第131話 問題児の名前
フォルジアを出る朝、ガレスは工具箱を自分で持っていた。
いや、正確には、ジャックが一度持とうとして、ガレスがそれを受け取り直した。
「重いぞ」
ジャックが言った。
「知ってる」
ガレスは短く返した。
「昨日まで俺に持たせてただろ」
「昨日までだ」
「急に信用なくすなよ」
「なくしてない」
ガレスは工具箱の取っ手を握ったまま、少しだけ困った顔をした。
「今日は、自分で持つ」
ジャックは文句を言いかけて、やめた。
たぶん、昨日の試合でガレスが言った言葉のせいだ。
ここは壊させない。
あの言葉は、フォルジアの競技場に残ったままだった。俺たちが列車に乗っても、耳の奥でまだ小さく鳴っている。
からん。
からん。
守った破片の丸い音。
壊す力で、壊さない場所を決めた音。
その余韻の中で、ジャックだけが少し落ち着かなかった。
ガレスが話すようになったから、というだけではない。
次の巡業先が発表された瞬間から、ジャックの肩の位置が変わっていた。
ラグエッジ外縁魔法学院。
王都からも、研究都市からも、貴族校の白い庭からも遠い、リーグ外縁部の学校。
地図上では端にある。
でも、競技では端ではない。
強い。
荒い。
失格も多い。
怪我も多い。
そして、危険な選手を危険なまま使うのがうまい。
コレットが列車の作戦机に資料を並べながら、そう説明した。
「ラグエッジは、標準型のきれいな魔法より、実戦で崩れない魔法を評価します。だから、欠陥魔法持ちも多いです」
「いい学校じゃないか」
ネルが言う。
「私たちを馬鹿にしないなら、だいたいいい学校」
「そこは判断が雑ですわ」
レイナが眉を寄せた。
「荒い学校ほど、馬鹿にする時も直接ですのよ。貴族校より言葉が綺麗ではないぶん、殴られた気分になりますわ」
「貴族校の言葉は綺麗だったか?」
「綺麗でしたわよ。最悪でしたけれど」
リリィが紅茶のカップを持ったまま、資料を覗き込む。
「ラグエッジ。元々は境界警備隊の訓練所にくっついた学校ですね。校則より現場判断を重視。負傷率は高め。試合の抗議件数も高め。観客の声も大きめ。嫌ですね」
「最後だけ主観だろ」
「全部主観です」
「言い切るな」
ロイは窓の外を見ていた。
「外縁って、ほんとに外なんすね。線路の横、ずっと防護柵がありますよ」
列車の窓の外には、都市の整った石畳ではなく、乾いた土と黒い柵が続いている。
柵の向こうには、古い競技場跡のようなものがいくつも見えた。
壊れた観覧席。
半分埋まった旗台。
魔法で焦げた地面。
捨てられたのではなく、使われ続けた末に古くなった傷跡。
フォルジアの傷とは違う。
あそこは壊れたものを手元に集める街だった。
ここは、壊れた場所をそのまま踏んで進む土地に見えた。
「ジャック」
コレットが資料の一枚を持ち上げる。
「ラグエッジには、あなたの前の学校と試合をした記録があります」
車内の空気が少し変わった。
ジャックは椅子の背に体重を預け、窓ではなく天井を見た。
「へえ」
軽い返事だった。
軽すぎる。
「へえ、じゃないでしょ」
ネルが言う。
「関係あるの?」
「あるんじゃねえの」
「自分の話でしょ」
「だったら余計に、俺が知ってる」
ジャックは笑った。
笑ったが、目はあまり笑っていない。
俺はその表情を見て、少しだけ嫌な感じがした。
怒っている顔ではない。
傷ついている顔でもない。
もっと慣れた顔だ。
雨が降ると知っている人間が、空を見上げもしない時の顔。
どうせ濡れる。
そう決めている顔。
「記録には、詳細が残っていません」
コレットが言う。
「ただ、ラグエッジ側の部誌に、あなたらしき選手の名前が出ています」
「らしき?」
アルフが聞いた。
「正式名じゃないんです。通称で」
コレットは少しためらった。
部長として、読むべきか読まないべきか迷っている顔。
でも、ジャックは先に言った。
「危険砲か」
車内が静かになった。
ロイが小さく息を飲む。
リリィがカップを置く音だけがした。
「なんだよ。その顔」
ジャックが言う。
「知られてるあだ名だ。珍しくもない」
「珍しくないわけないだろ」
ネルが低く言った。
「危険砲って、悪口じゃん」
「競技者の評価だろ。危険な攻撃役。わかりやすい」
「自分で言うな」
「他人に言われる前に言っただけだ」
ジャックは肩をすくめる。
その動きが自然すぎて、腹が立った。
俺ではなく、たぶんネルが先に怒った。
「あんた、慣れすぎ」
「慣れて悪いか」
「悪い」
「じゃあ、どうしろってんだよ。毎回新鮮に傷つけってか」
ネルは言葉に詰まった。
ジャックは勝ったような顔をしなかった。
ただ、話が終わった顔をした。
こういう場所で彼はいつも上手い。
怒鳴る時は雑なのに、これ以上踏み込ませない時だけは妙に正確だ。
「部誌には、こう書かれています」
コレットは声を整えた。
「『味方の横を通す攻撃を恐れない。本人の制御より、周囲の回避能力に依存する。危険。ただし、当たれば戦況が変わる』」
「合ってる」
ジャックが即答した。
「合ってるで済ませるな」
俺は言った。
ジャックがこっちを見る。
「何だよ、ルカ」
「その書き方だと、お前以外は避ける道具みたいだ」
「実際、避けられない奴と組むと危ない」
「それは事実だ」
アルフが静かに言った。
ネルが睨む。
「アルフ」
「ただし、事実の置き方が雑だ」
アルフは資料を受け取り、目を通す。
「ジャックの攻撃が味方の近くを通るなら、味方は避けるだけでは足りない。攻撃の近くにいる理由を決める必要がある」
「理由?」
ロイが聞く。
「通り道を作る役、目標を誤認させる役、当たってはいけない方向を閉じる役。近くにいる者が全員、逃げるだけなら危険だ。役割を持てば、危険は道になる」
「道って便利な言葉だな」
ジャックが皮肉っぽく言う。
「便利なほど難しい」
アルフは表情を変えなかった。
「だから練習が必要だ」
「俺の攻撃を味方の近くで練習するって?」
「そうだ」
「馬鹿か」
「たぶん、かなり」
アルフが真顔で言ったので、ロイが少し吹き出した。
ジャックは笑わなかった。
「やめとけ」
短い声だった。
いつもの乱暴さはない。
「ラグエッジの連中が俺をどう呼ぶかは勝手だ。でも、お前らまでそれに乗る必要はない」
「乗るって何だ」
俺が聞く。
「危ない奴の近くに立つ遊び」
「競技だろ」
「競技でも、当たったら怪我する」
「お前が言うのか」
「俺が言うんだよ」
ジャックの声が少し荒くなった。
でも、そこまでだった。
すぐに彼はまた椅子の背にもたれ、窓の外を見た。
「いいんだよ。危険砲で」
乾いた声。
「名前があるだけ、まだ親切だ」
その言葉に、俺は一瞬返せなかった。
名前。
危険砲。
問題児。
味方の横を撃つやつ。
そういう名前は、人を雑に固定する。
でも、名前がないよりましだとジャックは思っている。
誰かに正しく呼ばれたことが少ない人間の考え方だ。
俺には、それが少しわかる。
忘れられるより、悪く覚えられるほうがまだ形がある。
そう感じてしまう瞬間がある。
でも、たぶんそれは、いいことではない。
列車が大きく揺れた。
ラグエッジ外縁魔法学院の駅に到着する合図だった。
ホームは広くない。
石造りでも、木造でもなく、鉄板を何枚も重ねて作ったような床だった。
端が少し曲がっている。
古い焦げ跡がある。
柵には、競技旗の小さな紋章が無数に刻まれていた。
勝利の記録ではない。
失格の記録でもない。
たぶん、ここで起きた危険な出来事の記録だ。
魔力爆発注意。
旗接触事故。
防壁逸脱。
観客席損傷。
文字だけ見ると最悪だ。
だが、柵は壊れたままではなかった。
曲がったところには補強が入っている。
焦げたところには、別の金属が継がれている。
ラグエッジは荒れている。
けれど、放置しているわけではない。
危険を隠さない学校なのだと思った。
俺たちがホームに降りると、向こう側から数人の生徒が歩いてきた。
制服は揃っているが、着方はばらばらだ。
袖をまくっている者。
膝当てをつけたままの者。
肩に競技用の防護板をぶら下げている者。
先頭の女子が、俺たちを見回した。
短い黒髪。
左頬に古い傷跡。
笑っているが、歓迎の笑みとは少し違う。
測っている。
壊れやすいかどうかを。
「カルミア第七部」
彼女はそう言った。
「噂より人数が多いね。欠陥魔法の見本市って聞いてたけど」
「ご挨拶ですわね」
レイナが一歩前に出かける。
コレットがそっと袖を引いた。
「ラグエッジ外縁魔法学院、競技部副長のサラ・ディーンだ」
女子は自分の胸を親指で示す。
「案内役を任された。途中で喧嘩を売ってきた奴がいたら、勝ってから来て」
「案内役の言葉じゃないっすね」
ロイが小声で言う。
サラは聞こえていたらしく、にやりと笑った。
「うちはそういう学校だよ」
それから、彼女の視線がジャックで止まった。
止まり方が、他とは違った。
見つけた、という止まり方。
「で」
サラは言った。
「あんたが危険砲?」
ジャックはすぐには答えなかった。
俺たちも、誰も答えなかった。
ホームの向こうで、風が鉄板を叩く。
乾いた音が鳴る。
サラの後ろにいた生徒たちが、遠慮なくこちらを見る。
好奇心。
警戒。
期待。
嫌悪。
全部が混ざっている。
ジャックはポケットに手を入れたまま、軽く笑った。
「だったら?」
「本物かと思って」
「偽物がいるほど有名じゃねえだろ」
「ここでは有名だよ」
サラは顎で競技場のほうを示した。
学院の奥。
灰色の壁の向こう。
そこに、旗が見えた。
まだ試合中ではないはずなのに、旗が動いている。
色は鈍い黄色。
形は細長く、端が裂けている。
旗というより、警告帯が風に伸びているみたいだった。
その旗は、安全な場所にいなかった。
競技場の中央には、練習用の魔力火花が散っている。
普通の旗なら、火花を避ける。
ラグエッジの旗は違った。
火花のほうへ、ゆっくり近づいていく。
危ない場所へ、自分から寄る。
サラが言う。
「あれがうちの旗、イエロウ。危険なものに近づく。危ないとわかっている場所ほど、見に行く」
「最悪じゃん」
ネルが言った。
「最高だろ」
サラは笑った。
「危ないものから目をそらさない。外縁では、そういう旗が強い」
ジャックが旗を見ていた。
さっきまでの軽い笑いが消えている。
イエロウは火花の縁に触れそうになり、すっと身をかわした。
近づく。
触れない。
また近づく。
危険を舐めるように測っている。
俺は思った。
嫌な旗だ。
ジャックに似すぎている。
あるいは、ジャックが嫌がるほど、近い場所を見に来る旗だ。
「面白そうだな」
ジャックが言った。
声はいつも通りだった。
でも、拳が少しだけ握られていた。
サラはそれに気づいたのか、目を細める。
「歓迎するよ、危険砲」
「名前で呼べ」
それを言ったのは、ジャックではなかった。
俺だった。
自分で言ってから、少し驚いた。
ジャックもこちらを見た。
サラも見る。
俺は肩をすくめた。
「うちの攻撃役はジャック・バーネルだ。危険なのは否定しないけど、名前くらいある」
サラは一瞬黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「へえ」
その笑いは、さっきより少しだけ歓迎に近かった。
「じゃあ案内するよ、ジャック・バーネル」
ジャックは舌打ちした。
「余計なこと言うな、ルカ」
「言われる前に言っただけだ」
「真似すんな」
「便利だった」
ネルが小さく笑った。
ロイも笑った。
レイナは当然ですわ、という顔をしている。
コレットはほっとしたように資料を抱え直した。
アルフだけは、すでに競技場の旗を見ていた。
「ルカ」
「何だ」
「あの旗は、危険を避けない。ジャックの攻撃が一番壊してはいけないものへ寄るなら、相性は最悪に近い」
「だろうな」
「だから、練習する必要がある」
ジャックが振り返る。
「まだ言うか」
「言う」
アルフは淡々と答えた。
「危険を名前にされたまま撃つより、危険の通り道をこちらで決めたほうがいい」
ジャックは何か言おうとして、やめた。
イエロウがまた火花に近づく。
ぱちり、と黄色い光が散った。
旗は燃えない。
逃げもしない。
ただ、危ないもののすぐそばで揺れている。
俺たちはその旗を見ながら、ラグエッジの競技場へ歩き出した。
ジャックの悪評は、俺たちより先にここへ来ていた。
そしてたぶん、この学校はそれを隠さない。
問題児。
危険砲。
味方の横を撃つやつ。
そのどれでもない名前を、ここで使い続けられるか。
第14章は、そこから始まった。




