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第142話 忘れられない孤独

 エレナ・フォルティスは、忘れ物をされない。


 昼の公開取材でも、それはよくわかった。


 新聞部の生徒は、彼女の去年の代表候補戦績を暗記していた。


 連盟広報官は、彼女が初めて白銀魔法を公式戦で使った日付を覚えていた。


 下級生たちは、彼女が廊下でかけた一言を大切そうに繰り返す。


 教師は、彼女の魔力測定値の推移を一つも間違えない。


 対戦校の選手でさえ、エレナの名前を忘れない。


 エレナ・フォルティス。


 王立レガリア魔法学院の白銀の星。


 誰からも忘れられない少女。


 その事実は、周囲には祝福に見える。


 けれど、エレナには時々、逃げ場のない明るさのように思えた。


「エレナ様、今日の訓練で一番意識されたことは何でしょうか」


 新聞部の一年生が、緊張した声で質問する。


 彼女の手元の記録板には、すでにエレナの発言欄が用意されている。


 白銀の星は何を語るか。


 代表候補は何を見ているか。


 その空白を、美しい言葉で埋めることを期待している。


 エレナは微笑んだ。


「自分が揺れないことではなく、チーム全体が揺れないことです」


 嘘ではない。


 ただ、本当に言いたいことではない。


 レガリアでは、半分の本音が一番扱いやすい。


「素晴らしいです」


 新聞部の生徒が目を輝かせる。


「個人の強さではなく、チームの中心としての強さですね」


「ええ」


 エレナは頷く。


 そう記録される。


 代表候補エレナ・フォルティスは、チーム全体を見ている。


 白銀の星は孤高ではなく、王立レガリアの中心として立つ。


 美しい記事になるだろう。


 でも、エレナが本当に考えていたのは別のことだった。


 チーム全体が揺れないこと。


 その言葉を口にした時、彼女の脳裏に浮かんだのはレガリアではない。


 カルミア第七魔法競技部。


 欠陥魔法持ちが互いの怖さに名前をつける、あの奇妙な部活。


 記録映像で見ただけなのに、そこには音があった。


 ロイの小さな合図。


 ネルの一瞬。


 アルフの一方向。


 ジャックの攻撃。


 ルカの風前確認。


 誰かが揺れた時、別の誰かがその揺れを持つ。


 エレナには、その形が少し眩しかった。


 レガリアのチームは強い。


 整っている。


 揺れない。


 でも、揺れを持ち合うわけではない。


 揺れないように訓練されているだけだ。


「エレナ様?」


 新聞部の声で、エレナは戻る。


「ごめんなさい。次の質問を」


「はい。カルミア魔法学園について、何かご存じでしょうか。近頃、下位巡業リーグで注目されています」


 周囲の空気が、また少しだけ変わった。


 カルミア。


 ルカ。


 その二つは、エレナに結びつきやすい。


 誰も忘れないからだ。


 彼女と彼の過去を。


 彼女が彼を倒した試合を。


 彼がその後、競技の表舞台から消えたことを。


「注目されるだけの理由があるのでしょう」


 エレナは答えた。


 慎重に。


 冷たすぎず、近すぎず。


「対戦したいですか」


 新聞部の一年生は、質問してから自分で少し青ざめた。


 踏み込みすぎたと気づいたのだろう。


 でも、エレナは微笑んだ。


「代表候補として、どの学校とも対戦する準備はあります」


 完璧な答え。


 記事にしやすい。


 感情を含まない。


 エレナの魔力が、ほんの少しだけ澄む。


 嘘が、また彼女を強くする。


 新聞部は感動したように頷いた。


「ありがとうございます。必ず良い記事にします」


「期待しているわ」


 取材はそこで終わった。


 周囲の生徒たちは満足そうに散っていく。


 エレナ様は今日も完璧だった。


 カルミアの話にも動じなかった。


 ルカ・ヴァレンとの過去を引きずっていない。


 そう覚えられる。


 忘れられない記録になる。


 でも、誰も知らない。


 対戦したいですか、と聞かれた瞬間、エレナが答えそうになった本当の言葉を。


 会いたい。


 たったそれだけの言葉を。


 その言葉は、口に出る前に消えた。


 消えた本音は、誰にも届かない。


 それでも、消した後の痛みだけは残る。


 午後の合同訓練では、エレナはレガリアの旗と向き合った。


 王冠を持つ幻獣。


 それが、レガリアの代表旗だった。


 まだ公式戦用の完全顕現ではない。


 訓練用の薄い姿。


 白い獣の輪郭に、銀の王冠。


 尾は長く、翼のような布が背中から伸びている。


 旗でありながら、生き物のように振る舞う。


 王冠旗クラウン。


 レガリアにふさわしい名。


 誰もがそう言う。


 エレナは、そう思わない。


 クラウンは、重い。


 あまりにも多くの期待を載せられた旗だ。


 王立。


 代表。


 勝利。


 品格。


 観客の記憶。


 忘れられない輝き。


 そのすべてを、王冠の形にして背負っている。


「クラウン、来て」


 エレナが呼ぶと、白い幻獣旗は静かに近づいた。


 他の生徒が呼ぶ時より、速い。


 それだけで、周囲が感嘆する。


「やはりエレナ様には懐いている」


「クラウンが自分から近づくなんて」


「白銀の星にふさわしい」


 ふさわしい。


 その言葉も便利だ。


 何かが合っているように見える。


 でも、クラウンがエレナへ近づく理由を、誰も考えない。


 エレナにはわかる。


 クラウンは、嘘に反応している。


 彼女の嘘が強いほど、旗は輝く。


 彼女が完璧な代表候補であろうとするほど、王冠は白く澄む。


 彼女が本音を隠すほど、クラウンは美しくなる。


 だから、懐いているように見える。


 本当は、嘘の光を食べているだけかもしれない。


「今日も綺麗ね」


 エレナはクラウンの額に触れた。


 嘘ではない。


 綺麗だ。


 ただ、好きかと聞かれたら答えられない。


 クラウンは、彼女の指先に王冠の角を寄せる。


 周囲から歓声が上がる。


 その中で、エレナだけが小さな違和感を感じた。


 クラウンが震えている。


 ほんの少し。


 魔力の流れが乱れている。


 理由はすぐにわかった。


 訓練場の端に、ヴァイス総監督と連盟視察員が立っていた。


 視察員の手には、黒い記録板。


 連盟標準式の魔力反応測定器。


 彼らは、エレナとクラウンの共鳴値を測っている。


 本人の許可は必要ない。


 レガリアの代表候補に関する測定は、学院の管理権限内とされている。


 エレナはそれを知っている。


 知っていて、何も言わない。


 クラウンが震えた理由も、たぶん同じだ。


 測られている。


 見られている。


 記録されている。


 忘れられないように。


「エレナ様、次の連携をお願いします」


 訓練補佐が声をかける。


「ええ」


 エレナはクラウンから手を離した。


 嘘を整える。


 私は平気。


 測定されても、構わない。


 私はレガリアの代表候補。


 クラウンも私を認めている。


 嘘が魔力になる。


 白銀の線が、クラウンの王冠へ流れる。


 旗が輝く。


 視察員が記録する。


 ヴァイス総監督が満足そうに頷く。


 周囲が感嘆する。


 誰からも忘れられない光景。


 その中心で、エレナは一人だった。


 訓練後、ユリウスが水を差し出した。


「大丈夫?」


 その問いは、少しだけ本物に聞こえた。


 エレナは受け取る。


「ありがとう。大丈夫よ」


 嘘。


 ユリウスはそれを聞いて、安心した顔をした。


 本物に見えた心配は、嘘の答えで満たされた。


 彼は大丈夫という言葉を信じる。


 いや、エレナが大丈夫であるという形を信じる。


 それで十分なのだ。


 彼にとっても。


 学院にとっても。


 たぶん、世界にとっても。


「君は強いね」


 ユリウスが言う。


「そう見える?」


「見えるよ」


 エレナは少しだけ笑った。


「それなら、よかった」


「本当に?」


 珍しく、ユリウスが踏み込んだ。


 エレナは彼を見る。


 整った金髪。


 整った笑顔。


 でも、その奥に少しだけ迷いがある。


 彼はエレナを嫌っていない。


 利用価値を見ている。


 警戒している。


 尊敬もしている。


 それでも、ほんの少しだけ心配しているのかもしれない。


 エレナは答えようとした。


 本当は。


 本当は、強くなんてない。


 本当は、誰にも忘れられないのが怖い。


 本当は、ルカに忘れられているかもしれないことが、もっと怖い。


 でも、その言葉は届かない。


 届かない本音は、相手を困らせるだけだ。


 エレナは微笑んだ。


「本当よ」


 魔力が澄む。


 ユリウスは少しだけ目を伏せた。


「そう」


 彼は何か言いたそうだった。


 でも、言わなかった。


 賢いからだ。


 レガリアの生徒は、踏み込みすぎない。


 踏み込みすぎると、形が乱れる。


 夕方、エレナは一人で学院の記念廊下を歩いた。


 壁には歴代代表候補の肖像。


 優勝旗。


 連盟表彰状。


 新聞記事。


 そして、自分の記事もある。


 白銀の星、王都を震わせる。


 フォルティス、代表候補戦で圧勝。


 冷静な勝者、エレナ・フォルティス。


 その中に、一枚だけ古い記事があった。


 レガリア対カルミア、若き天才同士の衝突。


 写真は小さい。


 エレナと、ルカ。


 当時のルカは、まだ表情が今より鋭い。


 いや、今の表情をエレナは直接見ていない。


 記録映像で見ただけだ。


 ラグエッジ戦の終盤。


 ジャックの攻撃の横に立つルカ。


 少し皮肉げで、少し疲れていて、でも仲間を見ているルカ。


 昔とは違う。


 違うのに、風を見る時の目だけが同じだった。


 エレナは古い記事に触れようとして、やめた。


 廊下には監視記録がある。


 代表候補の行動は、あとで確認されることがある。


 触れれば、記録に残る。


 エレナ・フォルティスが旧カルミア戦の記事に触れた。


 それが意味を持ってしまう。


 意味を持つと、利用される。


 だから触れない。


 でも、見た。


 見るだけでも、心は動く。


 心が動けば、嘘をつかなければならない。


「昔の話」


 小さく言う。


 廊下の記録装置が、その声を拾ったかもしれない。


 拾ったとしても、問題はない。


 完璧な言葉だから。


 昔の話。


 エレナ・フォルティスは過去に揺れていない。


 そう記録される。


 彼女がその嘘で少しだけ傷ついたことは、記録されない。


 夜、寮へ戻ると、下級生たちが廊下で待っていた。


 朝、見学を頼んできた少女もいる。


「エレナ様、今日の訓練、本当にすごかったです」


「クラウンが輝いた瞬間、忘れられません」


「私もいつか、あんなふうに」


 忘れられません。


 その言葉に、エレナは微笑む。


「ありがとう。あなたたちも、焦らず積み重ねて」


「はい!」


 少女たちは嬉しそうに頷く。


 その目に映るエレナは、優しく、強く、遠い。


 彼女たちは今日の言葉を覚えるだろう。


 きっと、長く。


 それは悪いことではない。


 誰かの憧れになること自体は、悪くない。


 でも、憧れは時々、相手の孤独を見えなくする。


 エレナはそれを知っている。


 知っていて、微笑む。


 全員が去った後、寮の廊下は静かになった。


 エレナは自室の扉に手をかける。


 その時、背後から声がした。


「フォルティス」


 ヴァイス総監督だった。


 夜の廊下でも、彼の足音は乱れない。


「明日の午後、理事会同席の特別訓練を行う」


「理事会、ですか」


「君の虚像強化の安定性を見たいそうだ」


 虚像強化。


 レガリア内部で、エレナの嘘魔法につけられた技術名。


 誰からも忘れられないが、本当の自分は認識されない。


 嘘をつくほど魔法が強くなる。


 その欠陥を、彼らは虚像強化と呼ぶ。


 綺麗な言葉にすれば、研究対象にしやすいからだ。


「承知しました」


 エレナは答える。


「無理はさせない」


 ヴァイスは穏やかに言った。


 その言葉は嘘ではないのかもしれない。


 彼は本当に、無理をさせているつもりはない。


 必要な負荷。


 代表候補としての調整。


 レガリアのため。


 連盟のため。


 エレナ自身のため。


 そう認識している。


 だから届かない。


 本当に苦しいです、と言っても、彼には調整不足に見えるだろう。


 本当の自分は認識されない。


 教師にすら。


「ありがとうございます」


 エレナは微笑む。


 魔力が澄む。


 ヴァイスは満足そうに頷き、去っていった。


 自室に入る。


 扉を閉める。


 エレナは背中を扉に預けた。


 立ったまま、少しだけ息を吐く。


 今日一日、何度名前を呼ばれただろう。


 エレナ様。


 フォルティス。


 白銀の星。


 代表候補。


 嘘つきエース。


 誰も忘れない。


 誰も間違えない。


 誰も、彼女が本当は何を言いたいのか知らない。


 机の引き出しを開ける。


 二重底の資料には触れない。


 今触れると、泣きたくなる気がした。


 泣いても、誰にも認識されない。


 それは自由かもしれない。


 でも、あまりにも寂しい自由だった。


 エレナは机に向かい、白い紙を一枚出した。


 手紙ではない。


 出せないからだ。


 宛名を書けば、記録に残る。


 出せば、誰かが読む。


 利用される。


 だから、これは手紙ではない。


 ただの書き損じ。


 誰にも出さない文字。


 エレナはペンを持つ。


 少し迷ってから、書いた。


 ルカ。


 その二文字だけ。


 それ以上は書けなかった。


 でも、消さなかった。


 誰にも忘れられない自分が、誰にも届かない本音を、たった二文字だけ紙に置いた。


 その紙を、資料の間に挟む。


 古代契約の記録。


 忘却反応。


 名の反射回避。


 ルカの名。


 エレナは引き出しを閉じた。


 鏡を見る。


 そこには、誰からも忘れられない少女がいる。


 白銀の星。


 レガリアの代表候補。


 完璧なエース。


 その姿を見て、エレナは小さく言った。


「私は、大丈夫」


 嘘は、誰にも聞かれていないのに、少しだけ魔力を生んだ。


 それが一番、寂しかった。


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