」


「使うか?」


「私は遠慮しておくわ」


 階段を上りきると、廊下の一番奥に扉があった。


 扉には木の板が打ちつけられている。


 そこに、手書きの文字。


 第七魔法競技部。


 字は丁寧だったが、板は古く、釘は曲がっていた。


「ここよ」


「廃倉庫の間違いじゃないのか」


「半分くらいは正解」


 コレットが扉を開けた。


 最初に聞こえたのは、水の音だった。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


 天井から雨漏りしている。


 床には桶が三つ置かれていた。


 次に見えたのは、壁一面の作戦図。古い紙、新しい紙、書きかけの紙。線と矢印と旗の絵が絡まり合って、何が何だか分からない。


 奥には壊れた訓練人形。


 窓際には工具箱。


 棚には古い試合記録。


 そして部室の中央には、小さな旗がいた。


 いた。


 そう表現するしかなかった。


 掌より少し大きい練習旗が、机の上でぴょんぴょん跳ねていた。布地はくすんだ青。端は少し破れている。木製の小さな支柱を足のように使い、こちらを見ている。


 目はない。


 でも、見ていると分かる。


「……本当に廃倉庫じゃないか」


 俺が言うと、部室の中から声が飛んできた。


「誰が廃倉庫ですって?」


 机の下から女子生徒が顔を出した。


 短い黒髪。鋭い目。手には工具のようなもの。制服の袖はまくり上げられ、頬に煤がついている。


 彼女は俺を見るなり、露骨に眉を寄せた。


「あんたが例の転入生?」


「例が多すぎて分からない」


「元名門の、落ちてきた人」


 ずいぶん遠慮がない。


 コレットが慌てて口を挟む。


「ネル」


「事実でしょ、部長」


「言い方」


「じゃあ、元名門から諸事情で地方校に転入なさった、とてもご立派な方?」


「悪意が増えたわ」


 ネルと呼ばれた女子は、工具を机に置いて立ち上がった。


「ネル・アーレン。二年。平民。貴族と元名門と、自分は特別ですって顔したやつが嫌い」


「自己紹介が攻撃的すぎる」


「先に言っておいた方が親切でしょ」


「そうか。俺はルカ・ヴァレン。二年。元名門。自分が特別だった時期はたぶん終わった。嫌いなものは面倒な部活勧誘」


 ネルは目を細めた。


「皮肉屋」


「工具持って机の下から出てくるやつに言われたくない」


「これは工具じゃなくて、旗の反応針」


「工具だろ」


「反応針」


「工具にしか見えない」


「見る目がない」


「元名門だからな」


 ネルが一歩前に出た。


 その瞬間、机の上の練習旗がぴょんと跳ねた。


 逃げた。


 俺とネルの間から、するりと。


「あっ」


 コレットが声を上げる。


 練習旗は床に降り、部室の隅へ走り出した。小さいくせに速い。桶の間を抜け、椅子の脚を避け、壊れた訓練人形の陰へ飛び込む。


「また逃げた!」


 ネルが叫んだ。


「また?」


「あの子、今日だけで七回目」


 コレットが困ったように笑う。


「人見知りなの」


「旗が?」


「旗だから」


 意味が分からない。


 でも、旗奪競技ではだいたいそういうものだ。


 練習旗は訓練人形の背後で小刻みに震えている。怖がっているのか、こちらをからかっているのか。布の端がぴくぴく揺れていた。


「ネル、お願い」


「無理。さっきから私の魔力じゃ一瞬しか止まらない」


「一瞬止まるなら十分じゃない」


「その一瞬の後に逃げるのよ」


 ネルは舌打ちした。


 その足元に、焦げ跡がいくつもある。たぶん何度も試したのだろう。


「ルカ君」


「嫌だ」


「まだ何も言ってないわ」


「旗を捕まえろだろ」


「見るだけでも」


「入部しないと言った」


「見学の範囲よ」


「見学とは、見ることだ。捕獲は含まれない」


「じゃあ、見て」


 コレットはそう言った。


 それだけだった。


 俺はため息をつき、練習旗を見た。


 青い布。


 古い支柱。


 破れた端。


 逃げる方向は常に、窓から遠い場所。風を嫌っている。けれど湿った床も避けている。桶の近くは通らない。訓練人形の陰に入ったのは、そこが暗いからではなく、背後に壁があり、近づく経路が二つしかないから。


 賢い。


 いや、怖がりだ。


 怖がりだから、賢く見える。


「右から行くと左へ逃げる」


 俺は言った。


 ネルがこちらを見た。


「そんなの分かってる」


「左から行っても右へ逃げる」


「だから何」


「上から来るものを気にしていない」


 ネルの目がわずかに動いた。


「……天井?」


「雨漏りの滴」


 ぽちゃん。


 桶に水が落ちる。


 練習旗はその音に反応しない。


 聞き慣れているのだろう。


「次に水が落ちるタイミングで、一瞬だけ魔力を出せるか」


「一瞬だけなら、私の専門」


「自慢にならない専門だな」


「うるさい。で、どこに」


 俺は訓練人形の上、斜めに傾いた古い模擬剣を指差した。


「あれを少し揺らせ」


「落とすの?」


「落とすな。揺らすだけ。影を動かせ」


 ネルは一瞬だけ俺を見た。


 疑っている。


 でも、試したい顔でもあった。


「失敗したら?」


「旗が逃げる」


「今も逃げてる」


「じゃあ損はない」


「むかつく言い方」


 ネルは右手を上げた。


 魔力が灯る。


 本当に一瞬だった。


 光ったと思った次の瞬間には消えている。普通なら不発扱いだ。継続できない魔力。競技では欠陥と呼ばれる。


 けれど、その一瞬で模擬剣の柄がかすかに揺れた。


 天井から水が落ちる。


 ぽちゃん。


 同時に、訓練人形の影が練習旗の上を横切った。


 練習旗が跳ねた。


 右でも左でもない。


 前へ。


 俺の方へ。


 怖がりは、予想外の影から一番広い逃げ道へ出る。


 俺は手を伸ばした。


 捕まえる。


 その直前、青い旗が俺の指先をすり抜けた。


 すり抜けた、というより。


 俺の手を、相手が見失った。


 旗が一瞬だけ迷う。


 その隙に、コレットが布の端をそっと掴んだ。


「捕まえた」


 部室が静かになった。


 ネルが目を丸くしている。


 コレットは練習旗を両手で包み、優しく机に戻した。


 旗は少し震えたあと、なぜか俺の方へ布の端を向けた。


 見ている。


 また、そう思った。


「今の」


 ネルが低い声で言った。


「何」


「あんた、旗の動き読んだ?」


「見れば分かる」


「分からないから七回逃げられてたんだけど」


「観察不足だな」


「むかつく」


「お互い様だ」


 ネルはしばらく俺を睨んでいた。


 それから、ふいっと顔をそらした。


「でも、使える」


「人を工具みたいに言うな」


「反応針よりは使えそう」


「工具じゃないのか」


「反応針」


 コレットが小さく笑った。


 練習旗は机の上で、今度は逃げなかった。


 俺はその旗を見ていた。


 小さな青い布。


 怖がりで、賢くて、古くて、どこか忘れられたもののような旗。


 胸の奥が、また少し痛んだ。


 この痛みを知っている気がする。


 けれど、名前が出てこない。


「ルカ君」


 コレットが俺を呼んだ。


 名前を。


 はっきりと。


 俺は顔を上げた。


「第七魔法競技部へようこそ」


「入部しない」


「見学へようこそ」


「それなら、まあ」


 言いかけたとき、部室の扉が勢いよく開いた。


「部長ー! 大変です! 練習場の音量測定器がまた壊れました!」


 飛び込んできた男子生徒が叫んだ。


 叫んだだけで、窓ガラスがびりびり震えた。


 練習旗が机の上でひっくり返った。


 ネルが耳を塞いだ。


 コレットは困ったように微笑んだ。


 俺は無言で扉の方を見た。


 人懐っこそうな顔をした男子後輩が、満面の笑みで立っている。


「あれ、新入部員ですか?」


「違う」


 俺は即答した。


 男子後輩は、ぱっと明るい顔になった。


「じゃあ、これからですね!」


「どういう理屈だ」


「ロイ・キャベルです! よろしくお願いします、先輩!」


「声がでかい」


「すみません!」


「謝罪もでかい」


「よく言われます!」


 部室の天井から、また水が落ちた。


 ぽちゃん。


 青い練習旗が、机の上でゆっくり起き上がる。


 そしてなぜか、俺の方へ一歩だけ近づいた。


 俺はその小さな旗を見下ろした。


 嫌な予感がする。


 とても嫌な予感がする。


 競技は嫌いだ。


 魔法も、思い出せない過去も、観客の声も、白いフィールドも、全部。


 嫌いになったはずだ。


 けれど、この古い部室には、雨漏りの音と、煤けた机と、騒がしい後輩と、口の悪い同級生と、負ける未来だけを見る部長と、怖がりな旗があった。


 そして誰かが、俺の名前を呼んだ。


 それだけで。


 ほんの少しだけ。


 帰るのを、後回しにしてもいい気がした。


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