第147話 白銀の敗北
コレットが倒れたのは、その日の夜だった。
夕食後。
巡業列車の作戦車両。
机の上には、レガリアの記事、カルミアの試合記録、研究都市で得た古代契約メモ、クララの仮説、ノルの部誌が広げられていた。
白い紙。
黒い文字。
赤い注意線。
青い旗道の印。
コレットは、その真ん中で小さく息を吸った。
最初は、誰も気づかなかった。
彼女はよく、作戦を考えながら息を止める。
負け筋を見ている時ほど、静かになる。
だから、いつものことだと思った。
でも、次の瞬間、作戦板に置かれていたペンが床へ落ちた。
ころん、と軽い音。
その音に、ロイが顔を上げた。
「部長?」
コレットの顔は真っ白だった。
紙の白より白い。
目は開いている。
でも、ここを見ていない。
「コレット」
俺が呼んだ。
返事がない。
彼女の手が、作戦板の端を掴む。
指先が震えている。
「負け……」
小さな声。
「負け筋です」
その瞬間、全員が動いた。
ネルが椅子を蹴るように立ち上がる。
ガレスが水筒を取る。
ロイが呼び鈴へ走る。
クララが紙をまとめる。
レイナがコレットの肩を支える。
ジャックが窓を開けようとして、リリィに「寒いです」と止められる。
ノルは眠そうな目を一気に開いた。
「夢じゃない」
彼女が言う。
「起きてる幻視」
コレットの欠陥魔法。
未来の敗北だけが見える。
勝つ未来は見えない。
失点。
旗を奪われる瞬間。
味方が倒れる場面。
作戦が破綻する未来。
その負け筋を潰すことで、第七部はここまで来た。
でも、コレットがここまで強く反応するのは久しぶりだった。
軍事校の時とも違う。
貴族校の時とも違う。
ラグエッジの危険とも違う。
これは、もっと深い。
「コレット、聞こえるか」
俺は彼女の前にしゃがむ。
名前を呼ぶ。
でも、彼女の目は俺を通り越して、別の競技場を見ている。
「白い」
コレットが言う。
「全部、白いです」
「レガリア?」
クララが聞く。
「はい。観客席。白い旗。王冠。エレナさん。ルカくん」
俺の名前が出た瞬間、ネルの肩が少し動いた。
でも、彼女は何も言わない。
コレットは震えながら続ける。
「ルカくんが、魔法を使います」
部屋が静まった。
俺の喉が乾く。
「どんな」
アルフが冷静に聞いた。
さすがだと思う。
こういう時、彼は恐怖より先に情報を取る。
コレットは目を閉じる。
「風が……白銀の魔法に押されて、戻れなくなる。ルカくんが旗へ届くために魔法を使う。でも、使った瞬間、何かが抜けます」
「記憶?」
クララが聞く。
「記憶だけじゃない」
コレットの声が掠れる。
「エレナさんを見ても、何も……何も」
言葉が切れた。
彼女の体が傾く。
レイナが支え、ガレスが水筒を差し出す。
「水」
「今は飲めませんわ」
レイナが小さく言う。
ガレスは頷いて、水筒を開けたまま待つ。
俺は自分の手を見る。
魔法を使う。
旗へ届くために。
そして、何かが抜ける。
エレナを見ても、何も。
感情の道が、さらに切れる。
今でさえ穴があるのに。
その穴の縁すら、失うのかもしれない。
「他は」
ネルが聞いた。
声が低い。
怒っているようにも、震えているようにも聞こえる。
「他に何が見えたの」
コレットは唇を噛む。
「ネルさんが、届きません」
ネルの顔が強張る。
「私?」
「一瞬魔法で、ルカくんを押そうとします。でも、観客の視線が重くて、道が閉じる。ネルさんの一瞬が、白銀の線に止められます」
「止められる?」
「はい。間に合わない」
ネルは何も言わなかった。
拳を握る。
さっき、隣にいると言ったばかりだ。
その隣が、届かない未来。
コレットの敗北幻視は、いつも容赦がない。
「エレナさんは?」
クララが聞いた。
「彼女は……」
コレットの目が揺れる。
「笑っています」
誰も動かない。
「冷たく笑っている。でも、旗が泣いています」
ノルが反応した。
「旗」
「王冠の旗。白い獣。エレナさんの横で、光っているのに、泣いている」
ノルは部誌を引き寄せた。
「夢で見る」
「今?」
ロイが聞く。
「あとで。寝ないと見えない」
「今寝るなよ」
ジャックが言う。
「たぶん、今は寝る」
「どっちだよ」
ノルは真面目だった。
「旗が泣いてるなら、夢で聞く」
コレットはさらに震えた。
「最後に」
「まだあるのか」
ジャックが低く言う。
「最後に、ルカくんがエレナさんの名前を呼びます」
心臓が嫌な跳ね方をした。
名前。
エレナ。
「でも」
コレットの声が、ほとんど消える。
「声が届かない」
その言葉を最後に、彼女の体から力が抜けた。
レイナとガレスが支える。
ロイが呼んだ車掌と医務係が駆け込んでくる。
作戦車両は、一気に慌ただしくなった。
コレットは医務室へ運ばれた。
意識はある。
ただ、魔力と神経が強く消耗している。
敗北幻視の負荷。
未来を見た代償。
俺たちは作戦車両に残された。
机の上には、コレットが見ていた資料が散らばっている。
白銀の星の記事。
クラウン仮説。
忘却契約。
虚像契約。
ルカの感情欠落。
ネルの隣にいる時間。
それらが、急に重く見えた。
「負け筋」
アルフが作戦板に書いた。
一、ルカが魔法を使い、エレナへの反応をさらに失う。
二、ネルの一瞬が観客視線と白銀線で止められる。
三、エレナは冷たく笑い、クラウンが泣く。
四、ルカがエレナの名前を呼んでも届かない。
「全部潰す」
ジャックが言った。
短い。
でも、強い。
ラグエッジで変わった彼らしい言葉だった。
「どうやって」
リリィが聞く。
「知らねえ」
「知らないのに言いましたね」
「潰すって決めるのが先だろ」
ガレスが頷いた。
「壊す場所を選ぶ」
「今回、壊す場所あるのか?」
ロイが不安そうに聞く。
クララが資料を見ながら答える。
「あります。たぶん、観客の視線です」
「視線を壊す?」
レイナが眉をひそめる。
「物理的にではありません。レガリアの魔法が観客の認識で強化されるなら、観客が見る像をずらせば、白銀魔法の固定が揺らぐ可能性があります」
「つまり、見世物扱いを逆に使う」
アルフが言う。
「はい」
クララは頷く。
「ただし、エレナさんの虚像魔法にも関わります。彼女が嘘をつくほど強くなるなら、観客が期待するエレナ像を壊すことが必要かもしれません」
「それ、エレナ本人を壊すことにならない?」
ネルが言った。
声が鋭い。
でも、敵意だけではない。
彼女はエレナを嫌だと言った。
それでも、壊していいとは言わない。
俺はそのことを覚えておこうと思った。
「壊すのは、像です」
クララは慎重に言う。
「本人ではありません。少なくとも、そうしなければいけません」
「難しいな」
ジャックが言う。
「難しいです」
コレットがいないと、作戦車両は少し重心を失う。
彼女は小柄で、頼りなさそうに見えることもある。
でも、第七部の負け筋は、いつも彼女が先に受けていた。
今、彼女が医務室にいるだけで、机が広すぎる。
「私、医務室見てきますわ」
レイナが立つ。
「一人で?」
ロイが聞く。
「コレットさんの着替えや水が必要でしょう。ガレスさん、水筒を」
「持っていく」
ガレスも立った。
「あなたは心配だからついてくるのでは?」
「水」
「はいはい」
二人が出ていく。
残った俺たちは、作戦板を見つめた。
白銀の敗北。
コレットが見た未来。
それは、俺が魔法を使う未来だった。
「ルカ」
ネルが言った。
「魔法、使わないで」
まっすぐな言葉。
俺はすぐに答えられなかった。
使わない。
そう言えば安心させられる。
でも、試合で旗へ届くために必要になったら。
エレナを救うために必要だとわかったら。
俺は本当に使わないと言えるのか。
「約束して」
ネルが続ける。
「今は、使わないって言って」
「今は」
俺はその言葉を繰り返す。
「今は、使わない」
ネルは唇を噛んだ。
本当は、ずっと使わないと言ってほしいのだろう。
でも、彼女はそれを言わなかった。
俺が嘘になる約束をするのを、たぶん望まなかった。
「わかった」
ネルは言った。
「今は、それでいい」
今は。
その言葉も、隣にいる時間の一部なのだと思う。
ノルが作戦車両の端の長椅子に座った。
「寝る」
「ここで?」
ジャックが聞く。
「クラウンに聞く」
「聞けるのか」
「わからない。でも、泣いてるなら夢に来るかも」
ノルは部誌を胸に抱える。
「起こす?」
ロイが聞く。
「旗が話し終わったら」
「どうやってわかるんすか」
「寝言で言う」
「不安っす」
それでも、ノルは目を閉じた。
数分もしないうちに、呼吸が深くなる。
眠りながら試合を再生できる記録係。
旗と会話できる少女。
今は、白い王冠旗の夢へ降りようとしている。
俺は作戦板の前に残った。
ルカが魔法を使う。
エレナへの反応をさらに失う。
エレナが冷たく笑う。
旗が泣く。
名前が届かない。
それを見て、俺の中で何が一番怖いのか、探した。
失うこと。
届かないこと。
エレナが笑うこと。
ネルが届かないこと。
コレットが倒れたこと。
全部怖い。
でも、一つだけ特に嫌なものがあった。
エレナが冷たく笑う。
その下で、旗が泣いている。
それは、記事の写真で感じた寂しさとつながっている気がした。
彼女は本当に、冷たく笑いたいのか。
それとも、そう笑うほど強くなるから笑うのか。
俺にはわからない。
わからないけれど、そこを間違えたら、コレットの見た敗北へ進む気がした。
「ルカ」
アルフが言った。
「考えすぎるな」
「顔に出てたか」
「出ている」
「そうか」
「今、全員分を持とうとしている」
アルフは作戦板を指す。
「コレットの敗北、ネルの届かなさ、エレナの笑い、旗の涙、自分の魔法。全部を一人で処理しようとしている」
「訓練不足だな」
「そうだ」
遠慮がない。
でも、ありがたい。
「分ける。コレットの幻視はコレットと全員で扱う。ネルの動きはネルと扱う。旗の涙はノルとクララが扱う。エレナの嘘は、今は仮説で扱う。お前は、魔法を使わない前提の自分の位置を扱う」
「エレナは?」
聞いてしまった。
アルフは少しだけ考えた。
「エレナ本人のことは、今ここにいない。だから決めない」
決めない。
それは大事なことだ。
ネルの感情を勝手に決めないのと同じように。
エレナが何を思っているかも、今ここで決めない。
記事でも、幻視でも、周囲の噂でもなく。
会ってから、聞く。
ただし、聞ける場所まで辿り着く必要がある。
そのために、作戦を組む。
作戦車両の端で、ノルが寝言を言った。
「王冠……重い」
全員が振り向く。
ノルは目を閉じたまま続ける。
「泣いてる。けど、泣き方を知らない」
クララが急いで部誌を開く。
「ノルさん、続けてください」
「白い。みんな見てる。見てるから、重い。嘘が光る。ほんとは、暗いところに行きたい」
「クラウンのことか」
俺が言う。
ノルは小さく頷いた。
眠ったまま。
「夜に、窓へ行った」
その言葉に、クララの手が止まる。
「窓?」
「エレナのところ」
作戦車両の空気が変わった。
エレナのところ。
王冠旗が、夜に。
ノルは続ける。
「来てって言われた。うれしい。でも、王冠は重い」
俺は息を止めていた。
エレナが、クラウンに来てと言った。
それが本当なら。
コレットの幻視で冷たく笑っていたエレナの下に、別の何かがある。
少なくとも、旗はそこへ行った。
泣いている旗が、彼女の窓へ。
「ノル」
俺はそっと呼んだ。
「エレナは、旗に何を言った」
ノルの眉が少し寄る。
「聞こえない。でも、声は嘘じゃない」
声は嘘じゃない。
その言葉が、作戦車両に落ちた。
白銀の敗北の中で、初めて別の道が見えた気がした。
エレナは嘘をつくほど強くなる。
でも、全部が嘘ではない。
少なくとも、夜に旗へ向けた声は嘘ではない。
ノルの夢がそう言った。
クララが部誌に書き込む。
「クラウンは嘘だけでなく、孤独または本音に近い声へ反応している可能性」
「それ、勝ち筋か?」
ジャックが聞く。
「まだわかりません」
クララは答える。
「でも、負け筋を潰す手がかりです」
コレットがいない作戦車両で、彼女の言葉だけが残っている。
負け筋を潰す。
勝ち筋は見えない。
でも、負けを少しずつ減らす。
俺は作戦板を見た。
白銀の敗北。
その横に、クララが新しい線を引いた。
クラウンは夜にエレナの窓へ行った。
エレナの声は嘘ではない可能性。
まだ細い。
でも、道だ。
俺はその道を見た。
今は魔法を使わない。
感情を勝手に決めない。
エレナの本心も決めない。
旗の涙を記録する。
ネルの一瞬が届く場所を探す。
コレットが倒れてまで見た敗北を、全員で持つ。
白銀の敗北は、まだそこにある。
でも、完全ではなくなった。
負け筋に、初めて小さな裂け目が入った。




