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第164話 失われた試合

 その夜、ノルは部室で寝ると言い出した。


「だめ」


 ネルが即答する。


「風邪ひく」


「毛布ある」


「そういう問題じゃない」


 ノルは部誌を抱えたまま、机に頬をつけていた。


 眠いのか、もう半分寝ているのか、判断が難しい。


「古い試合、ここで見る」


「夢で?」


 俺が聞くと、ノルは頷いた。


「たぶん。部室、道が近い」


 クララが真面目に考え込む。


「ノルさんの夢は、記録と旗道の残響に接続することがあります。ここで寝た方が見える可能性はあります」


「クララ」


 ネルが責めるように見る。


「でも、危険もあります」


 クララは続けた。


「だから、見守りが必要です」


 結局、部室に残ることになった。


 全員ではない。


 疲労が大きすぎる。


 コレット、クララ、俺、ネル、ロイ、ガレス。


 それから、リリィとグレイ。


 リリィは「監視対象が多すぎます」と文句を言いながら残った。


 グレイは白銀の欠片の匂いを覚えている。


 必要になるかもしれない、という判断だった。


 ジャックは一度部屋を出て、すぐ戻ってきた。


「寝られない」


 それだけ言って、壁際に座った。


 レイナも「失敗時の記録係が必要です」と言って残った。


 ミラとアルフは別室で休むことになったが、何かあればすぐ呼ぶ約束をした。


 結局、ほとんど残っている。


 第七部らしい。


 ノルは毛布にくるまり、部誌を胸に置いた。


 白い花を挟んだページ。


 その横に、古い第七運用班の試合記録。


 クララが栞を机の端に置く。


「ノルさん、夢に入る前に確認します。嫌なら止めてください」


「うん」


「見えたものを全部信じすぎません。夢は記録の再生ですが、記録そのものではありません」


「うん」


「危ないと思ったら、戻り言葉を使います」


「何にする?」


 ノルが聞いた。


 俺は少し考えた。


 ルカ。


 それは俺の戻り言葉だ。


 ノルに使う言葉ではない。


 ノルは眠そうに笑った。


「部誌」


「戻り言葉が部誌?」


 ロイが小声で言う。


「ノルらしいですわ」


 レイナが言った。


 クララは頷く。


「戻り言葉は、部誌。確認しました」


 部室の灯りを一つだけ残す。


 夜のカルミアは静かだった。


 レガリアの夜とは違う。


 あそこは白すぎて、夜でも誰かの視線が残っている気がした。


 ここは古い。


 暗い。


 でも、見られている感じはしない。


 代わりに、置いていかれたものが息を潜めている。


 ノルの呼吸がゆっくりになる。


 部誌のページが、かすかに震えた。


 白い花の中心が、薄く銀色に光った気がした。


 グレイが小さく鳴く。


「静かに」


 リリィが囁く。


 ノルが喋り始めた。


「人、多い」


 夢の声だ。


 いつもより少し遠い。


「観客。古い競技場。白くない。石。旗がいっぱい。名前、いっぱい」


 クララがすぐに書き取る。


 コレットも別の紙に記録を始める。


「第七運用班、入ってくる」


 ノルの眉が寄った。


「みんな、見られてる。でも、見られるためじゃない。測るため。違う。名づけるため」


「名づける」


 クララが繰り返す。


「保留者十一名」


 ノルの声が少し震える。


「欠陥じゃない。まだ名前がないだけ。そう言ってる人がいる」


 コレットのペンが止まった。


「誰?」


 彼女が小さく聞く。


 ノルは眠ったまま答える。


「女の人。記録係。髪、結んでる。羽根と旗の印。セイン」


 コレットの顔が白くなる。


 セリア・セイン。


 彼女の曾祖母かもしれない人。


 ノルの夢の中で、古い記録係が立っている。


「試合、始まる」


 ノルの手が部誌を握る。


「変な魔法ばっかり。でも、弱くない。合わないだけ。旗、喜んでる」


 ロイが息を殺して聞いている。


 ガレスも工具箱を膝に置いたまま動かない。


「一人、音が大きい。みんな笑ってる。でも、道が広がる。声、旗に届く」


 ロイの目が少し開く。


「一人、壊す。でも、壊す場所を選んでる。壊さないものを守ってる」


 ガレスの手が工具箱を握る。


「一人、失敗を赤く残す。笑われてる。でも、次にそこを踏まない」


 レイナが唇を噛む。


「一人、少しだけ速い。速すぎない。だから届く」


 ネルの肩が強張る。


 古い第七運用班には、今の俺たちに似た人たちがいた。


 同じではない。


 でも、機能が似ている。


 欠陥として捨てられたものが、旗道の中では役割になる。


 それを、カルミアは昔から見ていた。


「相手、強い」


 ノルの声が低くなる。


「標準型。綺麗。速い。正しい。観客、そっちを見る」


 レガリアが頭をよぎる。


 でも、これは昔の試合だ。


 レガリアではないかもしれない。


 標準型制度の中心にいた学校。


 あるいは、連盟が用意した公開試験の相手。


「第七、負けてる。でも、道は見えてる。勝ちじゃない。記録が勝ってる」


 コレットのペンが震えた。


 負けても記録が勝つ。


 それは、第七部の戦い方に近い。


「途中で、観客が増える」


 ノルの呼吸が乱れた。


 クララが栞に手を伸ばす。


「視線、多すぎ。名前、重い。旗道、詰まる」


「ノル」


 ネルが呼ぶ。


 ノルは聞こえていない。


「女の人、止めようとしてる。セイン、止めようとしてる。でも、上の席から命令。続行」


 連盟か。


 俺は拳を握る。


「保留者、一人、名を外へ逃がす。自分じゃない。誰かを守るため。戻り目印、置けてない。だめ。だめって言ってる」


 胸が痛んだ。


 名を外へ逃がす。


 忘却反応。


 俺の魔法に似ている。


「もう一人、名を外へ固定する。嘘じゃない。支えるため。でも、見られすぎる。像になる。戻れない」


 虚像固定。


 エレナ。


 クラウン。


 昔の試合で、忘却と虚像の前段階が起きている。


 同時に。


 対として。


「旗、泣いてる」


 ノルの声が細くなる。


「道、閉じられる」


 部室の灯りが揺れた。


 窓が鳴る。


 風ではない。


 でも、俺の中の風が反応しそうになる。


 ネルが俺の手首を押さえた。


「使わない」


「使わない」


 俺は歯を食いしばる。


 ノルの夢が続く。


「セイン、叫んでる。旗道を閉じるな。まだ名前がないだけ。閉じるな」


 コレットの目に涙が浮かんだ。


 でも、彼女は書き続ける。


「上の席、言う。危険。倫理。制度。回収」


 リリィが小さく舌打ちした。


「便利な言葉ですね」


 ノルの呼吸が速くなる。


「一人、消える。名前、聞こえない。もう一人、残る。でも、像になる。見られる。見られる。見られる」


 クララが栞を持った。


「戻します」


 その瞬間、ノルが叫んだ。


「部誌!」


 戻り言葉を、自分で言った。


 部誌のページが強くめくれる。


 白い花が落ちそうになり、グレイが飛びついて押さえた。


 ノルは大きく息を吸って、目を開けた。


 部室に戻ってくる。


 しばらく、誰も喋れなかった。


 ノルは涙を流していた。


 本人も気づいていないようだった。


「怖かった?」


 ネルが聞く。


 ノルは少し考えた。


「うん」


「続き見る?」


「今日は見ない」


「それでいい」


 クララが記録を確認する。


 手が震えている。


「夢記録として扱います。断定はできません。でも、資料と一致する点が多すぎます」


「忘却と虚像は、昔から対だった」


 俺は言った。


 声が、自分のものではないみたいだった。


「誰かを守るために名を逃がした人と、誰かを支えるために名を固定した人がいた」


「そして、戻れなくなった」


 コレットが続けた。


 彼女は紙に書かれたセインの印を見ている。


「私の家は、それを止められなかった。だから保存した」


「止められなかったことと、保存したことは別ですわ」


 レイナが言った。


 コレットは彼女を見る。


「失敗は残せます。残せば、次に踏まない場所になります」


 レイナの声は強かった。


 彼女の魔法そのものの言葉だ。


 コレットはしばらく黙って、それから頷いた。


「はい。残します」


 ノルが部誌を抱え直した。


「古い第七、負けた」


 眠そうな声に戻りつつある。


「でも、まだ終わってない」


「なぜ?」


 クララが聞く。


 ノルは部室の奥の木箱を指した。


「ここにいる」


 その言葉で、俺は部室を見回した。


 かすれた札。


 古い戸棚。


 錆びた金具。


 部誌。


 白い花。


 欠陥判定保留。


 失われた試合は、完全には失われていなかった。


 ここに残っていた。


 カルミアに。


 第七部に。


 俺たちが帰ってきた部室に。



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