第161話 帰ってきた部室
カルミアに帰ってきた。
王都からの列車を降りた瞬間、空気の重さが変わった。
レガリアの空気は白かった。
壁も、廊下も、競技場も、人の視線まで整っていて、汚れを置く場所がなかった。
カルミアの空気は、少し埃っぽい。
駅前の石畳には欠けがある。
掲示板の端はめくれている。
学園へ向かう坂道の途中には、誰かが昔落としたらしい練習用の標識が、まだ斜めに刺さっていた。
帰ってきた、と思った。
安心したわけではない。
綺麗な場所から、古い場所へ戻っただけだ。
でも、俺の足はレガリアの廊下を歩く時より少しだけ軽かった。
「やっぱり狭いっすねえ」
ロイが荷物を背負い直しながら言った。
「帰ってきて最初の感想がそれ?」
ネルが呆れる。
「いや、褒めてるんすよ。声が戻ってくる感じがあるっていうか」
「反響が悪いだけではなくて?」
レイナが言う。
「レイナ先輩、帰ってきて最初の刺し方が鋭いっす」
「鈍い刺し方をした覚えはありません」
いつもの声がする。
それだけで、王都の白い残響が少しずつ薄れていく。
ただ、完全には消えない。
俺の鞄の中には、レガリアから持ち帰った記録が入っていた。
公式試合記録。
クララの写し。
グレイが拾った白銀の欠片。
ノルが書いた、王冠は重いという一文。
それから、部誌に挟んだ小さな白い花。
帰ってきても、持ち帰ったものは消えない。
むしろ、古い校舎の中に入ると、その存在は少しだけ濃くなった。
カルミア魔法学園の正門は、今日も遠慮がちに開いていた。
守衛室には誰もいない。
そもそも守衛が足りていない。
廃校寸前の学園に、誰かが忍び込んで盗むような立派な物はない、という判断なのかもしれない。
それはそれで腹が立つ。
「ただいまー!」
ロイが校門に向かって大きく言った。
音が校舎にぶつかって戻ってくる。
レガリアの競技場で作った、観客に名前を聞かせない音とは違う。
ただの、帰ってきた音だ。
ノルが半分眠そうに手を上げる。
「ただいま」
「誰に言ってるの?」
ミラが聞く。
「校舎」
「校舎、返事する?」
「たまに」
リリィが鼻で笑った。
「建物と会話する人間がまた増えると困ります」
「また?」
ジャックが聞く。
リリィは俺を見た。
「旗と話す、旗に怒られる、旗に気を遣う。だいたい似たようなものです」
「俺だけじゃないだろ」
「そこが問題です」
グレイがリリィの肩で鳴いた。
「あなたは例外です」
リリィが即答する。
いつものやり取り。
けれど、コレットだけは少し静かだった。
彼女は校舎を見上げている。
レガリアを出る時より、表情が固い。
「コレット?」
俺が呼ぶと、コレットはすぐに振り返った。
「大丈夫です」
「それ、だいたい大丈夫じゃない時の返事だよね」
ネルが言う。
コレットは少し困ったように笑った。
「帰ってきたからこそ、見えるものもあります」
「負け筋?」
「それもあります。でも、それだけではありません」
彼女は校舎の二階を見た。
第七魔法競技部の部室がある方角だ。
「ここは、残ってしまった場所です」
残ってしまった場所。
その言い方が、妙に合っていた。
レガリアは残す場所ではなかった。
勝利も、栄光も、役割も、綺麗に並べる場所だった。
カルミアは違う。
壊れた椅子。
古い旗。
使われなくなった練習板。
誰かの失敗。
誰かの名前。
捨てるには間に合わず、直すには遅く、でも消すには惜しいものが置かれている。
第七部は、そういう場所に部室を持っている。
「行こう」
俺が言うと、全員が頷いた。
階段を上がる。
途中の踊り場で、アルフが壁を叩いた。
「ここ、また割れてる」
「前からだ」
ガレスが言う。
「いや、前より広い」
「帰ったら直す」
「帰ってるよ」
「じゃあ直す」
ガレスは荷物を置く前から修理のことを考えている。
ジャックがそれを見て、黙って工具箱を持った。
ガレスが一瞬だけ嫌そうな顔をした。
でも、何も言わない。
少し経ってから、小さく言った。
「落とすな」
「落とさない」
それだけでいいらしい。
部室の扉の前に着く。
札には、かすれた字で第七魔法競技部と書いてある。
何度見ても、強豪校の部室には見えない。
そもそも強豪校ではない。
でも、今の俺たちは王立レガリアの公開競技場で、白銀の星の嘘に亀裂を入れて帰ってきた。
それでも部室の札はかすれている。
その差が、少しおかしかった。
「開けます」
コレットが鍵を差し込む。
扉が軋んだ。
埃の匂い。
古い紙の匂い。
練習用旗の布の匂い。
帰ってきた部室は、何も変わっていなかった。
作戦板には、レガリア戦前に書いた文字が残っている。
観客視線。
クラウン。
嘘。
名前。
音で隠す。
風は使わない。
赤い失敗。
隣。
最後の文字は、誰が書いたのか覚えていない。
たぶん、ネルではない。
ネルはそういうことを作戦板に書かない。
でも、消す気にもならなかった。
「まず記録を分けましょう」
コレットが言う。
疲れているはずなのに、声が監督の声になっている。
「公式記録、部誌、クララさんの写し、ノルさんの夢記録、グレイさんの欠片記憶、レイナさんの失敗跡再現、ロイさんの音譜、ジャックさんの射線記録、ガレスさんの破片記録、ネルさんの接触経路、ルカさんの主観記録」
「主観記録って何を書くんだ」
「嘘をつかず、断定しすぎず、忘れたことも書いてください」
難しい注文だ。
でも、今の俺には必要だった。
忘れたことを書く。
それは、覚えていることを書くより難しい。
ノルが部誌を机に置いた。
白い花を挟んだページが、少し膨らんでいる。
その瞬間、部室の奥で小さな音がした。
かたん。
全員が振り返る。
部室の奥には、古い戸棚がある。
誰も普段は開けない。
壊れた練習具と、古い旗布と、誰が置いたかわからない箱が詰まっている場所だ。
「今、動いた?」
ミラが言った。
「風は使ってない」
俺は反射的に言う。
ネルが俺を見る。
「わかってる」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
クララが戸棚に近づく。
「読んでもいいですか」
誰に聞いたのか、一瞬わからなかった。
でも、彼女は戸棚ではなく、部室全体に向かって言っていた。
コレットが息を呑む。
「部室に、ですか」
「はい」
「許可権限が誰にあるかわかりません」
「だから、聞くだけです。返事がなければ読みません」
クララは目を閉じた。
「読みます。読める範囲だけ。栞を挟んだら止まります。読後は仮説扱いです」
部室は返事をしない。
当たり前だ。
建物は喋らない。
そう思った時、ノルが眠そうに言った。
「部室、いいって」
「え」
「たぶん」
「たぶんで古代術式を読むのは危険です」
クララが真面目に言う。
ノルは部誌のページを指した。
白い花を挟んだページ。
その下で、紙が少しだけ浮いている。
風ではない。
俺は使っていない。
部誌のページが、勝手にめくれた。
白い花の隣に、古いインクの染みが浮かぶ。
もともとあった染みなのか、今見えるようになったのかはわからない。
でも、文字のように見えた。
旗道を閉じるな。
クララの顔色が変わった。
コレットも、目を見開いている。
「その言葉」
彼女が呟く。
「アストラムの記録にありました」
ガレスが戸棚の前にしゃがむ。
「これ、奥に箱がある」
「壊すなよ」
ジャックが言う。
「壊さない」
ガレスは慎重に古い練習具を退ける。
埃が舞う。
ロイがくしゃみをしそうになり、必死に口を押さえた。
戸棚の奥から、木箱が出てきた。
金具は錆びている。
表面には、古い紙札が貼られていた。
文字はかすれている。
けれど、読めた。
第一資料群。
第七運用班。
欠陥判定保留。
コレットが、その場に立ち尽くした。
俺は箱を見た。
レガリアから持ち帰った白い花。
グレイが拾った欠片。
クララが読んだ忘却と虚像。
その全部が、古いカルミアの部室で一つの箱に向かっている。
「開けますか」
クララが聞く。
コレットは、すぐには答えなかった。
監督としてではなく、コレットとして箱を見ている。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「開けましょう」
声が震えていた。
「ここは、残ってしまった場所ですから」
古い木箱の錆びた金具が、部室の静けさの中で軋んだ。




