第158話 渡せない断片
エレナがノルを守ったように見えた瞬間から、競技場の視線は安定しなくなった。
白銀の星。
冷たい勝者。
王冠は落ちない。
その言葉だけでは、観客の理解が追いつかない。
なぜ、エレナはカルミアの記録係を遮ったのか。
なぜ、王冠旗クラウンはその時だけ軽くなったのか。
なぜ、ノルは「痛くない」と言ったのか。
答えのない問いが、観客席のあちこちで小さく生まれていた。
問いは、視線を割る。
視線が割れると、王冠は少し軽くなる。
クラウンの動きが、ほんの少し自由になった。
それは、こちらにとって良いことでもあり、危険なことでもある。
クラウンはレガリアの旗だ。
軽くなれば速くなる。
レガリアは強くなる。
でも、嘘だけで縛られた王冠ではなくなる。
そこに、わずかな道がある。
「点差は?」
俺が聞く。
アルフが即答する。
「レガリア優勢。こちらが追いつくには旗接触二回、または大きな減点誘導が必要」
「現実的には」
「厳しい」
いつもの淡々とした声。
でも、諦めではない。
コレットが監督席で頷く。
「勝敗はまだ捨てません。ただ、優先順位は変えません。ルカくんは魔法を使わない。クラウンとの旗媒介接触を作る。エレナさんの嘘へ亀裂を入れる」
「勝てなくても?」
ロイが聞く。
「勝てなくても、です」
コレットはきっぱり言った。
「この試合で全部を勝とうとすると、ルカくんが壊れます。エレナさんも、たぶんもっと嘘に押し込まれます」
エレナを見る。
彼女はヴァイス総監督の声を受けて、再び姿勢を整えていた。
冷たい微笑みが戻りかけている。
でも、完全ではない。
ノルを守った白銀の線が、まだ床に薄く残っている。
それは攻撃でも、防御でも、演出でもない。
彼女がとっさに出した線。
嘘だけではない線。
クララがその痕跡を見ていた。
「今の白銀線、通常の虚像強化と違います」
「どう違う」
ジャックが聞く。
「観客から見られる前に出ています。嘘で強化された後の魔法ではなく、反応として先に出た魔法です」
「つまり、本音に近い?」
ネルが聞く。
「可能性があります」
クララは慎重に答える。
「断定はしません。ただ、クラウンの負荷軽減と同時に出た白銀線です。重要です」
重要。
その言葉が、今は本当に重要に聞こえる。
試合が動く。
レガリアは一気に終わらせに来ない。
エレナの揺れを整えるためか、少しだけ配置を変えた。
ユリウスが前に出る。
防壁を厚くし、クラウンを守る。
他の選手が観客視線を再び中央へ戻すように動く。
レガリアは乱れを隠すのがうまい。
白い布をかけるように、乱れた場所をすぐに美しく整える。
「隠されたら終わりです」
コレットが言う。
「今の亀裂を残します」
「どうやって」
レイナが聞く。
コレットはレイナを見る。
「失敗を使います」
レイナは一瞬で理解した。
そして、少しだけ笑った。
「私の出番ですわね」
レイナが前へ出る。
観客席の視線はまだレガリアを見ている。
そこへ、彼女は声を響かせた。
「一度目、失敗しますわ!」
観客が反応する。
さっきも見た失敗宣言。
でも、今度は意味が違う。
レガリアは乱れを隠そうとしている。
そこへ、第七部は失敗を隠さず置く。
白い布の上に、赤い点を置くように。
レイナの魔法は、一度目、本当に失敗した。
赤い火花が散る。
観客席の一部が笑いかける。
しかし、レイナは続けた。
「失敗は、消しませんわ」
その言葉で、笑いが止まる。
「二度目、成功します」
赤い線が伸び、さっきエレナがノルを遮った白銀線の痕跡へ重なる。
白銀の上に、赤い印が残る。
エレナが目を見開いた。
ほんの少し。
その痕跡を隠せなくなる。
観客が見る。
白銀の星が、何かを守った線。
そこに、第七部の失敗の赤が重なる。
美しくはない。
でも、消えない。
クラウンの王冠が、また軽く揺れた。
「王冠、楽」
ノルが言う。
その声に、エレナが反応した。
ヴァイス総監督の指示より早く。
彼女の視線が、ノルへ。
それから、俺へ。
一瞬。
エレナの手が動いた。
白銀の魔力が、細く伸びる。
攻撃ではない。
道でもない。
紙片のような、小さな光。
それは競技場の床すれすれを滑り、カルミア側へ向かってきた。
「何か来る!」
ロイが叫ぶ。
ジャックが撃とうとする。
「待って!」
クララが叫んだ。
「攻撃ではありません!」
白銀の小片は、俺の前ではなく、クララの少し手前へ来た。
古代文字が見えた。
ほんの一瞬。
クララの目が見開かれる。
「読めます!」
その声と同時に、レガリア側から別の白銀線が飛んだ。
ヴァイス総監督ではない。
レガリアの補助選手。
いや、試合用の防衛術式かもしれない。
白銀の小片を消すための線。
エレナが渡そうとした何かを、レガリア側が消しに来た。
クララが手を伸ばす。
届かない。
ネルが動こうとする。
でも、観客視線が重い。
俺の魔力が、また反応しかけた。
使うな。
使わない。
俺は歯を食いしばる。
その瞬間、リリィがグレイを放った。
「拾いなさい! 紙っぽいものです!」
グレイが床を走る。
小さな灰色の使い魔。
ランダム召喚の、計画通りにいかないはずの存在。
でも、旗の匂いと古いものには妙に強い。
グレイは白銀の小片へ飛びついた。
同時に、レガリア側の白銀線が小片を裂く。
光が散る。
文字が砕ける。
グレイが何かをくわえた。
でも、全部ではない。
ほとんどは消えた。
クララが駆け寄る。
グレイの口元から、小さな白銀の欠片を受け取る。
「読めるか」
アルフが聞く。
クララは欠片を見つめる。
文字は半分以下。
古代略号の切れ端。
「一部だけ」
「何て」
クララの声が震える。
「旗媒介、接触、一時補正……」
俺の胸が跳ねた。
エレナが渡そうとしたのは、救済法の断片だった。
彼女は知っている。
ルカを救う方法の一部を。
そして、それを試合中に渡そうとした。
冷たい星としてではなく。
レガリアの代表候補としてでもなく。
たぶん、エレナとして。
でも、失敗した。
白銀の小片は壊された。
届いたのは欠片だけ。
クララはさらに読む。
「名前……観客……遮断……音……」
ロイが息を飲む。
「音?」
「はい。観客に名を奪われないため、音で遮断する、と読めます」
コレットが作戦板を見る。
「私たちの仮説と同じ」
「エレナさんも、同じ方法を考えていた?」
ネルが言う。
声が複雑だった。
嫌。
でも、壊したいわけではない。
その両方がある声。
「少なくとも、近い断片を持っていました」
クララは答える。
「でも、全部は届いていません」
エレナを見る。
彼女は動けないでいた。
ほんの一瞬。
白銀の小片が消されたことを見て、表情が崩れた。
すぐに戻す。
でも、遅れた。
観客席の一部が、その遅れを見る。
白銀の星が、何かを失敗した。
何かを渡そうとして、遮られた。
それが何かはわからない。
でも、見えた。
エレナの嘘に、また亀裂が入る。
ヴァイス総監督が立ち上がった。
今度は明らかに厳しい顔だ。
試合中の不正な情報伝達。
そう扱われる可能性がある。
コレットがすぐに声を上げた。
「審判! 今の白銀片は攻撃魔法ではなく、レガリア側防衛術式により消失しました。こちらは接触前に攻撃を受けていません。競技続行に異議はありませんが、記録確認を求めます」
早い。
部長が本当に戻っている。
審判が記録係と確認する。
レガリア側の係員も動く。
ヴァイスが何かを言いかける。
しかし、観客が見ている。
ここで不自然に止めれば、かえって目立つ。
審判は短く告げた。
「競技続行。該当魔法反応は試合後確認」
試合は続く。
エレナが渡そうとした断片は、失敗した。
でも、欠片は残った。
グレイの口と、クララの記録と、観客の違和感に。
リリィがグレイを抱き上げる。
「よくやりました。今回は五割です」
グレイが不満そうに鳴く。
「全部取れなかったでしょう」
「でも、取った」
ガレスが言う。
リリィは少しだけ黙り、それから言った。
「では七割」
グレイはまだ不満そうだった。
ジャックがエレナを見て、低く言う。
「あいつ、渡そうとしたのか」
「そう見える」
俺は答えた。
「決めつけないんじゃなかったのか」
「決めつけない。でも、見えたものは見る」
ジャックは少し笑った。
「面倒な言い方、増えたな」
「第七部だからな」
ネルが俺の横に立つ。
エレナを見ている。
「ルカ」
「何」
「あの人、たぶん敵だけじゃない」
「うん」
「でも、味方って決めるのも早い」
「うん」
「嫌」
「それも、うん」
ネルは少しだけ息を吐いた。
「でも、今のは助ける」
その言葉に、俺は胸の薄い道がまた少し反応するのを感じた。
エレナへの感情は薄くなっている。
でも、目の前で渡そうとした断片は見た。
失敗したことも見た。
それを助けたいと思う。
理由が全部戻らなくても。
今見たものだけで、動ける。
「助ける」
俺も言った。
コレットが作戦板へ書き込む。
救済法断片。
旗媒介接触。
名前遮断。
音。
エレナ側も同仮説。
伝達失敗。
「次で、試します」
コレットが言った。
点数では負けている。
流れでも、まだ不利。
でも、エレナの嘘には亀裂が入った。
救済法の欠片は、こちらへ届いた。
完全ではない。
足りない。
それでも、第七部はいつも足りないものから作戦を作ってきた。
ロイが指を構える。
ネルが足場を見る。
アルフが結界符を構える。
ジャックが撃たないまま待つ。
ガレスが壊す場所を選ぶ。
クララが欠片を胸元に挟む。
ノルがクラウンを見る。
リリィがグレイを抱える。
レイナが赤い失敗跡を消さずに立つ。
俺はエレナを見る。
白銀の星。
嘘つきエース。
渡せなかった人。
まだ本心は聞けていない。
でも、彼女が何かを渡そうとしたことだけは、もう見なかったことにしない。
試合は、最後の局面へ向かっていた。




