第134話 近くを通る
怖さは、片付けるものではない。
アルフはそう言った。
ラグエッジの第二練習区画。
さっきジャックが排圧板を壊した場所から離れた、比較的静かな訓練場だ。
比較的、という言葉が必要な時点で、あまり静かではない。
壁には衝撃吸収板。
床には黄色い線。
天井には防護網。
隅には教師とラグエッジの副長サラが立っている。
外縁校の生徒たちは、見学という名目で遠巻きに集まっていた。
彼らは隠れない。
堂々と見る。
危険なものを見る学校だから、ということなのだろう。
「怖さは、片付けるものじゃない」
アルフはもう一度言った。
「配置するものだ」
ネルが眉を寄せる。
「怖さを配置って、何」
「怖い場所を決める。怖い理由を決める。怖い時に誰が何を見るか決める。そうすれば、怖さで止まらずに済む」
「それで怖くなくなる?」
「ならない」
即答だった。
ロイが小さく笑う。
「そこは嘘でも、怖くなくなるって言ってほしかったっす」
「嘘はエレナさんの領域です」
クララが真面目に言った。
誰も返せなかった。
エレナの名前が出ると、空気がほんの少しだけ揺れる。
俺の胸の奥も、いつも少し遅れて反応する。
覚えていないのに、反応だけが残っている。
嫌な感じだ。
でも、今はジャックだ。
俺は意識を練習区画へ戻した。
ジャックは中央に立っている。
さっきまでより口数が少ない。
叱られたからではない。
たぶん、謝ったからだ。
ジャックにとって、謝ることは攻撃より難しい。
その難しいことをした後で、また攻撃を撃つ。
それがどれくらい嫌なことなのか、俺には完全にはわからない。
ただ、顔を見れば少しはわかる。
ジャックは自分の手を何度も開閉していた。
「やめるか?」
俺が聞く。
「やめねえ」
「怖いなら」
「怖いのはお前らだろ」
「お前も怖いだろ」
ジャックが俺を睨む。
「俺が?」
「撃つ側も怖いだろ」
「……うるせえ」
否定しなかった。
ネルが少し目を伏せる。
コレットは作戦板を抱きしめるように持っていた。
「まず確認します」
コレットが言う。
「今回の練習は、ジャックくんの攻撃魔法を実戦強度では撃ちません。最低出力です。目標は人ではなく、床の標的板。味方役はルカくん、ネルさん、アルフくん。ただし攻撃軌道から一定距離を取ります」
「俺も入るのか」
ネルが俺を見る。
「ルカが近くに立つなら、私も立つ」
「理由になってない」
「なる」
短い。
でも、ネルの中では決定している顔だった。
アルフは床に白い線を引いている。
手で測り、線を置く。
ジャックの位置。
標的板。
俺の位置。
ネルの位置。
アルフ自身の位置。
そして、黄色い旗イエロウが近づいてくる可能性のある危険経路。
「イエロウは入れないのか」
ジャックが聞いた。
「初回は入れません」
コレットが答える。
「旗の反応まで入れると複雑すぎます」
「でも、試合じゃ入る」
「だから段階を踏みます」
「面倒だな」
「面倒にします」
コレットの声は柔らかいが、譲らない。
「ジャックくんを信じる準備だからです」
さっき俺が言った言葉を、部長が引き取った。
ジャックは顔をしかめる。
「それ、流行らせるな」
「必要なら流行らせます」
「最悪だ」
ロイが練習区画の外で手を上げた。
「音合図、試します?」
「試す」
アルフが言う。
「ただし大音量ではなく、小音量の五種類。山岳校で作った合図を使う」
「了解っす」
ロイは指を一本立てた。
「一音目、配置確認」
こつ。
小さな音。
ロイの魔法にしては信じられないくらい小さい。
でも、ラグエッジの競技棟ではよく響いた。
「二音目、防御方向確認」
こつ、こつ。
アルフが片手を上げ、一方向結界の向きを示す。
まだ発動はしない。
結界を張ると、ジャックの攻撃軌道が変に寄る可能性があるからだ。
「三音目、風前確認」
ロイが三度鳴らす。
俺は目を閉じない。
閉じると、見えなくなる。
風を見る。
いや、正確には、風が生まれる前の空気を見る。
ジャックの魔力が手のひらに集まる前、周囲の埃がどう動くか。
床の白線の端が、わずかに震えるか。
ネルの髪が揺れる方向。
アルフの結界符が鳴る前の薄い震え。
魔法を使わずに、見る。
記憶を賭けずに、見える範囲を見る。
「ルカ」
コレットが聞く。
「風前確認」
「異常なし」
俺は答えた。
その言葉を言った瞬間、少しだけ喉が乾いた。
異常なし。
本当にそうか。
見落としていないか。
ジャックの攻撃は、見落としを壊す。
一番壊してはいけないものへ寄る。
今、壊してはいけないものは何だ。
俺の肩か。
ネルの足か。
アルフの結界符か。
コレットの信頼か。
ジャック自身が、もう一度謝れるかどうかか。
考えすぎると、怖さは増える。
でも、アルフは片付けるなと言った。
怖さを配置する。
俺は自分の位置を確認した。
白線の内側。
攻撃予想線から二歩。
逃げる方向は右。
ネルは左。
アルフは正面斜め後ろ。
「四音目、発射許可待ち」
こつ、こつ、こつ、こつ。
ロイの音が鳴る。
ジャックの手に魔力が集まった。
小さい。
最低出力。
それでも、嫌な圧がある。
ジャックの魔力は、真っ直ぐ集まらない。
手のひらで少し暴れ、周囲の壊れやすいものを探すように揺れる。
俺の視界の端で、ネルが息を吸った。
怖い。
たぶん、みんな怖い。
ジャックも怖い。
でも、誰もやめろとは言わなかった。
「五音目、発射」
ロイが最後の音を鳴らした。
こつ。
ジャックが撃つ。
魔力弾は、標的板へ向かわない。
最初から少し曲がる。
俺の近くへ来る。
わかっていた。
白線にそう書いてある。
アルフが手帳にそう記録した。
コレットが許可した。
ロイが音を鳴らした。
俺が風前確認をした。
ネルが隣にいる。
それでも、体は逃げたくなる。
近い。
近い。
近い。
魔力弾が俺の前を通った。
肩ではない。
胸でもない。
白線の上。
予想線より、半歩こちら。
俺は動かなかった。
ネルも動かなかった。
アルフの手が上がる。
一方向結界。
薄い壁が、魔力弾の左側だけを受ける。
弾は少し押され、標的板の端に当たった。
ばん、と音が鳴る。
最低出力でも、標的板が大きく揺れた。
場内が静かになる。
誰もすぐには喋らない。
俺は息を吐いた。
吐いて初めて、息を止めていたことに気づいた。
「……近い」
ネルが言った。
「想定より半歩」
アルフが即座に記録する。
「左結界で押せたが、初速時点でルカ側に寄っている」
「怖い」
ロイが外から言った。
「見てるだけでも怖いっす」
ジャックは標的板を見ていた。
「当たってない」
「当たってない」
俺は頷いた。
「でも近かった」
「知ってる」
「謝らなくていい。今のは許可ありだ」
ジャックの顔が少し歪んだ。
謝らなくていい、と言われるほうが難しそうだった。
「どうだった」
俺が聞く。
「何が」
「撃つ側」
ジャックはしばらく黙った。
ラグエッジの見学者たちも静かにしている。
サラも口を挟まない。
ジャックは手を開き、閉じた。
「……気持ち悪い」
低い声。
「いつもより?」
「いつもは、撃ってから周りが避ける。避ける前提で撃つ。今は、お前らが避けないってわかってる」
「うん」
「だから、余計に寄る気がした」
アルフが顔を上げる。
「重要だ」
「何が」
「味方が避けないとわかると、魔法が壊してはいけないものをより強く認識する可能性がある」
「最悪じゃねえか」
「最悪に近い」
アルフは淡々と言う。
「だから使える」
ジャックが本気で嫌そうな顔をした。
「お前、時々サラよりラグエッジっぽいぞ」
「褒め言葉か」
「悪口」
「記録しておく」
「するな」
少しだけ笑いが起きた。
だが、緊張はまだ消えていない。
練習は一発では終わらない。
怖さを配置するなら、何度も確認する必要がある。
コレットが作戦板に数字を書き込む。
「二回目は、ルカくんの位置を半歩下げます。ネルさんはそのまま。アルフくんは結界方向を左ではなく、斜め左前へ」
「私も動かない?」
ネルが聞く。
「動かないでください。動く役は次の段階です」
「了解」
「ジャックくん」
「何だ」
「撃つ前に、対象を言ってください」
「標的板」
「それを、発射前に声に出してください」
ジャックが嫌そうに眉を寄せる。
「ださくないか」
「必要です」
「標的板を狙います、って?」
「はい」
「だっさ」
「ださくしてください」
コレットは真面目だった。
「言葉で狙いを固定します。魔法が一番壊してはいけないものへ寄るなら、あなたの意識を先に標的へ置きます」
「そんなので変わるか」
クララが手を上げる。
「古代旗術式では、名指しは誘導条件になります。現代魔法でも、宣言によって魔力の初期方向が安定する例はあります」
「理論で殴るな」
「許可を得ていますか」
「誰の」
「理論で殴る許可です」
「得てねえよ」
「では控えます」
クララは本当に一歩下がった。
ジャックは少し調子を崩された顔をした。
その顔を見て、俺は少し安心した。
怒っているだけのジャックより、調子を崩されているジャックのほうが安全に見える。
「二回目、準備」
アルフが言う。
ロイが指を立てる。
一音目。
配置確認。
俺は半歩下がる。
白線が足元にある。
二音目。
防御方向確認。
アルフの片手が斜め左前を示す。
三音目。
風前確認。
俺は空気を見る。
さっきより揺れが少ない。
ジャックの魔力はまだ暴れている。
でも、彼の視線が標的板へ固定されている。
「風前確認、さっきより安定」
俺が言う。
四音目。
発射許可待ち。
ジャックが口を開く。
「標的板を狙う」
ぶっきらぼうな声。
でも、声に出した。
五音目。
発射。
魔力弾が走る。
また曲がる。
俺の近くへ寄る。
ただし、さっきより少し遠い。
予想線の上。
アルフの結界が斜めに受ける。
弾は標的板の中央ではなく、右端に当たった。
ばん。
一回目より軽い音。
ロイがすぐに言う。
「音、浅いっす! 一回目より威力落ちてます!」
「宣言で初期方向は安定。ただし威力が落ちた」
アルフが記録する。
「ジャック」
「何だよ」
「今のほうが怖さは少なかった」
俺が言うと、ネルも頷いた。
「近いけど、来る場所がわかった」
「でも弱い」
ジャックが不満そうに言う。
「弱くなった」
「初回練習では成功です」
コレットが言う。
「弱いほうが?」
「安全に近づきました」
「勝てねえだろ」
「勝つ練習は次です」
ジャックは舌打ちした。
でも、さっきより目が荒れていない。
怖さが消えたわけではない。
ただ、怖い場所が線になった。
白線。
音。
宣言。
結界方向。
風前確認。
それでも完全には足りない。
ジャックの攻撃は、味方の近くを通る。
それは変わらない。
ラグエッジの見学者の一人が、小さく言った。
「あれを使うのかよ」
別の生徒が答える。
「使うんだろ。怖いって言いながら」
俺には、その言葉が悪口には聞こえなかった。
驚きだ。
あるいは、少しの敬意。
ジャックは聞こえていないふりをした。
でも、耳は少し赤い。
イエロウは第二練習区画の外にいた。
まだ入れないよう、サラが黄色い誘導線を張っている。
だが、旗は線の外ぎりぎりまで寄ってきていた。
危険の匂いを嗅ぐように。
サラが苦笑する。
「イエロウが入りたがってる」
「入れないでください」
コレットが即答した。
「もちろん」
「もちろんって顔ではありませんわ」
レイナが睨む。
「ちょっとだけ見たい顔です」
リリィが冷静に言った。
サラは否定しなかった。
ラグエッジの人間は、危険を見たがる。
だが、俺たちは今、危険を見せ物にする練習をしているわけではない。
怖いまま、配置している。
「三回目」
アルフが言った。
「今度は俺が結界を張らない」
「は?」
ジャックとネルが同時に声を上げた。
アルフは続ける。
「張らない場合の寄りを確認する。もちろん出力はさらに下げる」
「お前が一番ラグエッジだろ」
ジャックが言う。
「悪口として記録済みだ」
「更新しろ。強めの悪口だ」
アルフは無表情で頷いた。
「強め、と追記する」
ロイがまた笑いそうになり、必死でこらえた。
俺も少しだけ笑った。
緊張の中で笑えるなら、まだ大丈夫だ。
でも、忘れてはいけない。
この練習は危ない。
ジャックの攻撃は、味方の近くを通る。
それは欠陥で、武器で、怖さで、彼が問題児と呼ばれてきた理由だ。
三回目の音が鳴る。
配置確認。
防御方向確認なし。
風前確認。
俺は空気を見る。
さっきより軽い。
ジャックの出力が下がっている。
それでも、魔力の端が俺のほうを探す。
「風前確認、寄りあり。許容内」
自分で言ってから、手のひらに汗がにじむ。
許容内。
怖さを、言葉で線の中に入れる。
四音目。
ジャックが言う。
「標的板を狙う」
五音目。
発射。
弾は弱い。
でも、近い。
結界がないぶん、まっすぐ俺の側へ寄る。
白線の内側。
許容内。
許容内。
そう思っても、足が動きそうになる。
ネルの指が俺の袖を一瞬掴んだ。
逃げるためではない。
止めるためでもない。
そこにいる、と知らせるため。
弾が通る。
俺たちの前を抜け、標的板のさらに左端に当たった。
乾いた音。
弱い。
でも、通った。
俺は息を吐く。
ネルも息を吐く。
ジャックは撃った姿勢のまま固まっていた。
「今の」
彼が言う。
「当てようと思えば、当たった」
誰も笑わなかった。
ジャックの声は冗談ではなかった。
恐怖を共有するための、事実だった。
俺は頷く。
「たぶん」
「なのに動かなかったのか」
「動くなって決めた」
「馬鹿か」
「たぶん、かなり」
アルフの真似をして言うと、ネルが少し笑った。
ジャックは笑わなかった。
でも、顔を伏せた。
「……やりにくい」
「だろうな」
「お前らが避けないと、俺が避けさせたくなる」
アルフが手帳に書き込む。
「重要だ」
「またかよ」
「ジャック自身に、味方を避けさせたい意識がある。魔法は壊してはいけないものへ寄るが、本人の意識はそれを押し返そうとしている」
クララが頷いた。
「欠陥魔法は本人の本質と逆に見える動きをする場合があります。ガレスさんの壊す魔法が、守りたい意思と衝突していたように」
ガレスが短く言う。
「合ってる。嫌だ。両方」
ジャックはガレスを見た。
「それ、お前のやつだろ」
「貸す」
「いらねえ」
「便利」
「便利って言うな」
場内の空気が少しだけ柔らかくなった。
だが、その瞬間、イエロウが誘導線を越えようとした。
黄色い旗が、第二練習区画の入口へ滑り込む。
サラがすぐに線を張り直す。
「こら、まだだ」
イエロウは不満そうに揺れた。
旗に不満があるのかはわからない。
でも、そう見えた。
危険へ寄る旗は、ジャックの練習に引き寄せられている。
俺たちの怖さに。
ジャックの攻撃に。
味方の近くを通る軌道に。
次の段階では、あの旗も入る。
その時、怖さはもっと増える。
けれど、今日の三回でわかったことがある。
怖さは消えない。
でも、言葉にできる。
線にできる。
音にできる。
結界の方向にできる。
誰かの袖を掴む指にできる。
「今日はここまでにしましょう」
コレットが言った。
ジャックが顔を上げる。
「もう?」
「もう、です。これ以上は怖さが雑になります」
その言い方に、サラが感心したように頷いた。
「いい判断」
「ありがとうございます」
「でも、うちならあと三発撃つ」
「だから今日はここまでです」
コレットが即答する。
サラは楽しそうに笑った。
ジャックは不満そうだったが、反論しなかった。
たぶん、疲れている。
攻撃を三発撃っただけ。
それも最低出力。
でも、ジャックにとっては、いつもの何倍も神経を使ったはずだ。
味方が避けない。
自分が避けさせたくなる。
近くを通る。
当てない。
狙いを声に出す。
怖いと言われる。
謝らなくていいと言われる。
全部、慣れていないことだ。
練習区画を出る時、イエロウがまた近づいてきた。
ジャックの足元ではなく、今度は俺とネルの間。
さっき魔力弾が通った空間のあたりで揺れる。
ネルが嫌そうに眉を寄せる。
「そこ、危ないとこ」
イエロウは揺れる。
「わかってて来てるんだよね」
また揺れる。
ネルはため息をついた。
「嫌な旗」
「だろ」
ジャックが言う。
「でも、逃げないんだな」
ネルが返した。
ジャックは少し黙った。
そして、小さく言った。
「逃げないのと、信じてるのは違うだろ」
「違うね」
ネルは頷く。
「だから、次はそこじゃない?」
「何が」
「逃げないだけじゃなくて、信じるほう」
ジャックは露骨に嫌そうな顔をした。
「お前も面倒なこと言うようになったな」
「第七部にいるから」
「最悪の環境だ」
「今さら」
ネルは笑った。
ジャックは言い返さなかった。
イエロウは危険な空間で揺れている。
ジャックの攻撃が通った場所。
俺たちが動かなかった場所。
怖さが、まだ残っている場所。
その黄色い旗を見ながら、俺は思った。
近くを通ることと、近くにいることは違う。
ジャックの攻撃は、味方の近くを通る。
俺たちは、ジャックの近くにいる。
その二つが同じになるには、まだ時間が必要だった。




