第144話 隠した一行
資料を奪われた夜、エレナは眠らなかった。
眠れなかった、ではない。
眠らなかった。
レガリアの寮は、夜も管理されている。
消灯時刻。
巡回。
魔力安定確認。
代表候補の睡眠記録。
すべてが整っている。
だから、眠らないためには、眠っているふりをする必要があった。
ベッドに入る。
呼吸を一定にする。
魔力の波を低く保つ。
巡回の確認符が扉の外を通る。
小さな青い光が隙間から入り、すぐに消える。
異常なし。
エレナ・フォルティスは、今日も規定通り休んでいる。
そう記録されたはずだ。
記録が去ってから、エレナは目を開けた。
暗い天井。
白いカーテン。
整った部屋。
机の引き出しには、もう一つの資料束がある。
でも、昨日までと同じ資料では足りない。
奪われた冊子の一行。
相互接触時、旗媒介により反射経路の一時補正が可能。
完全復元は不可。
その情報を、形に残さなければならない。
形に残せば、見つかる。
形に残さなければ、自分が壊れた時に失われる。
エレナはベッドから下りた。
室内靴を履く音も立てない。
机の灯りはつけない。
白銀の魔力を、ほんの少しだけ指先に灯す。
光は弱い。
文字を書けるぎりぎり。
魔力記録装置に拾われない程度。
嘘を使えば、もっと簡単に光を隠せる。
けれど、今夜はできるだけ嘘を使いたくなかった。
嘘を使えば、レガリアの中で強くなる。
強くなれば、測られる。
測られれば、見つかる。
エレナは机の二重底を開けた。
古代契約資料。
研究都市から流れてきた写し。
自分で書いた比較表。
ルカの名を書いた紙。
その二文字を見るだけで、胸の奥が痛む。
でも、今日はそれを避けない。
紙を広げる。
正面からは読めないように、古代式の略号で書く。
クララ・ヴェルムなら読めるだろうか。
あの子は、古代魔法しか読めないと記録されている。
研究都市の試合記録で見た。
カルミア第七部の理論担当。
古代旗の術式を読める少女。
もし、この資料が彼女に届けば。
そこまで考えて、エレナは手を止めた。
届けば。
どうやって。
レガリアの監視下で。
連盟視察員の目がある中で。
ヴァイス総監督が、ルカ関連の資料を警戒し始めた今。
普通の手紙は無理だ。
公開の場で渡すのも危険。
直接会って話すなど、もっと危険。
何より、ルカが自分の言葉をどう受け取るかわからない。
彼はエレナとの記憶を失っている。
全部ではない。
でも、大切な部分ほど欠けているかもしれない。
エレナを見る目が、昔と同じとは限らない。
むしろ、同じでないほうが自然だ。
裏切り者。
冷たい勝者。
ルカを潰した白銀の星。
その顔を、彼も見ているかもしれない。
エレナは息を止め、紙に短く書いた。
忘却は名を外へ逃がす。
虚像は名を外へ固定する。
旗媒介接触により一時補正可。
完全復元不可。
古代略号で。
直接の名前は書かない。
ルカ、とは書かない。
エレナ、とも書かない。
代わりに、二つの印を置く。
風の前を示す小さな線。
王冠の下に置かれた空白。
自分にしかわからないかもしれない。
でも、クララなら読む可能性がある。
ノルなら夢で拾う可能性がある。
旗なら。
旗なら、覚えているかもしれない。
エレナはそこまで考えて、別の紙を取り出した。
王冠旗クラウンの簡易術式。
レガリアでは公開されていない。
代表候補だからこそ知る構造。
嘘に反応する旗。
観客の期待を王冠へ集める旗。
本当の声より、見られている像を優先する旗。
エレナはその余白に、小さく書く。
クラウンは嘘を食べる。
その一行だけは、古代略号ではなく、普通の言葉で書いた。
自分への確認だった。
嫌な確認。
でも、必要な確認。
王冠旗クラウンは、エレナの嘘で輝く。
なら、公開試合で彼女が嘘をつけばつくほど、旗は強くなる。
ルカの前で冷たく振る舞えば、魔力は増す。
彼を突き放せば、クラウンは輝く。
本心を隠せば、レガリアは勝ちに近づく。
その仕組みは、あまりにもよくできている。
エレナは紙を見つめた。
自分がどんな役割を期待されているか、よくわかる。
冷たいエース。
昔の仲間を切り捨てた勝者。
白銀の星。
嘘つき。
その全部を演じれば、レガリアは強い。
そして、ルカの忘却契約に触れられる可能性も高まる。
勝つための嘘と、救うための嘘が、同じ形をしている。
だから難しい。
だから、エレナは自分を信用しきれない。
勝つためだと言いながら、救うための機会を失うかもしれない。
救うためだと言いながら、ルカをさらに傷つけるかもしれない。
嘘が強くなればなるほど、誰も本当の理由を見てくれない。
自分自身ですら、時々わからなくなる。
紙の端に、もう一つだけ書いた。
嘘は道具。目的ではない。
書いてから、エレナは苦笑した。
誰かが見れば、優等生らしい自己管理の言葉に見えるだろう。
でも、彼女にとっては必死の杭だった。
嘘に引きずられないための。
レガリアに利用されすぎないための。
ルカを救うという目的を、自分の中で見失わないための。
その時、窓の外で小さな音がした。
エレナは動きを止める。
夜風ではない。
レガリアの寮窓は、消灯後に自動防護がかかる。
外から音がするはずがない。
彼女は紙を素早く重ね、二重底の中へ戻した。
魔力の光を消す。
暗闇に目を慣らす。
窓の向こうに、白い影があった。
クラウン。
訓練場にいるはずの王冠旗が、薄い幻のような姿で窓の外に揺れている。
完全顕現ではない。
旗の夢のようなもの。
ノルなら、こういうものと話せるのだろうか。
エレナには話せない。
ただ、見ることだけはできた。
「クラウン」
小さく呼ぶ。
白い幻獣旗は、王冠を揺らした。
窓越しに、こちらを見ている。
責めているようには見えない。
慰めているようにも見えない。
ただ、何かを待っている。
エレナは窓へ近づく。
防護越しに手を当てる。
「あなたも、嘘を食べたくて来たの?」
クラウンは揺れた。
答えはない。
でも、王冠の光は弱い。
訓練中のような強い輝きではない。
むしろ、疲れているように見えた。
エレナは思い出す。
昨日の訓練で、本音に近い沈黙が出た時、クラウンは少し離れた。
でも、完全に逃げたわけではなかった。
今も、ここへ来ている。
嘘を食べる旗。
でも、嘘しか食べられないとは限らない。
古代旗は、人間の分類より複雑だ。
クララならそう言うかもしれない。
「私、あなたのこともよくわかっていないのね」
エレナはつぶやく。
「レガリアの旗なのに」
クラウンの輪郭が少しだけ薄くなる。
寮の巡回が近い。
旗の幻も長くは残れないのだろう。
エレナは、ふと思った。
もし、クラウンが本当に嘘だけで輝く旗なら。
なぜ今、誰にも見られていない夜に来たのか。
誰の期待もない。
観客もいない。
理事会もいない。
エレナが嘘をつけば、ほんの少し光るだけの部屋。
それでも来た。
「もしかして」
エレナは言いかけて、やめた。
本当のことを言うのが怖かった。
クラウンが、自分の嘘ではなく、自分の孤独へ反応しているのではないか。
そう思うのが怖かった。
そうなら、エレナはクラウンを嫌いでいられなくなる。
利用される旗としてだけ見られなくなる。
自分と同じように、王冠を背負わされたものとして見てしまう。
巡回の光が廊下側から近づく。
クラウンの幻が消えかける。
エレナは、とっさに言った。
「明日も来て」
言ってから、驚いた。
誰かに来てほしいと口にするのは、久しぶりだった。
クラウンは一瞬だけ王冠を揺らし、消えた。
巡回の確認符が扉の外を通る。
エレナはすぐにベッドへ戻り、呼吸を整えた。
異常なし。
また、そう記録された。
朝になると、エレナはいつも通り起きた。
五時。
寝具の皺を整える。
髪を百回梳く。
鏡を三回見る。
三回目の鏡で、誰に見られても問題のない顔を作る。
ただ、今日は机の二重底に新しい紙がある。
隠した一行。
奪われなかった情報。
そして、クラウンが夜に来た記憶。
それだけで、昨日より少しだけ呼吸がしやすかった。
朝食の席で、ユリウスが新聞を広げていた。
「カルミア、ラグエッジに勝ったらしい」
その一言で、エレナの手が止まりかけた。
今度は止まらなかった。
スプーンを静かに置く。
「そう」
声は平ら。
でも、胸の奥が熱くなる。
「第七魔法競技部の攻撃役が活躍したそうだ。危険な魔法をチームで制御した、とある」
ユリウスは新聞を読む。
「記事によると、ルカ・ヴァレンも出場。風前確認、と呼ばれる観察で作戦を支えたらしい」
風前確認。
エレナはその言葉を、心の中で繰り返した。
昔、ルカは自分の観察に名前をつけていなかった。
風の前を見る。
ただ、そうしていただけ。
今は、誰かがそれに名前をつけた。
カルミアの仲間たちが。
それが、少しだけ嬉しくて、少しだけ苦しかった。
「ずいぶん伸びているようね」
エレナは言った。
嘘ではない。
ユリウスは彼女を見る。
「気になる?」
「代表候補として、注目校の情報は必要でしょう」
嘘。
魔力が少し澄む。
ユリウスは苦笑した。
「君は本当に隙がない」
隙がない。
そう見える。
本当は、今にも新聞を奪って読みたい。
ルカの名前がどんなふうに書かれているのか知りたい。
第七部の仲間が彼をどう呼んでいるのか知りたい。
彼が、エレナのことをどれくらい覚えているのか知りたい。
でも、エレナは新聞に手を伸ばさない。
伸ばせば、意味を持つ。
意味を持てば、利用される。
「読み終わったら、競技部資料室へ回しておいて」
エレナは言った。
「情報整理に使うわ」
「もちろん」
ユリウスは頷いた。
これなら自然だ。
代表候補が注目校の記事を読む。
問題ない。
昼まで待てば、正式に読める。
待つのは得意だ。
嘘をつくより、ずっと得意だと思いたかった。
午前の訓練前、ヴァイス総監督に呼ばれた。
総監督室。
白い壁ではなく、濃い木の棚がある部屋。
そこには、歴代代表の資料が並んでいる。
昨日奪われた冊子は、机の上にはない。
「フォルティス」
ヴァイスは静かに言った。
「昨夜、よく休めたか」
「はい」
嘘。
魔力はほとんど動かない。
小さな嘘だからだ。
ヴァイスは頷いた。
「カルミアがラグエッジに勝った」
「聞きました」
「予定を早める可能性がある」
エレナは表情を変えない。
「公開試合ですか」
「そうだ。理事会と連盟は、レガリアとカルミアの合同公開試合を検討している。君とルカ・ヴァレンの過去は、注目を集める」
注目。
観客。
期待。
嘘。
クラウンが輝く条件が、次々に揃っていく。
「代表候補として、受けます」
エレナは言った。
ヴァイスは満足そうに頷く。
「君ならそう言うと思っていた」
本当は違う。
代表候補としてだけではない。
受ける。
ルカに会うために。
旗媒介接触の機会を作るために。
完全復元は不可でも、一時補正の可能性があるなら。
届かない本音の代わりに、せめて道を作るために。
「ただし」
ヴァイスは続けた。
「公開試合では、君は冷静でなければならない。カルミアに同情的な態度を見せてはいけない。ルカ・ヴァレンへの個人的接触も、競技上必要な場面を除き制限する」
「承知しています」
嘘ではない。
承知はしている。
従うかは別だ。
エレナはその違いを、心の奥に隠した。
「君はレガリアの象徴だ」
ヴァイスが言う。
「白銀の星として、彼らの前に立つ」
「はい」
「勝つために」
「はい」
「そして、必要なら彼の反応を引き出すために」
エレナの指が、ほんの少し動いた。
ヴァイスは気づいたかもしれない。
だが、何も言わなかった。
「ルカ・ヴァレンの忘却反応は、カルミア側だけでなく、連盟にとっても重要な資料になる。君は彼と最も強い因果を持つ可能性がある」
資料。
また、その言葉。
エレナは微笑む。
「代表候補として、最善を尽くします」
嘘。
最善は尽くす。
でも、誰のための最善かは言わない。
ヴァイスはそれをレガリアのためと認識した。
欠陥魔法は正確に働く。
エレナの本当の意図は、今日も認識されない。
総監督室を出ると、クラウンの小さな幻が廊下の端に見えた。
昼間なのに。
ほんの一瞬。
王冠が揺れる。
誰も気づかない。
エレナだけが見た。
彼女は歩きながら、声には出さずに言った。
明日も来て。
クラウンは消えた。
その日の訓練で、エレナの魔力は安定していた。
理事会も、ヴァイスも、ユリウスも、下級生も、全員がそう記録した。
エレナ・フォルティスは公開試合へ向けて順調。
白銀の星に揺らぎなし。
カルミア戦にも冷静に対応可能。
そう記録される。
誰も知らない。
彼女の二重底に隠された一行を。
奪われた資料の内容を、彼女が覚えていることを。
公開試合を、レガリアのためだけではなく、ルカを救う機会として待っていることを。
そして、夜にクラウンへ来てほしいと願ったことを。
誰にも認識されない本音は、今日も残った。
見つからないまま。
消えないまま。




