第143話 虚像強化
理事会同席の特別訓練は、午後三時からだった。
レガリアの中央訓練棟。
普段は代表候補以上しか入れない白い競技室に、今日は大人が多い。
理事。
連盟視察員。
学院研究部。
競技部総監督ヴァイス・グラント。
そして、記録係。
大人たちは静かに並んでいた。
誰も騒がない。
誰も露骨な期待を口にしない。
でも、全員が同じものを見ている。
エレナ・フォルティスの魔法。
嘘をつくほど強くなる欠陥。
レガリアの言葉では、虚像強化。
「本日は、代表選抜へ向けた安定性確認です」
ヴァイス総監督が説明する。
声は穏やかだ。
「フォルティスの魔法は、本人の自己像と対外認識の整合によって出力が変化します。つまり、周囲が彼女をどう見るか、彼女がそれにどう応じるかが、魔力へ影響する」
研究部の女性が記録板へ書き込む。
「虚像反応値、前回より上昇」
「代表候補戦後の露出増加が効いている」
別の理事が言う。
「王都新聞の特集も影響したか」
「おそらく」
エレナは中央に立っていた。
聞こえている。
すべて聞こえている。
でも、彼らは聞かれて困ることを言っているつもりはない。
エレナの魔法について、エレナの前で分析する。
それは自然なことだと信じている。
代表候補なのだから。
レガリアの資産なのだから。
優秀な魔法は、理解され、管理され、最大化されるべきなのだから。
その考え自体は、間違っていないのかもしれない。
魔法競技の世界では、才能は管理される。
旗も、選手も、戦術も。
問題は、彼らがエレナを見ているようで、見ていないことだった。
「フォルティス」
ヴァイスが呼ぶ。
「はい」
「最初は通常出力。クラウンとの共鳴を保ちながら、標準防壁を三枚展開」
「承知しました」
王冠旗クラウンは、白い幻獣の姿でエレナの横にいた。
昨日より輪郭が濃い。
理事会の前で、クラウンも見られている。
見られるほど、王冠は光る。
エレナの嘘と同じように。
「始め」
エレナは魔力を伸ばす。
白銀の線が床へ走り、三枚の防壁が生まれる。
正面。
右。
左。
すべて均一。
すべて美しい。
研究部の記録係が声を出す。
「通常出力、基準値一三二。クラウン共鳴率七一」
「高いな」
理事の一人が言う。
「昨日の公開訓練より高い」
エレナは防壁を保つ。
私は平気。
私は測られているだけ。
私は代表候補。
私はレガリアの期待に応えられる。
嘘は丁寧に積む。
粗い嘘は魔力を乱す。
丁寧な嘘は、白銀を澄ませる。
「次。対外認識負荷を上げる」
ヴァイスが言う。
対外認識負荷。
それは、エレナがどう見られているかを意図的に強める訓練だ。
彼女の欠陥魔法は、周囲の認識と嘘の強さに反応する。
なら、周囲の認識を操作すれば、出力を上げられる。
その発想は正しい。
正しいからこそ、ひどい。
訓練室の壁に、映像が投影された。
新聞記事。
観客の歓声。
過去の勝利映像。
白銀の星。
冷静な勝者。
王立代表候補。
ルカ・ヴァレンを破った少女。
その文字が出た瞬間、エレナの指先がわずかに震えた。
記録係が言う。
「反応値上昇」
理事が頷く。
「やはり、旧カルミア戦への反応が強い」
エレナは防壁を保った。
息を吸う。
私は揺れない。
私は過去に縛られない。
私はルカ・ヴァレンを倒した勝者。
彼を忘れている。
嘘。
嘘。
嘘。
魔力が跳ね上がる。
白銀の防壁が厚くなる。
クラウンの王冠が強く輝いた。
研究部がざわめく。
「共鳴率八四」
「上がった」
「記録してください。旧カルミア戦映像刺激により虚像強化が促進」
「ルカ・ヴァレンの名への反応は、代表選抜用の調整要素として有効」
調整要素。
エレナはその言葉を聞いた。
ルカの名前が、調整要素と呼ばれた。
昔、一緒に競技場の端で作戦を話した名前。
風の前を読む癖を、彼がまだ自分でも言葉にしていなかった頃の名前。
負けても悔しそうに笑って、次は見る場所を変えると言った名前。
自分が救いたい名前。
それが、調整要素。
「フォルティス、出力が揺れている」
ヴァイスの声が飛ぶ。
「整えなさい」
「はい」
エレナは答えた。
私は大丈夫。
私は怒っていない。
私は傷ついていない。
ルカの名前を利用されても、代表候補として受け入れられる。
嘘が、また魔力を澄ませる。
防壁が安定する。
大人たちが満足そうに頷く。
「素晴らしい」
理事長代理が言った。
「これなら、公開試合でも十分に見せられる」
公開試合。
エレナは防壁の向こうで、その言葉を聞いた。
まだ正式発表されていないはずの予定。
レガリアと、どこかの学校の合同公開試合。
その候補にカルミアがあることを、エレナは知っている。
知らないふりをしている。
知らないふりも、嘘になる。
力になる。
嫌になる。
「次は本心矛盾負荷を入れよう」
研究部の男性が提案した。
ヴァイスが少しだけ眉を動かす。
「強度は?」
「軽度です。発話誘導のみ」
「許可する」
許可。
エレナには確認しない。
必要がないからだ。
代表候補の訓練内。
学院管理権限。
本人の安全には配慮されている。
だから問題ない。
研究部の男性が、エレナに向き直った。
「フォルティスさん、こちらの質問に答えてください。防壁は維持したまま」
「はい」
「あなたは、王立レガリア魔法学院の代表候補であることを誇りに思っていますか」
「はい」
これは嘘ではない。
誇りはある。
レガリアで学んだことも、鍛えたことも、捨てたくはない。
防壁は安定。
「あなたは、エレナ・フォルティスとして、白銀の星と呼ばれるにふさわしいと思いますか」
「はい」
半分嘘。
魔力が少し澄む。
記録係が値を読む。
「微増」
「あなたは、ルカ・ヴァレンとの過去を、もう乗り越えていますか」
防壁の端が震えた。
クラウンの王冠が、白く明滅する。
エレナは一拍遅れた。
その遅れを、大人たちは見逃さない。
記録板に数値が走る。
「反応あり」
「質問継続」
エレナは微笑む。
訓練中なのに、微笑む。
その笑みがあると、周囲は安心する。
エレナ・フォルティスは崩れない。
そう見える。
「はい」
嘘。
大きな嘘。
魔力が跳ね上がる。
防壁三枚が、同時に厚くなる。
クラウンが強く輝き、訓練室の床に銀の反射が広がった。
理事たちが息を呑む。
「共鳴率九一」
「すごい」
「本心矛盾負荷が有効」
有効。
エレナはその言葉を、遠くで聞いた。
自分の喉が痛い。
胸が冷たい。
でも、防壁は美しい。
誰から見ても、素晴らしい成果だった。
「もう一つ」
研究部の男性が言う。
ヴァイスが止めない。
「あなたは、ルカ・ヴァレンと再会しても、代表候補として冷静に戦えますか」
エレナは、答えなかった。
答えられなかった。
防壁が揺れる。
クラウンが一歩下がる。
訓練室の空気が変わる。
記録係の声が少し速くなる。
「出力乱れ」
「クラウン共鳴低下」
「フォルティス」
ヴァイスの声が鋭くなる。
「答えなさい」
答えれば、魔力は上がる。
はい、と言えばいい。
戦えます。
冷静です。
ルカ・ヴァレンは過去です。
簡単な嘘。
何度も言ってきた嘘。
でも、その瞬間、エレナの中で何かが抵抗した。
嘘をつくのが嫌だった。
魔力が強くなることが嫌だった。
ルカの名前を使って、クラウンを輝かせることが嫌だった。
だから、言葉が出なかった。
沈黙。
その沈黙は、エレナにとって本音に近いものだった。
けれど、周囲には別のものとして認識された。
「心理負荷が強すぎる」
「回答拒否ではなく、出力飽和前の停止か」
「代表選抜本番で同様の沈黙が出ると危険」
違う。
そう言いたかった。
違う。
これは停止ではない。
これは、嫌だと思っただけ。
でも、その本音は誰にも届かない。
ヴァイスが近づいた。
「フォルティス、訓練を中断する」
穏やかな声に戻っていた。
「よく耐えた。今日は十分だ」
よく耐えた。
褒め言葉。
でも、エレナは耐えたかったわけではない。
嫌だった。
嫌だと認識されたかった。
防壁が消える。
クラウンの輪郭が薄くなる。
白い幻獣旗は、エレナから少し離れた場所で揺れていた。
エレナはその距離を見た。
さっきまで、クラウンは彼女の嘘に近づいていた。
今、本音に近い沈黙が出た瞬間、少し離れた。
嘘を食べる旗。
王冠を持つ幻獣。
レガリアの象徴。
エレナは小さく笑いそうになった。
笑わなかった。
笑えば、何かの反応として記録される。
「フォルティス」
ヴァイスが静かに言う。
「先ほどの沈黙は、訓練疲労として処理する」
「ありがとうございます」
「ただ、課題だ。ルカ・ヴァレンに関する刺激は、君の出力を最大化する一方で、不安定要素にもなる」
「はい」
「代表選抜までに、安定させる」
「はい」
「君ならできる」
エレナは微笑んだ。
「できます」
嘘。
魔力はもうほとんど出なかった。
疲れているからではない。
たぶん、心のどこかがその嘘を拒んだからだ。
ヴァイスはそれを疲労と見た。
研究部も、理事会も、そう記録した。
誰も、エレナが少しだけ嘘を失敗したことには気づかない。
訓練後、医務確認が行われた。
脈拍。
魔力残量。
クラウン共鳴値。
瞳孔反応。
発話安定度。
全部、数値になる。
医務担当の女性が優しく言った。
「少し疲れていますね。今日は早く休みましょう」
「はい」
「無理をしすぎないで」
優しい言葉。
でも、何が無理なのかは知らない。
エレナは頷く。
「ありがとうございます」
廊下へ出ると、ユリウスが待っていた。
「特別訓練、大変だった?」
「少し」
エレナは答えた。
少しだけ本音に近い。
ユリウスは驚いたように目を開いた。
「君がそう言うなら、相当だね」
「そう見える?」
「見える」
彼は少し迷ってから続けた。
「ヴァイス総監督たちは、君を信じている」
「ええ」
「でも、信じているから負荷をかけるのと、負荷をかけてもいいと思うのは、少し違う」
エレナはユリウスを見た。
珍しい。
彼は踏み込みすぎない人だ。
それなのに、今の言葉は少し踏み込んでいる。
「心配してくれているの?」
エレナが聞く。
ユリウスは苦笑した。
「君に心配って言うと、たぶん記事になる」
「ここに新聞部はいないわ」
「記録装置はある」
エレナは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
今度は、嘘ではなかった。
ユリウスはそれを見て、少し目を伏せる。
「そういう顔もするんだね」
エレナの笑みが止まった。
届いたのかと思った。
ほんの一瞬。
でも、ユリウスはすぐに言った。
「少し意外だった。白銀の星にも、そういう柔らかいところがあるんだ」
白銀の星。
その言葉で、届きかけたものが形を変えた。
彼は悪くない。
むしろ、優しい。
ただ、認識できない。
エレナではなく、白銀の星の柔らかい一面として見てしまう。
欠陥は、今日も正確に働いている。
「そうかしら」
エレナは微笑む。
「ええ。君にも弱さがあると、少し安心する」
弱さがある。
そう言われたのに、なぜか遠い。
それは本当の弱さではなく、強い人にも少し弱いところがある、という美しい形にされているからだ。
エレナは頷いた。
「安心してもらえたなら、よかった」
嘘。
また魔力が少し戻る。
ユリウスは気づかない。
「無理はしないで」
「ええ」
彼は去っていった。
エレナは廊下に一人残る。
白い壁。
磨かれた床。
記録装置。
遠くの訓練音。
全部が整っている。
整いすぎている。
自室へ戻る前に、エレナは資料室へ向かった。
代表候補には、一部の非公開資料へアクセス権がある。
もちろん、すべてではない。
だが、エレナはもう一つ別の鍵を持っている。
正式な鍵ではない。
昔、ルカを救う方法を探す過程で見つけた、古い管理符だ。
カルミア関連資料の一部が、レガリアの古い分類に紛れ込んでいる。
標準式制度が整う前の記録。
欠陥魔法という言葉が、まだ欠陥と呼ばれていなかった頃の資料。
資料室の奥。
第七棚。
古い標識には、こう書かれている。
契約型異常反応。
エレナは周囲を確認した。
誰もいない。
記録装置はある。
でも、代表候補の調査権限内で閲覧したことにすれば、怪しまれにくい。
棚から一冊の薄い冊子を抜く。
表紙には、古い文字で題名がある。
名の反射と忘却預託。
彼女は息を止めた。
これだ。
ルカの欠陥に近い。
魔法を使うたびに記憶を失う。
存在感が薄れる。
名前が反射しない。
旗道に預けられた痕跡。
研究都市の資料と同じ言葉が、ここにもある。
エレナは冊子を開く。
古い紙の匂い。
そこには、忘却契約と虚像契約が対になる可能性について、短い注記があった。
忘却は名を外へ逃がす。
虚像は名を外へ固定する。
一方は忘れられ、一方は忘れられない。
ただし、双方とも本質認識を失う危険あり。
エレナの指が震えた。
忘れられるルカ。
忘れられないエレナ。
どちらも、本当の自分へ届かない。
対。
その言葉が、頭の中で重く鳴る。
ページの端には、さらに小さな字があった。
相互接触時、旗媒介により反射経路の一時補正が可能。
ただし、記憶の完全復元は不可。
完全復元は不可。
その一行を読んだ時、エレナは目を閉じた。
救える。
でも、戻らない。
全部は戻らない。
それでも。
それでも、何かできるかもしれない。
冊子を閉じようとした瞬間、背後で声がした。
「その棚は、代表候補でも閲覧申請が必要だ」
エレナは振り返る。
ヴァイス総監督が立っていた。
いつからいたのか。
足音はしなかった。
エレナは冊子を持ったまま、微笑んだ。
「申し訳ありません。公開試合に向けて、契約型反応の資料を確認していました」
嘘。
魔力が少し澄む。
ヴァイスは彼女を見た。
「ルカ・ヴァレンのためではなく?」
エレナは微笑みを崩さない。
「代表候補として必要だと判断しました」
嘘。
でも、半分本当。
公開試合でルカとぶつかるなら、必要になる。
ヴァイスはしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「君は優秀だ。だからこそ、個人的感情を管理しなければならない」
「はい」
「その資料は預かる」
エレナの手が、ほんの少し冊子を握った。
渡したくない。
でも、拒めば怪しまれる。
拒めば、ルカへの感情が記録される。
渡せば、資料が奪われる。
エレナは微笑む。
「承知しました」
冊子を差し出す。
ヴァイスが受け取る。
「安心しなさい。必要な情報は、適切な時に君へ渡す」
適切な時。
適切な形。
適切な利用。
その言葉たちが、資料を遠ざける。
エレナは頷いた。
「ありがとうございます」
嘘。
魔力が、かすかに戻った。
ヴァイスは去った。
資料室に一人残ったエレナは、手の中を見た。
冊子はもうない。
でも、ページの端にあった一行は覚えている。
相互接触時、旗媒介により反射経路の一時補正が可能。
完全復元は不可。
彼女はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
誰にも認識されない本音として。
そして、今度こそ隠す。
奪われた資料ではなく、覚えた情報を。
レガリアの大人たちは、エレナの嘘を使えると思っている。
それは正しい。
でも、嘘つきエースは、嘘をつく相手を選べる。
エレナは資料室の扉を開けた。
廊下へ戻る。
完璧な代表候補の顔で。
胸の奥に、奪われなかった一行を隠して。




