第130話 ここは壊させない
クラムは重くなっていた。
破片旗。
壊れたものを集める旗。
その名の通り、今のクラムはたくさんの破片をまとっている。
守って割れた結界板。
炉心を逃がした外枠。
圧を水槽へ流した弁。
罠ではなく、守るために壊れたもの。
ガレスが選び、ロイが音で聞き分け、ミラが足場を持ち、ネルが破片をずらし、アルフが片側だけ道を残し、レイナが失敗を目印にし、リリィとグレイが匂いを追い、ジャックが壊す前の圧を止めた。
その結果、クラムは重い。
でも、嫌な重さではない。
ロイが言った通り、音が丸い。
からん。
からん。
丸い音が、競技場の中央で揺れている。
しかし、試合はまだ終わっていなかった。
フォルジア側の最後の仕掛けが残っている。
競技場中央の床下。
第七部の補助旗台と、クラムの逃走路と、四隅の炉から伸びる圧力線が、そこで交差していた。
オルド・ハースは、そこを見ていた。
彼の顔には、もう笑みがほとんどない。
楽しんでいる。
だが、ふざけてはいない。
本当に壊しに来ている。
真面目に壊す。
昨日、彼が言った通りに。
「最後だ、ガレス」
オルドの声が響く。
「中央の支えを落とせば、クラムは一瞬止まる。お前たちは旗に届く」
中央床の下から、赤い印が浮かぶ。
壊していい場所。
そう示されている。
だが、その赤い印の周りに、第七部の補助旗台へ伸びる細い線が絡んでいる。
壊せば、クラムは止まる。
同時に、補助旗台の支えも歪む。
第七部の旗本体は壊れないかもしれない。
でも、周りが壊れる。
旗を守る足場が、壊れる。
「壊せば勝てるぞ」
オルドが言う。
「壊さなければ、時間切れだ」
審判の残り時間表示が光る。
短い。
クラムは重いが、まだ捕まえられない位置にいる。
中央の支えを落とせば、確かに届く。
勝てるかもしれない。
ただし、第七部の旗周りを壊す。
自己破損は競技上の判断。
規則はそう言っていた。
相手が直接壊したわけではない。
こちらが勝つために壊す。
それは、フォルジアの罠としては正しい。
ガレスの顔が、今までで一番険しくなった。
彼は中央の赤い印を見る。
第七部の旗台を見る。
クラムを見る。
仲間を見る。
工具箱はない。
控室に置いてきた。
手元にあるのは、水筒と、小さな布だけ。
直す手は、今ここにない。
壊す手だけがある。
「ガレス」
ジャックが呼ぶ。
「嫌か」
ガレスは頷いた。
「嫌だ」
「怖いか」
「怖い」
「無理か」
ガレスは黙る。
長い沈黙。
でも、誰も急かさない。
オルドも急かさない。
観客の工具音も止まっている。
ガレスは水を一口飲んだ。
それから、ゆっくり言った。
「無理じゃない」
短い言葉。
でも、確かな言葉。
「壊すのか」
俺が聞く。
ガレスは首を横に振った。
「そこは壊さない」
「じゃあ、どうする」
ガレスは中央の赤い印から目を外す。
壊していいと示された場所を見ない。
代わりに、壊したくない場所を見る。
第七部の旗台。
旗台を支える周囲の金具。
その金具のさらに外側。
床下の圧力線。
水槽へ続く逃がし溝。
クラムがまとった守った破片。
そして、中央支えを赤く光らせている小さな誘導器。
赤い印そのものを作っている部品。
あれが、罠の中心だ。
壊していい場所を見せるための部品。
それを壊せば、赤い印は消える。
中央支えは落ちない。
だが、クラムも止まらない。
勝ち筋は消えるかもしれない。
でも、旗台は残る。
ガレスの手が上がる。
オルドが目を細める。
「そこを壊すと、勝ちが遠のくぞ」
ガレスは答えた。
「ここは壊させない」
その言葉は、はっきり聞こえた。
ガレスにしては長い。
そして、強い。
ここは壊させない。
修理班には置けない。
解体班向き。
壊すだけ。
そう言われてきたガレスが、初めて壊す力で場所を宣言した。
ここ。
第七部の旗台。
仲間の足場。
守った破片が鳴る道。
自分がいる場所。
そこを、壊させない。
黒い亀裂が走った。
赤い印の中心ではない。
中央支えでもない。
誘導器だけ。
かん。
小さな音。
赤い印が消えた。
中央支えは落ちない。
第七部の旗台も歪まない。
クラムは止まらない。
フォルジア側の勝ち筋も、カルミア側の簡単な勝ち筋も、同時に消えた。
観客席がどよめく。
オルドが笑った。
「勝ちを捨てたか」
「違う」
ガレスが言う。
「壊す勝ちを捨てた」
その瞬間、クラムが大きく揺れた。
守った破片が、一斉に鳴る。
からん。
からん。
からん。
丸い音。
その音が、競技場の四隅へ広がる。
ロイが叫ぶ。
「道が戻ります!」
中央支えを落とさなかったことで、クラムは止まらなかった。
だが、守った破片の音が、クラムの重い軌道を変えた。
壊すことで止めるのではない。
壊さなかった場所を中心に、旗が戻ってくる。
第七部の旗台。
その周り。
ガレスが壊させなかった場所。
そこへ、クラムが近づく。
クララが息を呑む。
「古代旗反応です。場所を守る宣言に反応しています」
「捕まえられる?」
ネルが聞く。
コレットが目を細める。
「ルカが行くと、まだ遠い」
「誰なら」
「ガレス」
全員がガレスを見る。
ガレスは少しだけ驚いた顔をした。
旗を捕まえる役。
彼はずっと周りを持つ側だった。
水を置く。
椅子を直す。
罠を砕く。
誰かが届くための場所を作る。
自分が届く側になることは、少なかった。
「行け」
ジャックが言った。
「壊すなよ」
ガレスは少しだけ彼を見る。
「壊さない」
「触れ」
「触る」
ロイが四つの音を鳴らす。
とん。
とん。
とん。
とん。
五つ目はまだ。
ミラが足場を作る。
レイナが失敗を置く。
ネルが逃げ道の横へ一瞬入る。
アルフが片側だけ境界を置く。
リリィがグレイをクラムの匂いへ向かわせる。
ノルが部誌を閉じない。
クララが古代反応を見守る。
俺は、戻り言葉ではなく、ガレスの名前を呼んだ。
「ガレス」
みんなも呼ぶ。
「ガレス先輩」
「ガレス」
「ガレスさん」
「ガレス」
名前が重なる。
ガレスは走った。
速くはない。
でも、迷わない。
壊す場所を選ぶ時と同じ足取り。
残す場所を見ている。
クラムは重い。
守った破片をまとっている。
逃げるというより、揺れながら戻ってくる。
ガレスは手を伸ばした。
破壊魔法ではない。
工具を持つ手。
水筒を渡す手。
椅子を直す手。
料理をよそう手。
壊す場所を選ぶ手。
その手で、クラムの旗布に触れた。
からん。
丸い音が、ひとつ鳴った。
審判の声が響く。
「接触確認。旗捕獲判定。勝者、カルミア魔法学園第七魔法競技部」
観客席の工具音が、一拍遅れて鳴り出した。
かん。
こん。
きん。
大きな拍手ではない。
でも、工房都市らしい称賛の音だった。
ロイが五つ目の音を鳴らす。
とん。
その音だけ、少し丸かった。
ガレスはクラムから手を離す。
破片旗は、彼の前で静かに揺れる。
そして、まとっていた破片の一つを落とした。
昨日の外枠の欠片。
守った破片。
ガレスが拾う。
リューネ教師が審判席の横から言った。
「持っていきな」
ガレスが彼女を見る。
「いいのか」
「クラムが落とした。あんたの破片だ」
ガレスは少し困った顔をする。
「壊しただけだ」
「守っただろ」
リューネ教師は言った。
ガレスは破片を見る。
壊れたもの。
でも、守ったもの。
捨てられなかったもの。
彼は小さな布を取り出し、破片を包んだ。
工具箱は控室にある。
だから、今は手で持つ。
オルドが歩いてくる。
「負けた」
「勝った」
ガレスが返す。
オルドは笑う。
「真面目に残されたな」
「真面目に壊した」
「壊してない場所の方が多かった」
「残すものを決めた」
オルドは頷いた。
「いい解体だった」
ガレスは少しだけ黙る。
そして言った。
「修理班には置けない」
オルドは首を傾げる。
「何の話だ」
「でも、ここには立てる」
ガレスは競技場を見る。
第七部の旗台。
守った破片。
クラム。
仲間。
壊させなかった場所。
ここ。
「ここは壊させない」
二度目の言葉。
今度は、試合中の叫びではなく、確認だった。
ノルが部誌に書く。
ガレス、ここは壊させない。
壊す力が、居場所を守る力になる。
ロイが覗き込んで、少し泣きそうな顔をする。
「良い記録です」
「泣くな」
ジャックが言う。
「まだ泣いてません」
「泣きそうだろ」
「可能性です」
リブランから続く言い方に、少し笑いが起きた。
控室へ戻ると、ガレスの工具箱が椅子の上で待っていた。
布はずれていない。
留め具も無事。
ジャックが先に近づき、工具箱を持ち上げた。
「帰り、頼むって言ったよな」
ガレスは頷く。
「言った」
「持ち方は?」
「留め具の近くを持つな」
「知ってる」
「斜めにするな」
「知ってる」
「短い距離なら横」
「今日はしない」
ジャックは少し慎重に工具箱を持った。
大きな攻撃魔法を使う手で。
針金を押さえた時と同じように。
ガレスはそれを見て、頷いた。
「合ってる」
「嫌か?」
ジャックが聞く。
ガレスは少し考えた。
「少し」
「練習だろ」
「そうだ」
工具箱を仲間に預ける。
水を自分のために飲む。
嫌だと言う。
怖いと言う。
壊す場所を選ぶ。
ここは壊させないと言う。
その全部が、ガレスの修理だった。
完全に直ったわけではない。
修理班に置けるようになったわけでもない。
壊す魔法が直す魔法に変わったわけでもない。
でも、使える。
まだ使える。
そして、使う場所を選べる。
フォルジアの夕方、炉の光が窓の外で赤く揺れていた。
ガレスはクラムから受け取った破片を、工具箱の中へ入れた。
父親の補助具の隣。
ロイの音板の予備金具の横。
リリィの鞄の留め具の近く。
誰かの困ったものが集まる場所へ。
「重くなるぞ」
俺が言うと、ガレスは工具箱を閉めた。
「重い」
「いいのか」
ガレスは少しだけ考える。
「いい、じゃない」
また、その言い方。
でも、今日は続きがあった。
「持つ」
短い。
でも、強い。
ガレスは工具箱をジャックから受け取り直さなかった。
宿舎までの帰り道、ジャックが持った。
ガレスはその横を歩く。
水筒を持って。
手ぶらに近い手で。
少し落ち着かなさそうに。
でも、何度も工具箱を確認することはなかった。
第13章の終わりに、ノルは部誌へこう書いた。
壊す手は、直す手にはならなかった。
でも、残す場所を選ぶ手になった。
ガレスはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「長い」
「章の終わりだから」
ノルが眠そうに言う。
「そうか」
ガレスは頷いた。
それから、短く付け足した。
「水は大事」
ノルは少し考えて、最後に一行足した。
水も大事。
ガレスは満足そうだった。
それで、この章は少しだけ丸い音を立てて閉じた。




