第145話 白銀の星の記事
ラグエッジを出た翌朝、巡業列車の食堂車は妙に静かだった。
静かというより、全員が何かを見ていた。
机の中央に広げられた王都新聞。
その一面ではない。
でも、競技欄の大きな扱い。
白銀の星、公開試合へ向け順調。
王立レガリア魔法学院代表候補、エレナ・フォルティス。
その名前が、朝の食堂車に置かれていた。
誰もが知っている名前として。
忘れようがない名前として。
俺は記事を見た。
写真の中のエレナは、白い訓練場の中央に立っている。
王冠のような旗が、彼女の横で光っている。
白銀の魔力。
整った姿勢。
冷たすぎない微笑み。
新聞の紙面に収まっているのに、見られる側として完成していた。
「すごい人なんすね」
ロイが小さく言った。
いつもならもっと声が大きい。
でも、今日は少し抑えている。
たぶん、俺の顔を見ているからだ。
「王立代表候補ですもの」
レイナが言う。
「当然ですわ。記事の書き方は少々持ち上げすぎですが」
「少々?」
リリィが紙面を覗き込む。
「『白銀の星に揺らぎなし』『王都が待つ完璧な代表候補』『過去を越えた冷静な勝者』。砂糖ではなく銀粉をまぶした記事ですね。食べられません」
「食べるなよ」
ジャックが言った。
いつもならそこで少し笑いが起きる。
今日は、笑いが遅れた。
記事の下の段に、小さく別の記事がある。
カルミア魔法学園、外縁校ラグエッジに勝利。
第七魔法競技部、危険魔法を連携で制御。
ジャック・バーネルの名もある。
昨日なら、そちらで騒いでいたはずだ。
ロイは絶対に切り抜くと言っただろうし、レイナは記事の品位に文句を言いながら保存しただろうし、リリィは表現が雑ですと毒づいただろう。
ジャックは「読むな」と言いながら、誰よりも記事の位置を確認したかもしれない。
でも、今は違う。
全員の視線が、俺とエレナの記事の間を行ったり来たりしている。
それが、居心地悪い。
「何だよ」
俺は言った。
「いや」
ネルが腕を組む。
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「あんたこそ」
「俺?」
「何でもない顔してる」
ネルの声は尖っていない。
むしろ、少し困っている。
「昔の知り合いなんでしょ」
「らしいな」
そう答えた瞬間、食堂車の空気がさらに静かになった。
らしいな。
自分で言って、ひどい返事だと思った。
でも、それが一番近い。
俺はエレナ・フォルティスを知っている。
名前を知っている。
顔を知っている。
過去に試合をしたことも知っている。
彼女に負けたことも知っている。
その試合で、俺の何かが壊れたことも知っている。
知っている。
知識として。
記録として。
でも、記事を見ても、胸が正しい形で痛まない。
痛い場所はある。
ただ、その真ん中が抜けている。
穴の縁だけが痛む。
中心に何があったのか、わからない。
「ルカ」
コレットが静かに呼んだ。
「無理に読まなくてもいいです」
「いや、読む」
俺は新聞を手に取った。
紙の感触。
インクの匂い。
写真の中のエレナ。
白銀の星。
王立レガリア魔法学院代表候補。
記事は、彼女を冷静な勝者として書いている。
過去の大舞台でも揺らがず、強敵を破り、代表候補としてさらに成長した少女。
その「強敵」の中に、俺がいる。
ルカ・ヴァレン。
元名門選手。
旧カルミア戦で敗北。
その後、表舞台から姿を消した。
文字は少ない。
でも十分だ。
俺は新聞の中で、彼女の物語の過去として扱われている。
冷静な勝者を際立たせる、倒された相手。
「腹立つ?」
ネルが聞いた。
俺は少し考えた。
「腹は立つ」
「なら、ちゃんと立つんだ」
「そこは立つ」
「他は?」
「他?」
「会いたいとか、悔しいとか、怖いとか」
ネルの声が、少しだけ硬くなった。
俺は新聞を見る。
エレナの写真。
白銀の魔力。
遠い学院。
きれいな記事。
俺は答えようとして、言葉に詰まった。
会いたい。
そう思うべきなのかもしれない。
悔しい。
それも正しい。
怖い。
たぶん、それもある。
でも、どの感情も、手を伸ばすと形が崩れる。
文章の中にある単語みたいに、意味はわかるのに、自分のものとして掴めない。
「わからない」
俺は言った。
「腹は立つ。記事の扱いは嫌だ。エレナがすごい選手だってこともわかる。昔、俺と関係があったこともわかる」
そこで一度止まる。
「でも、そこから先がない」
「ない?」
ロイが小さく聞く。
「あるはずのものが、ない」
食堂車の窓の外を、乾いた外縁の景色が流れていく。
ラグエッジの鉄柵。
焼けた旗の切れ端。
危険を忘れない学校。
あそこでは、危険に名前をつけた。
なら、今のこれにも名前をつけるべきなのかもしれない。
「記憶じゃない」
俺は言った。
「記憶は、少しある。記録もある。ノルの部誌もある。昔の試合の記事も見た」
ノルが眠そうに頷く。
「書いた」
「でも、感情の一部がない」
言葉にすると、少しだけ寒くなった。
感情の一部がない。
それは、記憶がないより説明しにくい。
覚えていません、ならまだいい。
でも、覚えているのに痛み方がわからない。
それは、自分の中にあるはずの何かを、外から眺めているようだった。
「欠けてる場所、わかる?」
ノルが聞いた。
「わからない」
「でも、穴の縁はある?」
「ある」
「じゃあ、なかったことじゃない」
ノルは部誌に何かを書いた。
「穴の縁も記録」
クララが新聞をじっと見ていた。
「忘却契約の痕跡が、感情記録にも及んでいる可能性があります」
「感情記録?」
ロイが聞く。
「記憶は出来事だけではありません。その出来事に付随する情動、身体反応、名前への反射、相手への距離感も含まれます」
「つまり?」
ジャックが雑に聞く。
「ルカさんは、エレナさんに関する出来事を一部知っていても、その出来事に対応する感情の道を失っている可能性があります」
「道」
ガレスが短く言った。
「はい。道です」
クララは頷く。
「ラグエッジで危険の道を作ったように、感情にも道があります。名前を見た時、声を聞いた時、過去の映像を見た時、どの感情へつながるか。その道が切れている」
「直せるのか」
ネルが聞いた。
クララはすぐには答えなかった。
「簡単には」
「簡単じゃないのはわかってる」
「完全には、戻らないかもしれません」
その言葉で、誰も喋らなくなった。
完全には戻らない。
研究都市でも似た言葉を見た。
クララは断定を避けている。
でも、その可能性はずっとあった。
俺が魔法を使うたびに失った記憶。
存在感が薄れる危険。
忘れられる名前。
失ったものが、全部戻る保証なんて最初からない。
ただ、エレナの記事を見て、それが急に現実の形を持った。
俺は、彼女を見ても正しく痛めないかもしれない。
会っても、昔の自分が持っていた感情を取り戻せないかもしれない。
それは、エレナに対してひどいことなのか。
それとも、今の俺にとって自然なことなのか。
わからない。
「ルカ」
ネルが言った。
彼女はいつもより少し低い声だった。
「今、何考えてる?」
「正直に?」
「当たり前」
「俺がエレナに会って、何も思い出せなかったら、彼女はどうなるんだろうって」
ネルの表情が変わった。
ほんの少し。
何かが刺さった顔。
「エレナの心配?」
「たぶん」
「たぶん?」
「心配の形が合ってるかわからない」
「じゃあ、自分の心配は?」
俺は黙った。
自分の心配。
俺が何を失っているか。
エレナに会った時、自分がどうなるか。
それを考えるより先に、彼女がどう受け取るかを考えていた。
それは優しさかもしれない。
逃げかもしれない。
自分の穴を見るのが怖いから、相手の痛みを先に想像しているだけかもしれない。
「わからない」
俺は言った。
ネルは少しだけ眉を寄せた。
「そればっか」
「悪い」
「謝ることじゃないけど」
彼女は新聞を見た。
エレナの写真。
白銀の星。
完璧な代表候補。
ネルは、その写真を睨むように見ていた。
「綺麗な人だね」
「そうだな」
「強い?」
「たぶん、ものすごく」
「好きだった?」
食堂車の空気が凍った。
ロイが水を飲もうとして止まる。
レイナが目を見開く。
リリィが「直球ですね」と小さく言う。
ジャックは面倒な話になったという顔をしたが、逃げなかった。
ネルは俺を見ている。
逃げ道のない目。
「わからない」
俺は答えた。
ネルの表情が、ほんの少しだけ曇る。
「でも」
俺は続けた。
「好きだったかもしれない、って思うだけの穴はある」
その言葉は、言ってから自分で嫌になった。
ひどく曖昧で、不誠実に聞こえる。
でも、今の俺にはそれが限界だった。
ネルは何も言わなかった。
コレットが静かに新聞を畳む。
「この話は、急がないほうがいいです」
「でも、レガリアは近いですわ」
レイナが言う。
「公開試合の噂、この記事にも匂わせがあります」
リリィが新聞の下段を指す。
「『王立レガリア、注目校との合同公開試合を調整中』。注目校、ですって。名前を伏せて期待だけ煽る、たいへん上品なやり方です」
「カルミアだろうな」
アルフが言う。
「ラグエッジ戦の直後にこの記事。タイミングが良すぎる」
「レガリアが俺たちを呼ぶ理由は?」
ジャックが聞く。
「見世物」
リリィが即答した。
「欠陥魔法の没落校が、王立代表候補に挑む。白銀の星の過去の相手もいる。新聞部が好きそうな味つけです」
「最悪だな」
「ええ。売れます」
「そこも最悪」
コレットは作戦板を開いた。
「見世物にされるとしても、試合は試合です。準備します」
「部長、切り替え早いっす」
「早くしないと怖いので」
コレットは正直だった。
怖い。
その言葉を、最近よく聞く。
ジャックの攻撃。
ラグエッジの危険。
エレナの記事。
レガリア。
怖さに名前をつけるほど、俺たちは怖いものから逃げていない気がする。
俺は新聞をもう一度見た。
エレナの写真。
冷静な勝者。
過去を越えた白銀の星。
記事は、彼女が何を考えているかを書いていない。
当然だ。
新聞だから。
でも、不思議なことに、写真の彼女は少し寂しく見えた。
いや、そう見えた気がしただけかもしれない。
俺の失った感情が、穴の縁で勝手に形を作っているだけかもしれない。
「ルカ」
クララが言った。
「この記事、切り抜いて保存してもいいですか」
「俺に聞くのか」
「エレナさんとあなたの関係記録に関わります。許可を取るべきです」
「保存してくれ」
クララは頷いた。
「では、部誌と古代契約資料の両方に参照を書きます」
「重いな」
「重いです」
ノルが眠そうに言う。
「重いものは、持ち方を書く」
ガレスが頷いた。
「水もいる」
「何にでも水を出しますね」
リリィが言う。
「水はいる」
「反論しづらいです」
少しだけ空気が戻った。
それでも、ネルは静かだった。
彼女は窓の外を見ている。
乾いた外縁の景色が、少しずつ王都へ近づく風景に変わっていく。
線路の先には、レガリアがある。
エレナがいる。
俺の穴の中心にいたかもしれない人がいる。
そして、その穴の隣には、今の俺を見ているネルがいる。
どちらも、簡単に言葉にできない。
俺は新聞を畳んだ。
白銀の星の記事は、紙の中に収まった。
でも、収まらないものが残った。
感情の一部が欠けていること。
欠けているのに、痛むこと。
その痛みを見ている仲間がいること。
そして、ネルが黙っていること。
列車の窓に、俺の顔が薄く映る。
その顔は、思ったより平気そうだった。
それが一番、嫌だった。




