第18話 旗が覚えていた声
ジャック・バーネルは、退部しなかった。
ただし、翌日の練習には来なかった。
それは退部していないだけで、ほとんど逃げているのではないか。
そう言いかけたが、俺はやめた。
言わなくても、部室の全員が分かっていた。
昼休み。
第七魔法競技部の部室には、妙な空席があった。
窓枠。
いつもジャックが座っている場所。
そこだけ空いている。
椅子ではない。
席ですらない。
なのに、空席に見える。
人間というのは面倒だ。
いる時は騒がしいくせに、いないと場所が残る。
「来ないね」
ロイ・キャベルが小さく言った。
声も小さい。
昨日からずっと、彼は大声を出さない。
ジャックの攻撃魔法が古い支柱を壊しかけた時、ロイは警告札を割った。だが止めきれなかった。それを気にしているのだろう。
ロイは自分の音が届かなかった時、必要以上に落ち込む。
以前なら、うるさいだけと言われることを怖がっていた。
今は、届かないことを怖がっている。
少し変わった。
良い方に。
たぶん。
「来るわ」
コレット・セインが言った。
断言だった。
「根拠は?」
俺が聞く。
「昨日、退部届を出していない」
「事務的だな」
「それに」
コレットはリメルの棚を見た。
昨日、ガレス・モルンが直すと言って持ち帰った結界杭の破片が、小箱に入れられている。
リメルはその小箱の前で、朝から動かなかった。
「リメルが待っている」
旗に行動を読まれる問題児。
かなり嫌な絵面だ。
ネル・アーレンが腕を組んで言う。
「迎えに行けば?」
「誰が」
俺が聞くと、ネルは当然のように俺を見た。
「あんた」
「なぜ」
「昨日、一番刺したのあんたでしょ」
「事実を言った」
「事実って、刺さるのよ」
ネルが言うと、レイナ・オルコットが横から静かに頷いた。
「ええ。大変よく刺さります」
「お前が言うと説得力がある」
「あなたも、たびたび刺していますわ」
「自覚はある」
「なら少し直してくださる?」
「検討する」
アルフ・メイナードみたいな返事になった。
そのアルフは作戦盤の前で、昨日の攻撃軌道を記録している。
彼もまた、ジャックが来ないことを気にしていないように見える。
ただ、記録の線がいつもより細かい。
気にしている。
たぶん。
「ルカが迎えに行くのは合理的だ」
アルフが言った。
「お前まで」
「ジャックは、部長の説得には逃げる。ロイの謝罪には耐えられない。ガレスの沈黙には負けるが、素直に戻れない。ネルやレイナとは喧嘩になる可能性が高い。私が行くと事実確認だけで終わる」
「自己分析が正確すぎる」
「君なら、ジャックが怒れる」
「褒めてないな」
「適性だ」
「なお悪い」
リメルが棚からぴょんと降り、俺の方へ来た。
支柱で靴先を叩く。
こつん。
こつん。
「リメルも行けって?」
ノル・フェインが寝たまま言う。
「行って、って……」
「旗まで」
俺はため息をついた。
行かない理由はある。
ジャックの問題はジャックの問題だ。
俺は仮入部だ。
人の退部未遂まで面倒を見る義理はない。
ただ、窓枠の空席が気になった。
昨日、俺が言った言葉も気になった。
自分を追い出す理由を作ろうとした。
あれは多分、当たっていた。
そして当たっていたからこそ、放っておくと本当に出ていく。
「場所は」
俺は聞いた。
コレットが少しだけ笑う。
「旧第三競技場跡。たぶん」
「たぶん?」
「ジャック君が一人になりたい時、よくそこにいるとガレス先輩が」
ガレスが頷いた。
「いる」
「確定した」
俺はリメルを見る。
青い旗は、なぜか俺の後ろへ回った。
「お前も来るのか」
リメルが一回揺れる。
ノルが通訳する。
「行くって……」
「旗を連れて問題児を迎えに行くのか」
リリィ・クロフトが微笑む。
「なかなか詩的ですね」
「面倒なだけだ」
「だいたい詩的なものは面倒です」
言い返すのが面倒になった。
俺はリメルを片手で抱える。
リメルは逃げない。
むしろ落ち着いている。
「行ってくる」
コレットが言う。
「無理はしないで」
「その言葉は覚えてる」
言ってから、少し空気が止まった。
以前、俺は同じような言葉を忘れた。
小さな風魔法の代償で。
コレットは一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「うん。覚えていて」
今度は、覚えているつもりだった。
*
旧第三競技場跡は、校舎のさらに奥にあった。
もう競技場というより、石段のある広場だ。
観客席だったらしい段差には草が生え、フィールドの白線はほとんど消えている。中央には古い旗立てが一本だけ残っていた。先端は折れ、根元には蔦が絡んでいる。
そこに、ジャックはいた。
旗立てにもたれ、片膝を立てて座っている。
こちらに気づいているのに、見ないふりをしていた。
「退部届は?」
俺は聞いた。
ジャックは顔を上げない。
「第一声がそれかよ」
「出したのか」
「出してねえ」
「なら戻れる」
「戻るとは言ってねえ」
「なら何をしてる」
「サボり」
「分かりやすい」
リメルが俺の腕の中で動いた。
ジャックがようやくこちらを見る。
「何で旗まで連れてきてんだよ」
「本人が来ると言った」
「旗が?」
「この部ではよくある」
「よくあってたまるか」
その返しが出るなら、まだ大丈夫かもしれない。
俺は少し離れた石段に座った。
リメルを膝の上に置く。
旗は、ジャックの方を見ている。
「戻る気はないのか」
「戻ってどうすんだよ」
ジャックは折れた旗立てを見る。
「また壊す。次は誰かに当たるかもしれねえ。リメルだって、ガレスだって、ロイだって、誰か怪我するかもしれねえ」
「その可能性はある」
「だから」
「でも、お前がいなくても誰かは怪我するかもしれない」
ジャックが睨む。
「慰め下手すぎんだろ」
「慰めてない」
「だろうな」
「第七部は危ない。全員、何かしら危ない。ロイの音は事故になる。ネルは魔力切れで転ぶ。ミラは動けなくなる。アルフは読み違えれば守れない。レイナは失敗を晒す。リリィは何を呼ぶか分からない。ガレスは壊す魔法しか使えない。コレットは負ける未来ばかり見る。俺は魔法を使えば忘れる」
言葉にすると、ひどい部だ。
ジャックも少し呆れた顔をした。
「よくそんな部で巡業行く気になったな」
「仮だ」
「まだ言ってんのか」
「大事だからな」
ジャックは少しだけ笑った。
すぐに消えたが。
「俺のは、そういうのと違う」
「どう違う」
「他人を壊す」
短い言葉だった。
石段の間を風が抜ける。
リメルの布が揺れた。
「昔、何か壊したのか」
俺は聞いた。
ジャックの表情が硬くなる。
「聞いてどうすんだ」
「部誌に書く」
「ふざけんな」
「半分冗談だ」
「半分かよ」
ジャックはしばらく黙った。
沈黙が長い。
無理に聞き出すべきではない。
そう思った頃、彼は口を開いた。
「前の学校で、旗を壊した」
俺は黙って聞いた。
「練習試合だった。相手は上級生。強いやつだった。俺の魔法が暴れて、旗じゃなくて、旗を持ってたやつの腕の近くを通った。直撃はしてねえ。でも旗の支柱が砕けて、破片が刺さった」
ジャックは自分の手を見る。
「怪我は軽かった。そう言われた。でも、そいつはしばらく競技に出なかった。俺は問題児扱い。まあ当然だ」
「それでカルミアに?」
「厄介払いだよ」
彼は笑った。
昨日見た笑いに似ている。
壊す前の笑い。
今は、自分を壊すための笑い。
「第七部は、そういうやつの集まりだろ。行き場のねえやつ。押し付けられたやつ。だから俺が混ざっても目立たないと思った。でも、リメルみたいな旗がいるとは思わなかった」
リメルが布を揺らす。
「旗が怖いのか」
「怖いだろ」
ジャックは即答した。
「壊したら、直らねえかもしれない。リメルはただの旗じゃねえ。部誌とか、部室とか、お前の名前とか、変なもんまで背負ってる」
「俺の名前は背負わなくていい」
「もう背負われてんだろ」
言い返せなかった。
リメルは俺の膝の上で、少し得意げに布を張った。
「だから戻れないって?」
「戻らない方がいい」
「似てるようで違うな」
「どう違う」
「戻れない、は誰かに止められている。戻らない方がいい、は自分で決めてるふりをして逃げてる」
ジャックの目が鋭くなる。
「お前、本当に嫌なこと言うな」
「よく言われる」
「直せよ」
「検討する」
アルフみたいな返事になった。
ジャックは少しだけ笑い、それからまた黙る。
リメルが膝の上から降りた。
ジャックの方へ近づく。
彼は身構えた。
「来んな」
リメルは止まらない。
「来んなって」
旗はジャックの足元まで行き、支柱で石段を叩いた。
こつん。
こつん。
昨日と同じ。
壊したものと、壊さなかったもの。
両方見る。
「俺は」
ジャックが言う。
「選べねえんだよ」
リメルが揺れる。
「選べたら、とっくにやってる。壊したくないもんほど、魔法がそっちへ行く。強いやつ相手だと、余計に暴れる。俺がどう思っても、魔法は勝手に」
「なら、撃つ前に選べ」
俺は言った。
「撃った後に曲がるなら、撃つ前に何を壊していいか決める」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。だから練習する」
「練習でまた壊したら?」
「直す」
「ガレスみたいなこと言うな」
「受け売りだ」
ジャックは苛立ったように髪をかき上げる。
「お前はいいよな」
「何が」
「忘れるだけだ」
言った瞬間、ジャック自身が固まった。
しまった、という顔。
俺も少しだけ息が止まった。
忘れるだけ。
なるほど。
そう見えるのか。
誰かを壊すよりは、自分が忘れる方がまし。
そういう考え方もある。
実際、俺もそう思ったことがある。
自分が失うだけなら。
誰かを傷つけるよりは。
でも。
「そうだな」
俺は言った。
ジャックが顔を上げる。
「忘れるだけだ」
「……悪い」
「でも、忘れたものが軽いとは限らない」
風が止まる。
「俺は、誰かに必要とされた記憶を失っていく。誰がどんな声で俺を呼んだのか、抜けることがある。昨日は、コレットの言葉を忘れた。小さな風魔法一つで」
ジャックは黙っている。
「それは、俺だけが壊れることかもしれない。でも、忘れられた相手も、少し傷つく」
コレットの顔を思い出す。
あの時の青ざめ方。
ロイの表情。
ネルの自責。
忘れるだけ。
でも、誰かが言った言葉が俺の中から消える。
それを知った相手は、無傷ではいられない。
「だから、俺は俺で危ない。お前だけ特別に危険なわけじゃない」
「慰めになってねえ」
「慰めてない」
「だろうな」
ジャックは少し笑った。
今度の笑いは、壊す前の笑いではなかった。
「ほんと、嫌な慰め方するな」
「慰めてないと言った」
「じゃあ嫌な説得」
「それなら合ってる」
リメルがジャックの足元で布を揺らす。
彼はしばらくそれを見ていた。
「戻ったら」
ジャックが言う。
「また撃つことになる」
「そうだな」
「また壊しかける」
「その可能性はある」
「お前、止めるのか」
「必要なら」
「魔法使って?」
俺は答えなかった。
ジャックはそれを見て、顔をしかめる。
「使うなよ」
「状況による」
「使うな」
意外なほど強い声だった。
「俺を止めるために、お前が何か忘れるのは嫌だ」
リメルが布を揺らした。
俺は少しだけ言葉に詰まった。
ジャックにそんなことを言われるとは思っていなかった。
「じゃあ、使わなくていいように撃て」
俺は言った。
「無茶言うな」
「お互い様だ」
リメルが俺とジャックの間で三回跳ねた。
その動きが、なぜか少し嬉しそうに見えた。
ジャックは深く息を吐く。
「戻るだけだぞ」
「十分だ」
「謝るかは別」
「謝った方がいい」
「分かってる」
「なら言え」
「うるせえ」
戻った。
少しだけ。
俺たちは旧第三競技場跡から歩き出した。
リメルは俺とジャックの間を跳ねている。
まるで、どちらかが逃げないよう見張っているようだった。
*
部室へ戻る途中、事件は起きた。
校舎裏の通路。
古い結界杭が並ぶ狭い道。
そこを通りかかった時、リメルが急に止まった。
布をぴんと張る。
警戒。
「どうした」
俺が聞くより早く、横の茂みから小さな魔法具が転がり出た。
古い訓練用の自走標的。
たぶん、どこかの倉庫から外れて動き出したものだ。
劣化した魔法具は厄介だ。
標的を探して、勝手に動く。
そして今、そいつはリメルに反応した。
小さな魔法弾が装填される。
「下がれ!」
ジャックが前に出る。
まずい。
彼の指先に魔力が灯る。
反射だ。
守ろうとしている。
でも、ここは狭い。
リメルが近い。
古い結界杭が並ぶ。
壊してはいけないものだらけ。
ジャックの攻撃魔法が暴れれば、どこへ飛ぶか分からない。
「撃つな!」
俺は叫んだ。
ジャックは止まろうとした。
だが、自走標的の魔法弾が先に放たれる。
リメルへ向かう。
速い。
リメルは避けようとするが、足元の石に支柱を引っかけた。
転ぶ。
間に合わない。
俺の体が動いた。
魔力が集まる。
風。
小さくない。
リメルを押すだけでは足りない。
魔法弾の軌道もずらす。
リメルとジャックの間に風の壁を作る。
使えば、失う。
分かっている。
それでも、撃った。
風が走る。
リメルの体が横へ押される。
魔法弾が風に流され、古い結界杭の間を抜けて地面に弾けた。
ジャックの魔力は、撃たれる前に消えた。
俺は息を吐いた。
頭の奥で、薄い布が裂ける。
ああ。
持っていかれる。
何かが。
リメルが地面から跳ね起き、俺の方へ駆け寄る。
ジャックが俺の肩を掴む。
「おい」
声が遠い。
「何を忘れた」
俺は確認しようとした。
名前。
コレット。
ネル。
ロイ。
ガレス。
レイナ。
ノル。
ミラ。
リリィ。
クララ。
アルフ。
ジャック。
覚えている。
エレナ。
覚えている。
リメル。
覚えている。
今日、部室で話したこと。
ジャックを迎えに行ったこと。
旧第三競技場跡。
戻るだけだぞ。
謝るかは別。
覚えている。
では、何を。
俺は周囲を見る。
古い結界杭。
茂み。
自走標的。
ジャック。
リメル。
何かが抜けている。
小さい。
でも、ある。
「……分からない」
俺は言った。
ジャックの顔が歪む。
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「何か忘れたんだろ」
「たぶん」
「俺を止めるために」
「リメルも守った」
「そういう話じゃねえだろ!」
ジャックの声が震えた。
怒りではない。
恐怖。
たぶん、自分が誰かに失わせたことへの。
リメルが俺の足元で震えている。
次の瞬間、リメルの布が淡く光った。
こつん。
俺の靴先を叩く。
そして、支柱で地面をなぞる。
小さな文字。
いや、文字ではない。
記号。
古い部誌の余白に似た、簡単な印。
ジャックが息を呑む。
「何だ、それ」
リメルがもう一度、地面を叩く。
すると、俺の頭の奥に、声が響いた。
戻ったら、また撃つことになる。
ジャックの声。
さっきの会話。
俺は覚えている。
次。
俺を止めるために、お前が何か忘れるのは嫌だ。
それも覚えている。
次。
じゃあ、使わなくていいように撃て。
覚えている。
リメルは、さっきの会話をなぞっている。
俺が忘れたものを探している。
旗が記録を差し出している。
だが、どの言葉も俺の中にある。
では、抜けたのは何だ。
リメルが最後に、もう一つ印を描いた。
古い競技場。
折れた旗立て。
ジャックが笑った顔。
壊す前の笑いではない。
少しだけ戻った笑い。
その瞬間が、俺の中になかった。
ああ。
それか。
俺は小さく息を吐いた。
「分かった」
ジャックが詰め寄る。
「何だ」
「お前が、少し笑ったところ」
「は?」
「旧第三競技場跡で。戻るだけだぞ、って言った後。少しだけ笑った。たぶん」
ジャックの表情が固まった。
リメルが布を揺らす。
肯定。
たぶんではない。
記録として。
「それを忘れた」
ジャックは何も言わなかった。
顔を歪める。
怒るでもなく、泣くでもなく。
ただ、ひどく苦しそうに。
「そんなもん」
彼は低く言った。
「忘れてもいいだろ」
「そうかもな」
「軽いだろ」
「たぶん」
「たぶんじゃねえよ」
ジャックは拳を握った。
「俺がちょっと笑っただけだろ。そんなもん、どうでもいいだろ」
「でも、リメルは覚えてた」
リメルがジャックの足元へ行き、支柱で彼の靴を叩く。
こつん。
ジャックは下を向く。
「何でだよ」
ノルがいれば、通訳したかもしれない。
でもここにはいない。
だから、俺が言うしかなかった。
「お前が戻ろうとした証拠だからじゃないか」
ジャックは目を閉じた。
しばらく。
長く。
それから、深く息を吐く。
「……くそ」
声が震えていた。
「くそ、何だよ、それ」
俺は何も言わなかった。
リメルは覚えていた。
俺が忘れた、小さな笑いを。
それは戻ったわけではない。
俺の中に、その瞬間の温度はない。
リメルが見せてくれた映像と音だけだ。
記録。
外側から渡されたもの。
でも、なかったことにはならなかった。
ジャックが戻ろうとした瞬間は、消えなかった。
「戻るぞ」
ジャックが言った。
「部室に」
「謝るのか」
「うるせえ」
「謝るんだな」
「うるせえって言ってんだろ」
リメルが三回跳ねた。
少し誇らしげに。
俺は自走標的を拾い上げた。
古く、壊れかけている。
ガレスに渡せば、直すと言うだろう。
壊れたら、直す。
忘れたら、記録する。
戻らなければ、迎えに行く。
第七部は、たぶんそういう面倒な場所だ。
俺は一つ、ジャックの小さな笑いを失った。
でも、リメルが覚えていた。
それで十分かは分からない。
十分ではないのかもしれない。
けれど、ジャックは部室へ戻る。
今は、それを覚えていようと思った。




