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第153話 本当に見ているのは誰か

 ネルが白銀の道をずらした後、観客席の空気が変わった。


 レガリアを見る目だけではなくなった。


 カルミアを見る目も増えた。


 それは応援とは違う。


 まだ好奇心だ。


 珍しいものを見る目。


 でも、ただの見世物を見る目よりは少し熱い。


 あの一瞬で何が起きたのか、もう一度見たい。


 そういう視線が混ざり始めた。


 視線が変わると、競技場の重さも変わる。


 白さが少しだけ割れる。


 レガリアだけへ流れていた光が、第七部の足元にも落ちる。


 それは、助けにもなる。


 危険にもなる。


 見られるほど、動きは重くなる。


 でも、見られなければ、こちらの名前は残らない。


 この競技場は、そういう場所だった。


「ネルさん、次は同じ場所を狙われます」


 コレットが監督席から言った。


「わかってる」


 ネルは息を整える。


「同じ一瞬は使わない」


「では?」


「もっと嫌な場所」


 彼女は白い床を見る。


 見られている中央ではなく、観客の視線が切れる柱の影。


 競技場設計の都合で、ほんのわずかに視線が落ちる場所。


 昨日の下見でクララが見つけた、白い舞台の小さな陰。


「ルカ」


「聞く」


「まだ言ってない」


「言うのを待ってる」


 ネルは少しだけ笑った。


「右奥の柱影。行くって言ったら、風を見て」


「了解」


 その短いやり取りの間に、レガリア側が動く。


 ユリウスの青い防壁が三枚。


 別の選手が銀糸のような魔法を床へ敷く。


 エレナは中央。


 クラウンはその横。


 まだ王冠は重い。


 でも、さっきより少しだけ呼吸できているように見える。


 ノルが言う。


「王冠、息した」


「旗って息するのか」


 ジャックが聞く。


「する気がする」


「便利な感覚だな」


「便利」


 クララが素早く記録する。


「クラウン、視線分散時に負荷軽減。ネルさんの宣言が有効」


「宣言、恥ずかしいんだけど」


 ネルが言う。


「恥ずかしさも視線をずらす材料です」


 コレットがまた言った。


「それ嫌」


「でも有効です」


「もっと嫌」


 レガリアの攻撃が来る。


 白銀ではない。


 銀糸の罠。


 床の視線導線に沿って敷かれ、観客が見ている道ほど強くなる。


 見られている場所を通れば、足を取られる。


 見られていない場所を通れば、細い。


 まるで、この競技場そのものが罠になったようだった。


「観客席、中央へ寄ってます」


 クララが言う。


「柱影、軽い」


 俺も風を見る。


 観客の視線が切れる場所は、空気が薄い。


 ネルがそこへ行く。


 そのはず。


 いや。


 そう決めるな。


 彼女が言うのを待つ。


「行く」


 ネルが言った。


「右奥、軽い。今」


 俺が返す。


 ネルが一瞬で走る。


 銀糸の罠を越える。


 観客席の一部が彼女を追う。


 追われた瞬間、右奥が重くなる。


 でも、ネルはもうそこにいない。


 一瞬で抜けている。


 彼女の魔法は持続しない。


 だから、見られた時には終わっている。


 観客がざわめく。


「速い!」


「見えなかった」


「カルミアの一瞬魔法か」


 解説が追いかける。


「ネル選手、視線の死角を突きました!」


 その言葉で、また視線がネルへ集まる。


 次は死角が死角ではなくなる。


 ネルはそれをわかっている。


 だから、すぐに戻らない。


 柱影で止まる。


 観客に見られる。


 見られたまま、笑った。


「見えなかったでしょ」


 声が通る。


 観客席が沸く。


 見られることを、ネルが一瞬だけ自分のものにした。


 その瞬間、クラウンの王冠がまた少し軽くなる。


 エレナがネルを見る。


 白銀の星としてではなく、一人の競技者として見たように見えた。


 すぐに、彼女は冷たい微笑みを戻した。


「素晴らしい瞬発力です」


 声が響く。


「けれど、競技は一瞬だけでは終わりません」


 観客が頷くようにざわめく。


 白銀の線が伸びる。


 今度はネルではなく、俺の足元へ。


「ルカ!」


 ロイが叫ぶ。


 俺は動く。


 風前確認。


 足元の空気が重い。


 白銀の線は、俺を狙っているというより、俺が逃げる先を先に白くしている。


 逃げ道が見られている。


 観客が、俺がどう反応するかを見ている。


 ルカ・ヴァレン。


 エレナに負けた元名門選手。


 白銀の星の過去。


 その期待が、俺の足元に絡む。


 重い。


 ネルの一瞬とは違う重さ。


 記憶のない過去を、観客が勝手に置いてくる。


 俺が何かを思い出すか。


 崩れるか。


 エレナを見るか。


 それを見たい。


 その視線が、俺の風を鈍らせる。


「ルカ、右!」


 ネルの声。


 俺は反射で右へ行きかけた。


 でも、右は見られている。


 エレナの白銀が、そこに先に置かれている。


 ネルの声を聞く。


 勝手に決めない。


 彼女は右と言った。


 でも、俺に右へ逃げろと言ったのか。


 それとも、右が重いと言ったのか。


 聞け。


「右、何?」


 試合中に聞く余裕なんてない。


 でも、聞いた。


 ネルが即答する。


「見るな!」


 右を見るな。


 つまり、右は罠。


 俺は視線を切る。


 右を見ない。


 観客が期待する逃げ道を見ない。


 足元の風を見る。


 左下。


 白銀の線が届く前の、ほんの細い隙間。


 そこへ半歩ずれる。


 白銀の線が右へ流れ、空を切った。


 観客席がどよめく。


 エレナの目が、ほんの少し細くなる。


 冷たい表情のまま。


 でも、俺にはわかった。


 今のは、彼女の読みと違った。


「ルカ先輩、回避!」


 ロイが小さく音を鳴らす。


 こつ。


 成功合図。


 ジャックが笑う。


「聞いたな」


「聞いた」


 俺は息を吐く。


 それだけで、少し勝った気がした。


 エレナにではない。


 観客が置いた過去の形に。


 俺が勝手に全部読もうとする癖に。


 ネルの言葉を聞いた。


 それで避けた。


 ネルが柱影から戻ってくる。


 肩で息をしている。


「今の」


 彼女が言う。


「ちゃんと聞いた」


「聞いた」


「よし」


 短い。


 でも、強い。


 その時、エレナの声が響いた。


「今の連携は、見事です」


 また褒め言葉。


 また冷たい声。


 観客が反応する。


「けれど、ルカ・ヴァレンさん」


 名前を呼ばれた。


 胸の穴の縁が強く痛む。


「あなたは、今も仲間の後ろにいるのですね」


 静かな言葉。


 鋭い。


 観客席がざわつく。


 昔を知っている者たちが反応する。


 元名門選手。


 かつての天才。


 今は欠陥魔法持ちの部の観察役。


 仲間の後ろ。


 その言葉は、簡単に刺さる。


 俺に。


 そして、観客に。


 エレナの魔力が強くなる。


 冷たく振る舞うほど、強くなる。


 白銀の線が、彼女の足元から広がる。


 クラウンの王冠が輝く。


 ノルが顔をしかめる。


「重い」


 俺はエレナを見た。


 彼女の顔は完璧だった。


 冷たい。


 遠い。


 白銀の星。


 でも、今の言葉は本当に彼女が言いたかったことなのか。


 それとも、観客が期待する冷たい勝者の言葉なのか。


 決めつけない。


 でも、痛い。


 痛いことは、認める。


 ネルが隣に来た。


 白銀の線を警戒しながら、低く言う。


「ルカ」


「大丈夫」


「大丈夫か聞いてない」


「じゃあ何」


 ネルは俺を見た。


 競技場の白さの中で、まっすぐ。


「本当に見ているのは誰か、間違えないで」


 その問いは、命令に近かった。


 本当に見ているのは誰か。


 エレナか。


 観客が作った白銀の星か。


 過去の穴か。


 ネルか。


 自分の痛みか。


 俺は、誰を見ている。


 誰の目で、エレナを見ている。


 新聞の目か。


 観客の目か。


 レガリアの目か。


 昔の自分の、欠けた目か。


 それとも、今の俺の目か。


 白銀の線が来る。


 俺の足元へ。


 考える時間はない。


 でも、問いは残る。


 俺は風を見る。


 エレナを見る。


 クラウンを見る。


 ネルの声を聞く。


 全部を一つにしない。


 分ける。


 今見るのは、風。


 今聞くのは、ネル。


 今決めないのは、エレナの本心。


 今持つのは、自分の痛み。


「左下、軽い」


 俺が言う。


「行く」


 ネルが一瞬で俺の前を抜ける。


 白銀の線をずらす。


 俺は半歩遅れて動く。


 仲間の後ろ。


 エレナの言葉が刺さったまま。


 でも、後ろにいることが、悪いとは限らない。


 後ろから見るから、見えるものがある。


 隣に立つために、半歩後ろへ下がることもある。


 俺はその位置を、今は恥じない。


 白銀の線が外れる。


 観客席がざわつく。


 エレナの目が、またわずかに揺れた。


 彼女の冷たい言葉は、俺を崩すためだったのか。


 それとも、崩れないでほしいからだったのか。


 決めつけない。


 でも、今の揺れは見た。


 クラウンの王冠が一瞬だけ軽くなる。


 ノルが言う。


「今、少し泣き止んだ」


 それだけで十分だった。


 俺たちは、まだ負け筋の中にいる。


 エレナの嘘は強い。


 観客の視線は重い。


 クラウンは泣く前の光をまとっている。


 でも、ネルの問いが、俺の視線を少しだけ戻した。


 本当に見ているのは誰か。


 その答えは、まだ出ない。


 でも、少なくとも今、俺は観客の目だけでは見ていない。


 今の俺の目で、エレナを見ようとしている。


 それはたぶん、白銀の敗北へ入る前の、最初の分かれ道だった。


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