第19話 負け筋を机に広げる
ジャック・バーネルが部室に戻ってきたとき、第七魔法競技部の空気は、妙に忙しかった。
誰かが泣いているわけでもない。
怒号が飛んでいるわけでもない。
ただ、全員が何かしら手を動かしていた。
レイナ先輩はリメルの棚の布を取り替えている。紫がかった灰色の布で、派手すぎず、古びた木に妙に似合っていた。
ノル先輩は机に突っ伏したまま、片手だけで部誌をめくっている。寝ているのか起きているのか分からないが、たまに「そこ、違う夢」と言うので、たぶん半分くらいは起きている。
クララは古い紙片を鼻先まで近づけ、目を輝かせながら文字を追っていた。
リリィは窓際で、召喚されてしまったらしい紙の鳥に説教している。
ロイはガレス先輩が持っている工具箱を運ぼうとして、工具箱ではなく自分の足にぶつけていた。
ネルは床に座り込み、訓練用の紐を結び直している。手つきは乱暴だが、結び目はやたら綺麗だった。
アルフは黒板の前で、逃走経路の線を一本ずつ書いている。
ミラは壊れた自走標的を背負っていた。
いや、背負う必要はない。
自走標的は両手で持てる大きさだ。
だがミラは当然のように背負っている。
「……おい」
ジャックが部室の入り口で止まった。
部室にいた全員の視線が、一瞬だけこちらへ向く。
その一瞬が、かなり痛かった。
俺ではなく、ジャックに刺さっている。
ジャックは不機嫌そうな顔をしていた。いつもの顔だ。ただ、肩が少しだけ強張っている。口を開けば喧嘩を売れそうなのに、その口がなかなか開かない。
リメルが俺の横からぴょんと跳ねた。
古い旗は、ジャックの足元まで進み、そこで止まった。
逃げない。
けれど、無防備に懐くわけでもない。
リメルはジャックを見上げるように、旗布をわずかに傾けていた。
「……昨日は」
ジャックの声が、思っていたより小さかった。
ロイが息を吸った。
ガレス先輩が無言でロイの口を片手で塞いだ。
ナイス判断だと思う。
「悪かった」
ジャックはそれだけ言った。
たった五文字。
けれど、部室の古い壁に、その五文字はやけに長く残った。
コレットは机の端に手を置いたまま、静かにうなずいた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
「礼を言われる筋合いはねえ」
「あります」
コレットは即答した。
ジャックが舌打ちしようとして、失敗したような音を出す。
「あと、謝罪は受け取ります。でも、次に同じことをしたら、怒ります」
「……あんたがか?」
「わたしがです」
コレットの声は柔らかい。
なのに、部室の中の誰よりも逃げ道がなかった。
ジャックは目をそらした。
「分かったよ」
ネルが鼻を鳴らす。
「分かったなら座れ。突っ立ってると邪魔」
「お前に言われたくねえ」
「じゃあ立ったまま邪魔でいろ」
「座る」
ジャックは雑に椅子を引いた。
椅子の脚が床をこすり、嫌な音を立てる。
ロイがびくっとした。
「あ、今の音、合図に使えるんじゃないすか?」
「使わない」
アルフが即座に否定した。
「試合中に椅子はない」
「持ち込めば」
「持ち込まない」
いつも通りに近い会話が戻ってくる。
それだけで、俺は少し息がしやすくなった。
ただ、コレットだけは笑っていなかった。
彼女は机の上に広げた紙を、じっと見ていた。
その紙には、次の公式練習試合の通知が載っている。
巡業リーグ参加前の確認試合。
対戦校は、近隣の認定校から選ばれる。
勝敗そのものはリーグ成績に入らない。
ただし、参加資格の最終確認を兼ねる。
つまり、ここで「競技不能」と判断されれば、巡業列車に乗る前に終わる。
俺はその紙を見た瞬間から、嫌な予感がしていた。
嫌な予感には二種類ある。
自分の経験からくるもの。
そして、コレットの顔からくるもの。
今回は後者だった。
「部長」
俺が声をかけると、コレットはゆっくり顔を上げた。
「見たのか」
質問としては雑だった。
でも、彼女には通じた。
コレットは少し迷ってから、うなずく。
「見ました」
部室の会話が止まった。
ロイの口がまた開きかける。
ガレス先輩の手が、当然のようにそこへ伸びる。
「敗北幻視です」
コレットは言った。
敗北幻視。
彼女の欠陥魔法。
勝つ未来は見えない。
負ける未来だけが、断片として見える。
役に立つようで、役に立たない。
役に立たないようで、放っておくと部長一人の心を削る。
「今回は、少し長かったです」
コレットの指先が、机の端を押さえる。
「たぶん、公式練習試合の最後の三分です」
「相手は?」
アルフが聞いた。
「校章は見えませんでした。ただ、旗は見えました。青い輪が三つ。水路みたいに動いていました」
「水系の旗か」
クララが紙片から顔を上げる。
「近隣で青い三重輪なら、たぶんミナセ分校ですね。水路術式が得意な認定校です。現代術式は普通ですが、地形制御がうまいです」
「普通って言い方が怖いんだけど」
ロイが小声で言った。
「普通に強い、の普通です」
「もっと怖くなったっす」
コレットは小さく息を吸った。
「敗北の形を言います」
その一言で、全員が黙った。
今までのコレットなら、ここで全部を抱え込もうとしたかもしれない。
見えた負け筋を、一人で消そうとしたかもしれない。
けれど、今回は違った。
彼女は紙を一枚取り、黒板の前に立つ。
小さな背中だった。
でも、その背中は逃げていなかった。
「一つ目。ジャックさんが撃てません」
ジャックの眉が跳ねた。
「あ?」
「撃たない、ではありません。撃てない、です。相手の旗がリメルの後ろへ回り込みます。ジャックさんは、リメルを傷つけるかもしれないと思って、攻撃を止めます」
ジャックは何か言いかけた。
けれど、言えなかった。
昨日の今日だ。
リメルを壊しかけた。
過去にも旗の支柱を壊して、人を傷つけた。
だから、それはありえない未来ではない。
「二つ目。ルカさんが魔法を使います」
今度は俺の胸が冷えた。
部室の視線が、俺へ向く。
ネルの目が細くなった。
「また?」
「はい」
コレットは逃げずに言った。
「ジャックさんが撃てない。リメルが相手旗に押し込まれる。ロイさんの音が水路に反響して合図が乱れる。アルフさんの結界は向きが足りない。ネルさんの魔力は届く前に切れる。ミラさんは運んだあと動けない。レイナさんの一回目の失敗が、相手には読まれている。ガレスさんは壊す場所を選べない。リリィさんの召喚は水に流される。クララさんの読む文字は濡れて消える。ノルさんは眠れない」
全員の欠陥が、順番に並べられた。
ひどい言い方をすれば、見事な負け方だった。
誰か一人の失敗ではない。
全員の弱さが、きちんと噛み合って負ける。
こんな噛み合い方は最悪だ。
「それで、最後にルカさんが風を使います」
コレットの声が、少しだけ揺れた。
「リメルを守るために。たぶん、正しい判断です。でも、そのあと、ルカさんは……」
言葉が止まる。
俺は自分の手を見た。
昨日使った小さな風。
失ったのは、ジャックの小さな笑い。
小さい。
そう言ってしまえば、そうなのかもしれない。
でも、あれはジャックが戻ろうとした証拠だった。
もし次に失うのが、それより大きかったら。
誰かの名前。
部室の場所。
リメルのこと。
コレットの「戻ってきてくれて、ありがとう」という声。
ネルが乱暴な言葉で心配する顔。
考えないようにしていたものが、順番に胸の中で立ち上がる。
「何を失うんだ」
ネルが低く聞いた。
コレットは首を横に振った。
「そこは見えませんでした。ただ、ルカさんは試合後、リメルを見て、こう言いました」
部室の空気が、固まる。
「『この旗、誰のだ』」
俺は、何も言えなかった。
リメルが動きを止めた。
古い旗布が、かすかに震える。
昨日、俺が失ったものを記録してくれた旗。
壊れたら直す。
忘れたら記録する。
そう思ったばかりだった。
でも、もし俺がリメルのことを忘れたら。
リメルが俺を覚えていても、俺がリメルを知らない顔で見るなら。
それは、記録で足りるのか。
「三つ目」
コレットは続けた。
続けるのか。
俺は内心で思った。
もう十分ひどい。
だが、負け筋はまだ机に全部広がっていない。
「リメルが、記録しすぎます」
クララが瞬きをした。
「記録しすぎる?」
「はい。ルカさんが失いかけたものを残そうとして、旗布に文字と映像を出します。だけど、試合中です。相手旗はその記録に反応して、リメルの動きが止まります」
ノル先輩が顔を上げた。
目は半分閉じている。
「夢で固まる旗、あるよ」
「あるんですか」
「ある。思い出を食べすぎると、動きが重くなる。旗は、布だけど胃もたれする」
「旗に胃があるんですか?」
「夢の中ではある」
相変わらず説明が眠い。
でも、意味は分かった。
リメルは記録できる。
ただし、無限ではない。
しかも試合中に俺の喪失へ反応すれば、それは弱点になる。
リメルが優しいから負ける。
そんな未来だった。
「それで、最後は?」
アルフが聞いた。
「相手旗を奪えず、こちらの旗が捕獲されます。判定は、カルミアの競技継続能力不足。巡業リーグ参加は保留」
「保留って」
ロイが青ざめる。
「それ、実質終わりじゃないすか」
「はい」
コレットはうなずいた。
「だから、潰します」
声は小さい。
でも、強かった。
「見えた負け筋を、全部ここに出します。わたし一人で抱えません。誰か一人の根性で消しません。全部、みんなで潰します」
黒板に、コレットは大きく書いた。
負け筋。
その下に、線を引く。
一、ジャックが撃てない。
二、ルカが魔法を使う。
三、リメルが記録しすぎる。
四、音が反響する。
五、結界の向きが足りない。
六、濡れる。
七、眠れない。
八、運んだあと止まる。
九、失敗を読まれる。
十、偶然が流される。
十一、壊す場所を選べない。
十二、瞬間が届かない。
「多いな」
ジャックが言った。
「多いです」
コレットは認めた。
「でも、多いからいいんです。一つだけなら、そこが折れたら終わります。十二個あれば、十二人で触れます」
ネルが紐を強く引いた。
「で、どうすんの。撃てないやつを撃てるようにすんの?」
「それだけでは駄目です」
アルフが黒板へ近づく。
「ジャックが撃てるようになっても、リメルの後ろに相手旗がいるなら危険は残る。攻撃線を作る前に、リメルの逃走線を作る必要がある」
「一方向結界で?」
「一方向結界で」
アルフは負け筋の五番に丸をつけた。
「向きが足りないなら、守るものを最初から一つに絞る。リメルそのものではなく、リメルが逃げる横道を守る」
「相手旗が水路みたいに動くなら、逃げ道も流されるんじゃないの?」
ネルが聞く。
「だから水路を壊す」
ジャックが言った。
全員の視線が彼に向く。
ジャックは不機嫌そうに頬杖をついた。
「何だよ」
「いや」
俺は言った。
「今の、かなりまともだった」
「殴るぞ」
「まともなことを言って殴るな」
ガレス先輩が黒板の十一番を指で叩いた。
「壊す場所を、決める」
「水路の全部じゃなくて、相手旗がリメルの後ろへ回るための曲がり角だけ壊す」
クララが続ける。
「水路術式なら、流れを作る節があります。古代式では結び目です。現代式でも似た構造はあるはずです。そこを壊せば、全部を壊さなくても流れは変わります」
「濡れる文字は?」
レイナ先輩が言った。
「クララの読みが消えるなら、試合前に読ませるしかないわ。読めなくなる前に、読めるものを舞台の外へ移す」
「舞台の外?」
「記録係よ」
レイナ先輩はノル先輩を見た。
ノル先輩は机に突っ伏したまま親指を立てた。
「寝てても記録できる」
「寝てたら駄目なんじゃないのか」
ジャックが言う。
「今回は眠れない負け筋です」
コレットが答えた。
「だったら、試合前に寝てもらいます」
「試合前睡眠作戦っすね!」
ロイが急に明るく言った。
「響きが弱い」
リリィが切り捨てる。
「じゃあ、先寝り作戦」
「さらに弱くなりました」
リリィの紙の鳥が、ロイの頭に着地した。
ロイはなぜか嬉しそうだった。
「偶然が水に流される件は?」
リリィが自分で聞いた。
「召喚物が流されるなら、流されることを前提にするしかありませんわね」
「自分で言った」
「ええ。わたくしは賢いので」
リリィは腕を組む。
「流されるものを目印にします。相手の水路に乗った召喚物がどこへ流れるかで、見えない流れを読む。偶然を作戦に入れる第一歩ですわ」
ネルが少しだけ笑った。
「毒舌のわりに、やることは地味だな」
「地味な勝ち筋を笑う人間は、派手に負けますわ」
「それは正しい」
レイナ先輩がうなずいた。
意外な同意だった。
レイナ先輩は負け筋の九番を見ている。
一回目の失敗が相手に読まれる。
彼女にとって、たぶんかなり嫌な項目だ。
魔法が一度失敗してから成功する。
その欠陥を隠せば、より見苦しくなる。
だから最近のレイナ先輩は、失敗を合図や演出にしようとしている。
でも、相手に読まれるなら。
その失敗は、また弱さになる。
「わたくしの失敗は、読まれる前提で置きます」
レイナ先輩が言った。
「一度目は必ず失敗する。それを相手に覚えさせる。二度目の成功を警戒させる。なら、三度目の何もしない時間を作れる」
「何もしない時間?」
ロイが首をかしげる。
「相手が勝手に警戒して足を止める時間よ。美しいでしょう」
「美しいかどうかは知らないっすけど、嫌らしいっすね」
「褒め言葉として受け取るわ」
ミラが背負った自走標的を下ろした。
壊れた標的が、床でカタリと鳴る。
「ミラは、運んだあと止まる」
彼女は自分の負け筋を指さした。
「だから、止まる場所を決める」
「それ、作戦にするのか」
俺が聞くと、ミラはこくんとうなずいた。
「山では、動けない荷も目印になる。ミラが止まる場所を、旗の帰る場所にする」
「回収地点か」
アルフが黒板に線を足す。
「ミラが運ぶ。動けなくなる。そこを一時拠点にする。ガレスが破損物を直し、ロイが合図を出す」
「俺、うるさいだけじゃないっすよね?」
ロイが恐る恐る聞く。
「うるさい」
ネルが答える。
「でも、役に立つうるささにする」
「それ、褒められてるんすか?」
「半分」
「半分なら上出来っす!」
ロイは立ち上がりかけ、また椅子に座った。
大きい音を出さないように、かなり気をつけている。
それを見て、俺は少し笑いそうになった。
ロイは自分の魔法を恥じているわけではない。
でも、みんなに迷惑をかけることは気にしている。
だから、音を小さくするのではなく、意味のある音にしようとしている。
欠陥を消すのではなく、置き場所を決める。
この部の練習は、たぶんそればかりだ。
「俺は?」
ジャックが低く言った。
誰も茶化さなかった。
コレットが黒板の一番を見た。
ジャックが撃てない。
「撃てないことを、悪いことにしません」
コレットは言った。
「は?」
「ジャックさんが撃てないのは、リメルを壊したくないからです。それ自体は、悪くありません」
「競技中に撃てなきゃ負けるだろ」
「はい。だから、撃てない時間を作戦に入れます」
コレットは黒板に小さく書いた。
撃たない宣言。
ジャックが顔をしかめる。
「何だそれ」
「危険線に味方が入ったとき、ジャックさんは撃たないと宣言する。宣言が出たら、ロイさんが低音合図。アルフさんが逃走線を守る。ネルさんが一瞬で相手の足を折る。ガレスさんが障害物を壊す。つまり、ジャックさんが撃たないことが、周りの動く合図になります」
「俺が止まったら、周りが動く?」
「はい」
ジャックは黙った。
それは、ただの慰めではなかった。
危険だから撃つな。
撃てないなら下がれ。
そうではない。
撃てない瞬間も、チームの一部にする。
ジャックの表情が、ほんの少しだけ変わる。
昨日俺が失った、小さな笑いとは違う。
これはまだ、笑いではない。
でも、逃げる顔ではなかった。
「……めんどくせえ部だな」
「今さらだ」
ガレス先輩が言った。
ジャックは鼻を鳴らした。
「で、ルカはどうすんだよ」
その問いで、空気がまた少し重くなる。
負け筋の二番。
ルカが魔法を使う。
俺は黒板の文字を見た。
自分の名前がある。
その横に、魔法を使う、と書いてある。
まるで試合中の事故予定表だ。
「使わない」
俺は言った。
「それで済むなら、最初から負け筋にはなってません」
コレットの声は厳しかった。
「ルカさんは、使わないつもりでも使います。必要だと思ったら、使ってしまいます」
「部長、俺のことを何だと思ってるんだ」
「優しい人です」
即答だった。
やめてほしい。
そういう言い方が、一番逃げづらい。
ネルが俺を見ている。
怒っているような、心配しているような顔だった。
「あんたさ」
ネルは言った。
「昨日も、使わないって顔して使ったでしょ」
「顔で分かるのか」
「分かる。あんた、使う直前に少しだけ嫌な顔する」
「そんな顔をしてるのか」
「してる。自分が損するって分かってるのに、結局やる顔」
返す言葉がない。
俺は自分をそこまで立派だと思っていない。
ただ、目の前で壊れそうなものがあれば、手が動く。
その結果、何かを忘れる。
それが正しいかどうかは、いつも後からしか分からない。
「ルカさんに、絶対使うなとは言いません」
コレットは言った。
「でも、使う条件を決めます」
「条件?」
「はい。魔法を使う前に、三つ確認してください」
コレットは黒板に書く。
一、リメル以外の救助手段が本当にないか。
二、誰かに一秒だけ任せられないか。
三、失うものをリメルに預ける準備があるか。
「三つ目、怖いな」
俺は正直に言った。
「怖いです」
コレットも正直だった。
「でも、今のままだと、ルカさんは何を失うか分からないまま使います。リメルも慌てて記録しようとして固まります。なら、最初から決めておきます。もしルカさんが魔法を使うしかないとき、リメルは試合中に全部を記録しようとしない。記録するのは、一つだけ」
「一つ?」
クララが身を乗り出した。
「記録対象を絞るんですね。古代記録媒体の過負荷を避ける。合理的です」
「その一つは?」
俺が聞くと、コレットは少し迷った。
そして、リメルを見た。
「リメル自身が決めます」
リメルが旗布を揺らした。
まるで、返事をしたみたいに。
「リメルが残したいものだけ、残す。全部を背負わせません」
「旗に選ばせるのか」
ジャックが言う。
「はい。旗もチームです」
コレットは何でもないことのように言った。
でも、それはたぶん、この部らしい一言だった。
旗は道具ではない。
守る対象でも、利用する仕掛けでもない。
チームの一員。
リメルは、ゆっくり俺の前まで来た。
旗布の端が、俺の袖に触れる。
昨日見せてくれた記録は、もう出さなかった。
ただ、触れた。
覚えている、と言うみたいに。
そして、全部は無理だ、と言うみたいに。
俺はその小さな重さを、袖越しに感じた。
「分かった」
俺は言った。
「使わないための確認をする。使うしかないなら、リメルに全部背負わせない」
「あと」
ネルが言った。
「あたしにも一秒任せる」
「ネルに?」
「何、その顔」
「いや」
「あんたの魔法より、あたしの一瞬のほうが早いときもある。届かなかったら、手で引っ張る。魔力が切れたら足で蹴る。だから、一秒こっちを見る」
ネルの声は乱暴だった。
だが、言っていることは乱暴ではない。
一秒、任せる。
たった一秒。
でも俺は、たぶんその一秒を飛ばしがちだった。
自分がやれば間に合うと思ってしまう。
自分が失えば済むと思ってしまう。
その考え方が、周りに何を負わせているのか。
昨日、ジャックに言ったばかりなのに。
忘れることは、俺一人の問題ではない。
「分かった」
俺はネルに言った。
「一秒、見る」
「絶対だから」
「絶対と言われると自信がなくなる」
「じゃあ、そこそこ絶対」
「便利な言葉だな」
ネルはふんと鼻を鳴らした。
少しだけ頬が赤い。
ロイがにやにやしかけ、リリィの紙の鳥に額をつつかれた。
「痛っ。何で俺だけ」
「空気を読まない顔をしたからですわ」
「顔で罰が来るんすか」
「来ます」
部室に小さな笑いが広がった。
重い話をしたあとに笑えるのは、強さなのか、ただの慣れなのか分からない。
でも、悪くはなかった。
コレットは黒板の負け筋を見上げる。
そこには、まだ解決策が全部書かれているわけではない。
むしろ、負ける理由のほうが多い。
ジャックが撃てない。
俺が魔法を使う。
リメルが記録しすぎる。
音が反響する。
結界の向きが足りない。
濡れる。
眠れない。
運んだあと止まる。
失敗を読まれる。
偶然が流される。
壊す場所を選べない。
瞬間が届かない。
ひどい一覧だ。
こんな部、普通なら試合に出さない。
普通なら、巡業リーグに乗せない。
普通なら、最初から諦める。
でも、第七魔法競技部は普通ではない。
それは褒め言葉かどうか分からない。
ただ、少なくとも退屈ではなかった。
「今日から、練習を変えます」
コレットが言った。
「勝ち筋を探す前に、負け筋を潰します。見えた負けを、机に広げます。嫌なものでも、恥ずかしいものでも、全部」
彼女は黒板に最後の一行を書いた。
見える負けは、まだ負けではない。
その文字を、俺はしばらく見ていた。
コレットの敗北幻視は、残酷だ。
彼女に勝つ未来を見せてくれない。
負ける瞬間ばかりを突きつける。
でも、見える負けは、まだ負けではない。
それを潰すために、俺たちはここにいる。
ジャックが椅子の背にもたれた。
「で、最初に何すんだよ」
コレットは、ほんの少しだけ笑った。
「水を撒きます」
「は?」
「相手が水路術式なら、水で壊れる練習をします。クララさんの文字も、リリィさんの召喚も、ロイさんの音も、レイナさんの失敗も、全部濡らします」
「部室で?」
レイナ先輩の声が鋭くなる。
「部室ではありません。旧競技棟の第三訓練場です」
「それなら許すわ」
許す基準がそこなのか。
ガレス先輩が工具箱を持ち上げる。
「床、直す」
「壊す前提だ」
アルフが黒板の端に、第三訓練場と書き足した。
「水、反響、逃走線、記録制限、撃たない宣言。全部同時に試す」
「いきなり全部かよ」
ジャックが嫌そうに言う。
「負け筋は全部同時に来ます」
コレットが答える。
「だから、こちらも全部同時に動きます」
ロイが立ち上がった。
「じゃあ俺、水に負けない音、探します!」
「まずは小さい音から」
ガレス先輩が言った。
「はい! 小さい大音量で!」
「矛盾してる」
ネルが立ち上がり、紐を肩にかけた。
「ほら、行くよ。負ける練習」
「言い方」
俺も立ち上がる。
リメルが俺の袖から離れ、部室の中央へ跳ねた。
そして、黒板の前で止まる。
古い旗布が、コレットの書いた文字へ向く。
見える負けは、まだ負けではない。
リメルがその文字を読むように、静かに揺れた。
コレットは少しだけ目を伏せる。
きっと、彼女にはまだ見えている。
負ける未来。
俺がリメルを忘れる未来。
ジャックが撃てない未来。
巡業リーグに乗れない未来。
でも、彼女はそれを机に広げた。
俺たちは見た。
見たからには、潰せる。
たぶん。
いや、潰す。
「行きましょう」
コレットが言った。
小さな部長の声に、十二人と一枚の旗が動き出す。
第七魔法競技部は、勝ち方をまだ知らない。
けれど、負け方なら少し見えた。
なら、最初の練習はそこからでいい。
俺は黒板の文字をもう一度見て、部室を出た。
今度は、覚えておくためではない。
忘れないと誓うためでもない。
忘れるかもしれない俺が、それでも一秒だけ誰かを見るために。
その一秒で、たぶん試合は変わる。
そう信じるところから、第七部の次の練習は始まった。




