第133話 危険へ寄る旗
ラグエッジの競技棟は、音が近かった。
天井が低いわけではない。
壁が狭いわけでもない。
むしろ、競技場そのものは広い。
ただ、どこかで鳴った音が、逃げずに戻ってくる。
防壁に当たった魔力弾の音。
足場を踏む音。
警告鐘。
誰かの笑い声。
教師の短い指示。
全部が場内で跳ね返り、こちらの耳に届く。
ロイが少し嫌そうな顔をした。
「ここで俺が鳴らしたら、めちゃくちゃ響きそうっす」
「響くよ」
サラが答える。
「ラグエッジの競技棟は、危険音を拾いやすいように作ってる。壊れる音、圧が漏れる音、旗が急に走った音。聞こえないと遅れるから」
「俺の音、危険音扱いっすか」
「音量による」
「だいたい危険っすね」
「じゃあ便利」
ロイは複雑そうに笑った。
「便利って言われると、ちょっと嬉しいっす」
「ロイ、すぐ懐く」
ネルが呆れる。
「褒められたら懐くのは普通じゃないっすか?」
「危険音扱いは褒めてない」
「でも便利って」
「そこだけ拾うな」
そのやり取りの間も、ジャックは競技場の中央を見ていた。
黄色い旗、イエロウ。
裂けた警告帯のような旗は、競技場の低い位置を漂っている。
旗台から離れ、わざわざ危ない場所を選んで動く。
右側の訓練区画では、二人のラグエッジ生が短い魔力刃を打ち合っていた。
防壁は薄い。
教師は止めない。
刃が弾かれ、床に火花が散る。
イエロウは、その火花へ近づいた。
まるで興味を持った子供みたいに。
いや、違う。
子供というより、火傷した場所をもう一度指で触る人間に似ている。
痛いと知っていて、確かめに行く。
危ないと知っていて、目をそらさない。
「あれ、触れたら燃えるんじゃないの?」
ネルが言った。
「燃えるよ」
サラは平然と答えた。
「燃えるのかよ」
「少しならね。だから火に強い繊維で編んでる」
「そういう問題?」
「そういう問題。危ないものへ寄る旗だから、危ないものへ寄っても終わらないように作る」
クララが静かに一歩前へ出た。
「近づく理由は、競技設計ですか。それとも旗の術式由来ですか」
「両方、らしい」
サラが答える。
「詳しいことは顧問に聞いて。あたしらは、あれが危険なほうへ寄ることだけ知ってればいい」
「知っていればいい、では足りません」
クララは少しむっとした。
「旗の性質が術式由来なら、危険への接近は逃走ではなく確認行動です。確認行動なら、誘導条件が違います」
「研究校みたいなこと言うね」
「研究校には残りませんでした」
「なんで?」
「人の許可なく読みそうな人がいたからです」
サラは一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「カルミア、変なの多いね」
「否定できませんわ」
レイナがため息をつく。
イエロウが火花の縁をかすめた。
ぱち、と音がする。
旗の端が小さく焦げる。
それでも逃げない。
焦げた場所を一度揺らし、今度は反対側の練習区画へ向かった。
そこでは防壁の耐久試験が行われていた。
魔力圧を上げ、壁がどこで割れるか見る訓練。
普通の旗なら、割れる前に遠ざかる。
イエロウは、割れそうな場所へ寄る。
防壁のひびを覗き込むように。
「あれ、試合でもそう動くのか」
俺が聞く。
「もちろん」
サラは頷く。
「相手の危険な攻撃。味方の危ない癖。壊れかけの足場。暴発寸前の魔力圧。イエロウはそういうところへ行く。だから捕まえにくい」
「普通は危険から逃げる旗を追う」
アルフが言う。
「あれは、危険へ向かう旗を止める必要がある」
「そう」
サラは少し楽しそうに頷いた。
「逃げる相手じゃない。寄る相手。しかも、こっちが危険を消すと興味をなくして別の危険へ行く」
「厄介だな」
「ラグエッジの旗だからね」
アルフは視線をイエロウから外さず、手帳を開いた。
彼がこういう顔をする時は、もう作戦を組み始めている。
だが、ジャックは違った。
イエロウを見ているが、作戦を考えている顔ではない。
嫌なものを見ている。
でも、目を離せない。
「ジャック」
俺が呼ぶ。
「何だ」
「嫌いか」
「嫌いだな」
「面白いんじゃなかったのか」
「嫌いで面白いって昨日言っただろ」
「昨日じゃない。さっきだ」
「細かい」
ジャックはイエロウを睨んだまま言う。
「ああいうのが一番面倒なんだよ。危ないってわかってるところに自分から来るやつ」
「お前みたいだから?」
「二回目だぞ、それ」
「答えてない」
ジャックは舌打ちした。
「俺は寄ってねえ。向こうが勝手に置く」
「危ない場所に?」
「問題児の席に」
短い答え。
俺は何も言わなかった。
ジャックは少しだけ続けた。
「でも、あの旗は自分で行く。わざわざ火花に近づく。割れる壁を見に行く。馬鹿だろ」
「ラグエッジでは強いんだろ」
「強くても馬鹿だ」
「それもお前みたいだな」
「殴るぞ」
「工具箱を持ったままか?」
ジャックは自分の手を見た。
ガレスの工具箱。
まだ持っている。
ガレスはいつの間にか少し離れ、競技場の床の継ぎ目を見ていた。
返せと言わない。
持たせたままだ。
ジャックはまた舌打ちした。
「これ、いつまで持つんだよ」
「落とすまで」
ガレスが遠くから答える。
「落とさねえよ」
「じゃあ、しばらく」
「お前、意外と性格悪いな」
「少し」
ガレスが真顔で認めたので、ロイが笑った。
その時、競技場の奥で警告鐘が鳴った。
短く二回。
サラの表情が変わる。
「防壁割れる」
その声と同時に、耐久試験区画の防壁に大きなひびが入った。
教師が手を上げる。
生徒が魔力を落とす。
普通ならそれで終わる。
だが、イエロウがひびへ寄った。
速い。
さっきまでの漂う動きではない。
危険がはっきりした瞬間、旗はそちらへ走る。
裂けた黄色が床すれすれを飛び、割れかけた防壁の内側へ潜り込もうとした。
「止めろ!」
教師の声。
ラグエッジの生徒が動く。
でも、間に合わない。
防壁が割れれば、内側に溜まった圧が外へ吐き出される。
イエロウはその圧の真正面に行く。
燃えるだけでは済まない。
反射的にネルが踏み出した。
ミラも動こうとする。
だが、サラが叫ぶ。
「入るな! 訓練区画の圧が読めない!」
足が止まる。
一瞬。
本当に一瞬だけ、全員が迷った。
その時、ジャックが工具箱をガレスへ投げた。
「持て!」
ガレスが受け取る。
重い工具箱が、鈍い音を立てて彼の胸に収まる。
同時に、ジャックの手が上がった。
「撃つな!」
コレットが叫ぶ。
だが、ジャックは撃った。
魔力の弾が走る。
真っ直ぐではない。
いつも通り、味方の近くへ寄る癖を持った攻撃。
その場にいた味方は、俺たちだ。
ジャックの弾は、俺の肩の横をかすめるような軌道で走った。
近い。
近すぎる。
風圧が頬を打った。
ネルが息を呑む。
アルフの手が動きかける。
でも、結界は出なかった。
間に合わなかったのではない。
出せなかった。
まだ配置が決まっていない。
まだ、味方の近くを通る攻撃を受ける準備がない。
魔力弾は俺の横を抜け、防壁のひびではなく、その手前の床に当たった。
床の継ぎ目。
そこにあった緊急排圧板が砕ける。
圧が下へ逃げた。
割れかけていた防壁が、ぎりぎりで崩れずに持ち直す。
イエロウは圧の真正面へ入る前に、ふわりと跳ねた。
危険が消えたからではない。
危険の流れが変わったから、追う先を失ったのだ。
黄色い旗は空中でくるりと回り、ジャックの魔力弾が通った跡へ寄ってきた。
壊れた排圧板。
俺の肩のすぐ横を抜けた軌道。
危険だった場所。
イエロウがそこへ近づく。
場内が静まった。
最初に声を出したのは、サラだった。
「今の、誰が許可した」
低い声。
さっきまでの荒っぽい笑いはない。
ラグエッジの副長の声だった。
ジャックは肩で息をしている。
「間に合っただろ」
「誰が許可したって聞いてる」
「旗が突っ込んだ」
「訓練区画の手順はこっちにある。あんたの攻撃じゃない」
サラが一歩近づく。
「しかも、味方の横を通した」
ジャックは答えない。
俺は自分の肩に手を当てた。
当たってはいない。
でも、近かった。
ものすごく近かった。
頬にまだ風圧の感触がある。
ネルが俺の前に出る。
「ルカ、大丈夫?」
「当たってない」
「そういう話じゃない」
声が硬い。
ロイも笑っていない。
レイナは顔色が悪い。
リリィはグレイを抱き上げて、ジャックを睨んでいた。
コレットは震える手で資料を握っている。
ガレスは工具箱を持ったまま、じっとジャックを見ていた。
アルフだけが、床の壊れた排圧板と俺の位置を交互に見ている。
怒っていないわけではない。
ただ、怒る前に記録している。
「ジャック」
俺は言った。
声が少し遅れて出た。
「何だよ」
「今のは、助かった」
ジャックの目が少し動いた。
「だろ」
「でも、怖かった」
彼の顔が固まる。
俺は続けた。
「当たらなかった。排圧板を壊した。旗も助かった。判断としては間違ってないかもしれない」
「なら」
「でも、俺はお前が俺の横を通すって知らなかった」
場内の音が、遠くなった気がした。
これは責めている。
たぶん、責めるべきだ。
助かったから終わりにしたら、次も同じことをする。
次は、当たるかもしれない。
あるいは、当たらなくても、誰かがジャックを信じられなくなる。
「信じる準備がないまま、撃たれた」
俺は言った。
「それは、怖い」
ジャックは何も言わない。
言い返すと思った。
いつもなら、言い返す。
けれど彼は、俺の肩を見ていた。
自分の攻撃がかすめた場所を。
それから、床の排圧板を見る。
壊すべき場所は壊した。
一番壊してはいけないものには当てなかった。
だが、近すぎた。
近くを通ったのは、魔法の癖だけではない。
彼が、俺たちに知らせなかったからだ。
「……悪い」
ジャックが言った。
小さな声だった。
ロイが目を丸くする。
ネルも少し驚いた顔をした。
ジャックはすぐに顔をそらす。
「今のは、悪い」
サラが息を吐いた。
「謝れるなら、まだまし」
「うるせえ」
「うるさいのはあんたの攻撃」
ロイが小さく手を上げた。
「それ、俺の担当っす」
「張り合うな」
ネルが突っ込む。
少しだけ空気が戻った。
でも、完全には戻らない。
戻してはいけない。
今の怖さを、なかったことにしてはいけない。
イエロウが、壊れた排圧板の近くで揺れている。
黄色い旗は、ジャックの攻撃跡に興味を持っていた。
危険へ寄る旗。
それは、ジャックの攻撃にも寄る。
つまり、試合ではジャックが撃つたびに、イエロウは近づくかもしれない。
危ない。
ただし、利用できる。
アルフが手帳を閉じた。
「ジャック」
「何だよ」
「今の軌道を、もう一度出せるか」
「は?」
ネルが叫びかける。
コレットも驚いた顔をした。
アルフは続ける。
「撃てと言っていない。記録する。ルカの横を通った角度、排圧板に当たった位置、イエロウの反応。攻撃軌道をこちらで使うなら、まず危険を分解する必要がある」
「分解って」
「怖かった、で止めない。助かった、でも止めない。両方記録する」
アルフの視線が俺に向く。
「ルカ、肩の位置を覚えているか」
「だいたい」
「ネル、風圧で動いた髪の向きは」
「見てた。嫌なくらい」
「ロイ、音は」
「最初の破裂音と、床に当たった音、別で覚えてるっす」
「ガレス、排圧板の壊れ方は」
「中心じゃない。端を抜いた」
「クララ、イエロウの動きは」
「危険発生点ではなく、危険経路へ移りました。攻撃跡を確認しています」
アルフは頷いた。
「なら、練習できる」
ジャックは呆れたように言った。
「お前ら、怖くなかったのかよ」
ネルが即答した。
「怖かった」
ロイも頷く。
「めちゃくちゃ怖かったっす」
レイナは腕を組む。
「不愉快なほど怖かったですわ」
リリィが続ける。
「二度と無許可でやったら、グレイに靴紐を全部噛ませます」
グレイが任せろと言いたげに鳴いた。
ガレスは短く言う。
「怖い」
ジャックは言葉を失った。
俺は肩を回しながら言った。
「だから、次は怖い理由を先に置く」
「意味わかんねえ」
「俺もまだわかってない」
アルフが補足する。
「怖い場所を全員で知る。知らない怖さは、信頼を壊す。知っている怖さは、配置できる」
サラが腕を組んだ。
「面白いね、カルミア」
「面白がる場面ではありませんわ」
レイナが睨む。
「でも面白いよ」
サラはイエロウを見た。
「危険へ寄る旗と、危険へ寄る攻撃。普通なら最悪。でも、あんたらはそれを分解するつもりなんだ」
「普通なら?」
俺が聞く。
「普通の学校なら、ジャックを撃たせない」
サラは言った。
「ラグエッジなら、撃たせてから痛い目を見る。カルミアは、怖いって言ってから使うんだね」
その言い方が正しいのかは、わからない。
でも、たぶん近い。
俺たちは強いからジャックを使うのではない。
怖くないから隣に立つのでもない。
怖い。
だから、怖い場所を記録する。
怖いまま、信じる準備をする。
イエロウが壊れた排圧板から離れた。
今度はジャックへ近づく。
黄色い旗が、彼の足元の少し前で揺れた。
危険なものを見に来る旗。
ジャックは嫌そうな顔をした。
「来んな」
イエロウは来る。
「来んなって」
さらに来る。
ジャックは後ずさりしかけて、止まった。
逃げると、旗は追うかもしれない。
彼はその場に立ったまま、低く言った。
「俺を見ても、面白くねえぞ」
イエロウは答えない。
ただ、裂けた黄色を小さく揺らした。
俺にはそれが、面白いかどうかを確かめているように見えた。
危険。
問題児。
攻撃役。
その表面だけではなく、今ここで謝ったジャックを。
怖いと言われて、黙ったジャックを。
工具箱を落とさなかったジャックを。
イエロウが、見に来ている。
ジャックはしばらく旗を睨み返していた。
それから、小さく吐き捨てる。
「嫌な旗だ」
今度は誰も、似ているとは言わなかった。
アルフが手帳を開き直す。
「では、練習の前提を作る」
「今すぐかよ」
ジャックが言う。
「今の怖さを忘れる前に」
アルフは淡々と言った。
「ジャックの攻撃を、味方の近くへ通す。ただし、通る位置を味方が知っている状態で」
コレットが深呼吸した。
「許可制にします。合図なしの攻撃は禁止。全員の配置確認、アルフくんの防御方向確認、ロイくんの音合図、ルカくんの風前確認。その後だけ」
「俺の風前確認まで入るのか」
「入れます」
コレットは珍しく強く言った。
「ルカくんが近くに立つなら、絶対に必要です」
俺は頷いた。
魔法を使うわけではない。
ただ、風の前を確認する。
危険が来る前の、空気の揺れ。
俺がまだ失わずに使える観察。
ジャックは顔をしかめた。
「大げさだろ」
「大げさにする」
俺は言った。
「お前を信じる準備だからな」
ジャックは黙った。
返事の代わりに、イエロウを見た。
黄色い旗は、危険なもののそばで揺れている。
俺たちは、その危険を見ないふりはしない。
ジャックの攻撃を使うなら、怖さごと使う。
その日の練習方針は、そこで決まった。




