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第182話 逃げた旗

 オルディナ駅で起きた騒ぎは、最初は小さなものだった。


 荷物室の旗管理箱が震えた。


 連盟職員が抑えた。


 標準化審査局の観測官が記録した。


 それだけなら、輸送中の魔力反応異常として処理されただろう。


 問題は、駅の保管庫に入った瞬間だった。


 旗管理箱の留め具が、一つ外れた。


 壊れたわけではない。


 外れた。


 まるで内側から、正しい手順で開けられたみたいに。


 中から、灰色の布が滑り出した。


 布だけ。


 支柱もない。


 旗獣の形もない。


 でも、その布は床を這うように動き、駅の保管庫から通路へ出た。


 連盟職員が叫ぶ。


「封鎖!」


 観測官がこちらを見る。


 早すぎる。


 反射的な視線だった。


 異常が起きた。


 近くにカルミアがいる。


 なら、疑う。


 ネルがその視線を受けて、はっきり言った。


「まだ何もしてない」


 コレットがすぐに前へ出る。


「第七部は当該管理箱に接触していません。荷物室から駅保管庫への移送も連盟職員のみで行われています」


「記録は」


 観測官が言う。


「こちらにもあります」


 ノルが部誌を掲げた。


 クララも頷く。


「移送時刻、距離、目視範囲、こちらで記録しています」


 観測官は一瞬黙った。


 下位校リーグ以降、こちらは記録を残すようになっている。


 疑われる前提で。


 それが、少しだけ効いた。


「追跡します」


 観測官が言う。


「非標準魔法の使用は禁止です」


「旗が逃げています」


 コレットの声が鋭くなる。


「事故防止のための安全行動は許可されるはずです」


「許可が出るまで」


 灰色の布が通路の角を曲がった。


 駅には一般客もいる。


 子どもが指を差す。


 布が足元をすり抜ける。


 転倒の危険。


 コレットは観測官を見た。


「事後報告します」


「待ちなさい」


「待てません」


 その声で、第七部は動いた。


 風は使わない。


 ジャックは撃たない。


 ガレスは壊さない。


 ロイは大音量を出さない。


 それぞれが、禁止の中でできることを探す。


「ロイ、足元だけ」


 俺が言う。


「はいっす」


 ロイが小さく音を鳴らす。


 ぽん。


 駅の床に波紋のような反響が広がる。


 灰色の布の位置がわかる。


 布は音に驚いたように止まり、また動いた。


 逃げている。


 でも、暴れてはいない。


 ノルが走りながら言う。


「怖がってる」


「何を」


 ネルが聞く。


「箱」


 箱が怖い。


 保管箱が怖い。


 それは、保管されていたものにとって自然な感情なのか。


 それとも、何か別の理由があるのか。


 灰色の布は駅の外へ出ようとする。


 外には旗柱広場。


 古い旗柱が並ぶ場所。


 人も多い。


「アルフ」


 コレットが指示する。


「外から駅内への人の流れだけ止めてください。布の進路は塞がない」


「わかった」


 アルフの一方向結界が張られる。


 外から入ろうとした人たちが、自然に別の入口へ流れる。


 灰色の布は止めない。


 逃げ道を塞ぐと暴れるかもしれないからだ。


 リリィがグレイを放つ。


「追うだけ。噛まない。踏まない。偉そうにしない」


 グレイが不満そうに鳴いた。


「最後が大事です」


 グレイは布の匂いを追う。


 灰色の布は広場へ出た。


 古い旗柱の一本へ向かっている。


 そこには何も掲げられていない。


 でも、布はその根元で止まった。


 そして、旗柱に巻きつく。


 人々がざわめく。


 連盟職員が追いつく。


 観測官が魔法拘束具を出した。


「回収します」


「待ってください」


 クララが言った。


「読めます」


「読解禁止区域です」


「駅前広場は公開区域です。対象は逃走旗布。危険反応確認のため、表層だけ読みます」


 クララはもう手順を言っていた。


「読みます。対象は灰色旗布。許可者不明。読解範囲は表層反応のみ。栞を挟んだら停止。結果は仮説として扱います」


 観測官が止めるより早く、クララの目が布の縫い目を追った。


 灰色の布が震える。


 ノルが小さく言う。


「名前、ない」


「消えた?」


 俺が聞く。


「剥がされた」


 クララの顔色が変わる。


「この布、元は競技旗ではありません。土地契約旗の残布です」


「土地契約旗?」


 ネルが聞く。


「古い村や土地の境界、祭礼、共同体の名前を結ぶ旗です。競技旗より古い」


 灰色の布は旗柱に巻きついたまま、震えている。


 ノルが部誌を抱える。


「帰りたい、って」


「どこへ」


「名前のところ」


 観測官が険しい声を出す。


「推測で人を集めないでください。旗布は保管対象です」


 その言葉に、灰色の布が強く震えた。


 保管対象。


 それが嫌なのか。


 俺は一歩前に出る。


 風は使わない。


 手を伸ばすだけ。


 ネルが俺の袖を掴む。


「触る?」


「触らない。近くで見る」


「見てる」


 俺は灰色の布を見る。


 そこには、薄く文字の跡があった。


 読めない。


 でも、何かが剥がされた跡。


 名前。


 土地。


 誰かがそこにいた証拠。


 クララが栞を挟んだ。


「これ以上は危険です」


「危険なら回収します」


 観測官が言う。


 コレットが一歩前に出た。


「回収方法を変更してください」


「何を」


「拘束具ではなく、開放型保護布で包んでください。箱に戻すと暴れる可能性があります」


「規則には」


「事故防止です」


 コレットの声が強い。


「報告書に書きます。カルミア第七部は、逃走旗布の危険行動を抑制し、一般客への被害を防ぎました。回収方法によって再暴走が起きた場合、その記録も残します」


 観測官はコレットを睨んだ。


 でも、周囲には人がいる。


 一般客も、下位校リーグの関係者も、駅職員も。


 ここで強引に拘束し、旗布が暴れれば、その方が問題になる。


「開放型保護布を」


 観測官が連盟職員へ言った。


 灰色の布は、箱ではなく柔らかい保護布に包まれた。


 震えは少し弱くなった。


 ノルが小さく頷く。


「少しまし」


 騒ぎは一応収まった。


 でも、標準化審査局の観測官はすぐにこちらへ来た。


「カルミア第七部には、今回の旗布逃走について事情聴取を行います」


 やはり、そう来る。


 コレットは静かに答えた。


「応じます。ただし、こちらの記録も提出します」


 俺は広場の旗柱を見上げた。


 何も掲げられていない柱。


 そこに一瞬だけ、灰色の布が戻った。


 帰りたい。


 名前のところへ。


 旗が逃げた。


 そして、その最初の疑いは、予想通り第七部に向けられた。



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