第12話 古い文字しか読めない
クララ・ヴェルムは、現代魔法の成績が悪い。
本人がそう言うのだから、たぶん本当なのだろう。
ただし、俺はその言葉を少し疑っていた。
なぜならクララは、授業で使う標準魔法式を見た時だけ、異様に退屈そうな顔をするからだ。分からない顔ではない。できない顔でもない。もっと正確に言えば、興味がない文章を読まされている時の顔。
そのくせ、リメルの登録書類に付着した古い魔力痕を見つけた瞬間、彼女の目は完全に変わった。
昼休み。
第七魔法競技部の部室。
机の上には、リメル、登録書類、古い戦術資料、クララがどこからか持ってきた拡大鏡、魔力反応粉、細い銀筆、そしてガレス・モルンが「机が傷つく」と言って敷いた厚い布。
クララはその全てを前に、静かな熱を帯びていた。
「これは現代式ではありません」
彼女は言った。
「それは昨日も聞いた」
俺が返す。
「昨日より確度が上がりました」
「どれくらい」
「七割です」
「意外と控えめだな」
「研究において七割は高い数字です」
「なら、もっと自信ありげに言え」
「感情表現と確度は別です」
面倒くさい。
だが、こういう面倒くささは嫌いではない。
いや、嫌いではないと認めるのも癪だ。
クララはリメルの支柱に付いた古い刻印を拡大鏡で覗き込んでいる。昨日までは、ただの傷かと思っていた。木製の小さな支柱に残る、擦れた線。
だが魔力反応粉を軽く乗せると、その線が淡く浮かび上がった。
文字。
たぶん文字。
俺には読めない。
コレット・セインにも読めない。
レイナ・オルコットは「品のある古さですわ」と言ったが、読めるわけではないらしい。
ネル・アーレンは「傷にしか見えない」と言った。
ロイ・キャベルは「かっこいいです」と言った。
役に立つ感想ではない。
ノル・フェインは机で寝ている。
昨日、深く旗の夢に入った反動で、今日はいつもより眠そうだった。つまり、ほぼ寝ている。
「読めるのか」
ネルが聞く。
クララは頷いた。
「一部だけ」
「古代魔法しか読めないんだっけ」
「正確には、現代標準式に整理される以前の魔法構文と、地方契約術式の断片に反応します」
「古代魔法しか読めない、でよくない?」
「説明としては雑ですが、会話効率は良いです」
「じゃあそれで」
クララは少し不服そうだった。
ただ、訂正はしなかった。
たぶんネル相手に細かく説明しても時間がかかると判断したのだろう。
「何て書いてあるの?」
コレットが身を乗り出す。
クララは銀筆で紙に文字を写しながら答えた。
「完全ではありません。欠けています。ただ、いくつか読める語があります」
「語」
「残す、名、道、後ろ、証人」
「証人?」
俺は繰り返した。
クララが頷く。
「古代旗の契約には、証人を必要とするものがあります。昨日も少し言いましたが、誰かに見届けられることで成立する形式です」
「公開模擬戦でリメルが大人しかったのは、そのせいか」
「可能性があります」
「つまり、人に見られるのが好き?」
ロイが聞く。
リメルが布の端を少し揺らした。
「好きというより、必要なのだと思います」
クララは支柱の文字を見つめる。
「忘れられないために、証人を求める。名前を呼ばれるだけでなく、見届けられること。記録されること。誰かが、そこにあったと認めること」
部室が少し静かになった。
俺は自分の指を見た。
記憶を失う。
存在感が薄れる。
誰かの視線から滑り落ちる。
見届けられること。
記録されること。
そこにあったと認められること。
リメルの性質は、俺の欠陥魔法と噛み合いすぎている。
偶然か。
偶然であってほしい。
だが、この数日で、偶然という言葉を信じる力はかなり弱くなっている。
「ルカさん」
クララが顔を上げた。
「嫌なことを言ってもいいですか」
「駄目だと言ったら?」
「言い方を変えます」
「結局言うのか」
「はい」
潔い。
俺はため息をついた。
「言え」
「リメルは、あなたの欠陥魔法に反応している可能性があります」
「やっぱり嫌なことだった」
「ただし、悪い意味とは限りません」
「どういう意味だ」
「あなたは魔法を使うことで記憶と存在感を失う。リメルは忘れられた名前、場所、約束を残す性質を持つ可能性がある。つまり、あなたが失うものを、リメルが記録できる可能性があります」
コレットが息を呑んだ。
ネルの表情が変わる。
ロイが目を見開く。
「それって」
ロイが小さく言った。
「ルカさんが忘れても、リメルが覚えてくれるってことですか」
クララは少しだけ首を傾けた。
「断定はできません」
「でも」
「可能性はあります」
リメルが、机の上で俺の方へ向いた。
目はない。
だが、やっぱり見ている。
俺はその視線から逃げたくなった。
覚えてくれる。
聞こえはいい。
けれど、それは俺が忘れることを前提にした救いだ。
忘れなければいい。
魔法を使わなければいい。
競技に出なければいい。
そう思っていた。
だが、第七部にいる限り、たぶんそんな単純な逃げ道はない。
「リメルが覚えても」
俺は言った。
「俺が思い出せるわけじゃないだろ」
クララは黙った。
その沈黙が答えだった。
リメルが小さく震える。
「……悪い」
俺は旗に謝った。
なぜ旗に謝っているんだ。
自分でも分からない。
でも、リメルが少しだけしゅんとしたように見えた。
ロイが慌てて言う。
「でも、でも、覚えてくれるのは大事です。ルカさんが忘れても、なかったことにならないなら」
「ロイ」
「僕、昨日の部誌を見ました。ルカさんが忘れた言葉、部誌に残ってました。あれがなかったら、僕たちも、どうすればいいか分からなかったと思います」
ロイの声は、少し大きくなりかけて、途中で抑えられた。
彼なりに必死なのだろう。
「忘れたことが戻らなくても、残っていれば、次は守れるかもしれません」
まっすぐな言葉。
眩しすぎる。
俺は目を逸らした。
ネルがロイの肩を軽く叩く。
「たまにはいいこと言うじゃない」
「たまには、ですか」
「褒めてる」
「ありがとうございます」
ロイは嬉しそうだった。
たまには、でも嬉しいらしい。
コレットがリメルの前に座る。
「リメル」
彼女は優しく呼んだ。
「あなたが覚えてくれるなら、私たちも記録する。どちらか片方じゃなくて、両方で残す。いい?」
リメルが布の端を一回揺らす。
「一回は?」
俺がノルを見る。
ノルは寝たまま、かすかに言った。
「うん、だと思う……」
「便利だな」
「眠い……」
「それは知ってる」
クララがさらに支柱を調べる。
「もう一つ、読める部分があります」
「まだあるのか」
「あります。かなり重要です」
彼女の声が少しだけ硬くなった。
コレットも背筋を伸ばす。
「何?」
クララは写した文字を指でなぞった。
「後ろに立つ者」
「後ろ?」
アルフが反応した。
防御役らしい反応だ。
「はい。直訳すると、旗の後ろに立つ者、あるいは旗の後に残る者。文脈上、旗を持つ選手ではなく、旗の記録を保持する補助者を指している可能性があります」
「補助者」
全員の視線が、また俺に向いた。
「見るな」
もう何度目だ。
この部は視線の集め方が雑すぎる。
「俺は補助登録だっただけだ」
「昨日の模擬戦で、リメルの後ろに立っていたのは君だ」
アルフが言う。
「補助として」
「そうだ」
「旗の逃げ道を読んだ」
「そうだ」
「リメルは君に強く反応した」
「嫌な事実を積み上げるな」
「事実だ」
「知ってる」
クララは淡々と続ける。
「古代旗には、旗手、守り手、証人、記録者といった役割が分かれていた可能性があります。現代の旗奪競技では、それらが単純化され、旗手と選手だけになっている。しかしリメルは古い形式を残している」
「つまり、今の競技ルールに合わない旗ってこと?」
ネルが聞く。
「はい」
「欠陥旗じゃない」
ジャックが窓際から言った。
その声は軽かったが、言葉は妙に刺さった。
欠陥旗。
リメルが布を震わせる。
ジャックは肩をすくめた。
「悪口じゃねえよ。俺らと同じだろ」
同じ。
現代の競技制度に合わない。
標準型の枠から外れている。
だから欠陥扱いされる。
人も、旗も。
「欠陥ではありません」
クララが言った。
いつもより強い声だった。
全員が彼女を見る。
クララは少しだけ驚いたように自分の口元を押さえた。
自分でも、声が強くなったことに驚いたのかもしれない。
それでも、彼女は続けた。
「古いだけです。別の体系に属しているだけです。現代標準式で読めないからといって、失敗ではありません」
部室が静かになった。
クララ・ヴェルム。
魔法理論オタク。
古代魔法しか読めない。
現代魔法の成績は悪い。
きっと彼女も、何度も言われてきたのだろう。
読めない。
使えない。
標準に合わない。
失敗。
欠陥。
ネルが小さく息を吐く。
「……そうね」
珍しく、茶化さなかった。
コレットが頷く。
「うん。欠陥ではない」
ロイも真剣に頷く。
「リメルは欠陥旗じゃないです」
ジャックは少しだけ気まずそうに頭をかいた。
「悪かったよ」
「謝った」
ネルが言う。
「うるせえ」
「珍しい」
「うるせえ」
リメルが布の端を揺らした。
怒ってはいないように見える。
たぶん。
ノルは寝たまま言う。
「リメル、ジャックのこと嫌いじゃないって……」
「寝ながら余計な通訳すんな」
ジャックが顔をしかめる。
部室に小さな笑いが戻った。
クララは少し赤くなった顔で、また支柱の文字に目を落とす。
「とにかく、リメルの登録には、現代区分に無理やり当てはめるのではなく、古代契約性を明記した方が良いです」
「連盟が却下する可能性は?」
アルフが聞く。
「あります」
「高いか」
「通常なら高いです。ただし巡業リーグの予備参加枠では、地方旗や旧式旗の暫定登録が認められる規定があります」
「よく知ってるな」
「昨日の夜、読みました」
「全部?」
「関連規定だけです」
「何ページ」
「百八十二ページ」
部室が一瞬止まった。
ネルが言う。
「それ、だけ、なの?」
クララは首をかしげた。
「必要部分だけです」
「クララ先輩、やっぱり現代魔法以外は優秀ですよね」
ロイが素直に言った。
クララは少し困った顔をした。
「褒められると、どこを訂正すればいいか分かりません」
「褒められた時は、ありがとうでいいんじゃないですか?」
「ありがとう」
「はい!」
ロイが嬉しそうに笑う。
クララはまだ少し困っていたが、悪い顔ではなかった。
コレットが登録書類に追記していく。
古代契約性。
証人。
後ろに立つ者。
忘れ物の旗。
リメル。
残るもの。
文字が増える。
書類としては、たぶん面倒になる。
連盟に出せば、眉をひそめられる可能性が高い。
だが、薄い嘘で通すよりはいい。
この旗は、たぶん嘘を嫌う。
いや、それは別の旗の性質だったか。
でも、少なくともリメルは、忘れられることを嫌がっている。
なら、曖昧にして消すのは違う。
「ルカさん」
クララが不意に俺を呼んだ。
「何だ」
「リメルの後ろに立つ者、という記述について、今後あなたの反応を継続観察してもいいですか」
「嫌だ」
「では、必要時に限定して観察します」
「言い換えただけだ」
「常時ではありません」
「そういう問題じゃない」
コレットが苦笑する。
「ルカ君、私からもお願い。リメルがあなたに反応する理由は、たぶん大事」
「大事でも嫌なものは嫌だ」
「うん」
「認めるのか」
「嫌なことを無理やり進めたら、あなたは逃げるでしょう?」
「逃げるな」
「だから、逃げ道は残す」
またそれだ。
逃げ道。
第七部の戦術。
そしてたぶん、俺の扱い方。
俺はリメルを見る。
青い布が揺れる。
覚えてくれるかもしれない旗。
俺が失うものを。
俺が残せないものを。
でも、俺の代わりに覚えられても、それは俺の記憶ではない。
その事実は変わらない。
「必要時だけだ」
俺は言った。
クララが頷く。
「記録しました」
「早い」
「重要なので」
ノルが部誌に書き足す。
ルカ、必要時のみ観察を許可。
備考、かなり嫌そう。
「備考を消せ」
「必要……」
「必要じゃない」
リメルが俺の名前の横を叩く。
こつん。
笑っているように見える。
旗が笑うわけがない。
でも、そう見えた。
俺はため息をついた。
現代魔法の成績が悪いクララ。
古い文字しか読めない彼女。
その彼女が、リメルを欠陥ではないと言った。
別の体系に属しているだけだと。
それは、きっと旗だけの話ではない。
この部室にいる、ほとんど全員の話だ。
そして、俺の話でもあるのかもしれない。
認めるには、まだ少し早い。
でも、部誌には残る。
リメルも、たぶん覚える。
なら今は、それで十分ということにしておく。




