第146話 隣にいる時間
ネルは、昼食後の訓練に来なかった。
正確には、訓練場にはいた。
ただ、いつもの位置にいなかった。
第七部の訓練では、ネルはだいたい一番前にいる。
口で文句を言い、足で先に動き、失敗すると誰よりも悔しがる。
魔力は一瞬しか出ない。
でも、その一瞬をどこで使うかに関して、ネルは誰よりも雑で、誰よりも鋭い。
そのネルが、今日は訓練場の端に立っていた。
腕を組み、こちらを見ている。
練習に参加しないわけではない。
ただ、入るタイミングを見送っている。
珍しい。
そして、たぶん俺のせいだ。
「ネル先輩、今日は様子見っすか」
ロイが声をかける。
「うん」
ネルは短く答えた。
「体調悪いんすか」
「悪くない」
「なら」
「考えてる」
「あ、はい」
ロイはそれ以上聞かなかった。
えらい。
昔なら突っ込んで爆発していた。
最近のロイは、音だけでなく引くタイミングも少し覚えてきた。
訓練内容は、レガリア戦を想定した基本確認だった。
白銀魔法への対策。
王冠旗クラウンへの仮説。
エレナの嘘魔法。
公開試合の可能性。
どれも、まだ情報が足りない。
それでも、準備は始める。
コレットは作戦板に三つの大きな項目を書いた。
一、白銀魔法は直線的に見えて、観客の視線で強化される可能性。
二、クラウンは嘘または対外認識に反応する可能性。
三、ルカとエレナの接触が、忘却契約に影響する可能性。
三つ目を書いた時、少しだけ空気が揺れた。
俺も揺れた。
いや、揺れたかどうかも自信がない。
揺れるべき場所が、また空白になる。
感情の道が切れている。
クララが言った言葉が、頭に残っていた。
「ルカくん」
コレットが俺を見る。
「今日は、魔法を使わない前提で進めます」
「わかってる」
「風前確認だけです」
「それもわかってる」
「本当に?」
「コレット、最近それ多いな」
「必要なので」
部長は真面目だった。
レガリア戦が近づくほど、俺の魔法は危険になる。
魔法を使えば、過去の記憶を失う。
そして今、失われているのは記憶だけではなく、感情の道かもしれない。
ここで不用意に魔法を使えば、エレナに関する残りの何かをさらに失う可能性がある。
それが怖いのか。
俺は自分に聞いてみた。
怖い。
たぶん。
でも、怖さの中心がぼやけている。
失うのが怖いのか。
もう失っていることを確認するのが怖いのか。
わからない。
「まず、白銀魔法の直線回避」
アルフが言った。
「レガリアの映像を見る限り、エレナの魔法は一見すると綺麗な直線だ。ただし、相手が避ける先に少し早く置かれている」
「観客の視線も使ってるんだろ?」
ジャックが聞く。
「可能性がある。見られている方向が、魔力の固定に影響するなら、正面から避けるほど追われる」
「正面じゃなく、横?」
ロイが聞く。
「横でも、見られている横なら追われる」
「じゃあどこへ」
アルフは少し考える。
「見られていない隙間」
「それ、ネル先輩向きっすね」
ロイが言った。
全員の視線がネルへ行く。
ネルは端で腕を組んだまま、少しだけ眉を動かした。
「聞いてる」
「参加します?」
コレットが優しく聞く。
「する」
ネルは答えた。
でも、すぐには動かない。
俺はその様子を見て、声をかけるべきか迷った。
迷っているうちに、ネルが先に言った。
「ルカ」
「何だ」
「あんた、今日は私を見なくていい」
意味がわからなかった。
「訓練中に?」
「うん」
「無理だろ。連携するなら見る」
「そういう意味じゃない」
ネルは訓練場の端から歩いてくる。
いつもの勢いはない。
でも、逃げているわけでもない。
「エレナの記事を見た後、あんた、私の顔見たでしょ」
「見たか?」
「見た」
「悪い」
「謝るな」
「じゃあ」
「私がどう思ってるか、気にしすぎ」
その言葉で、俺は黙った。
ネルは俺の前で止まる。
訓練場の中央。
全員が見ている。
でも、ネルは気にしない。
「あんた、エレナのことで自分がどう感じてるかわからないって言った」
「言った」
「その後、私がどう傷つくか考えたでしょ」
「考えた」
「やめて」
短い。
鋭い。
俺は言葉に詰まった。
「やめて、って」
「私のことを考えるな、じゃない。あんたが自分の穴を見る前に、私の顔で埋めようとするのをやめて」
訓練場が静かになった。
ロイが口を開きかけ、リリィに足を踏まれて閉じた。
レイナは腕を組んでいる。
コレットは心配そうだが、止めない。
ネルは続ける。
「私は揺れてる」
彼女は言った。
「エレナの記事を見て、嫌だった。あの人が綺麗で、強くて、あんたの過去にいるってことが嫌だった。あんたが好きだったかもしれないって言ったのも嫌だった」
まっすぐすぎる言葉。
聞いている俺のほうが目を逸らしたくなる。
でも、ネルは逸らさない。
「でも、それは私の分」
「ネル」
「私が持つ。あんたが先回りして、私の傷の形を決めないで」
俺は息を吸った。
言い返す言葉がない。
というより、言い返すべきではない。
ネルは自分の感情を、自分のものとして置いている。
俺はそれを勝手に持とうとした。
自分の穴を見るのが怖いから。
たぶん、そうだ。
「悪い」
俺は言った。
今度は、ネルは怒らなかった。
「それはいい」
「いいのか」
「今のは謝っていい」
「難しいな」
「難しいよ」
ネルは少しだけ笑った。
でも、その笑みはすぐに消えた。
「あんたがエレナをどう思ってたか、今どう思うか。私は怖い。でも、それを聞くのを避けたら、たぶんもっと嫌になる」
「俺は、まだ答えられない」
「知ってる」
「答えが出ないまま、レガリアに行くかもしれない」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも、私は隣にいる」
その言葉は、静かだった。
告白ではない。
宣言でもない。
もっと、今のネルらしい言葉。
隣にいる。
それは、エレナの過去に勝つという意味ではない。
俺の穴を埋めるという意味でもない。
ただ、今この列車で、訓練場で、試合で、隣にいるという意味。
俺はその言葉を、なぜかすぐには受け取れなかった。
受け取る道が、自分の中で少し遅れている。
でも、今度は空白ではなかった。
遅れているだけだ。
「ありがとう」
俺は言った。
ネルは少し顔を赤くした。
「そういうの、今言わなくていい」
「言ったほうがいいかと思って」
「下手」
「悪い」
「それも今はいい」
ロイが小さく手を上げた。
「あの、訓練続けていい空気っすか」
リリィが冷静に言う。
「あなたが壊しました」
「いや、確認しただけっす!」
ジャックが肩をすくめる。
「続けりゃいいだろ。面倒な話は、動きながらのほうがまだましだ」
「あなたが言うと妙に説得力がありますわ」
レイナが言う。
「うるせえ」
コレットが小さく息を吐いた。
「では、訓練に戻ります。ただし、今日の目的を一つ追加します」
「追加?」
俺が聞く。
「ルカくんが、ネルさんの反応を先回りして読まないこと」
「訓練項目になるのか」
「なります」
コレットは真剣だ。
「レガリア戦では、エレナさんの反応、ネルさんの反応、観客の反応、全部が同時に来ます。ルカくんが全部を読もうとすると、たぶん壊れます」
「俺が?」
「はい」
即答だった。
アルフも頷く。
「観察役が全員の感情まで読むと、判断が遅れる」
「そこまで読む気は」
言いかけて、やめた。
読む気がないわけではない。
読もうとしてしまう。
危険を見つけるために。
誰かが傷つく前に。
自分のせいで何かが壊れる前に。
でも、感情は罠や旗の軌道とは違う。
勝手に読んで、勝手に処理していいものではない。
「俺は何をすればいい」
コレットは少し考えた。
「聞いてください」
「聞く」
「はい。ネルさんの感情はネルさんに聞く。私の判断は私に聞く。クララさんの読みはクララさんに聞く。全部を先に読まない」
ロイが頷く。
「音も俺に聞いてくださいっす」
「お前の音は聞こえる」
「小さい音もあるっす」
「そうだった」
ガレスが短く言う。
「水も聞く」
「水に聞くな」
ジャックが突っ込む。
「水筒の残量は確認してください」
リリィが真面目に補足する。
「結局水も大事なんだな」
少しだけ笑いが戻った。
訓練が再開する。
白銀魔法の仮想直線。
観客視線の仮想固定。
ネルは、見られていない隙間へ一瞬で入る役。
俺は風前確認。
ただし、ネルの顔を読むのではなく、ネルの合図を聞く。
「行く」
ネルが短く言う。
その言葉を聞いてから、俺は風を見る。
彼女がどこへ行きたいかを勝手に決めない。
彼女が行くと言った場所の前を見る。
「右前、軽い。今なら通れる」
「了解」
ネルが一瞬だけ消える。
白銀魔法役のロイが小さな光を飛ばす。
本物の白銀ではない。
でも、観客の視線役としてレイナとリリィが両側から見ている。
見られている道は重い。
見られていない隙間は軽い。
ネルはその軽い場所へ入った。
一瞬。
成功。
「今の、私が行くって言ってから見た?」
ネルが聞く。
「見た」
「先に予想した?」
「少し」
「少し?」
「でも、決めなかった」
ネルは頷いた。
「ならいい」
ならいい。
短い許可。
それが、妙にありがたかった。
次の試行。
今度はネルが黙って動きかけた。
俺は反射的に読む。
左。
彼女は左へ行く。
そう思った瞬間、ネルが止まった。
「今、先に読んだ」
「読んだ」
「言ってない」
「悪い」
「やり直し」
彼女は怒らない。
ただ、やり直す。
訓練として。
感情も、連携も、やり直しが必要なのだと、少しずつわかる。
何度も繰り返すうちに、俺は自分がどれだけ先回りしていたかに気づいた。
ネルの動き。
コレットの不安。
ロイの緊張。
ジャックの苛立ち。
ガレスの沈黙。
全部、見ているつもりだった。
でも、それは時々、相手の言葉を待たないことと同じだった。
俺が勝手に傷の形を決める。
ネルの言葉が胸に残る。
訓練の終わり頃、ネルはようやくいつもの位置に戻っていた。
前に出る。
文句を言う。
失敗して悔しがる。
ロイに突っ込む。
ジャックに噛みつく。
いつものネル。
でも、俺には少し違って見えた。
隣にいる。
その言葉を言った後のネルだ。
訓練後、俺は水を飲んでいる彼女の隣に立った。
「ネル」
「何」
「聞いていいか」
「何を」
「今日、まだ嫌か」
ネルは水筒を下ろした。
「エレナのこと?」
「そう」
「嫌」
即答だった。
「そうか」
「でも、朝よりはまし」
「どうして」
「言ったから」
ネルは少しだけ照れたように顔をそらす。
「言わないと、たぶん勝手に膨らむ。言ったら、嫌なまま置ける」
「嫌なまま置く」
「ラグエッジで覚えたでしょ」
「危険を片付けない」
「そう。私の嫌も、私が持つ。あんたは勝手に処理しない」
「わかった」
「ほんとに?」
「本当に」
ネルは俺を見た。
疑うように。
でも、少しだけ信じるように。
「じゃあ、私も聞く」
「何を」
「エレナの記事見て、今はどう?」
俺は考えた。
すぐに答えない。
穴の縁に触れる。
記事。
白銀の星。
昔の話。
好きだったかもしれないという穴。
そして、今隣にいるネル。
「痛い」
俺は言った。
「でも、朝より痛い場所がわかる」
「どこ?」
「思い出せないことじゃなくて、思い出せないまま誰かを傷つけるかもしれないこと」
ネルは少し黙った。
「それ、私も入ってる?」
「入ってる」
「エレナも?」
「入ってる」
「自分は?」
また、その問い。
俺は逃げないように、少しだけ時間を取った。
「まだ、少ない」
「少ない?」
「自分が傷つくことを考える道が、まだ細い」
ネルは息を吐いた。
「そこも訓練だね」
「訓練なのか」
「あんた、訓練って言うと逃げないでしょ」
「便利に使うな」
「便利だから使ってる」
俺の言葉を返された。
少し笑った。
ネルも少し笑った。
その笑いは、何かを解決したわけではない。
エレナのことも。
俺の欠けた感情も。
ネルの嫌も。
何も片付いていない。
でも、置き場所ができた。
隣にいる時間の中に。
夕方、コレットが新しい作戦項目を部誌に書いた。
レガリア対策。
観客視線。
白銀魔法。
クラウン仮説。
ルカの感情欠落。
ネルの隣接確認。
最後の項目名に、ネルが本気で怒った。
「何それ!」
「わかりやすく」
コレットが言う。
「わかりやすくしなくていい!」
「では、現在関係確認」
「余計ひどい!」
ロイが笑い、リリィが「部誌としては最悪の見出しです」と冷静に評し、ジャックが「面倒くせえ」と言った。
ノルは眠そうに、別の見出しを書いた。
隣にいる時間。
それを見て、ネルは黙った。
俺も黙った。
コレットは、その見出しを採用した。
隣にいる時間。
過去に誰がいたか。
今、誰が隣にいるか。
これから誰と向き合うか。
その全部を、すぐには決められない。
でも、時間は記録できる。
ネルが隣にいた今日の訓練。
俺が彼女の感情を勝手に読まない練習をしたこと。
エレナの記事で空いた穴が、少しだけ形を持ったこと。
それは、部誌に残った。
俺の中の道がまた切れても、少なくとも紙には残る。
そして、たぶん。
ネルも覚えている。




