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第24話 見栄の置き場所

 レイナ・オルコット先輩は、朝から機嫌が良かった。


 珍しい。


 いや、普段から不機嫌というわけではない。


 ただ、レイナ先輩の機嫌の良さは、周囲に分かりづらい。


 笑い声を上げるわけではない。


 鼻歌を歌うわけでもない。


 ロイみたいに「今日も元気っす!」と自分で宣言するわけでもない。


 では、どうやって分かるのか。


 姿勢だ。


 いつもよりさらに背筋が伸びている。


 髪の結び目が完璧。


 制服の襟が一ミリも乱れていない。


 旧客室の古い窓枠まで、彼女の手によって磨かれていた。


 リメルの旗金具にも、いつの間にか小さな布飾りがついている。


 派手ではない。


 灰色に近い青。


 古い車両とリメルの色に合っている。


 つまり、かなり気合が入っている。


「レイナ先輩、今日何かあるんすか?」


 ロイが聞いた。


 彼は昨日覚えた「静かな大音量」の練習として、声量を三割ほど落としている。


 本人は小声のつもりらしいが、普通に聞こえる。


 成長だ。


「何もないわ」


 レイナ先輩は涼しい顔で答えた。


「何もない日こそ、見られても恥ずかしくないようにするものよ」


「俺、何もない日は寝癖でいいと思ってました」


「それは人生に対する敗北宣言よ」


「寝癖、重いっすね」


 ネルが窓際であくびをした。


「見られてるって言っても、ここ一番後ろじゃん」


「一番後ろだからこそよ」


 レイナ先輩は即答する。


「前の車両にいる者たちは、後ろを見下ろす。なら、こちらは見下ろされても崩れない姿でいるべきでしょう」


「見下ろしてくるやつに合わせるの、面倒」


「合わせるのではないわ」


 レイナ先輩は窓に映る自分の襟を確認した。


「相手がどう見るかを、こちらが決めるの」


 その言葉は、いかにも彼女らしかった。


 誇り高い。


 少し面倒。


 かなり綺麗。


 そして、危うい。


 レイナ先輩は見栄を捨てない。


 カルミアがぼろいと言われれば怒る。


 第七部が低優先だと言われれば、背筋をさらに伸ばす。


 失敗する魔法を持っていても、失敗をなかったことにはしない。


 ただし、その誇りがときどき、自分を傷つける刃にもなる。


 旧客室の扉が開いた。


 入ってきたのは、連盟職員だった。


 手元の板を確認しながら、淡々と告げる。


「各校代表者は、第六車両の共用食堂へ移動してください。午前の連絡会を行います」


「代表者?」


 コレットが立ち上がる。


「部長一名ですか」


「部長、または代理を含む二名まで」


 連盟職員は旧客室を見回した。


「なお、後部補助車両から第六車両までは、移動に時間がかかります。遅れないように」


 言い方。


 ロイが「遠いって言い方じゃないんすね」と小声で言った。


 連盟職員は聞かなかったふりをして去っていった。


「わたしが行きます」


 コレットが言う。


「もう一人は」


「わたくしが行くわ」


 レイナ先輩が即答した。


 コレットが少し驚く。


「いいんですか」


「部長一人を、あの前方車両に行かせるわけにはいかないでしょう」


「前方車両、危険地帯みたいに言うね」


 ネルが言った。


「危険よ。礼儀を知らない視線が多いもの」


「視線で怪我する?」


「するわ」


 レイナ先輩は真剣だった。


 たぶん、彼女は本当にそう感じている。


 蔑む視線。


 値踏みする視線。


 見下ろす視線。


 それは目に見えないだけで、十分に人を傷つける。


「では、お願いします」


 コレットは頭を下げた。


 レイナ先輩は頷く。


「任せなさい。カルミアが雑に扱われないよう、最低限の礼節を示してくるわ」


「最低限と言いつつ、最大級に気合入ってますよね」


 俺が言うと、レイナ先輩は冷ややかにこちらを見た。


「ルカ。あなたも来なさい」


「え」


「部長、代理、雑用係。三人までとは言われなかったわ」


「二名までと言われました」


 アルフが資料から顔を上げずに訂正する。


「では、ルカは荷物扱いで」


「ひどい」


 ミラが真面目にこちらを見る。


「荷物なら、持ち方を決める」


「ミラまで乗らないでくれ」


 結局、俺は行かないことになった。


 代表者はコレットとレイナ先輩。


 ただし、何かあったときにすぐ動けるよう、俺とアルフが第八車両付近まで同行する。


 コレットは「何かある前提ですか」と言った。


 レイナ先輩は「あるわ」と即答した。


 ネルは「絶対あるね」と言った。


 不吉な一致だった。


 第六車両へ向かう道は、思ったより長かった。


 後部補助車両から第十二車両へ。


 そこから第十一、第十、第九と進む。


 車両ごとに空気が違う。


 第十二車両は用具車両で、金属と油の匂いがする。


 第十一車両は下位参加校の共用客室。


 第十車両からは、窓の装飾が少しずつ増える。


 第九車両では、床の揺れを抑える魔法が効いていた。


 歩きやすい。


 だが、そのぶん違いが分かる。


 俺たちの旧客室は、やはりかなり後ろだった。


「同じ列車なのに、こんなに違うんだな」


 俺が言うと、アルフが淡々と答えた。


「評価順だ。前方ほどスポンサー車両に近い。上位校ほど移動環境が良い」


「露骨」


「競技は興行でもある」


 アルフの声は批判的でも肯定的でもない。


 ただ、事実を置いている。


 レイナ先輩は、その事実が気に入らないらしい。


 前を歩く背中が、少し硬い。


「部長」


 彼女はコレットに言った。


「背筋」


「はい」


 コレットが慌てて背筋を伸ばす。


「歩幅は小さくていいわ。急がないこと。急ぐと、遅れているように見える」


「でも、遅れたら」


「遅れない速度で、急がないように見せるの」


「難しいです」


「練習すればできるわ」


 レイナ先輩は、真剣に教えていた。


 見栄の張り方を。


 いや、違う。


 これは、たぶん彼女にとって防具のつけ方だ。


 見下ろされる場所で、折れないための姿勢。


 コレットの小さな背中が、少しずつ落ち着いていく。


 レイナ先輩の指導は厳しいが、優しい。


 言葉は尖っている。


 でも、コレットを飾り物にしようとしているわけではない。


 小さい部長が小さいまま、見くびられないようにしている。


 第八車両に入ったところで、俺とアルフは足を止めた。


 ここから先は代表者のみ。


「何かあったら」


 俺が言うと、レイナ先輩は振り返った。


「何かあっても、あなたは魔法を使わない」


「そこまで言ってない」


「言っておく必要があるわ」


 彼女は俺の胸元の記録箱を見た。


 今日は持っていない。


 旧客室に置いてきた。


 だが、彼女の視線はそこに箱があるみたいに正確だった。


「あなたは、自分が損をすれば済むと思いがちよ」


「最近、みんなにそれを言われる」


「みんなが正しいからでしょう」


 反論できない。


 レイナ先輩はコレットへ向き直る。


「行きましょう、部長」


「はい」


 二人は第七車両へ進んでいった。


 俺とアルフは、第八車両の連結部近くで待つことになった。


 連結部の窓から、少しだけ前方の様子が見える。


 第六車両の共用食堂。


 華やかな制服。


 磨かれたテーブル。


 校章の入ったカップ。


 そして、カルミアの古い制服。


 目立つ。


 良くも悪くも。


「心配か」


 アルフが聞いた。


「誰を」


「部長とレイナ」


「心配だ」


「正直だな」


「嘘をつく理由がない」


 アルフは小さくうなずいた。


「レイナは怒るだろう」


「断言か」


「侮辱されれば怒る。怒らないほうが不自然だ」


「問題は怒り方だな」


「そうだ」


 アルフは窓の向こうを見る。


「レイナの失敗は、隠すほど大きくなる。怒りも同じかもしれない」


「怒りを先に見せる?」


「見せ方を決める」


 その言葉は、昨日のミラの荷物に似ていた。


 背負い方。


 置き場所。


 レイナ先輩の見栄も、たぶん荷物だ。


 重い。


 でも、捨てればいいわけではない。


 正しく持てば、姿勢になる。


 第六車両の食堂では、連絡会が始まっていた。


 各校の部長や代表が席についている。


 コレットは一番端の席。


 レイナ先輩はその後ろに立っている。


 立ち姿が綺麗すぎて、逆に目立つ。


 連盟職員が説明を始める。


 次の停車都市。


 練習場の割り当て。


 食堂の利用時間。


 旗の自走許可区域。


 屋根上訓練の制限。


 上位校と下位校の優先順位。


 途中までは淡々としていた。


 問題が起きたのは、練習場の割り当てのところだった。


「カルミア魔法学園は、後部簡易スペースでの自主練習のみ許可します」


 連盟職員が言った。


 コレットが手を上げる。


「確認です。後部簡易スペースとは、旧客室横の用具通路でしょうか」


「はい」


「旗の自走訓練は可能ですか」


「狭いため推奨しません」


「推奨しない、は禁止ではありませんか」


 周囲の代表が少しざわついた。


 小さなコレットが、思ったよりはっきり質問したからだろう。


 レイナ先輩が教えた歩き方と立ち方が、効いている。


 連盟職員は板を確認する。


「禁止ではありません。ただし、破損があった場合はカルミアの責任です」


「承知しました」


 そこまではよかった。


 そのとき、斜め前の席にいた男子生徒が笑った。


 駅で会った銀の歯車の兄ではない。


 別の校章。


 白い羽と金の糸。


 貴族校に近い雰囲気の制服だ。


「旧客室の通路で旗の自走訓練? 掃除用の旗でも走らせるのか」


 食堂の空気が、少し固まった。


 コレットの肩がわずかに動く。


 レイナ先輩の目が細くなる。


 男子生徒は続けた。


「カルミアは大変だな。練習場も旗も、残り物で」


 残り物。


 その言葉が、こちらまで届いた気がした。


 俺の手が連結部の縁を握る。


 アルフが静かに言う。


「動くな」


「分かってる」


 分かっている。


 ここで俺が飛び出す場面ではない。


 それに、レイナ先輩がいる。


 彼女は怒る。


 たぶん、今まさに。


 食堂の窓越しに見える彼女の背筋が、さらに伸びた。


「残り物」


 レイナ先輩が復唱した。


 声は高くない。


 むしろ静かだった。


 コレットが少しだけ振り返る。


 止めようとしたのかもしれない。


 でも、レイナ先輩は前へ一歩出た。


「あなたは、残り物という言葉をどういう意味で使ったのかしら」


 男子生徒は肩をすくめる。


「そのままの意味だけど。余った場所、余った道具、余った生徒。違う?」


 食堂の奥で、誰かが小さく笑った。


 俺は、その笑い声が嫌だった。


 大きな罵倒より嫌だった。


 安全な場所から、小さく傷つける笑い。


 レイナ先輩の魔力が揺れた。


 一度目は失敗する魔法。


 怒りに任せて使えば、失敗が派手に出る。


 火花か、光か、もっとみっともない何かか。


 相手はそれを笑うだろう。


 カルミアの失敗として。


 俺は息を止めた。


 レイナ先輩の指先に光が集まる。


 一度目の魔法。


 失敗する。


 だが、彼女はその光を隠さなかった。


 むしろ、手のひらの上に見せた。


 光は弾けた。


 小さな火花になって、彼女の手元で散る。


 食堂に、また笑いが起こりかける。


 その前に、レイナ先輩が言った。


「失礼。今のは一度目の失敗です」


 声が通った。


 笑いが止まる。


「わたくしの魔法は、一度失敗してから成功します。ご覧の通り、失敗は隠しません」


 彼女は手を下ろさない。


 火花の残りが、指先で小さく光っている。


「では、二度目を」


 次の光は、静かだった。


 食堂のテーブルの上に置かれていた水差しの水が、一筋だけ持ち上がる。


 それは細い線になり、空中で文字を描いた。


 残る。


 たった二文字。


 水の文字はすぐに落ちた。


 だが、全員が見た。


 レイナ先輩は男子生徒を見る。


「余ったものと、残ったものは違います」


 彼女の声は、震えていなかった。


「余ったものは、誰かが要らないと決めたもの。残ったものは、消えなかったものです。カルミアの旧客室も、古い旗も、わたくしたちの部も、あなたの言葉で余り物にはなりません」


 コレットが、レイナ先輩を見上げていた。


 男子生徒は顔をしかめる。


「大げさだな。ただの冗談だろ」


「冗談は、相手を下げなくても言えるわ」


 レイナ先輩は即答した。


「下げなければ笑えないなら、それはあなたの話術の欠陥よ」


 食堂が静まり返った。


 ネルが聞いていたら、絶対に「上品に殴った」と言っただろう。


 俺も少しそう思った。


 男子生徒の顔が赤くなる。


「欠陥だと?」


「ええ。欠陥です。ただし、使い道はあるかもしれないわ。相手を侮る前に、自分の言葉の置き場所を考えなさい」


 コレットが立ち上がった。


「レイナさん」


 その声は、止める声ではなかった。


 隣に立つ声だった。


「カルミア魔法学園第七魔法競技部は、後部簡易スペースでの自走訓練を行います。破損責任も確認しました。以上です」


 小さな部長は、前を向いたまま言い切った。


 レイナ先輩が少しだけ目を細める。


 満足そうだった。


 連盟職員が咳払いをした。


「連絡会を続けます」


 その声で、空気が戻る。


 完全ではない。


 だが、笑いは戻らなかった。


 俺とアルフは、第八車両の連結部で顔を見合わせた。


「怒ったな」


 俺が言う。


「怒った」


 アルフが答える。


「でも、撃ち方を決めていた」


「魔法も言葉もな」


 アルフは小さくうなずいた。


「レイナの一度目の失敗は、今のように使える」


「わざと見せる」


「そうだ。相手が笑う前に、自分で名前をつける」


 名前をつける。


 一度目の失敗。


 残り物ではなく、残ったもの。


 見栄ではなく、誇り。


 レイナ先輩はたぶん、今日、自分の怒りに名前をつけた。


 連絡会が終わるまで、俺たちはその場で待った。


 戻ってきたコレットは、少し疲れていた。


 でも、顔は沈んでいなかった。


 レイナ先輩は完璧な姿勢のまま歩いている。


 ただ、指先だけが少し震えていた。


「お疲れ」


 俺が言うと、レイナ先輩は顎を上げた。


「当然のことをしただけよ」


「手、震えてるぞ」


「列車の揺れよ」


「第九車両から揺れ軽減が効いてる」


「あなた、余計なことだけよく覚えているわね」


 俺は笑った。


 レイナ先輩は目をそらす。


 コレットが小さく言った。


「ありがとうございました」


「部長を守ったわけではないわ」


「はい」


「カルミアの見え方を整えただけ」


「はい」


 コレットは、それ以上言わなかった。


 たぶん、レイナ先輩にとってはそのほうがいい。


 感謝を押しつけると、彼女は余計に背筋を伸ばしてしまう。


 第八車両から後ろへ戻る途中、先ほどの男子生徒とすれ違った。


 彼は取り巻きらしい二人と一緒だった。


 こちらを見る。


 コレットを見る。


 レイナ先輩を見る。


 そして、小さく鼻を鳴らした。


「残ったもの、ね」


 まだ言うか。


 俺が思うより早く、レイナ先輩が足を止めた。


 だが、今度は魔力を揺らさなかった。


 彼女は相手をまっすぐ見る。


「ええ。残ったものよ」


 それだけだった。


 男子生徒は、次の言葉を失ったように見えた。


 レイナ先輩はもう相手にしない。


 歩き出す。


 コレットも続く。


 俺とアルフも。


 背後で何か小さな声がしたが、もう聞こえなかった。


「今のは言い返さないのか」


 俺が聞くと、レイナ先輩は前を向いたまま答えた。


「同じことを二度言うのは美しくないわ」


「美学」


「それに」


 彼女は少しだけ声を低くした。


「一度目の怒りは見せた。二度目は、選ぶ」


 それは、魔法と同じだった。


 一度目は失敗する。


 でも、失敗を見せることで、二度目の使い方を決める。


 怒りも。


 見栄も。


 誇りも。


 旧客室へ戻ると、待っていた全員がこちらを見た。


 ロイが一番に立ち上がる。


「どうだったっすか?」


「練習場所は後部簡易スペース」


 コレットが答える。


「旗の自走訓練は推奨されませんが、禁止ではありません」


「つまり、できますね」


 クララが目を輝かせる。


「できます」


 コレットはうなずく。


「ただし、破損責任はカルミアです」


 全員の視線が、ガレス先輩とジャックへ向く。


「何で俺を見る」


 ジャックが言った。


「心当たり」


 ネルが答える。


「多いっすね」


 ロイが追加する。


「うるせえ」


 ガレス先輩は静かに言った。


「壊れたら直す」


「壊さない努力もしてください」


 アルフが言う。


 そのやり取りで空気が少し緩む。


 レイナ先輩は、何事もなかったように自分の席へ向かった。


 だが、ネルが見逃さなかった。


「何かあったでしょ」


「何もないわ」


「その何もない、今日二回目」


 レイナ先輩は座る。


 優雅に。


「少し、言葉の置き場所を整えただけよ」


「分からないけど、誰か殴った?」


「言葉を置いたの」


 ネルが俺を見る。


「上品に殴ったんだ」


「だいたい合ってる」


「ルカ」


 レイナ先輩の声が低い。


「すみません」


 リメルが旗金具から跳ね下り、レイナ先輩の前へ来た。


 旗布が揺れる。


 そこに、短い文字が浮かんだ。


 残る。


 レイナ先輩の表情が、一瞬だけ止まった。


「……見ていたの?」


 リメルは得意げに跳ねた。


「列車経由ですか」


 クララが興奮した声を出す。


「旧客室と前方車両の古い術式がつながっている可能性があります。音路だけでなく、旗の記録路も」


「つまり、リメルは覗き見したの?」


 ネルが聞く。


 リメルが不満そうに旗布を震わせた。


「覗き見ではありません。たぶん、列車が伝えたんです」


 クララがリメルをかばう。


「古代巡業列車は、各校の旗や言葉を共有する媒体だったのかもしれません。これ、すごいです。すごいですよ」


「クララ、落ち着いて」


 コレットが言う。


「落ち着けません」


 正直だ。


 レイナ先輩は、リメルの文字を見つめていた。


 残る。


 余ったものではなく、残ったもの。


 彼女が食堂で示した言葉。


 それをリメルが選んだ。


「記録するほどのことではないわ」


 レイナ先輩は言った。


 しかし、声は少し柔らかかった。


 リメルはもう一度跳ねる。


 旗布の文字は消えない。


 ロイが小声で言った。


「リメル的には、記録するほどだったんすよ」


「ロイ、あなた静かにしていても余計なことを言えるのね」


「新能力っす」


「鍛えなくていいわ」


 レイナ先輩はそう言いながら、リメルの旗布の端に触れた。


 ほんの少しだけ。


 飾り布の位置を直すふりをして。


「残り物ではなく、残ったもの」


 コレットが手帳に書いた。


「第七部の言葉にします」


「待ちなさい、部長」


 レイナ先輩が慌てた。


「そんな大げさな」


「大事です」


「わたくしの発言を標語にしないで」


「標語ではなく、方針です」


「余計に大げさよ」


 でも、コレットは消さなかった。


 レイナ先輩も、強くは止めなかった。


 その日の午後、後部簡易スペースでの自走訓練が始まった。


 通路は狭い。


 天井は低い。


 床は揺れる。


 旗が走るには向いていない。


 だが、リメルは走った。


 ロイの静かな大音量。


 ミラの荷物固定。


 アルフの一方向結界。


 ネルの一瞬の踏み込み。


 ジャックの撃たない宣言。


 ガレス先輩の壊さない修理。


 クララの古い文字読み。


 リリィのよく分からない召喚石。


 ノル先輩の半分寝た記録。


 コレットの負け筋表。


 そして、レイナ先輩の一度目の失敗。


 狭い通路で、彼女はわざと一度目を見せた。


 小さな火花。


 その光に、リメルが反応して方向を変える。


 相手が笑うための失敗ではない。


 こちらが動くための合図。


「一度目」


 レイナ先輩が言う。


 火花が散る。


「二度目」


 次の光が、リメルの進路を照らす。


 通路の奥で、リメルが跳ねる。


 成功。


 レイナ先輩の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 たぶん笑った。


 彼女の見栄は、まだ重い。


 でも、置き場所が少し決まった。


 見下ろされても崩れない姿勢。


 侮辱にすぐ折れない言葉。


 失敗を合図に変える手。


 それはもう、ただの見栄ではない。


 誇りと呼んでいいのだと思う。


 訓練後、リメルの旗布には二つの文字が残っていた。


 残る。


 一度目。


 レイナ先輩はそれを見て、ため息をついた。


「もう少し美しい言葉にできないのかしら」


「十分かっこいいっすよ」


 ロイが言った。


「あなたの感性は信用していいのか迷うわ」


「ひどいっす」


 ネルが壁にもたれる。


「でも、悪くないじゃん。一度目」


「あなたまで」


「失敗する前から、一度目って言えばいいんでしょ。そしたら、失敗じゃなくて手順になる」


 レイナ先輩は黙った。


 その言葉は、かなり核心だった。


 一度目は失敗。


 でも、自分で名前をつければ、手順になる。


 レイナ先輩は窓の外を見た。


 列車は夕暮れの中を走っている。


 前方車両の灯りが、遠くで華やかに光っていた。


 こちらは一番後ろ。


 でも、旧客室の窓も、レイナ先輩が磨いたおかげで夕日を映している。


「見栄を捨てろと言われるのが嫌いだったわ」


 彼女は突然言った。


 全員が少し静かになる。


「見栄を張るな。身の丈に合わない。落ちぶれた学校で、そんな格好をして何になる。そういう言葉が嫌いだった」


 レイナ先輩の声は、怒っているというより、整っていた。


「でも、見栄を張らなければ立っていられない日もあるのよ」


 誰も茶化さなかった。


 ロイでさえ黙っていた。


「今日、少し分かったわ。見栄は捨てなくていい。ただ、置き場所を間違えると、自分を飾るだけになる。置き場所を決めれば、誰かの前に立つ姿勢になる」


 コレットが手帳を開きかける。


「部長」


 レイナ先輩が鋭く言った。


「今のは書かないで」


 コレットはしばらく迷った。


「要約して書きます」


「書くのね」


「大事なので」


 レイナ先輩は天井を仰いだ。


 それでも、止めなかった。


 その夜、旧客室の窓はいつもより綺麗だった。


 磨かれた窓に、俺たちの姿が映る。


 古い制服。


 不揃いの荷物。


 少し曲がった反響布。


 壁の荷物表。


 旗金具のリメル。


 そして、窓際で背筋を伸ばすレイナ先輩。


 前方車両の華やかさには及ばない。


 それでも、みすぼらしくはなかった。


 少なくとも俺には、そう見えた。


 低優先参加校。


 残された校。


 残り物ではなく、残ったもの。


 呼び方を変えれば、意味が変わる。


 でも、ただ言い換えるだけでは足りない。


 その言葉に見合うように、立つ必要がある。


 レイナ先輩は、それを知っている。


 痛いくらいに。


 リメルが旗布を小さく揺らす。


 残る。


 一度目。


 その二つの文字が、夕日の名残の中で薄く光っていた。


 レイナ先輩は不満そうにそれを眺める。


 そして、最後に小さく言った。


「せめて、文字の間隔は整えなさい」


 リメルが慌てたように旗布を揺らした。


 文字の位置が、少しだけ整う。


 旧客室に笑いが起きた。


 静かな大音量よりも小さく。


 でも、確かに届く笑いだった。


 レイナ先輩の見栄は、今日、少しだけ置き場所を得た。


 列車の一番うしろ。


 残された校の客室で。


 残ったものとして、前を向くために。


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