第168話 旧旗倉庫
旧旗倉庫は、校舎の裏手にあった。
そこへ行く道は、ほとんど使われていない。
石畳の隙間から草が伸びている。
フェンスは一部錆びていて、案内板の文字も消えかけていた。
昔は競技旗の保管と整備に使われていたらしい。
今は、標準旗の管理は連盟規格の小型保管庫で済む。
古い旗倉庫は、不要な場所になった。
不要。
最近、その言葉に敏感になっている。
欠陥。
保留。
不要。
言い方を変えるだけで、残すか捨てるかが決まってしまう。
「ここ、なんか寝てる」
ノルが言った。
「建物が?」
ロイが聞く。
「旗道」
ノルは眠そうな目で倉庫を見た。
「寝てるけど、浅い」
「起こすと怒る系っすか」
「わかんない」
「一番怖い返事っす」
倉庫の扉は分厚い木製だった。
金属の補強が入っている。
錆びているが、壊れてはいない。
ガレスが扉を触る。
「壊れてない。固まってる」
「開く?」
ミラが聞く。
「鍵次第」
コレットが旧鍵を差し込む。
鍵穴は最初、受け入れないように硬かった。
ガレスが横から油を差す。
「ありがとう」
コレットが言う。
「開かないと困る」
ガレスの返事はいつも通りだ。
鍵が回る。
重い音がした。
ただの施錠音ではない。
奥で何かが応じる音。
ロイが耳を押さえた。
「うわ、低い」
「何が」
「音がっす。扉じゃなくて、床の下から返ってきた」
クララがすぐに栞を手にした。
「入る前に確認します。旧旗倉庫に対して、読解および通行許可を求めます。読める範囲のみ。危険反応があれば停止します」
倉庫は返事をしない。
でも、扉の隙間から風のようなものが漏れた。
俺の風ではない。
古い布が、長い時間をかけて吐き出した息のようなものだった。
ネルが俺を見る。
「使ってない」
「わかってる」
彼女の返事が早い。
それがありがたかった。
扉が開く。
中は暗い。
光を入れると、埃が筋になって浮かんだ。
棚が並んでいる。
折り畳まれた旗布。
古い支柱。
錆びた測定具。
割れた標準旗ケース。
壁には、過去の競技場配置図が何枚も貼られていた。
そのほとんどが色あせている。
でも、中央の一枚だけ、妙に濃く残っていた。
カルミア旧中央競技場。
第七運用班公開試験。
ノルが小さく息を吸った。
「夢の場所」
コレットが図の前に立つ。
昨夜の夢記録と照合する。
「観客席の配置が一致します」
クララも頷いた。
「旗道線も近いです。ただ、ここには閉鎖線が追記されています」
図の上には、黒い線が重ねられていた。
まるで道を塗りつぶすように。
閉鎖。
連盟承認済。
標準化審査局保管対象。
ローエン・ミルツの名前はない。
年代が古い。
でも、同じ部署の前身らしい印がある。
「昔から、ここが閉じた」
ノルが言う。
「たぶん」
倉庫の奥へ進む。
アルフが一方向結界を張る。
外から中への干渉を弱める。
ミラが重い箱を支える。
ロイは小さな音を鳴らして棚の反応を見る。
レイナは赤い紐で歩いた経路を残す。
ジャックは一番後ろで、撃たない警戒をしている。
リリィとグレイは匂いを追っていた。
「奥です」
リリィが言った。
「グレイがそう言っています」
グレイは得意げに鳴く。
奥には、布をかけられた台があった。
台の上に、古い旗が置かれている。
カルミアの練習旗とは違う。
色は深い青。
でも、完全な青ではない。
何度も光を受け、雨を吸い、手で触れられて、場所によって色が変わっている。
中央には、古い紋様。
羽根。
開いた旗。
そして、名前のない小さな空白。
「これが旧第七の旗?」
ロイが囁く。
ノルが首を傾げる。
「旗、寝てる」
「起こせますか」
クララが聞く。
「起こさない方がいい」
ノルは即答した。
珍しい速さだった。
「起きたら、昔に戻ろうとする」
昔に戻る。
その言葉が危なかった。
戻りたいものはたくさんある。
でも、昔へそのまま戻ることは、たぶん解決ではない。
「読むだけなら?」
クララが聞く。
ノルは少し考える。
「寝言なら」
「寝言」
クララは真面目に受け止めた。
「では、読める範囲だけ。起こさない。寝言の範囲で読みます」
彼女は台の前に立つ。
「読みます。旧第七運用班旗と思われる対象。許可者不明。読解範囲は表層の残響のみ。旗本体を起こす反応があれば停止します。結果は仮説として扱います」
栞が淡く光る。
クララの目が、旗の紋様を追う。
「閉じられています」
彼女が言った。
「かなり強く。旗道の入口が、内側からも外側からも封じられている」
「内側からも?」
コレットが聞く。
「はい。外から閉じられただけではありません。中にいた誰かが、これ以上広がらないように押さえた痕跡があります」
「事故を止めるため?」
俺が言う。
「たぶん」
クララは旗から目を離さない。
「外側の封鎖は連盟標準化系。内側の固定は、カルミア側です。セイン家の保存術式に似ています」
コレットの表情が揺れる。
「曾祖母」
「可能性があります」
旧旗は動かない。
でも、部屋の空気が少し濃くなった。
ノルが部誌を開く。
ページが自然にめくれる。
昨夜の夢記録。
その横に、古い文字が浮いた。
戻すな。
閉じるな。
矛盾した二つの言葉。
ロイが小声で言う。
「どういう意味っすか」
クララは苦しそうに答えた。
「昔へ戻すな。旗道は閉じるな。だと思います」
「難しすぎる」
ネルが言う。
その通りだ。
戻すな。
閉じるな。
過去をそのまま再現してはいけない。
でも、道を完全に塞いでもいけない。
今の俺たちがやらなければいけないことに、かなり近い。
グレイが白い花に反応した。
リリィが部誌から花を取り出す。
「近づけますか」
コレットが聞く。
リリィは俺を見た。
俺はネルを見る。
ネルは嫌そうな顔をした。
でも、頷いた。
「近づけるだけ」
「触れさせない」
俺が言うと、クララも頷く。
「触れさせません」
白い花を旧旗に近づける。
花の中央の銀色が、わずかに光った。
旧旗は動かない。
でも、旗の空白部分に影が落ちる。
王冠の形。
ほんの一瞬。
ノルが呟いた。
「王冠、ここを知ってる」
「クラウンが?」
ネルが聞く。
「うん。来たことないけど、知ってる」
それは、旗が記憶を持つということなのか。
それとも、虚像固定の契約がこの旧旗道と同じ根を持つということなのか。
クララはすぐに書き取る。
「クラウンは旧旗道の派生、または同系統の契約を持つ可能性」
「エレナは知っていた?」
俺が言うと、胸が痛んだ。
薄い痛み。
でも、確かにある。
「全部では、ありません」
彼女の声を思い出す。
全部ではない。
でも、ゼロではない。
旧旗の下に、小さな引き出しがあった。
ガレスが気づいた。
「ここ、開く」
「壊さずに?」
ジャックが聞く。
「たぶん」
ガレスは慎重に金具を外す。
引き出しの中には、薄い板が一枚入っていた。
金属でも、紙でもない。
古い旗布を固めたような板。
そこに、短い文が刻まれていた。
第七運用班最終記録。
失われた試合の完全記録は、連盟中央保管庫へ回収。
カルミア保管分は、道標のみ残す。
道標。
その下に、さらに一文。
閉じた道は、試合でしか通れない。
俺たちは、その文を見つめた。
試合でしか通れない。
後半リーグ。
三勝。
閉じられた旗道。
全部が、また一本につながる。
「つまり」
ロイが言った。
「勝たないと、道も見えないってことっすか」
コレットは板を見つめたまま頷いた。
「おそらく。旧第七運用班は競技形式で旗道を観測していました。閉じた道を安全に通るには、競技の中で条件を満たす必要がある」
「連盟はそれを知ってる」
ネルが言う。
「だから後半リーグで潰す」
誰も否定しなかった。
旧旗倉庫の奥で、寝ている旗が少しだけ揺れた。
起きてはいない。
ただ、寝言のように、布が擦れた。
ノルが部誌に書く。
閉じた道は、試合でしか通れない。
その一文が、これからの後半リーグの意味を変えた。
勝つためだけの試合ではない。
学校を残すためだけでもない。
閉じられた道の端を、競技の中で探す。
昔へ戻さず。
道を閉じず。
俺たちは、旧旗倉庫からその言葉を持ち帰った。




