第13話 誇りの置き場所
レイナ・オルコットは、部室の埃が嫌いだ。
それは分かる。
第七魔法競技部の部室は、控えめに言っても古い。雨漏りの桶は三つから四つに増えたし、壁の作戦図には年代不明の染みがある。棚の奥には、誰のものか分からない古い手袋が眠っている。窓枠はガレス・モルンが直してくれたが、風が強い日はまだ少し鳴る。
埃が嫌い。
それは普通だ。
ただし、レイナは埃そのものより、「埃っぽい場所に自分がいること」が嫌いなのだと思う。
その日の昼休み、彼女はリメルの登録書類を保管するための箱を見て、深いため息をついた。
「これは、あまりにも見苦しいですわ」
箱は古かった。
木製。
角は擦り切れ、留め具は片方だけ新しい。おそらくガレスが修理したのだろう。蓋の裏には昔の第七部のものらしい焼印が残っているが、半分は消えかけている。
俺はその箱を見て言った。
「使えるならいいだろ」
「使える、だけで全てを許容するのは危険です」
「壊れていない」
「壊れていなければいい、という感覚がすでに問題ですわ」
レイナは布で箱の表面を拭く。
手つきは丁寧だ。
嫌がっている割に、作業は真面目。
「正式登録する旗の書類を入れる箱です。もう少し見栄えを整えるべきでしょう」
「連盟に箱ごと提出するわけじゃない」
「だからといって、部室の隅に転がっていた箱でよい理由にはなりません」
「転がってはいなかった」
ガレスが短く言った。
作業台の横で、彼は別の留め具を磨いている。
「棚にあった」
「だそうだ」
俺が言うと、レイナは少しだけ気まずそうにした。
「……言葉の綾ですわ」
ガレスは頷いた。
怒ってはいないらしい。
相変わらず感情表現が少ない。
ネル・アーレンは部室の窓際で腕を組み、そのやり取りを見ていた。
嫌な予感がした。
こういう時のネルは、だいたい口を出す。
「箱の見栄えなんて、どうでもよくない?」
やはり出した。
レイナの手が止まる。
「どうでもよくありません」
「書類が濡れなきゃいいでしょ」
「それは最低条件です」
「最低条件で足りる時もある」
「足りないから、今こうして整えているのです」
ネルが肩をすくめる。
「貴族って面倒」
部室の空気が少し変わった。
ロイ・キャベルが「あ」と小さく声を漏らす。
コレット・セインは二人の間を見る。
クララ・ヴェルムは記録を止めた。
リメルが机の上で布を揺らした。
レイナはゆっくり顔を上げた。
「今の言葉は、聞き捨てなりませんわね」
「聞き捨てればいいじゃない」
「できません」
「そういうところが面倒なのよ」
「あなたのように、何でも雑に済ませれば楽でしょうね」
ネルの目が細くなる。
「雑?」
「ええ。言葉も、作法も、魔法も」
まずい。
俺は一歩出かけた。
だが、コレットが小さく首を横に振った。
止めるな、という意味ではない。
少し待って、という意味。
部長は、負け筋を見ているのだろうか。
それとも、これは見届けるべき衝突だと判断しているのか。
「私の魔法が雑なのは知ってる」
ネルの声は低くなった。
「一瞬しか出ない。持続できない。標準式に合わない。教師にも何度も言われた。でも、あんたに言われる筋合いはない」
「私は事実を言っただけです」
「事実なら何でも言っていいわけ?」
「それは、あなたがよくしていることでしょう」
ネルが言葉に詰まった。
痛いところを突かれたのだろう。
レイナも、自分で言ってから少しだけ表情を硬くした。
どちらも引けない。
こういう衝突は、単なる口喧嘩より厄介だ。
二人とも、自分が言われたくないことを知っている。
だから相手にも刺せてしまう。
「レイナ」
俺は口を開いた。
コレットが止めなかったので、そのまま続ける。
「箱の見栄えにこだわる理由は何だ」
レイナは俺を睨む。
「今それを聞きますの?」
「今だから聞く」
「正式登録の書類です。粗末に扱うべきではありません」
「なぜ」
「なぜって」
「書類が濡れなければ最低条件は満たす。ネルの言うことも一理ある。その上で、お前は見栄えが必要だと言った。なぜだ」
レイナは唇を結んだ。
答えはある。
だが、言いたくない。
そういう顔だった。
「ルカ」
ネルが不満げに言う。
「あんた、どっちの味方?」
「面倒な方」
「どっちもじゃない」
「だから困ってる」
ネルが一瞬だけ変な顔をした。
笑いそうになったのを、怒りで押さえた顔。
レイナは深く息を吸った。
「粗末な箱に入れれば、粗末な扱いを受けます」
声は静かだった。
「第七部は、ただでさえ軽く見られている。欠陥魔法持ちの寄せ集め、廃校寸前の没落校、連盟の受け皿。そんな目で見られているところに、擦り切れた箱で書類を出せば、やはりその程度だと思われる」
ネルの表情が少し変わる。
レイナは続ける。
「私は、それが嫌なのです」
「見栄?」
ネルが聞く。
「ええ。見栄です」
レイナは逃げなかった。
「見栄で結構。体裁で結構。見た目で判断する人間がいるなら、見た目も整えるべきです。中身だけ見てください、などと言って通る相手ばかりなら、カルミアはここまで落ちていません」
部室が静かになった。
レイナの声は震えていない。
でも、手は少し震えていた。
「私は、ここにいることをずっと恥だと思っていました」
その言葉で、コレットが目を伏せた。
ネルも何も言わない。
「本来なら、もっと整った部室で、もっと整った設備で、もっと整った魔法を使っているはずだった。そう思っていました。けれど、昨日の模擬戦で、少しだけ分からなくなりました」
レイナはリメルの箱を見る。
「この部が粗末に扱われるのは嫌です。けれど、粗末な部だから嫌なのではありません。粗末に扱われることに、みんなが慣れてしまうのが嫌なのです」
ネルは黙っていた。
さっきまでの怒りが、少し違うものに変わっている。
「だから箱?」
俺が聞く。
「だから箱です」
レイナは真面目に頷いた。
「小さなことから整えます。正式登録の書類を、きちんとした箱に入れる。旗に名前をつけたなら、その名前を粗末にしない。第七部が忘れられた部だというなら、せめて私たちは雑に扱わない」
リメルが布を揺らした。
一回。
それは、同意のように見えた。
ネルは気まずそうに髪をかき上げた。
「……最初からそう言えばいいのに」
「あなたこそ、最初から『貴族って面倒』などと言わなければよいのです」
「面倒なのは本当じゃない」
「平民は雑ですわね」
「は?」
また空気が尖る。
俺は額を押さえた。
「お前ら、一歩進んで二歩戻るな」
ロイが小さく手を上げる。
「でも、少し進みました」
「そうだな。半歩くらい」
ネルはレイナを見た。
レイナもネルを見る。
しばらく睨み合い。
やがて、ネルがため息をついた。
「分かった。箱、整えるのは賛成」
レイナの眉が少し上がる。
「ただし」
ネルは箱を指差した。
「高そうな飾りをつけるのはなし。そういうのは嫌」
「なぜ」
「リメルは、古い部室で見つかった旗でしょ。ぴかぴかに飾ったら、逆に嘘っぽい」
レイナは少し黙った。
そして、箱を見る。
古い木。
擦り切れた角。
消えかけた焼印。
ガレスが直した留め具。
「……一理ありますわ」
ネルが驚いた顔をする。
「認めた」
「私を何だと思っていますの」
「面倒な貴族」
「撤回する気はないのですね」
「今は半分」
「半分?」
「半分は、箱にうるさい先輩」
レイナは怒るべきか迷った顔をした。
それから、小さく息を吐いた。
「あなたの褒め方は、ルカさんに似てきましたわね」
「やめて」
「おい」
俺が言うと、ネルは即座にそっぽを向いた。
部室に少し笑いが起きる。
コレットが胸をなで下ろした。
きっと、彼女にはいくつかの負け筋が見えていたのだろう。
箱が壊れる未来か。
レイナが部室を出ていく未来か。
ネルが口を滑らせすぎる未来か。
分からない。
でも今のところ、どれも起きていない。
「では」
レイナが改めて箱を作業台の中央に置いた。
「この箱は、古さを残したまま整えます」
ガレスが頷く。
「磨く」
「お願いします。留め具は今のままで。新しすぎる金具は浮きます」
ガレスがまた頷く。
「焼印は?」
ミラが聞いた。
レイナは少し考える。
「消えかけた部分は、そのまま。消えたものを勝手に描き足すのは違います」
クララが記録する。
「保存方針として妥当です。復元ではなく保存」
「難しく言うな」
ネルが言う。
「古さを嘘にしない、ということです」
レイナが答えた。
その言い方は、少しだけ柔らかかった。
リメルが机の上で跳ねる。
こつん。
箱の方へ。
どうやら気に入ったらしい。
「リメルも賛成だって」
ノルが寝たまま言った。
「今日も寝ながら参加するのか」
俺が聞く。
「箱、きれいになる夢を見てる……」
「便利だな」
「眠い……」
「それはいつもだ」
作業は始まった。
ガレスが木箱の表面を丁寧に磨き、レイナが布を選び、ネルが「高そうすぎる」「地味すぎる」と横から口を出す。ロイは箱の中に敷く緩衝材を持ってきて、リリィは「召喚獣の寝床みたいですね」と余計なことを言い、クララは焼印の形を写し取る。
俺は少し離れて見ていた。
誇りの置き場所。
たぶん、レイナにとってそれはずっと難しい問題だったのだろう。
没落校にいることを恥だと思う。
でも、粗末に扱われることは許せない。
自分がここにいることを認めきれないのに、ここを見下されると腹が立つ。
矛盾している。
でも、人間はたいてい矛盾している。
俺だって、競技は嫌いだと言いながら、作戦盤に線を引いている。
仮入部だと言いながら、巡業に同行すると言った。
ネルは貴族が嫌いだと言いながら、レイナの箱には口を出す。
ロイは声が大きいことを怖がりながら、誰かに聞いてもらいたい。
コレットは負ける未来ばかり見るのに、巡業リーグへ行く。
リメルは忘れられた旗なのに、正式登録を催促する。
矛盾だらけだ。
だから、たぶん物語になる。
そんなことを考えてしまい、俺は自分で少し嫌になった。
「ルカ」
ネルが呼んだ。
「何だ」
「この布、どう思う?」
彼女が持っているのは、深い青の布だった。
リメルの色に近い。
ただし少しだけ暗く、古い木箱によく合う。
「いいんじゃないか」
「雑」
「似合う」
「最初からそう言えばいい」
「お前に褒め方を指導されたくない」
レイナが布を受け取った。
指先で質感を確かめる。
「悪くありませんわ」
「素直にいいって言えば?」
「いい布です」
ネルが少しだけ目を丸くする。
レイナは何事もなかったように布を箱の中へ敷いた。
古い木箱に、深い青。
リメルがその上へぴょんと乗る。
布の上で一回、二回、三回跳ねた。
満足そうだ。
たぶん。
部室に小さな拍手が起きた。
ロイが一番嬉しそうに拍手している。
コレットは目を細めていた。
レイナは顔を背けた。
照れている。
分かりやすい。
「レイナ」
俺は言った。
「何ですの」
「いい箱になった」
レイナは一瞬だけ黙った。
それから、つんと顎を上げる。
「当然ですわ」
「そこで当然って言うから面倒なんだよ」
「面倒ではなく、誇りです」
その言葉は、さっきよりずっと自然だった。
ネルが小さく笑う。
「じゃあ、誇り高い箱係ね」
「係ではありません」
「でも似合ってる」
レイナは文句を言いかけた。
しかし、言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……悪くありませんわ」
それは、箱のことか。
係のことか。
第七部のことか。
まだ分からない。
でも、リメルの登録書類は、古い木箱の中に丁寧に収められた。
粗末でも、飾りすぎでもない。
古さを嘘にしない箱。
忘れ物の旗を入れるには、たぶんちょうどよかった。




