第157話 届かせるための敗北
試合再開の笛が鳴った瞬間、レガリアは迷わなかった。
ヴァイス総監督が、何かを短く指示していた。
それが何か、俺たちには聞こえない。
でも、レガリアの選手たちの配置でわかった。
守りを固めるのではない。
こちらを潰しに来る。
中断中にこちらが何かを読んだことを、向こうも読んでいる。
忘却と虚像。
旗媒介。
名前を届かせる場所。
そこまではわからなくても、カルミアが何かを掴んだことは伝わっている。
だから、試合を早く終わらせる。
白銀の道を広げ、クラウンを中央へ走らせ、旗接触点を取り切る。
王立の強さで押し潰す。
「来ます」
コレットが言った。
監督席の声は、冷静だった。
「レガリアは、こちらの作戦準備が整う前に決めに来ます」
「じゃあ、どうする」
ジャックが聞く。
「負け筋を選びます」
その言葉に、ロイが目を丸くした。
「選ぶんすか」
「はい」
コレットは作戦板を見た。
「勝ち筋はまだ薄いです。ですが、全てを守ろうとすると、ルカくんがまた魔法を使います。それが最悪の負け筋です」
俺の胸が冷える。
でも、否定しない。
さっき、それをやった。
暴発した。
失った。
「だから、点は捨てます」
コレットは言った。
「旗接触点を一つ取られても構いません。ルカくんの魔法を止め、ネルさんの一瞬を温存し、クラウンの王冠へ亀裂を入れることを優先します」
「負けるってこと?」
ネルが聞く。
「このままなら、たぶん負けます」
コレットは正直だった。
「でも、ただ負けるのではありません。エレナさんの嘘へ亀裂を入れます」
負ける。
その言葉が、競技場の白さの中で重く響く。
でも、第七部は負けを知らない部ではない。
コレットは未来の敗北だけを見る。
負け筋を潰してきた。
時には、負けの使い道を作ってきた。
軍事校で。
山岳校で。
工房都市で。
ラグエッジで。
だから、ここでも。
負けるなら、負け方を選ぶ。
「レガリア、中央突破」
アルフが言う。
ユリウスの青い防壁が左右に展開する。
他の選手たちが白銀の道を補強する。
クラウンが中央を走る。
王冠は重い。
でも、白銀の道がそれを支えている。
観客の視線が、またレガリアへ集まる。
王冠は落ちない。
その合唱は薄れたが、まだ残っている。
そこへ、ノルがもう一度言った。
「王冠は重い」
今度は、さっきより静かだった。
でも、周囲の観客の一部が反応する。
重い。
その言葉が、まだ残っている。
クラウンの王冠が揺れる。
エレナの目が、ノルへ向く。
ほんの一瞬。
その一瞬を、レガリアは嫌った。
ユリウスが防壁を動かし、ノルとクラウンの間の視線を遮る。
見せない。
聞かせない。
王冠の重さに名前をつけさせない。
「ロイくん」
コレットが言う。
「小音でノルさんの声を残してください」
「了解っす」
ロイが短く鳴らす。
こつ。
ノルの言葉の後ろに、小さな音が残る。
王冠は重い。
こつ。
その組み合わせが、近くの観客の耳に引っかかる。
合唱ではない。
記録だ。
小さな記録。
クラウンがまた揺れる。
エレナは中央で白銀の魔力を伸ばした。
今度は冷たい言葉を言わない。
無言。
無言のまま、魔力を強める。
その沈黙が、逆に怖い。
「嘘は?」
俺が聞く。
クララが術式板を見る。
「強いです。発話していなくても、対外像を維持する嘘が続いています」
「言わなくても嘘になるのか」
ジャックが低く言う。
「はい。自分を白銀の星として固定すること自体が、虚像強化になっています」
エレナは言葉を使わなくても、嘘を続けられる。
白銀の星として立つだけで。
観客の期待に応えるだけで。
だから強い。
だから苦しい。
「中央、来る」
ネルが言う。
「左下、軽い」
俺は風を見る。
「行く?」
「まだ」
ネルは動かない。
届かなかった負け筋を潰すために、彼女の一瞬は温存する。
ここでは使わない。
クラウンが中央へ走る。
カルミアの旗が追うが、白銀の道に弾かれる。
レガリアの旗接触が近い。
止めるには、俺の風が必要だ。
そう思った瞬間、ネルの手が俺の袖を掴んだ。
「使わない」
短い。
強い。
俺は歯を食いしばる。
使えば止められるかもしれない。
でも、失う。
また。
今度は、エレナの名前がもっと軽くなるかもしれない。
あるいは、ネルの声も遠くなるかもしれない。
何を失うかわからない。
だから、使わない。
「使わない」
俺は自分でも言った。
クラウンがカルミアの旗へ触れた。
審判の笛。
レガリアに加点。
観客席が沸く。
王冠は落ちない。
その声がまた上がる。
負けた。
少なくとも、この局面は。
止められたはずのものを、止めなかった。
俺は息を吐く。
悔しい。
ちゃんと悔しい。
その悔しさを、逃がさない。
「ルカ」
ネルが言う。
「今の悔しい?」
「悔しい」
「自分の分?」
「自分の分」
ネルは頷いた。
「ならいい」
負けたのに、少しだけ勝ったような言い方だった。
でも、たぶん正しい。
今の俺は、魔法を使わなかった。
失わなかった。
悔しさを自分のものとして持った。
それは、必要な敗北だった。
コレットの声が飛ぶ。
「次です。今の加点で観客の視線はクラウンへ戻りました。ですが、王冠の重さを見た観客もいます。その分、次の嘘に亀裂が入ります」
「どう入れる」
ジャックが聞く。
「エレナさんに、王冠を支える以外の動きをさせます」
「具体的には」
「誰かを守らせます」
その言葉で、全員がエレナを見る。
エレナはレガリア側で、無言のまま立っている。
クラウンは戻ってきた。
王冠は重い。
でも、観客は勝利に湧いている。
白銀の星が、没落校から点を取った。
物語としては綺麗だ。
「彼女が誰かを守ると、冷たい勝者の像が揺れます」
コレットが言う。
「ただし、守らせる相手を間違えると、彼女はさらに嘘を強めます」
「誰を守らせる」
アルフが聞く。
コレットは一瞬、俺を見た。
そして首を横に振った。
「ルカくんではありません」
俺も同じことを考えていた。
俺を守らせれば劇的だ。
観客が喜ぶ。
白銀の星と過去の相手。
それは物語にされる。
嘘が強まる。
「では誰?」
レイナが聞く。
コレットはノルを見た。
ノルが少し目を開く。
「私?」
「危険には入れません。ですが、ノルさんの言葉をクラウンへ近づけます。レガリア側がそれを止めようとするなら、エレナさんはクラウンを守るか、ノルさんの言葉を完全に遮るか選ぶことになります」
「危ない」
ガレスが言う。
「はい。だから、ガレスさんが壊す場所を作ってください。物理的な危険は作りません。視線の危険です」
ガレスは少し考えた。
「視線の支え」
「はい」
クララが補足する。
「王冠を讃える視線の支えを、ノルさんの言葉でずらします。エレナさんがクラウンを本当に気にしているなら、そのずれに反応するはずです」
「反応しなかったら?」
ジャックが聞く。
コレットは少しだけ唇を噛む。
「その場合、この負け筋は潰せません。別の負けを選びます」
正直な答え。
怖い答え。
でも、今はそれしかない。
ノルが部誌を抱える。
「言う」
「無理はしないで」
ロイが言う。
「眠くない」
「そこじゃないっす」
「大丈夫。王冠の声、近い」
ノルは一歩前へ出た。
観客席はまだレガリアの加点に沸いている。
その歓声の中で、彼女は小さな声で言った。
「王冠、痛い」
今度は、ほとんど聞こえない。
でも、ロイの小音が後ろに乗る。
こつ。
音が言葉を運ぶ。
近くの観客が聞く。
「痛い?」
「今、旗が痛いって」
「誰が言った?」
視線がノルへ向く。
ユリウスが防壁を動かす。
ノルを遮るために。
その瞬間、ジャックが言った。
「撃つ」
「発射許可。ただし外してください」
コレットが答える。
ジャックの顔が歪む。
意図的に外す。
危険に見えて、安全な場所へ。
彼は撃った。
攻撃はユリウスの防壁の横を通り、観客から見ればノルの近くへ向かったように見える。
悲鳴が上がる。
でも、実際の軌道は違う。
アルフの一方向結界が横腹を受け、ガレスが床の固定具を砕いて、攻撃を白い標識柱の根元へ逸らす。
標識柱が斜めに傾く。
壊していい、予備標識。
でも、観客の視線は大きく動いた。
ノル。
ジャックの攻撃。
標識柱。
そして、クラウン。
王冠への合唱が途切れる。
その隙に、ノルがもう一度言った。
「王冠、痛い」
クラウンが強く震えた。
エレナが動いた。
白銀の線が、ノルへ向かう視線を切るように伸びる。
攻撃ではない。
防御でもない。
隠すための線。
ノルの言葉を観客から遮るための白銀。
でも、その線はノルを傷つけない。
むしろ、観客の過剰な視線からノルを守るように見えた。
エレナ自身も、動いた後で気づいたようだった。
観客席が一瞬、静かになる。
白銀の星が、カルミアの記録係を攻撃したのではない。
守ったように見えた。
冷たい勝者の像に、小さな亀裂が入る。
クラウンの王冠が、ふっと軽くなった。
ノルが息を吐く。
「痛くない」
その言葉が、白い競技場に落ちた。
エレナは、動きを止めた。
白銀の線を出したまま。
完璧な微笑みはない。
ほんの一瞬だけ、素の顔が見えた。
観客席はざわめく。
「今の、守った?」
「エレナ様が?」
「カルミアの子を?」
物語が乱れる。
白銀の星は冷たい勝者。
王冠は落ちない。
没落校は見世物。
そのきれいな並びに、合わないものが入った。
エレナが、ノルを守ったように見えたこと。
クラウンが軽くなったこと。
ノルが痛くないと言ったこと。
それは、小さな亀裂だった。
でも、確かに亀裂だった。
ヴァイス総監督が立ち上がる。
「フォルティス」
声が鋭い。
エレナの肩がわずかに動く。
冷たい微笑みが戻ろうとする。
戻るな。
そう思った。
でも、声には出さない。
まだ場所ができていない。
ロイが小さく音を鳴らす。
こつ。
ノルの言葉の残響。
王冠、痛い。
痛くない。
その二つが、観客の中に残る。
審判の笛が鳴る。
試合は再開されたまま。
点数ではレガリアが優勢。
旗接触でも負けている。
流れも、まだ向こうだ。
でも、エレナの嘘に、初めて目に見える亀裂が入った。
第七部は負けている。
それでも、ただの敗北ではなくなった。
届かせるための敗北。
その意味が、少しだけ見え始めていた。




