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第155話 呼んではいけない名前

 ノルの声は、白い競技場に残った。


 王冠は重い。


 その一言は、歓声ほど大きくない。


 ロイの音ほど強くない。


 エレナの白銀ほど美しくない。


 でも、消えなかった。


 観客席の合唱が、少しだけ乱れる。


 王冠は落ちない。


 王冠は重い。


 落ちない。


 重い。


 二つの言葉が混ざり、白い視線の流れにひびが入る。


 クラウンの王冠が揺れた。


 輝きが強いまま、重さだけが見えるようになる。


 観客の一部がざわつく。


「重い?」


「旗が?」


「どういう意味だ」


「今、王冠が揺れなかったか」


 見えていなかったものに、名前がついた。


 名前がつくと、人は見る。


 王冠の輝きではなく、王冠の重さを。


 その視線は、クラウンをさらに苦しめるのかもしれない。


 でも、白銀の星をただ讃える視線とは違う。


 少なくとも、嘘だけを支える視線ではない。


 エレナの表情が変わった。


 ほんの一瞬。


 冷たい微笑みが消え、何かが露出した。


 驚き。


 痛み。


 安堵。


 どれかは決めつけない。


 でも、白銀の星ではない顔だった。


 俺はその顔を見た。


 見てしまった。


 胸の穴の中心が、初めて少しだけ熱を持った。


 空白の中に、何かが触れた。


 思い出ではない。


 記憶でもない。


 でも、反応。


 エレナが冷たい星ではない顔をした時、俺の中の失われた道が、わずかに震えた。


「ルカ」


 ネルが横で言った。


「見すぎ」


 その声で、俺は戻る。


 そうだ。


 見すぎるな。


 決めつけるな。


 今は試合中だ。


 クラウンの王冠が揺れ、レガリア側の白銀線が乱れている。


 これはチャンスだ。


「コレット」


 俺は叫ぶ。


「今、行ける」


 監督席のコレットが頷く。


「カルミア旗、前進。ロイくん、短音二連。ネルさん、左の視線切れへ。ジャックくん、撃たないでください。まだです」


「わかってる」


 ジャックが答える。


 撃ちたい場面だ。


 白銀の道が乱れ、標識魔法が露出している。


 でも、ここで撃つと観客の視線がまた危険な攻撃へ集まり、王冠の重さではなくカルミアの危険へ話がずれる。


 撃たない時は撃たない。


 ジャックは歯を食いしばって手を下げた。


 ロイの短音が鳴る。


 ネルが左へ一瞬で入る。


 カルミアの旗が、その影を追う。


 クラウンは重さで一瞬遅れる。


 届く。


 今度こそ届く。


 その瞬間、エレナが口を開いた。


「クラウン」


 名前を呼んだ。


 王冠旗が反応する。


 エレナの声は、さっきまでと違った。


 冷たくない。


 低く、短く、近い。


 観客へ向けた声ではない。


 旗へ向けた声。


 ノルが目を見開いた。


「軽い」


 クラウンの王冠が、ほんの一瞬だけ軽くなった。


 エレナの声は嘘ではなかった。


 それがわかった。


 でも、その直後、ヴァイス総監督の声が飛ぶ。


「フォルティス、観客を見なさい」


 エレナの肩がわずかに動く。


 彼女は観客席を見る。


 白い期待。


 王冠は落ちない。


 白銀の星。


 冷静な勝者。


 その全部が、彼女へ戻る。


 エレナは微笑んだ。


 また完璧に。


「王冠は、落ちません」


 嘘。


 さっきより強い嘘。


 クラウンの王冠が、軽くなりかけた瞬間に、さらに重くなる。


 白銀の光が爆ぜた。


 カルミアの旗が弾かれる。


 ネルの足が白銀の線に絡む。


 彼女の一瞬が、半歩足りない。


「ネル!」


 俺が叫ぶ。


 ネルは倒れない。


 でも、動きが止まる。


 コレットの敗北幻視。


 ネルの一瞬が、白銀の線に止められる。


 その場面が、現実へ近づく。


 俺の体が先に動いた。


 風前確認。


 いや、違う。


 風では間に合わない。


 ネルの足元の白銀線が、次の瞬間には彼女を固定する。


 アルフの結界は遠い。


 ジャックは撃てない。


 ロイの音は間に合わない。


 ガレスは壊す場所を探しているが、白銀線は物ではない。


 俺なら届く。


 魔法を使えば。


 風を起こせば。


 ネルの足元の白銀を散らせる。


 旗へも届く。


 クラウンの王冠へも。


 エレナへも。


 だめだ。


 使うな。


 今は使わない。


 コレットの声が聞こえた。


「ルカくん、魔法は」


 最後まで聞こえなかった。


 俺の中で、何かが風になった。


 魔法は、使わないと決めていた。


 でも、決めていた場所が、白銀の光で塗り潰される。


 ネルが止まる。


 クラウンが泣く。


 エレナが嘘を重ねる。


 名前が届かない。


 その全部を見た瞬間、俺の魔力が勝手に走った。


 暴発。


 風が起きる。


 白い競技場の中で、見えない風が床を走った。


 ネルの足元の白銀線が散る。


 カルミアの旗が、風に押されて半歩進む。


 クラウンの王冠が、大きく揺れる。


 エレナの髪飾りが震えた。


 観客席がどよめく。


 エレナが俺を見る。


 その目が、初めて完全に白銀の星ではなくなった。


 ルカ。


 声は聞こえなかった。


 でも、彼女の唇がそう動いたように見えた。


 その瞬間、俺の中から何かが抜けた。


 記憶が抜ける感覚は、何度か知っている。


 落とし穴に落ちるような。


 棚から本が一冊消えるような。


 部屋の灯りが一つ消えるような。


 でも、今回は少し違った。


 本ではない。


 匂い。


 温度。


 声を聞いた時の、胸の動き。


 誰かの隣で風を見た時の、心の向き。


 それが、薄い布のように剥がれた。


 エレナ。


 名前は残っている。


 顔も見えている。


 今、目の前にいる。


 でも、その名前へ伸びていた細い道が、一本切れた。


 胸の穴の縁が、急に遠くなる。


 痛みが薄くなる。


 痛みが薄くなることが、怖い。


「ルカ!」


 ネルの声。


 今度は届く。


 強く届く。


 彼女が俺の腕を掴んだ。


 止めるように。


 落ちるのを引き戻すように。


「戻って!」


 戻る。


 何に。


 誰に。


 俺は息を吸う。


 風が止まらない。


 白銀線が散る。


 クラウンが揺れる。


 エレナがこちらへ一歩出る。


 レガリア側がざわめく。


 ヴァイスの声。


 審判の声。


 観客の悲鳴。


 ロイの音。


 全部が混ざる。


 俺はエレナを見た。


 エレナ。


 誰だ。


 知っている。


 白銀の星。


 レガリアのエース。


 昔、俺に関わった人。


 救いたいかもしれない人。


 でも、なぜ救いたいのかが薄い。


 薄くなっている。


 さっきまであった痛みが、遠い。


 コレットの敗北幻視。


 ルカが魔法を使い、エレナへの反応をさらに失う。


 それが、今起きている。


「ルカ!」


 今度はコレットの声。


 停止札が上がる。


 審判の笛が鳴る。


 試合一時停止。


 風はまだ残っている。


 俺の魔力が、勝手に何かを探している。


 戻り言葉。


 名前。


 俺を戻す目印。


 誰かが呼ぶ。


 ルカ。


 ネル。


 ロイ。


 コレット。


 みんなが呼ぶ。


 その中で、エレナの声が聞こえた。


 観客席のざわめきの向こう。


 白銀の光の向こう。


「ルカ」


 短い声。


 冷たくない。


 完璧でもない。


 でも、遠い。


 遠いのに、戻り言葉と同じ形をしている。


 俺の魔力が一瞬止まった。


 風が弱まる。


 ネルの手が俺の腕を強く掴む。


「今の、聞いた?」


 彼女が聞く。


 俺は頷く。


「聞いた」


「誰の声?」


 その問いに、俺は答えようとした。


 エレナ。


 そう言えばいい。


 でも、一瞬遅れた。


 名前はわかる。


 声もわかる。


 ただ、その声を聞いた時に動くはずの何かが、遅い。


 俺は、それでも言った。


「エレナ」


 言えた。


 言えたのに、怖かった。


 名前が、少し軽くなっている。


 エレナは、こちらを見ていた。


 白銀の星の顔ではない。


 でも、すぐにレガリアの大人たちが彼女の周りへ来る。


 ヴァイスが何かを言う。


 ユリウスが彼女の前に少し出る。


 クラウンは、王冠を大きく揺らしながら、エレナの横で震えていた。


 ノルが泣きそうな声で言う。


「王冠、痛い」


 試合は止まっている。


 でも、敗北幻視はまだ止まっていない。


 俺は魔法を使った。


 暴発した。


 エレナに関する何かを、また失った。


 ネルは俺の腕を離さない。


 コレットは監督席で真っ青な顔をしている。


 クララが震える手で記録している。


 ジャックが低く悪態をつく。


 ロイが音を出せずにいる。


 ガレスが床のひびを見て、壊す場所を探している。


 レイナが唇を噛む。


 リリィがグレイを抱きしめる。


 白い観客席は、何が起きたのかわからずざわめいている。


 その中で、俺は自分の胸に手を当てた。


 穴の縁が、さっきより遠い。


 でも、完全には消えていない。


 ネルの手がある。


 エレナの声が、まだ耳に残っている。


 ルカ。


 戻り言葉。


 誰かに呼ばれる名前。


 それだけを頼りに、俺は風の残りを必死で押さえ込んだ。


 呼んではいけない名前を、呼ぶ前に。


 届かなくなる前に。


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