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第19話 負け筋を机に広げる

 ジャック・バーネルが部室に戻ってきたとき、第七魔法競技部の空気は、妙に忙しかった。


 誰かが泣いているわけでもない。


 怒号が飛んでいるわけでもない。


 ただ、全員が何かしら手を動かしていた。


 レイナ先輩はリメルの棚の布を取り替えている。紫がかった灰色の布で、派手すぎず、古びた木に妙に似合っていた。


 ノル先輩は机に突っ伏したまま、片手だけで部誌をめくっている。寝ているのか起きているのか分からないが、たまに「そこ、違う夢」と言うので、たぶん半分くらいは起きている。


 クララは古い紙片を鼻先まで近づけ、目を輝かせながら文字を追っていた。


 リリィは窓際で、召喚されてしまったらしい紙の鳥に説教している。


 ロイはガレス先輩が持っている工具箱を運ぼうとして、工具箱ではなく自分の足にぶつけていた。


 ネルは床に座り込み、訓練用の紐を結び直している。手つきは乱暴だが、結び目はやたら綺麗だった。


 アルフは黒板の前で、逃走経路の線を一本ずつ書いている。


 ミラは壊れた自走標的を背負っていた。


 いや、背負う必要はない。


 自走標的は両手で持てる大きさだ。


 だがミラは当然のように背負っている。


「……おい」


 ジャックが部室の入り口で止まった。


 部室にいた全員の視線が、一瞬だけこちらへ向く。


 その一瞬が、かなり痛かった。


 俺ではなく、ジャックに刺さっている。


 ジャックは不機嫌そうな顔をしていた。いつもの顔だ。ただ、肩が少しだけ強張っている。口を開けば喧嘩を売れそうなのに、その口がなかなか開かない。


 リメルが俺の横からぴょんと跳ねた。


 古い旗は、ジャックの足元まで進み、そこで止まった。


 逃げない。


 けれど、無防備に懐くわけでもない。


 リメルはジャックを見上げるように、旗布をわずかに傾けていた。


「……昨日は」


 ジャックの声が、思っていたより小さかった。


 ロイが息を吸った。


 ガレス先輩が無言でロイの口を片手で塞いだ。


 ナイス判断だと思う。


「悪かった」


 ジャックはそれだけ言った。


 たった五文字。


 けれど、部室の古い壁に、その五文字はやけに長く残った。


 コレットは机の端に手を置いたまま、静かにうなずいた。


「戻ってきてくれて、ありがとう」


「礼を言われる筋合いはねえ」


「あります」


 コレットは即答した。


 ジャックが舌打ちしようとして、失敗したような音を出す。


「あと、謝罪は受け取ります。でも、次に同じことをしたら、怒ります」


「……あんたがか?」


「わたしがです」


 コレットの声は柔らかい。


 なのに、部室の中の誰よりも逃げ道がなかった。


 ジャックは目をそらした。


「分かったよ」


 ネルが鼻を鳴らす。


「分かったなら座れ。突っ立ってると邪魔」


「お前に言われたくねえ」


「じゃあ立ったまま邪魔でいろ」


「座る」


 ジャックは雑に椅子を引いた。


 椅子の脚が床をこすり、嫌な音を立てる。


 ロイがびくっとした。


「あ、今の音、合図に使えるんじゃないすか?」


「使わない」


 アルフが即座に否定した。


「試合中に椅子はない」


「持ち込めば」


「持ち込まない」


 いつも通りに近い会話が戻ってくる。


 それだけで、俺は少し息がしやすくなった。


 ただ、コレットだけは笑っていなかった。


 彼女は机の上に広げた紙を、じっと見ていた。


 その紙には、次の公式練習試合の通知が載っている。


 巡業リーグ参加前の確認試合。


 対戦校は、近隣の認定校から選ばれる。


 勝敗そのものはリーグ成績に入らない。


 ただし、参加資格の最終確認を兼ねる。


 つまり、ここで「競技不能」と判断されれば、巡業列車に乗る前に終わる。


 俺はその紙を見た瞬間から、嫌な予感がしていた。


 嫌な予感には二種類ある。


 自分の経験からくるもの。


 そして、コレットの顔からくるもの。


 今回は後者だった。


「部長」


 俺が声をかけると、コレットはゆっくり顔を上げた。


「見たのか」


 質問としては雑だった。


 でも、彼女には通じた。


 コレットは少し迷ってから、うなずく。


「見ました」


 部室の会話が止まった。


 ロイの口がまた開きかける。


 ガレス先輩の手が、当然のようにそこへ伸びる。


「敗北幻視です」


 コレットは言った。


 敗北幻視。


 彼女の欠陥魔法。


 勝つ未来は見えない。


 負ける未来だけが、断片として見える。


 役に立つようで、役に立たない。


 役に立たないようで、放っておくと部長一人の心を削る。


「今回は、少し長かったです」


 コレットの指先が、机の端を押さえる。


「たぶん、公式練習試合の最後の三分です」


「相手は?」


 アルフが聞いた。


「校章は見えませんでした。ただ、旗は見えました。青い輪が三つ。水路みたいに動いていました」


「水系の旗か」


 クララが紙片から顔を上げる。


「近隣で青い三重輪なら、たぶんミナセ分校ですね。水路術式が得意な認定校です。現代術式は普通ですが、地形制御がうまいです」


「普通って言い方が怖いんだけど」


 ロイが小声で言った。


「普通に強い、の普通です」


「もっと怖くなったっす」


 コレットは小さく息を吸った。


「敗北の形を言います」


 その一言で、全員が黙った。


 今までのコレットなら、ここで全部を抱え込もうとしたかもしれない。


 見えた負け筋を、一人で消そうとしたかもしれない。


 けれど、今回は違った。


 彼女は紙を一枚取り、黒板の前に立つ。


 小さな背中だった。


 でも、その背中は逃げていなかった。


「一つ目。ジャックさんが撃てません」


 ジャックの眉が跳ねた。


「あ?」


「撃たない、ではありません。撃てない、です。相手の旗がリメルの後ろへ回り込みます。ジャックさんは、リメルを傷つけるかもしれないと思って、攻撃を止めます」


 ジャックは何か言いかけた。


 けれど、言えなかった。


 昨日の今日だ。


 リメルを壊しかけた。


 過去にも旗の支柱を壊して、人を傷つけた。


 だから、それはありえない未来ではない。


「二つ目。ルカさんが魔法を使います」


 今度は俺の胸が冷えた。


 部室の視線が、俺へ向く。


 ネルの目が細くなった。


「また?」


「はい」


 コレットは逃げずに言った。


「ジャックさんが撃てない。リメルが相手旗に押し込まれる。ロイさんの音が水路に反響して合図が乱れる。アルフさんの結界は向きが足りない。ネルさんの魔力は届く前に切れる。ミラさんは運んだあと動けない。レイナさんの一回目の失敗が、相手には読まれている。ガレスさんは壊す場所を選べない。リリィさんの召喚は水に流される。クララさんの読む文字は濡れて消える。ノルさんは眠れない」


 全員の欠陥が、順番に並べられた。


 ひどい言い方をすれば、見事な負け方だった。


 誰か一人の失敗ではない。


 全員の弱さが、きちんと噛み合って負ける。


 こんな噛み合い方は最悪だ。


「それで、最後にルカさんが風を使います」


 コレットの声が、少しだけ揺れた。


「リメルを守るために。たぶん、正しい判断です。でも、そのあと、ルカさんは……」


 言葉が止まる。


 俺は自分の手を見た。


 昨日使った小さな風。


 失ったのは、ジャックの小さな笑い。


 小さい。


 そう言ってしまえば、そうなのかもしれない。


 でも、あれはジャックが戻ろうとした証拠だった。


 もし次に失うのが、それより大きかったら。


 誰かの名前。


 部室の場所。


 リメルのこと。


 コレットの「戻ってきてくれて、ありがとう」という声。


 ネルが乱暴な言葉で心配する顔。


 考えないようにしていたものが、順番に胸の中で立ち上がる。


「何を失うんだ」


 ネルが低く聞いた。


 コレットは首を横に振った。


「そこは見えませんでした。ただ、ルカさんは試合後、リメルを見て、こう言いました」


 部室の空気が、固まる。


「『この旗、誰のだ』」


 俺は、何も言えなかった。


 リメルが動きを止めた。


 古い旗布が、かすかに震える。


 昨日、俺が失ったものを記録してくれた旗。


 壊れたら直す。


 忘れたら記録する。


 そう思ったばかりだった。


 でも、もし俺がリメルのことを忘れたら。


 リメルが俺を覚えていても、俺がリメルを知らない顔で見るなら。


 それは、記録で足りるのか。


「三つ目」


 コレットは続けた。


 続けるのか。


 俺は内心で思った。


 もう十分ひどい。


 だが、負け筋はまだ机に全部広がっていない。


「リメルが、記録しすぎます」


 クララが瞬きをした。


「記録しすぎる?」


「はい。ルカさんが失いかけたものを残そうとして、旗布に文字と映像を出します。だけど、試合中です。相手旗はその記録に反応して、リメルの動きが止まります」


 ノル先輩が顔を上げた。


 目は半分閉じている。


「夢で固まる旗、あるよ」


「あるんですか」


「ある。思い出を食べすぎると、動きが重くなる。旗は、布だけど胃もたれする」


「旗に胃があるんですか?」


「夢の中ではある」


 相変わらず説明が眠い。


 でも、意味は分かった。


 リメルは記録できる。


 ただし、無限ではない。


 しかも試合中に俺の喪失へ反応すれば、それは弱点になる。


 リメルが優しいから負ける。


 そんな未来だった。


「それで、最後は?」


 アルフが聞いた。


「相手旗を奪えず、こちらの旗が捕獲されます。判定は、カルミアの競技継続能力不足。巡業リーグ参加は保留」


「保留って」


 ロイが青ざめる。


「それ、実質終わりじゃないすか」


「はい」


 コレットはうなずいた。


「だから、潰します」


 声は小さい。


 でも、強かった。


「見えた負け筋を、全部ここに出します。わたし一人で抱えません。誰か一人の根性で消しません。全部、みんなで潰します」


 黒板に、コレットは大きく書いた。


 負け筋。


 その下に、線を引く。


 一、ジャックが撃てない。


 二、ルカが魔法を使う。


 三、リメルが記録しすぎる。


 四、音が反響する。


 五、結界の向きが足りない。


 六、濡れる。


 七、眠れない。


 八、運んだあと止まる。


 九、失敗を読まれる。


 十、偶然が流される。


 十一、壊す場所を選べない。


 十二、瞬間が届かない。


「多いな」


 ジャックが言った。


「多いです」


 コレットは認めた。


「でも、多いからいいんです。一つだけなら、そこが折れたら終わります。十二個あれば、十二人で触れます」


 ネルが紐を強く引いた。


「で、どうすんの。撃てないやつを撃てるようにすんの?」


「それだけでは駄目です」


 アルフが黒板へ近づく。


「ジャックが撃てるようになっても、リメルの後ろに相手旗がいるなら危険は残る。攻撃線を作る前に、リメルの逃走線を作る必要がある」


「一方向結界で?」


「一方向結界で」


 アルフは負け筋の五番に丸をつけた。


「向きが足りないなら、守るものを最初から一つに絞る。リメルそのものではなく、リメルが逃げる横道を守る」


「相手旗が水路みたいに動くなら、逃げ道も流されるんじゃないの?」


 ネルが聞く。


「だから水路を壊す」


 ジャックが言った。


 全員の視線が彼に向く。


 ジャックは不機嫌そうに頬杖をついた。


「何だよ」


「いや」


 俺は言った。


「今の、かなりまともだった」


「殴るぞ」


「まともなことを言って殴るな」


 ガレス先輩が黒板の十一番を指で叩いた。


「壊す場所を、決める」


「水路の全部じゃなくて、相手旗がリメルの後ろへ回るための曲がり角だけ壊す」


 クララが続ける。


「水路術式なら、流れを作る節があります。古代式では結び目です。現代式でも似た構造はあるはずです。そこを壊せば、全部を壊さなくても流れは変わります」


「濡れる文字は?」


 レイナ先輩が言った。


「クララの読みが消えるなら、試合前に読ませるしかないわ。読めなくなる前に、読めるものを舞台の外へ移す」


「舞台の外?」


「記録係よ」


 レイナ先輩はノル先輩を見た。


 ノル先輩は机に突っ伏したまま親指を立てた。


「寝てても記録できる」


「寝てたら駄目なんじゃないのか」


 ジャックが言う。


「今回は眠れない負け筋です」


 コレットが答えた。


「だったら、試合前に寝てもらいます」


「試合前睡眠作戦っすね!」


 ロイが急に明るく言った。


「響きが弱い」


 リリィが切り捨てる。


「じゃあ、先寝り作戦」


「さらに弱くなりました」


 リリィの紙の鳥が、ロイの頭に着地した。


 ロイはなぜか嬉しそうだった。


「偶然が水に流される件は?」


 リリィが自分で聞いた。


「召喚物が流されるなら、流されることを前提にするしかありませんわね」


「自分で言った」


「ええ。わたくしは賢いので」


 リリィは腕を組む。


「流されるものを目印にします。相手の水路に乗った召喚物がどこへ流れるかで、見えない流れを読む。偶然を作戦に入れる第一歩ですわ」


 ネルが少しだけ笑った。


「毒舌のわりに、やることは地味だな」


「地味な勝ち筋を笑う人間は、派手に負けますわ」


「それは正しい」


 レイナ先輩がうなずいた。


 意外な同意だった。


 レイナ先輩は負け筋の九番を見ている。


 一回目の失敗が相手に読まれる。


 彼女にとって、たぶんかなり嫌な項目だ。


 魔法が一度失敗してから成功する。


 その欠陥を隠せば、より見苦しくなる。


 だから最近のレイナ先輩は、失敗を合図や演出にしようとしている。


 でも、相手に読まれるなら。


 その失敗は、また弱さになる。


「わたくしの失敗は、読まれる前提で置きます」


 レイナ先輩が言った。


「一度目は必ず失敗する。それを相手に覚えさせる。二度目の成功を警戒させる。なら、三度目の何もしない時間を作れる」


「何もしない時間?」


 ロイが首をかしげる。


「相手が勝手に警戒して足を止める時間よ。美しいでしょう」


「美しいかどうかは知らないっすけど、嫌らしいっすね」


「褒め言葉として受け取るわ」


 ミラが背負った自走標的を下ろした。


 壊れた標的が、床でカタリと鳴る。


「ミラは、運んだあと止まる」


 彼女は自分の負け筋を指さした。


「だから、止まる場所を決める」


「それ、作戦にするのか」


 俺が聞くと、ミラはこくんとうなずいた。


「山では、動けない荷も目印になる。ミラが止まる場所を、旗の帰る場所にする」


「回収地点か」


 アルフが黒板に線を足す。


「ミラが運ぶ。動けなくなる。そこを一時拠点にする。ガレスが破損物を直し、ロイが合図を出す」


「俺、うるさいだけじゃないっすよね?」


 ロイが恐る恐る聞く。


「うるさい」


 ネルが答える。


「でも、役に立つうるささにする」


「それ、褒められてるんすか?」


「半分」


「半分なら上出来っす!」


 ロイは立ち上がりかけ、また椅子に座った。


 大きい音を出さないように、かなり気をつけている。


 それを見て、俺は少し笑いそうになった。


 ロイは自分の魔法を恥じているわけではない。


 でも、みんなに迷惑をかけることは気にしている。


 だから、音を小さくするのではなく、意味のある音にしようとしている。


 欠陥を消すのではなく、置き場所を決める。


 この部の練習は、たぶんそればかりだ。


「俺は?」


 ジャックが低く言った。


 誰も茶化さなかった。


 コレットが黒板の一番を見た。


 ジャックが撃てない。


「撃てないことを、悪いことにしません」


 コレットは言った。


「は?」


「ジャックさんが撃てないのは、リメルを壊したくないからです。それ自体は、悪くありません」


「競技中に撃てなきゃ負けるだろ」


「はい。だから、撃てない時間を作戦に入れます」


 コレットは黒板に小さく書いた。


 撃たない宣言。


 ジャックが顔をしかめる。


「何だそれ」


「危険線に味方が入ったとき、ジャックさんは撃たないと宣言する。宣言が出たら、ロイさんが低音合図。アルフさんが逃走線を守る。ネルさんが一瞬で相手の足を折る。ガレスさんが障害物を壊す。つまり、ジャックさんが撃たないことが、周りの動く合図になります」


「俺が止まったら、周りが動く?」


「はい」


 ジャックは黙った。


 それは、ただの慰めではなかった。


 危険だから撃つな。


 撃てないなら下がれ。


 そうではない。


 撃てない瞬間も、チームの一部にする。


 ジャックの表情が、ほんの少しだけ変わる。


 昨日俺が失った、小さな笑いとは違う。


 これはまだ、笑いではない。


 でも、逃げる顔ではなかった。


「……めんどくせえ部だな」


「今さらだ」


 ガレス先輩が言った。


 ジャックは鼻を鳴らした。


「で、ルカはどうすんだよ」


 その問いで、空気がまた少し重くなる。


 負け筋の二番。


 ルカが魔法を使う。


 俺は黒板の文字を見た。


 自分の名前がある。


 その横に、魔法を使う、と書いてある。


 まるで試合中の事故予定表だ。


「使わない」


 俺は言った。


「それで済むなら、最初から負け筋にはなってません」


 コレットの声は厳しかった。


「ルカさんは、使わないつもりでも使います。必要だと思ったら、使ってしまいます」


「部長、俺のことを何だと思ってるんだ」


「優しい人です」


 即答だった。


 やめてほしい。


 そういう言い方が、一番逃げづらい。


 ネルが俺を見ている。


 怒っているような、心配しているような顔だった。


「あんたさ」


 ネルは言った。


「昨日も、使わないって顔して使ったでしょ」


「顔で分かるのか」


「分かる。あんた、使う直前に少しだけ嫌な顔する」


「そんな顔をしてるのか」


「してる。自分が損するって分かってるのに、結局やる顔」


 返す言葉がない。


 俺は自分をそこまで立派だと思っていない。


 ただ、目の前で壊れそうなものがあれば、手が動く。


 その結果、何かを忘れる。


 それが正しいかどうかは、いつも後からしか分からない。


「ルカさんに、絶対使うなとは言いません」


 コレットは言った。


「でも、使う条件を決めます」


「条件?」


「はい。魔法を使う前に、三つ確認してください」


 コレットは黒板に書く。


 一、リメル以外の救助手段が本当にないか。


 二、誰かに一秒だけ任せられないか。


 三、失うものをリメルに預ける準備があるか。


「三つ目、怖いな」


 俺は正直に言った。


「怖いです」


 コレットも正直だった。


「でも、今のままだと、ルカさんは何を失うか分からないまま使います。リメルも慌てて記録しようとして固まります。なら、最初から決めておきます。もしルカさんが魔法を使うしかないとき、リメルは試合中に全部を記録しようとしない。記録するのは、一つだけ」


「一つ?」


 クララが身を乗り出した。


「記録対象を絞るんですね。古代記録媒体の過負荷を避ける。合理的です」


「その一つは?」


 俺が聞くと、コレットは少し迷った。


 そして、リメルを見た。


「リメル自身が決めます」


 リメルが旗布を揺らした。


 まるで、返事をしたみたいに。


「リメルが残したいものだけ、残す。全部を背負わせません」


「旗に選ばせるのか」


 ジャックが言う。


「はい。旗もチームです」


 コレットは何でもないことのように言った。


 でも、それはたぶん、この部らしい一言だった。


 旗は道具ではない。


 守る対象でも、利用する仕掛けでもない。


 チームの一員。


 リメルは、ゆっくり俺の前まで来た。


 旗布の端が、俺の袖に触れる。


 昨日見せてくれた記録は、もう出さなかった。


 ただ、触れた。


 覚えている、と言うみたいに。


 そして、全部は無理だ、と言うみたいに。


 俺はその小さな重さを、袖越しに感じた。


「分かった」


 俺は言った。


「使わないための確認をする。使うしかないなら、リメルに全部背負わせない」


「あと」


 ネルが言った。


「あたしにも一秒任せる」


「ネルに?」


「何、その顔」


「いや」


「あんたの魔法より、あたしの一瞬のほうが早いときもある。届かなかったら、手で引っ張る。魔力が切れたら足で蹴る。だから、一秒こっちを見る」


 ネルの声は乱暴だった。


 だが、言っていることは乱暴ではない。


 一秒、任せる。


 たった一秒。


 でも俺は、たぶんその一秒を飛ばしがちだった。


 自分がやれば間に合うと思ってしまう。


 自分が失えば済むと思ってしまう。


 その考え方が、周りに何を負わせているのか。


 昨日、ジャックに言ったばかりなのに。


 忘れることは、俺一人の問題ではない。


「分かった」


 俺はネルに言った。


「一秒、見る」


「絶対だから」


「絶対と言われると自信がなくなる」


「じゃあ、そこそこ絶対」


「便利な言葉だな」


 ネルはふんと鼻を鳴らした。


 少しだけ頬が赤い。


 ロイがにやにやしかけ、リリィの紙の鳥に額をつつかれた。


「痛っ。何で俺だけ」


「空気を読まない顔をしたからですわ」


「顔で罰が来るんすか」


「来ます」


 部室に小さな笑いが広がった。


 重い話をしたあとに笑えるのは、強さなのか、ただの慣れなのか分からない。


 でも、悪くはなかった。


 コレットは黒板の負け筋を見上げる。


 そこには、まだ解決策が全部書かれているわけではない。


 むしろ、負ける理由のほうが多い。


 ジャックが撃てない。


 俺が魔法を使う。


 リメルが記録しすぎる。


 音が反響する。


 結界の向きが足りない。


 濡れる。


 眠れない。


 運んだあと止まる。


 失敗を読まれる。


 偶然が流される。


 壊す場所を選べない。


 瞬間が届かない。


 ひどい一覧だ。


 こんな部、普通なら試合に出さない。


 普通なら、巡業リーグに乗せない。


 普通なら、最初から諦める。


 でも、第七魔法競技部は普通ではない。


 それは褒め言葉かどうか分からない。


 ただ、少なくとも退屈ではなかった。


「今日から、練習を変えます」


 コレットが言った。


「勝ち筋を探す前に、負け筋を潰します。見えた負けを、机に広げます。嫌なものでも、恥ずかしいものでも、全部」


 彼女は黒板に最後の一行を書いた。


 見える負けは、まだ負けではない。


 その文字を、俺はしばらく見ていた。


 コレットの敗北幻視は、残酷だ。


 彼女に勝つ未来を見せてくれない。


 負ける瞬間ばかりを突きつける。


 でも、見える負けは、まだ負けではない。


 それを潰すために、俺たちはここにいる。


 ジャックが椅子の背にもたれた。


「で、最初に何すんだよ」


 コレットは、ほんの少しだけ笑った。


「水を撒きます」


「は?」


「相手が水路術式なら、水で壊れる練習をします。クララさんの文字も、リリィさんの召喚も、ロイさんの音も、レイナさんの失敗も、全部濡らします」


「部室で?」


 レイナ先輩の声が鋭くなる。


「部室ではありません。旧競技棟の第三訓練場です」


「それなら許すわ」


 許す基準がそこなのか。


 ガレス先輩が工具箱を持ち上げる。


「床、直す」


「壊す前提だ」


 アルフが黒板の端に、第三訓練場と書き足した。


「水、反響、逃走線、記録制限、撃たない宣言。全部同時に試す」


「いきなり全部かよ」


 ジャックが嫌そうに言う。


「負け筋は全部同時に来ます」


 コレットが答える。


「だから、こちらも全部同時に動きます」


 ロイが立ち上がった。


「じゃあ俺、水に負けない音、探します!」


「まずは小さい音から」


 ガレス先輩が言った。


「はい! 小さい大音量で!」


「矛盾してる」


 ネルが立ち上がり、紐を肩にかけた。


「ほら、行くよ。負ける練習」


「言い方」


 俺も立ち上がる。


 リメルが俺の袖から離れ、部室の中央へ跳ねた。


 そして、黒板の前で止まる。


 古い旗布が、コレットの書いた文字へ向く。


 見える負けは、まだ負けではない。


 リメルがその文字を読むように、静かに揺れた。


 コレットは少しだけ目を伏せる。


 きっと、彼女にはまだ見えている。


 負ける未来。


 俺がリメルを忘れる未来。


 ジャックが撃てない未来。


 巡業リーグに乗れない未来。


 でも、彼女はそれを机に広げた。


 俺たちは見た。


 見たからには、潰せる。


 たぶん。


 いや、潰す。


「行きましょう」


 コレットが言った。


 小さな部長の声に、十二人と一枚の旗が動き出す。


 第七魔法競技部は、勝ち方をまだ知らない。


 けれど、負け方なら少し見えた。


 なら、最初の練習はそこからでいい。


 俺は黒板の文字をもう一度見て、部室を出た。


 今度は、覚えておくためではない。


 忘れないと誓うためでもない。


 忘れるかもしれない俺が、それでも一秒だけ誰かを見るために。


 その一秒で、たぶん試合は変わる。


 そう信じるところから、第七部の次の練習は始まった。


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