第17話 壊してはいけないもの
ジャック・バーネルは、壊す前に笑う。
そう気づいたのは、アルフ・メイナードの一方向防御実験の翌日だった。
第七競技場。
空は晴れていた。
風も弱い。
リメルは中央で機嫌よく跳ねている。
ロイ・キャベルは二連音の練習をしていて、ネル・アーレンは砂と布の配置を確認し、コレット・セインは作戦盤を抱え、クララ・ヴェルムは記録紙を押さえている。
ガレス・モルンは練習場の端で、古い結界杭を点検していた。
レイナ・オルコットは「晴れているのに足元が泥っぽいですわ」と言いながら、きっちり靴紐を締めていた。
ノル・フェインはベンチで寝ている。
ミラ・ガルドはリメル用の背負い帯を調整していた。
リリィ・クロフトは、召喚陣を指先で転がしながら「今日はまともなものが出る気がします」と言い、誰からも信用されていなかった。
そしてジャックは、笑っていた。
攻撃魔法を撃つ前に。
あの、少しだけ口の端を上げる笑い。
楽しいからではない。
自分から先に壊しにいく時の笑いだ。
壊れる前に、どうせ壊れると決めつける笑い。
「ジャック」
俺は呼んだ。
「何だよ」
「今は撃つな」
「まだ何もしてねえだろ」
「撃つ顔だった」
「顔で判断すんな」
「昨日ネルに同じことを言われた」
「なら学習しろよ」
「学習したから言ってる」
ジャックは鼻で笑った。
指先の魔力は消えない。
今日の練習は、リメルを使った守備連携の確認だった。
ジャックは攻撃役。
ただし、軽い攻撃魔法に限定。
壊してはいけないものを狙いやすい彼の魔法を、リメル、アルフ、ロイ、俺の連携で逸らす。
昨日うまくいきかけた形の反復。
それだけのはずだった。
「もう一本」
ジャックが言った。
「さっきので十分だ」
アルフが作戦盤を見ながら答える。
「防御側は三回中二回成功。失敗一回はロイの二連音の間隔ミス。次は音の調整を優先するべきだ」
「つまり俺はもう撃つなって?」
「今は必要ない」
「つまんねえな」
「練習は君を楽しませるためではない」
アルフは正しい。
正しいが、正しい言葉は時々燃料になる。
ジャックの笑いが、少し深くなった。
「じゃあ、必要にしてやるよ」
魔力が膨らむ。
軽くない。
明らかに、練習の範囲を超えている。
「ジャック君、止めて」
コレットの声。
短い。
だが遅い。
ジャックの攻撃魔法が放たれた。
黒赤い光。
真っ直ぐではない。
最初から曲がっている。
味方の近くを通り、一番壊してはいけないものを狙う魔法。
今、一番壊してはいけないものは何か。
リメルか。
違う。
昨日作った、リメルの棚から持ち出した古い支柱。
今日の実験で、逃げ道の目印に使っていた。
古い第七部の焼印が残る支柱。
リメルが何度も布で叩き、気に入っていたもの。
魔法はそこへ向かう。
「アルフ!」
コレットが叫ぶ。
「間に合わない」
アルフの声。
一方向結界は別方向に張っている。
張り替えが遅れる。
ロイが警告札を割る。
ぱきん。
リメルが震える。
俺の指先に魔力が集まる。
風で逸らせる。
小さな風では足りない。
少し強めに撃てば、支柱は守れる。
その代わり、何を失う。
誰の言葉か。
誰の名前か。
分からない。
それでも。
「使うな」
低い声がした。
ガレスだった。
彼は走っていた。
普段の静かな動きではなく、全力で。
工具袋を放り、古い支柱の前へ出る。
そして、手をかざした。
ガレスの魔法。
物を壊す魔法しか使えない。
それが発動した。
黒赤い攻撃魔法が支柱へ届く直前、ガレスの魔力が支柱の手前にあった古い結界杭を砕いた。
結界杭が砕け、破片が広がる。
攻撃魔法の軌道が、その破片に引っかかる。
逸れる。
支柱の横をかすめ、地面を抉った。
土が跳ねる。
リメルが机代わりの台から飛び降りる。
全員が止まった。
俺の指先の魔力も、消えた。
使わずに済んだ。
ガレスは、砕けた結界杭を見下ろしていた。
壊した。
守るために。
「……おい」
ジャックが言った。
声が掠れている。
「今の、俺」
「危険だった」
アルフが言う。
「練習範囲を超えた。重大事故になり得た」
淡々と。
だが、声はいつもより硬い。
コレットは顔を青くしている。
きっと見えたのだ。
支柱が砕ける未来か。
リメルが傷つく未来か。
俺が魔法を使う未来か。
どれか。
あるいは全部。
「ジャック君」
コレットが口を開く。
しかし、ジャックは彼女の言葉を待たなかった。
「分かってる」
彼は笑っていなかった。
「俺が悪い」
全員が黙る。
ジャックは自分の手を見る。
攻撃を撃った手。
壊してはいけないものを狙った魔法。
「だから言っただろ。俺は出さない方がいい」
「誰もそんなこと」
ロイが言いかける。
ジャックは遮った。
「言ってねえだけだろ」
声が荒くなる。
「危ねえんだよ、俺は。味方の近くを通る。一番壊しちゃいけねえもんを狙う。強いやつ相手ほど暴れる。こんなの、競技に出していいわけねえだろ」
「なら、さっき撃つな」
俺は言った。
全員の視線がこちらに向く。
ジャックも。
「何だと」
「危ないと分かっているなら、撃つな」
「だから、俺は出ない方がいいって言ってんだろ」
「違う。今の話をしている」
ジャックの目が鋭くなる。
「あ?」
「自分が危険だと証明するために、わざと危険な撃ち方をした。そうだろ」
空気が張りつめる。
ネルが小さく息を呑む。
ジャックは俺を睨む。
「知ったような口を」
「知ってるわけじゃない。でも見れば分かる」
「何が」
「壊す前に笑う」
ジャックの表情が止まった。
「どうせ壊れる。どうせ危ない。どうせ追い出される。そういう顔で撃った」
「……うるせえ」
「うるさいのはロイの担当だ」
「ふざけんな!」
ジャックが一歩踏み出す。
ロイがびくっとする。
ガレスが間に入ろうとする。
俺は動かなかった。
「ふざけてない」
「じゃあ何だよ」
「お前は今、支柱を壊そうとしたんじゃない。自分を追い出す理由を作ろうとした」
ジャックの拳が震えた。
当たった。
当たってしまった。
こういう時、正しさは刃物になる。
分かっているのに、止められなかった。
「ジャック君」
コレットが静かに呼ぶ。
ジャックは彼女を見ない。
「退部する」
短い言葉だった。
ロイが声を上げる。
「ジャック!」
「うるせえ」
ロイは口を閉じる。
ジャックは視線を逸らしたまま続けた。
「俺がいたら事故る。今日みたいになる。巡業リーグで重大事故ゼロ? 無理だろ。俺がいなきゃ、少しはましだ」
「逃げるの?」
ネルが言った。
その声は震えていた。
怒っている。
たぶん、怖くもある。
「逃げるんじゃねえ。まともな判断だ」
「自分で壊して、自分で出ていくのが?」
「壊れる前に出ていくんだよ」
「もう壊しかけたじゃない」
「だからだ!」
ジャックの声が練習場に響く。
リメルが震えた。
その震えを見て、ジャックはさらに顔を歪めた。
「ほらな。旗だって怖がってる」
リメルが一歩、前に出た。
全員が止まる。
ジャックも。
リメルは支柱で地面を叩きながら、ジャックの方へ近づく。
怖がっている。
それは分かる。
布が小さく震えている。
でも、逃げていない。
ジャックの足元まで来ると、リメルは砕けた結界杭の破片を布の端で指した。
次に、守られた古い支柱を指す。
そして、ジャックの手を指す。
「何だよ」
ジャックの声は弱かった。
ノルがベンチで目を開ける。
「壊したものと……壊さなかったもの……両方見てる」
「意味分かんねえよ」
「今の魔法で、壊れたものもある。でも、守れたものもあるって」
ガレスが砕けた結界杭を拾った。
「直す」
短い言葉。
ジャックはガレスを見る。
「俺が壊した」
「直す」
「また壊すかもしれない」
「また直す」
「何回も?」
ガレスは頷いた。
「必要なら」
ジャックは何も言えなくなった。
俺も少し黙った。
ガレスの言葉は短い。
でも、その短さが逃げ場を塞ぐ時がある。
退部する。
自分は危険だから。
壊すから。
そう言って逃げようとする相手に、壊れたら直す、と言う。
強い。
力技だ。
ガレスらしい。
「ジャック」
俺は言った。
彼はこちらを見ない。
「お前がいたら危険なのは事実だ」
「ルカ君」
コレットが小さく止める。
でも、俺は続けた。
「だから、お前を安全なふりで使うのは無理だ。問題ないふりも無理。お前の攻撃は危ない」
「なら」
「でも、格上相手には必要になる」
ジャックが俺を見る。
「今の攻撃、危なかった。でも、強かった。あの威力を、壊す場所を選んで使えたら、第七部にはない突破力になる」
「選べねえから問題なんだろ」
「一人ではな」
俺は砕けた結界杭を見る。
ガレスが壊すものを選んだ。
アルフが守る方向を選ぶ。
ロイが止める音を出す。
リメルが逃げ道を示す。
「お前一人に選ばせるから危ない。なら、全員で選ぶ」
「綺麗事だ」
「そうだな」
「認めんな」
「綺麗事だけど、たぶん第七部はそういう面倒なやり方しかできない」
ジャックは歯を食いしばった。
退部する、と言った直後の顔ではない。
まだ逃げたい。
でも、逃げきれない。
リメルが彼の靴先を叩いた。
こつん。
こつん。
ジャックは下を向く。
「……怖くねえのかよ」
誰に聞いたのか分からない声だった。
旗にか。
俺たちにか。
自分にか。
リメルは震えた。
ノルが言う。
「怖いって」
ジャックの顔が歪む。
「なら」
「でも、逃げないって」
ノルは寝起きのような声で続けた。
「壊すなら、ちゃんと選んでって」
同じ言葉。
昨日も聞いた。
ジャックはしばらく動かなかった。
やがて、膝を折る。
リメルと目線を合わせるように。
目はない。
でも、たぶん合わせた。
「……悪かった」
リメルが一回揺れた。
「お前にも」
ジャックは古い支柱を見る。
「ガレスにも」
ガレスは頷いた。
「部長にも」
コレットは少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「うん」
「ロイにも。びびらせた」
ロイは首を横に振った。
「僕も、止める音、もっと早く出します」
「お前は悪くねえよ」
「でも、チームなので」
ジャックは困ったように笑った。
「真っ直ぐすぎんだろ」
「よく言われます」
少しだけ空気が緩む。
退部という言葉は、まだ消えていない。
でも、少し遠ざかった。
コレットが深呼吸する。
「今日の練習は中止。代わりに、ジャック君の攻撃魔法を安全に扱うための条件を整理します」
「部長」
ジャックが言う。
「俺、まだ残っていいのか」
コレットはまっすぐ答えた。
「残ってほしい」
短い言葉。
ジャックは顔を背けた。
「……そうかよ」
ネルが小声で言う。
「素直じゃない」
「うるせえ」
「戻った」
レイナがため息をつく。
「まったく、品のない騒動でしたわ」
「でも、必要だった」
アルフが言った。
「事故寸前だったが、ジャックの攻撃を扱うための課題は明確になった」
「お前、そういうところ本当にアルフだな」
俺が言うと、アルフは首をかしげた。
「私はアルフだ」
「そうだな」
部員たちが少し笑った。
ガレスは砕けた結界杭を工具袋へ入れる。
「直るか」
俺が聞く。
「直す」
答えは同じだった。
壊れたら、直す。
必要なら、何回でも。
ジャックはその言葉を聞いていた。
リメルは彼の足元で、まだ逃げずにいた。
怖いけれど、逃げない。
それは、たぶん今日の誰より勇敢だった。




