第141話 嘘つきエースの朝
エレナ・フォルティスの朝は、間違えない。
起床は五時。
窓を開ける前に、寝具の皺を整える。
左側の枕を軽く叩き、右側の掛布を折る。
ベッドの脚元に置いた白い室内靴へ、つま先を揃えて入れる。
髪を梳くのは百回。
鏡を見るのは三回。
一回目は顔色。
二回目は姿勢。
三回目は、王立レガリア魔法学院の代表候補として、誰に見られても問題のない顔になっているか。
三回目の鏡で、エレナは微笑む。
完璧な笑み。
冷たすぎず、甘すぎず、隙を見せず、近づきすぎた相手だけを少し遠ざける笑み。
王立代表候補。
白銀の星。
レガリアの嘘つきエース。
そのうち、最後の呼び名だけは公式ではない。
けれど、一番正確だとエレナは思っている。
鏡の中の少女が言う。
「今日も大丈夫」
嘘だ。
大丈夫ではない。
でも、嘘は力になる。
エレナ・フォルティスの欠陥魔法は、嘘をつくほど強くなる。
誰からも忘れられない。
その代わり、本当の自分は誰にも認識されない。
人々はエレナを覚える。
名前を覚える。
顔を覚える。
戦績を覚える。
冷たい言葉を覚える。
完璧な立ち姿を覚える。
嘘を覚える。
けれど、嘘の下で息をしているものは、誰にも届かない。
だから、朝の一言は必要だった。
今日も大丈夫。
そう言えば、魔力の芯が少しだけ整う。
本当ではない言葉が、彼女を支える。
支えてしまう。
レガリアの寮は静かだ。
静かというより、音が管理されている。
廊下を歩く靴音は一定。
扉の開閉は小さく。
挨拶は明るすぎず、暗すぎず。
王立レガリア魔法学院は、最上位校だ。
最上位校の朝は、乱れない。
乱れないように、全員が少しずつ嘘をつく。
「おはようございます、フォルティス様」
廊下で下級生が頭を下げた。
声が少し高い。
緊張している。
けれど、エレナに向ける目は輝いている。
憧れ。
畏怖。
期待。
少しの嫉妬。
全部が、整った形で彼女へ向けられる。
「おはよう。早いのね」
エレナは微笑む。
「今日の基礎訓練、見学してもいいでしょうか」
「ええ。危険区域の外からなら」
「ありがとうございます!」
下級生はぱっと顔を明るくした。
その反応に、エレナは少しだけ目を細める。
かわいい、と思う。
でも、その思いは表に出さない。
表に出すと、相手はもっと近づいてくる。
近づいた相手ほど、エレナの本当の声は聞こえなくなる。
近くにいるのに、遠い。
遠くにいる人より、ずっと遠い。
それを知っているから、エレナは完璧な距離で微笑む。
「無理はしないで」
「はい!」
下級生は嬉しそうに走り出しかけて、すぐに歩調を戻した。
レガリアの廊下では走らない。
その背中を見送りながら、エレナは思う。
彼女は今日、エレナに優しく声をかけられたことを覚えるだろう。
家へ手紙を書くかもしれない。
友人に話すかもしれない。
白銀の星は、思ったより優しかった。
そう記憶するかもしれない。
でも、エレナがその瞬間、少しだけ怖かったことは誰も知らない。
優しさが本当に届いたらどうしよう、と考えたことも。
届かないと知って安心したことも。
誰にも認識されない。
その欠陥は、いつも正確に働く。
朝食の席は、すでに整っていた。
代表候補生専用の長い卓。
白い食器。
銀の食具。
栄養管理された食事。
食事中の会話は自由だが、政治的な話題と他校への過度な侮蔑は禁止。
禁止されていなくても、みんな上手く避ける。
レガリアの生徒は優秀だからだ。
そして、優秀な生徒ほど、自分がどこまで言っていいかを知っている。
「エレナ、おはよう」
向かいの席から声がかかる。
レガリア競技部副主将、ユリウス・ヴェイン。
整った金髪。
整った笑顔。
整った野心。
彼はエレナのことを、たぶん嫌ってはいない。
尊敬している。
警戒している。
利用価値も測っている。
全部を礼儀正しく包んで差し出すことができる人だ。
「おはよう、ユリウス」
エレナは席につく。
「今朝の魔力測定、また記録更新らしいね」
「少しだけよ」
「少し、の基準が違う」
ユリウスは笑った。
「王立代表選抜前に、白銀の星がさらに輝く。新聞部が喜ぶよ」
「記事は控えめにしてほしいわ」
「無理だろうね」
彼はナイフを置き、わざとらしく肩をすくめた。
「君は忘れられない。レガリアの生徒も、王都の観客も、連盟も、新聞部も、下位校の選手たちも」
下位校。
その言葉で、エレナの指がほんの少し止まった。
ほんの少し。
誰も気づかない。
気づいたとしても、意味までは届かない。
「最近、下位校の巡業リーグが少し騒がしいそうね」
エレナは、声を平らにした。
「ああ。カルミアだろう?」
ユリウスはすぐに言った。
その学校名は、食卓の空気を少しだけ変えた。
カルミア魔法学園。
かつては名門。
今は没落校。
欠陥魔法持ちの吹き溜まり。
そう言う者もいる。
ただ、最近は少し違う言い方も混ざり始めた。
負け筋を潰す学校。
旗に嫌われない学校。
危険を名前にする学校。
第七魔法競技部。
そして、ルカ・ヴァレンがいる学校。
その名前を、エレナは口にしない。
口にすると、嘘が崩れそうになるからだ。
「少し勝っているだけでしょう」
エレナは言った。
嘘ではない。
でも、全部ではない。
「少し、ね」
ユリウスは目を細める。
「君がそう言うなら、そうなんだろう。君はカルミアに詳しい」
「昔の話よ」
「ルカ・ヴァレンも昔の話?」
食器の音が、周囲で一瞬だけ減った。
誰も露骨には見ない。
けれど、全員が聞いている。
エレナとルカ。
王立代表候補と、転落した元名門選手。
ルカを潰した勝者。
裏切り者。
冷たい白銀の星。
その物語は、あまりにも覚えられやすい。
エレナは微笑んだ。
「ええ」
短い嘘。
魔力が、静かに強くなる。
胸の奥が冷える。
「昔の話よ」
もう一度言う。
二度目の嘘は、一度目よりよく効いた。
指先に魔力が満ちる。
食卓の空気が、少しだけ引き締まる。
ユリウスは満足そうに微笑んだ。
「さすがだね」
何がさすがなのか、彼は言わない。
言わなくても、周囲には伝わる。
エレナ・フォルティスは揺れない。
過去の相手を前にしても。
カルミアの噂を聞いても。
ルカ・ヴァレンの名前を出されても。
完璧なエース。
冷たい勝者。
白銀の星。
そう認識される。
誰も、嘘をついた時にエレナの喉が少し痛むことは知らない。
誰も、彼女がテーブルの下で指先を握り込んだことを知らない。
誰も、昔の話ではないと叫びたい瞬間があったことを知らない。
認識されない。
だから、魔法は強くなる。
朝食後の基礎訓練は、公開されていた。
見学席には下級生、教師、新聞部、連盟からの視察員がいる。
レガリアの訓練場は美しい。
白い床。
青い境界線。
王冠を模した旗台。
磨かれた防壁。
すべてが観客に見られることを前提に設計されている。
エレナは中央に立つ。
訓練相手は三人。
代表候補の中でも上位の生徒たち。
十分に強い。
普通の学校なら主将級だ。
けれど、今日の彼らの役割は、エレナの完璧さを示すことだった。
エレナはそれを知っている。
彼らも知っている。
観客も、たぶん知っている。
でも、誰も言わない。
言わなければ、訓練になる。
言わなければ、努力になる。
言わなければ、美しい。
「始め」
教師の声。
三方向から魔法が来る。
エレナは一歩も下がらない。
白銀の魔力が床を走る。
嘘を芯にした魔法。
私は怖くない。
私は揺れない。
私はルカ・ヴァレンの名前を聞いても、何も感じない。
嘘が重なる。
魔力が澄む。
相手の攻撃が、白銀の線に触れてほどける。
一人目の足元を凍らせるように止める。
二人目の防壁を薄く裂く。
三人目の魔力弾を、彼自身の影へ落とす。
すべて、規定内。
すべて、美しい。
歓声が上がる。
「エレナ様!」
「白銀の星!」
「今日も完璧だ!」
完璧。
その言葉は、便利だ。
便利すぎる。
何も見なくて済む。
誰かを完璧と呼べば、その人が痛むはずがないと思える。
エレナは微笑む。
観客席へ、少しだけ手を上げる。
下級生が涙ぐむ。
新聞部が記録する。
教師が満足そうに頷く。
連盟視察員が何かを書き込む。
誰からも忘れられない。
この朝も。
この魔法も。
この笑みも。
全部、記録される。
けれど、エレナが三人目の魔力弾を落とした瞬間、ほんの少しルカの風を思い出したことは、誰にも認識されない。
あの人なら、今の癖を見抜いたかもしれない。
そんな思いも。
すぐに消さなければならない。
訓練後、教師が近づいてきた。
レガリア競技部総監督、ヴァイス・グラント。
灰色の髪。
細い眼鏡。
声は穏やかだが、言葉はいつも配置されている。
「素晴らしい朝だった、フォルティス」
「ありがとうございます」
「新聞部には、今日の訓練を代表選抜前の調整として出させる。連盟にも良い印象だ」
「はい」
「ただ、少し魔力の伸びが強すぎた」
エレナは微笑みを保つ。
「制御に問題はありません」
「問題があるとは言っていない。むしろ、良い傾向だ」
ヴァイスは周囲に聞こえない声で続けた。
「今朝、カルミアの名が出たそうだな」
「食堂で少し」
「ルカ・ヴァレンの名も?」
エレナは、ほんの一拍だけ遅れて頷いた。
「はい」
「やはり、君の魔法は反応する」
その言葉は、褒め言葉の形をしていた。
でも、エレナには冷たい器具の音に聞こえた。
「昔の感情が残っているなら、それも使える。代表選抜までに、適切に整えよう」
「整える、とは」
「君が揺れないようにする」
ヴァイスは微笑む。
「正確に言えば、揺れが魔力へ変わるようにする。君はそれができる」
できます。
そう言えば、魔法は強くなる。
できません。
そう言えば、少しだけ楽になるかもしれない。
でも、できませんという本音は、たぶん誰にも届かない。
届かない本音を言うより、届く嘘を言うほうが早い。
エレナは微笑んだ。
「できます」
魔力が静かに澄む。
ヴァイスは満足そうに頷いた。
「君は本当に優秀だ」
優秀。
完璧。
忘れられない。
その言葉たちが、エレナを支える柱になる。
同時に、檻になる。
午後の予定表を受け取る。
戦術会議。
公開取材。
魔力測定。
連盟視察員との面談。
王立代表候補合同訓練。
休憩時間は十五分。
その十五分だけ、エレナは寮の自室へ戻ることを許されている。
自室の扉を閉めた瞬間、彼女は微笑みを消した。
消しても、誰にも見えない。
だから、消せる。
机の引き出しを開ける。
奥の二重底。
そこには、薄い資料束が隠してある。
古代契約。
忘却反応。
名の反射回避。
旗道預託。
そして、ルカ・ヴァレンの欠陥魔法に関する非公開記録。
エレナは指先で表紙に触れた。
触れるだけ。
読む時間はない。
でも、そこにあると確認する必要があった。
「昔の話」
朝食で言った嘘を、もう一度つぶやく。
自室では、魔力はほとんど強くならなかった。
誰にも聞かれていない嘘は、力になりにくい。
それが少しだけ救いだった。
エレナは資料を戻し、二重底を閉じる。
鏡の前に立つ。
一回目は顔色。
二回目は姿勢。
三回目は、誰に見られても問題のない顔。
微笑む。
白銀の星に戻る。
扉を開ければ、誰もが彼女を覚えている。
その完璧な姿を。
その冷たい嘘を。
その輝きを。
でも、扉を閉める前の一瞬、エレナは誰にも届かない声で言った。
「ルカ」
名前は、部屋の中で落ちた。
誰にも認識されないまま。
それでも、彼女は言った。
忘れられない自分が、忘れられた彼の名前を。




