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第20話 見える負けはまだ負けではない

 旧競技棟の第三訓練場は、水を撒くためにある場所ではない。


 少なくとも、床に大きな溝が走っていて、排水用の古い魔法陣が半分死んでいて、天井からぶら下がった照明が三つに一つしか点かない場所を、水浸しにしていい理由にはならない。


 だが第七魔法競技部には、そういう常識を止める役がいなかった。


 正確に言うと、いた。


 レイナ先輩だ。


「待ちなさい」


 訓練場の入り口で、レイナ先輩は腕を組んで言った。


「水を撒くのはいいわ。訓練場だもの。古いとはいえ競技施設だもの。でも、撒き方というものがあるでしょう」


「撒き方?」


 ネルが水桶を両手で持ったまま首をかしげる。


「こう?」


 次の瞬間、水が床にぶちまけられた。


 ばしゃん、という音が旧競技棟に響く。


 ロイが「おお」と感動した顔をした。


「いい音っすね」


「感想はそこではありません」


 レイナ先輩はこめかみを押さえた。


「水路術式を想定するなら、水の流れを作るべきです。ただ濡らすだけでは、靴が汚れて終わりです」


「じゃあ、どうするの」


「こうよ」


 レイナ先輩は右手を掲げた。


 水面の上に細い光が走る。


 たぶん、流れを作る魔法だ。


 次の瞬間、光は盛大に弾け、レイナ先輩の袖だけが濡れた。


 彼女の魔法は、一度失敗する。


 だから誰も驚かない。


 いや、ロイだけが「わっ」と言った。


 レイナ先輩は濡れた袖を見た。


 それから、何事もなかったように顎を上げる。


「今のが一回目」


「宣言した」


 ネルが小声で言った。


「美しい失敗は、隠さないものよ」


 二度目の魔法が走った。


 床に広がった水が細い筋になり、訓練場の中央へ流れ始める。


 古い溝に沿って、ゆっくり円を描く。


 青い光ではない。


 ただの水だ。


 それでも、競技場の中に逃げ道と障害物が生まれた。


「なるほど」


 アルフが黒板代わりの板に線を引く。


「流れは三本。中央、右奥、入り口側。相手旗が水路を使うなら、ここを通る」


「ミナセ分校の水路術式は、もっと滑らかです」


 クララが言った。


「でも、構造は近いはずです。流れが合流する節を見つければ、崩せます」


 彼女は濡れないように紙束を胸に抱えている。


 その紙束の上には、リリィの紙の鳥が乗っていた。


「あなた、濡れたらただの紙くずですわよ」


 リリィが言うと、紙の鳥は偉そうに羽ばたいた。


 たぶん何も分かっていない。


「じゃあ、始めるぞ」


 ガレス先輩が、古い自走標的を床に置いた。


 昨日、俺とジャックとリメルを襲った壊れかけの標的だ。


 ガレス先輩は夜のうちに直したらしい。


 直した、というか、壊れている部分を壊れたまま動くようにした、という感じだった。


 丸い胴体の右側がへこんでいる。


 足代わりの金具は一本だけ少し短い。


 そのせいで、進むたびにカタン、カタン、と拍子がずれる。


「これ、直ってるんすか?」


 ロイが聞いた。


「動く」


 ガレス先輩は答えた。


「直ってるかどうかの基準が低いっす」


「動けば、練習になる」


 自走標的は起動すると、訓練場の水路へ向かって走り出した。


 リメルがその反対側に立つ。


 古い旗布が、少しだけ揺れた。


 今日の練習のルールは単純だ。


 自走標的を相手旗に見立てる。


 リメルを自分たちの旗として逃がす。


 水路、反響、濡れ、記録制限、撃たない宣言を全部同時に試す。


 単純だ。


 ただし、実行はまったく単純ではない。


「配置」


 コレットが言った。


 声は小さいが、通る。


「リメル、中央奥。アルフさん、左側逃走線。ネルさん、中央水路の切れ目。ロイさん、合図係。ガレスさんとジャックさんは破壊判断。レイナさんは失敗誘導。ミラさんはリメル搬送。リリィさんは流される召喚物。クララさんは節の読み。ノルさんは……」


「寝た」


 ノル先輩は訓練場の端で毛布にくるまっていた。


 試合前睡眠作戦。


 名前は弱いが、本人は真剣だ。


 たぶん。


「俺は?」


 俺が聞くと、コレットは少しだけこちらを見た。


「ルカさんは、使わないための確認係です」


「戦力ではなく?」


「戦力です。だからこそ、すぐ魔法を使わないでください」


 痛いところを正確に刺してくる部長だ。


 俺はうなずいた。


 使う前に三つ確認する。


 リメル以外の救助手段が本当にないか。


 誰かに一秒だけ任せられないか。


 失うものをリメルに預ける準備があるか。


 正直、三つ目はまだよく分からない。


 何を失うか分からないものを、どうやって預けるのか。


 でも、少なくとも一つ目と二つ目はできる。


 一秒、誰かを見る。


「開始します」


 コレットが手を下ろした。


 自走標的が水路に入る。


 へこんだ胴体が水を弾き、床に歪んだ波が広がった。


 リメルが跳ねる。


 ミラが動いた。


 小柄な体でリメルを抱えると、足に淡い光をまとわせる。


「運ぶ」


 ミラは短く言って、濡れた床を駆けた。


 速い。


 山道を登る獣みたいな走り方だった。


 水で滑りそうな床を、彼女は踏み抜くように進む。


 ただ、その光が強くなるほど、彼女の動きの終わりも近づく。


 筋力強化。


 そのあとに来る全身停止。


 欠陥と呼ばれるもの。


 でも今は、止まる場所まで作戦に入っている。


「ミラ、右奥」


 アルフが指示する。


「三歩先で止まれ」


「止まる」


 ミラはリメルを抱えたまま、右奥の柱のそばへ滑り込んだ。


 次の瞬間、全身がぴたりと止まる。


 石像みたいに。


 リメルは彼女の腕の中で跳ねようとして、跳ねられない。


 その位置へ、自走標的が曲がってくる。


 負け筋の一つ。


 運んだあと止まる。


 相手旗に押し込まれる。


「ロイ」


 アルフが言った。


「低音」


「はい!」


 ロイが魔法を発動させる。


 いつものように爆発するような音ではない。


 喉の奥を震わせるような、低い音。


 ぐうん、と床を伝う。


 水面が震えた。


 音は訓練場の壁に当たり、妙に遅れて返ってくる。


 反響が混ざる。


 ロイの顔が一瞬青くなった。


「あ、ずれる」


「続けろ」


 アルフが言う。


「ずれる音も聞く」


 ロイは歯を食いしばった。


 低音がもう一度鳴る。


 今度は少し短い。


 反響の戻りと重ならないように、間が空いている。


「いい」


 アルフは片手を上げ、一方向結界を張った。


 薄い壁が、ミラとリメルを守るのではなく、その横に生まれる。


 逃走線。


 リメルが抜けるための道。


「リメル、出ろ」


 ミラの腕は動かない。


 でも指先がほんの少し緩む。


 リメルがするりと抜けた。


 自走標的が突っ込んでくる。


 俺の右手が、勝手に動きかけた。


 風。


 小さく吹かせれば、リメルを押し出せる。


 間に合う。


 たぶん、間に合う。


 その代わり、何かを失う。


 一。


 リメル以外の救助手段が本当にないか。


 ある。


 アルフの逃走線がある。


 二。


 誰かに一秒だけ任せられないか。


 俺はネルを見た。


 ネルはもう動いていた。


 彼女の魔力は一瞬しかもたない。


 だから、彼女は魔法を長く使おうとしない。


 床の水面を蹴り、一瞬だけ光る。


 水しぶきが鋭く跳ねた。


 ネルの手が自走標的の短い脚に触れる。


 魔力はそこで切れた。


 だが、切れたあとも彼女の体は止まらない。


 肩からぶつかる。


 自走標的の軌道がわずかに逸れた。


「っ、重い!」


「ジャック」


 コレットが叫ぶ。


 自走標的はリメルのすぐ後ろへ回り込もうとしている。


 ジャックは構えた。


 黒い攻撃魔法が、腕の周りで歪む。


 だが、その射線上にリメルがいる。


 撃てば壊すかもしれない。


 撃たなければ、押し込まれる。


 ジャックの顔が歪んだ。


 昨日の訓練場で見た顔だ。


 撃つために壊れる顔。


 撃てないことに耐えられない顔。


「撃たない!」


 ジャックが怒鳴った。


 それは諦めの声ではなかった。


 宣言だった。


 ロイが即座に低音を鳴らす。


 今度は短く、二回。


 危険線。


 アルフが結界の向きを変える。


 ガレス先輩が濡れた床に膝をつき、壊れかけの溝へ手を置いた。


「ここ」


 クララが叫ぶ。


「水の節、そこです! そこを壊せば流れが切れます!」


 ガレス先輩の破壊魔法が走った。


 派手ではない。


 ただ、床の古い溝の角が、ぽろりと欠ける。


 水の流れが変わった。


 自走標的の足元がわずかに滑る。


 リメルが逃走線へ跳ねた。


「まだ!」


 コレットの声。


 標的の胴体が回る。


 へこんだ右側が水を抱え込み、急に速度を変えた。


 リメルの後ろへ、また入ろうとする。


 今度はジャックの射線が空いた。


 だが、空いたのは一瞬。


 俺には見えた。


 ジャックの攻撃は味方の近くを通る。


 強い相手ほど、制御が荒れる。


 今は自走標的だ。


 でも、彼にとっては旗を壊す恐怖が乗っている。


 また撃てないかもしれない。


 それでも、ジャックは歯を食いしばった。


「壊す場所は」


 ガレス先輩が言った。


「足、一本」


 クララが続ける。


「短いほうです! そこなら胴体は壊れません!」


 リリィが指を鳴らした。


「では、流されなさい」


 召喚陣から出てきたのは、小さな木片だった。


 使い魔でも何でもない。


 ただの木片。


「……地味」


 ネルが言った。


「黙りなさい。今はそれが最適ですわ」


 木片は水路に落ち、流れに乗った。


 自走標的の足元へ向かう。


 流れの方向が見えた。


 ジャックの目がそこを追う。


「撃つ!」


 今度は宣言ではなく、実行だった。


 黒い魔法が床すれすれを走る。


 リメルの横を通らない。


 ミラの腕にも、ネルの足にも近づかない。


 短い足一本だけを狙う。


 魔法は、標的の脚を砕いた。


 胴体は壊れない。


 標的はバランスを失い、水路の中で横転した。


 訓練場に、金属の転がる音が響く。


 ロイが両手を上げた。


「止まった!」


「終わってない」


 アルフが言う。


 その通りだった。


 リメルが、横転した標的のそばで止まっている。


 旗布に、淡い文字が浮かび始めていた。


 昨日と同じ。


 記録。


 ジャックが撃てた瞬間。


 ネルが一秒を作った瞬間。


 ロイの低音。


 アルフの逃走線。


 ミラの停止地点。


 ガレス先輩の破壊。


 リリィの木片。


 クララの読み。


 レイナ先輩の失敗。


 全部を残そうとしている。


 リメルの旗布が重く垂れた。


 負け筋の三番。


 リメルが記録しすぎる。


「リメル」


 コレットが言った。


「一つだけ」


 リメルは震えた。


 文字が増えかける。


 俺は一歩踏み出した。


 魔法は使わない。


 風ではなく、声で。


「全部じゃなくていい」


 リメルがこちらを向く。


「全部を覚えようとしなくていい。俺たちが覚える」


 言ってから、自分で少し笑いそうになった。


 俺が言うと、説得力がない。


 忘れるくせに。


 魔法を使えば、大事なものからこぼれるくせに。


 それでも、俺一人ではない。


「俺が忘れるかもしれない。でも、ネルが一秒を覚えてる。ジャックが撃たなかったことを、ロイの音が覚えてる。アルフの結界が道を覚えてる。ミラの止まった場所が覚えてる。リメルだけが全部背負わなくていい」


 リメルの文字が、一つずつ消えていく。


 最後に残ったのは、短い言葉だった。


 撃たない声。


 ジャックの宣言。


 リメルはそれだけを旗布に残した。


 ジャックが目をそらす。


「何でそれなんだよ」


「旗の趣味だろ」


 俺が言うと、ジャックは舌打ちした。


 だが、怒ってはいなかった。


 リメルが軽く跳ねる。


 旗布はもう重くない。


「第一回、終了」


 コレットが息を吐いた。


 その場の全員が、一斉に力を抜く。


 ミラはまだ動けないので、ガレス先輩が彼女をひょいと抱え上げた。


「回収」


「回収された」


 ミラは真顔で言った。


 ロイが水たまりに座り込みそうになり、レイナ先輩に襟をつかまれる。


「座るなら乾いた場所にしなさい」


「はいっす」


 ネルは肩を押さえながら、俺のほうへ歩いてきた。


「見た?」


「見た」


「一秒」


「一秒」


「次も」


「そこそこ絶対」


 ネルは満足したようにうなずいた。


 いや、満足というより、許してやる、という顔だった。


 俺は何となくそれがありがたかった。


 コレットは濡れた床の上にしゃがみ込み、小さな手帳を開いた。


 そこに、今日の結果を書いていく。


 負け筋。


 対処。


 残る問題。


 彼女の字は丁寧だ。


 でも、少しだけ震えていた。


「部長」


 俺は隣にしゃがんだ。


「まだ見えてるのか」


 コレットはしばらく黙った。


「はい」


 正直だった。


「まだ、負ける未来はあります。今日潰した形とは別の負け方が、また見えています」


「便利じゃないな」


「はい」


「ひどい魔法だ」


「はい」


 コレットは小さく笑った。


「でも、今日は少しだけ違いました」


「何が」


「今までは、見える負けが壁みたいでした。わたしの前に立っていて、どこにも行けない感じです。でも今日は、地図みたいでした」


 彼女は手帳のページを指でなぞる。


「嫌な地図です。行き止まりばかり書いてある地図。でも、行き止まりが分かれば、別の道を探せます」


 その表現は、妙に彼女らしかった。


 負ける未来しか見えない少女が、その負けを地図に変える。


 勝利の旗を掲げるより、ずっと第七部らしい。


「なら、部長の魔法も欠陥じゃないのかもな」


 俺が言うと、コレットは驚いたように目を開いた。


「クララさんみたいなことを言いますね」


「うつった」


「良い感染です」


 その言い方が少しおかしくて、俺は笑った。


 訓練場の端で、クララがくしゃみをした。


 レイナ先輩が「濡れた紙を抱えているからよ」と叱っている。


 リリィは召喚された木片を拾い、なぜかそれに名前をつけようとしていた。


 ロイは低音の出し方を忘れないように、口を閉じたまま喉を震わせている。


 不気味なのでやめてほしい。


 ジャックは横転した自走標的のそばに立ち、砕いた脚を見ていた。


 ガレス先輩が近づく。


「直す」


「俺が壊した」


「直す」


「……次は、足だけ壊す」


「今も、足だけ」


「そうかよ」


 短いやり取りだった。


 でも、ジャックは逃げなかった。


 砕いたものを見て、そこに立っていた。


 それだけで、この練習は意味があったと思う。


「もう一回やります」


 コレットが立ち上がった。


 全員から、少しだけ悲鳴に近い声が上がる。


「え、今のまだ一回目なんすか?」


 ロイが言う。


「はい。負け筋は一回潰しただけでは戻ってきます」


「部長、厳しいっす」


「厳しくします」


 コレットは黒板代わりの板に、新しい線を書く。


 撃たない宣言、成功。


 記録制限、成功。


 反響合図、要改善。


 水路節破壊、成功。


 ルカ魔法不使用、成功。


 俺はその最後の行を見た。


 成功。


 たった一回、使わなかっただけだ。


 でも、そこに成功と書かれると、少しだけ救われる。


 何かをすることだけが戦力ではない。


 しないことも、たぶん戦力になる。


 次の練習で、俺はまた手が動きかけた。


 でもネルを見た。


 アルフを見た。


 ジャックの射線を見た。


 リメルを見た。


 使わなかった。


 三回目は、ロイの反響がずれて失敗した。


 リメルが水路に押し込まれ、コレットが「負け」と宣言した。


 ロイは落ち込んだが、ノル先輩が寝ながら「二回目の低音、夢では聞こえた」と言ったので、なぜか復活した。


 四回目は、リリィの召喚物が木片ではなく、濡れた靴下だった。


 全員が一瞬黙った。


 リリィは「流されるには最適ですわ」と言い切った。


 実際、靴下はよく流れた。


 五回目は、レイナ先輩の一回目の失敗が派手すぎて、天井の照明が一つ落ちた。


 ガレス先輩が受け止め、ジャックが「それは壊していいやつだろ」と言い、レイナ先輩が「演出よ」と強弁した。


 六回目は、ミラが止まる位置を間違えて、リメルではなくロイを抱えたまま動けなくなった。


 ロイは「俺、旗役っすか?」と喜んだ。


 ネルが「うるさい旗」と言った。


 リメルが少しだけ対抗するように跳ねた。


 七回目で、全員の動きが少しだけ噛み合った。


 水路が変わる。


 ロイの低音が反響を避ける。


 アルフの結界が逃走線を作る。


 ネルが一瞬を作る。


 ジャックが撃たないと宣言し、撃てる場所だけを撃つ。


 ガレス先輩が壊す場所を選ぶ。


 クララが節を読む。


 リリィの偶然が流れを見せる。


 レイナ先輩の失敗が相手の警戒を止める。


 ミラが止まる場所を拠点にする。


 ノル先輩が寝る前に見た夢を、寝言で補足する。


 リメルが一つだけ記録する。


 俺は魔法を使わない。


 自走標的は、リメルの後ろへ回れなかった。


 逆に、リメルが標的の背後へ回った。


 旗布が標的の背に触れる。


 捕獲判定の代わりに、ガレス先輩が小さな鐘を鳴らした。


 かん、と乾いた音がした。


 その音が、やけにきれいに聞こえた。


「成功」


 コレットが言った。


 今度は、誰もすぐには騒がなかった。


 全員、息が上がっていた。


 濡れて、疲れて、床は壊れて、訓練場はひどい有様だった。


 でも、成功だった。


「勝ったんすか?」


 ロイが聞いた。


「まだです」


 コレットは答えた。


「これは、負け筋を一つ潰しただけです」


「じゃあ、何なんすか」


 ロイは不満そうだった。


 コレットは黒板代わりの板を見る。


 そこには、負け筋の横に、いくつもの線と丸と矢印が増えていた。


「始まりです」


 彼女は言った。


「第七部の戦い方の」


 その言葉に、部室ではなく訓練場が静かになった。


 始まり。


 勝ち筋ではなく、負け筋から始まる戦い方。


 欠陥を隠さない。


 壊れる場所を決める。


 止まる場所を決める。


 失敗する一回目を決める。


 撃たない瞬間を決める。


 忘れるかもしれない誰かに、一秒を渡す。


 普通の強豪校が聞いたら、鼻で笑うかもしれない。


 だが、俺たちにはこれしかない。


 そして、これならある。


 何もない部ではなかった。


 第七魔法競技部には、負け方があった。


 だから、それを潰す手があった。


 練習が終わるころ、訓練場の窓の外は夕方になっていた。


 濡れた床が赤く光っている。


 リメルは中央に立ち、旗布に一つだけ文字を浮かべていた。


 撃たない声。


 その下に、いつの間にかもう一つだけ小さな文字が増えていた。


 一秒。


 俺はそれを見て、袖口を握った。


 リメルは全部を記録しなかった。


 でも、選んだ。


 ジャックの撃たない声。


 ネルに渡した一秒。


 たぶんそれが、今日のリメルにとって大事なものだった。


 コレットが訓練場の出口で、公式練習試合の通知を折りたたむ。


「三日後です」


 彼女は言った。


「ミナセ分校との確認試合。ここで競技継続能力を示せなければ、巡業リーグには乗れません」


「乗る」


 ネルが即答した。


「乗りますわ」


 レイナ先輩も言う。


「列車で迷惑をかける準備はできてるっす」


「迷惑前提で言うな」


 アルフが訂正する。


 ミラはガレス先輩に背負われたまま、こくんとうなずいた。


「乗る」


 ジャックは砕けた標的の脚を拾った。


「その前に、こいつ直すんだろ」


 ガレス先輩がうなずく。


「直す」


「俺もやる」


 その言葉に、ガレス先輩は少しだけ目を細めた。


 笑った、のかもしれない。


 分かりにくい。


 でも、たぶん笑った。


 コレットは最後に俺を見た。


「ルカさん」


「何だ」


「今日は、使いませんでした」


「そうだな」


「覚えていますか」


 俺は一瞬、何を、と聞きそうになった。


 けれど、やめた。


 今日の練習。


 ネルに渡した一秒。


 ジャックの撃たない声。


 リメルが選んだ二つの記録。


 コレットが負けを地図に変えたこと。


 全部、今は覚えている。


「覚えてる」


 俺は言った。


「今は」


 コレットは小さくうなずいた。


「今、覚えているなら、今日はそれで十分です」


 その言葉は、やけに軽かった。


 軽いから、胸に残った。


 全部を永遠に覚えていなくてもいい。


 今、覚えている。


 今、誰かに一秒を渡せる。


 今、リメルが全部を背負わずにすむ。


 それで十分な日もある。


 俺たちは旧競技棟を出た。


 背後で、第三訓練場の水が排水溝へ流れていく。


 完全には流れきらない。


 床には濡れた跡が残る。


 壊れた溝も、落ちた照明も、砕けた標的の脚も残る。


 それでも、訓練場は少しだけ違う場所になっていた。


 第七魔法競技部は、勝ち方をまだ知らない。


 でも、負けを机に広げる方法を知った。


 見える負けは、まだ負けではない。


 その言葉を胸の奥で転がしながら、俺は夕方の廊下を歩いた。


 三日後、公式練習試合。


 巡業列車に乗れるかどうかを決める、最初の壁。


 たぶん、強豪校なら壁とも思わない。


 でも俺たちには十分高い。


 だからこそ、登り方を考える。


 壊す場所を選び、止まる場所を決め、失敗を見せ、撃たない声を合図にして、一秒を渡す。


 そうやって、俺たちは歩く。


 忘れるかもしれない俺と。


 忘れないように全部背負おうとする旗と。


 負ける未来しか見えない部長と。


 欠陥だらけの仲間たちで。


 この部は、まだ終わっていない。


 終わらせないための戦い方を、今日、少しだけ覚えた。


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