第156話 忘却と虚像
試合一時停止。
その言葉が、白い競技場の上に置かれた。
審判の笛が鳴り、両校の選手は指定位置へ下がる。
観客席はまだざわめいている。
何が起きたのかわからない声。
ルカ・ヴァレンが魔法を使った。
エレナ・フォルティスが名前を呼んだ。
王冠旗クラウンが揺れた。
風が白銀の線を散らした。
それらが、観客の中で勝手な物語になろうとしている。
レガリアの係員が場内へ出て、安全確認を始めた。
ヴァイス総監督はエレナの近くにいる。
ユリウスが彼女の前に立ち、観客席からの視線を少し遮っていた。
それでも、エレナは見られている。
白銀の星が揺れたかどうか。
過去の相手を呼んだのかどうか。
その全部を、白い観客席が見ようとしている。
俺はカルミア側の待機線で膝に手をついた。
息がまだ整わない。
風は止まった。
でも、体の中に風の跡が残っている。
魔法を使った後の空洞。
何かが抜けた感覚。
今回は、それがいつもよりわかりにくい。
記憶の棚が一冊空いたのではない。
道が薄くなった。
エレナ、という名前へ向かう細い道が、霧の中へ遠ざかった。
名前は残っている。
顔も残っている。
さっきの声も残っている。
ルカ。
あの声だけは、耳に残っている。
なのに、胸の反応が遅い。
遅いことが怖い。
「ルカ」
ネルが俺の腕を掴んだまま呼ぶ。
「戻ってる?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「戻ってる」
「ほんとに?」
「名前はわかる。場所もわかる。お前が掴んでるのもわかる」
ネルは少しだけ力を緩めた。
でも、離さない。
「エレナは?」
その問いは、さっきより低かった。
俺はエレナを見ようとして、ネルに止められた。
「見ないで答えて」
「名前はわかる」
「それ以外」
俺は息を吸う。
胸の穴を探す。
穴の縁。
さっきより遠い。
でも、完全に消えていない。
「痛い。けど、薄い」
ネルの顔が強張る。
それでも、彼女は手を離さない。
「薄くなったの、わかる?」
「わかる」
「じゃあ、まだ残ってる」
ノルが言った。
いつの間にか近くに来ていた。
部誌を抱え、眠そうな目で俺を見ている。
「薄いってわかるなら、完全にないわけじゃない」
「それ、慰めか」
「記録」
ノルは真面目だった。
「薄いも記録」
コレットが監督席からこちらへ来ようとして、レイナに止められていた。
「座ってください」
「でも」
「座ってください」
レイナの声が強い。
コレットは悔しそうに座り直した。
それでも、指示は出す。
「クララさん、今の反応を」
「はい」
クララは術式板を膝の上に広げていた。
手が震えている。
でも、目は逃げていない。
「読みます」
彼女は言った。
いつもの手順。
「読む範囲は、ルカさんの暴発時に残った風の痕跡、クラウンの王冠反応、エレナさんの白銀線の乱れです。本人の内面を読むものではありません。許可を」
「許可」
俺は答えた。
エレナ側は読めない。
本人の許可がない。
クララはそこを越えない。
だから信じられる。
「クラウンの反応は、外部観察範囲内です」
クララは審判にも聞こえる声で言った。
レガリア側の係員がこちらを見る。
ヴァイスも一瞬、視線を向けた。
でも、止めない。
外部観察許可は事前に取ってある。
コレットが倒れてまで確認した項目。
その記録が、今効いている。
クララは術式板に指を置いた。
古代文字が、薄く浮かぶ。
現代魔法は読めない。
でも、古代魔法なら読める。
欠陥と呼ばれた力の奥にある、古い道を。
「ルカさんの風の痕跡に、名の反射回避があります」
クララの声は少し震えていた。
「研究都市で見たものと同じ。名前を呼ばれた時に戻る経路があります。ただし、暴発時に一部が削れています」
「削れた?」
ネルが聞く。
「はい。記憶そのものではなく、名前に付随する情動経路が薄くなっています」
情動経路。
感情の道。
俺の感覚と同じ言葉が、術式として出てきた。
「エレナに関する?」
俺が聞く。
クララは慎重に頷く。
「断定はできません。ただ、暴発直前に反応した名がエレナさんであること、暴発停止時に戻り言葉として作用した声がエレナさんの『ルカ』であることから、関係している可能性が高いです」
ネルの手に力が入る。
痛い。
でも、離してほしくなかった。
「クラウンは」
コレットが聞く。
「クラウンの王冠には、虚像固定があります」
クララは術式板を見つめる。
「観客の視線、エレナさんの対外像、レガリアの王冠術式。それらが結ばれています。嘘が強いほど、王冠は輝きます。ですが、輝きは負荷でもあります」
「虚像固定」
アルフが繰り返す。
「ルカの名の反射回避と、似ているのか」
「似ています」
クララは息を吸った。
「いえ、対です」
対。
その言葉で、空気が変わった。
俺の中の薄い道が、かすかに震える。
「忘却は、名を外へ逃がします」
クララは言う。
「ルカさんの契約痕跡は、名前や記憶や感情を自分の内側に保持できず、旗道や外部記録へ逃がすように働いています。だから忘れられる。存在感が薄れる」
彼女は次に、クラウンを見る。
「虚像は、名を外へ固定します。エレナさんの契約痕跡は、周囲に強く認識される像を外側へ固定する。だから忘れられない。けれど、本質が認識されない」
忘れられる俺。
忘れられないエレナ。
どちらも、本当の自分へ届かない。
忘却と虚像。
対になる契約。
クララの言葉は、胸の奥で重く落ちた。
「つまり」
ジャックが低く言う。
「ルカは外へ逃げて、エレナは外に固められてるってことか」
「かなり雑ですが、近いです」
「雑で悪かったな」
「助かります」
クララは真面目だった。
ジャックは困った顔をする。
「それで、どうすりゃいい」
「接触です」
クララは言った。
「旗媒介の接触。研究都市で見た断片、エレナさん側の王冠反応、今の暴発で見えた道。おそらく、忘却と虚像は、旗を媒介に一時的に反射経路を補正できます」
「補正って、戻るのか」
ロイが聞く。
クララは首を横に振った。
「完全復元はできないと思います」
その言葉が、はっきり置かれた。
完全には戻らない。
また。
でも、今度はただの不安ではなく、術式の読みとして。
「完全には戻らない」
ネルが小さく言う。
「はい」
クララは苦しそうに頷いた。
「ですが、一時補正なら可能性があります。名前の道を一時的に繋ぎ直す。感情を全て戻すのではなく、届かなかった声を届かせる」
「届かなかった声」
コレットが作戦板に書く。
手が震えている。
でも、書く。
「私の幻視では、ルカくんがエレナさんの名前を呼んでも届きませんでした」
「その負け筋を潰すなら」
アルフが言う。
「呼ぶ前に、道を作る必要がある」
「はい」
クララは頷く。
「ただし、ルカさんがさらに魔法を使うと、道はもっと削れます」
全員の視線が俺に向く。
俺は頷いた。
「使わない」
今度は、はっきり言えた。
さっき使ってしまったから。
失ったから。
怖さの形が、はっきりしたから。
「今度こそ、使わない」
ネルの手が、少し緩む。
でも、離さない。
「聞いた」
彼女は言った。
「記録」
ノルも言った。
「記録します」
クララも言った。
「じゃあ」
ジャックがクラウンを見る。
「ルカが魔法使わずに、旗を接触させる必要があるってことか」
「はい」
「無理じゃねえか」
「無理ではありません」
コレットが言った。
顔はまだ青い。
でも、目が戻っていた。
敗北だけを見る部長の目。
負け筋を潰す目。
「無理ではありません。かなり難しいだけです」
「それを無理って言うんだよ」
「第七部では、かなり難しいは作戦対象です」
ロイが小さく笑った。
「部長、いいこと言ったっす」
「言いました」
コレットは作戦板に新しい線を引く。
一、ルカは魔法を使わない。
二、クラウンの王冠負荷を下げる。
三、観客の視線を白銀の星から分散する。
四、カルミア旗とクラウンを接触させる。
五、接触時、ルカとエレナの名前を観客に持っていかれない場所を作る。
「五番が難しい」
アルフが言う。
「観客の前で名前を呼べば、物語になります」
「でも、呼ばないと届かない」
俺が言う。
エレナの声。
ルカ。
それで俺は一瞬戻った。
名前は道だ。
でも、観客の前で名前を呼べば、その道が観客の物語にされる。
白銀の星と過去の相手。
冷たい再会。
劇的な呼びかけ。
そういうものにされる。
それでは、届かないかもしれない。
「音で隠す」
ロイが言った。
全員が彼を見る。
「俺の音で、観客には聞こえないようにする。でも、近くには届くくらいに」
「できるのか」
ジャックが聞く。
「難しいっす」
「かなり?」
「かなり」
「作戦対象だな」
ジャックが言うと、ロイは少し笑った。
「やるっす」
ロイの音は大きすぎる。
でも、山岳校で五つの小さな合図を作った。
ラグエッジで危険の位置を知らせた。
今、観客の合唱を割った。
大きいだけではない。
音の置き方を、彼は覚えている。
「ロイくんの音で観客の聴覚を一瞬ずらす」
コレットが書く。
「その間に、近距離で名前を呼ぶ。観客には音として回収されず、本人と旗へ届く」
「クラウンとカルミア旗の接触も同時」
クララが言う。
「はい。旗媒介が必要です」
「誰が旗を届かせる」
アルフが問う。
ネルが即答した。
「私」
俺は彼女を見る。
ネルは俺を見返す。
「届かなかった負け筋、私のところでしょ」
「でも」
「でもじゃない」
彼女は一歩前に出る。
「私は一瞬しか出せない。観客に見られると重くなる。白銀に止められる。それもわかってる」
「ネル」
「だから、届かせる」
強い声。
「届かなかった未来を潰すのは、私がやる」
俺は何か言おうとして、やめた。
先回りするな。
彼女の決定を取り上げるな。
「わかった」
それだけ言った。
ネルは少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。
「よし」
ジャックが手を鳴らす。
「じゃあ、俺は?」
「撃つ時まで撃たない」
コレットが言う。
「またそれか」
「はい。ただし、次に撃つ時は、観客の視線をレガリアの王冠ではなく、壊すべき標識へ向けるためです」
「つまり?」
「派手に外してください」
ジャックが固まった。
「は?」
「当てるのではなく、外して観客を引きます。危険な攻撃が外れた場所に、視線が集まる。その視線で白銀の中心を少しずらします」
「俺の攻撃を外せって?」
「意図的に」
アルフが補足する。
「壊すべき罠ではなく、壊していい標識の近くを通す。危険に見えるが、実際には安全な外れ。観客は見る」
ジャックは嫌そうな顔をした。
「難しいな」
「かなり」
ロイが言う。
「作戦対象か」
ジャックは舌打ちした。
「この流れ嫌いだ」
少しだけ笑いが起きた。
試合はまだ止まっている。
観客席はざわめいている。
レガリア側では、ヴァイス総監督が審判と話している。
エレナは少し離れた場所で立っている。
ユリウスが横にいる。
クラウンは彼女の隣で、王冠を震わせている。
遠い。
でも、さっきより少し見える。
エレナが、こちらを見た。
視線が合う。
俺は、何も言わなかった。
まだ、言う場所ではない。
でも、逃げなかった。
エレナも目を逸らさない。
その一瞬、彼女の表情がまた少し崩れた。
白銀の星ではない顔。
すぐに戻る。
でも、見た。
「ルカ」
ネルが小さく言う。
「見てる?」
「見てる」
「本当に?」
「今は、エレナを見てる」
自分で言って、胸が痛んだ。
薄くなった道が、少しだけ反応した。
ネルは頷く。
「ならいい」
その言葉は、簡単ではなかったと思う。
でも、彼女は言った。
隣にいる人として。
試合再開の笛が準備される。
審判が両校へ確認を取る。
レガリア側、再開可能。
カルミア側、再開可能。
コレットが停止札を握り直す。
「負け筋を潰します」
彼女は言った。
「ルカくんは魔法を使わない。ネルさんが届く。ロイくんが音を隠す。ジャックくんが視線を外す。アルフくんが道を守る。ガレスさんが壊す場所を作る。クララさんが読む。ノルさんが旗を聞く。全員で、名前が届く場所を作ります」
全員が頷いた。
俺も頷く。
忘却と虚像。
外へ逃げる名と、外に固定される名。
その二つを、一瞬だけ旗で繋ぐ。
完全には戻らない。
それでも、届くかもしれない。
エレナの声が、俺を一瞬戻したように。
今度は、俺の声を届かせる場所を作る。
観客に持っていかれないように。
白銀の物語にされないように。
試合再開の笛が鳴った。
白い競技場が、また動き出す。
王冠は重い。
名前は遠い。
それでも、道はまだ切れきっていない。




