第11話 旗が見ていた夢
リメルは、正式な旗になりたがっている。
そう言ったのは、ノル・フェインだった。
昼休みの第七魔法競技部。
机の上には、青い小さな旗。
昨日、コレット・セインから名前をもらった旗。リメル。古カルミア語で、残るもの。
そのリメルが、朝からおかしかった。
いつもなら机の端を跳ねたり、ロイ・キャベルの声に驚いて桶の陰へ逃げたり、俺の名前が書かれた部誌をやたら叩いたりしている。
しかし今日のリメルは、部室の中央に置かれた登録書類の上から動かなかった。
小さな支柱を紙の端に乗せ、青い布をぴんと張っている。
まるで、ここに署名しろ、と言っているようだった。
「旗が正式登録を催促するの、初めて見ました」
リリィ・クロフトが椅子に腰かけ、頬杖をつきながら言った。
「元ライバル校では、そういう旗はいなかったのか」
俺が聞くと、リリィは薄く笑った。
「少なくとも、書類仕事に積極的な旗はいませんでしたね。旗より顧問の方が書類を嫌がっていました」
「普通はそうだ」
「第七部は普通を参考にしても無駄では?」
「最近それを否定しにくい」
部室には、昼休みなのに半数以上の部員が集まっていた。
コレットは登録書類を何度も確認している。
クララ・ヴェルムは古い資料と照合している。
ノルは机に突っ伏している。
ロイはリメルを刺激しないよう、できるだけ小声で応援している。
ネル・アーレンは「旗の登録でこんなに真面目になる部活、どうなの」と言いながらも、部室の窓を閉めて風が入らないようにしていた。
ガレス・モルンは壊れたペン立てを直している。
ミラ・ガルドは登録書類が飛ばないよう、紙の端を石で押さえている。
レイナ・オルコットは「正式登録なら、せめて書類の折り目を整えるべきですわ」と言って、誰より丁寧に紙を揃えていた。
アルフ・メイナードは、必要項目を淡々と読み上げている。
ジャック・バーネルは窓枠で寝転がっていた。
来ているだけまし、という扱いらしい。
「登録旗名」
アルフが言う。
「リメル」
コレットが書く。
「登録団体」
「カルミア魔法学園、第七魔法競技部」
「旗種別」
そこで全員が止まった。
リメルが布の端を揺らす。
「練習旗、ではないわよね」
コレットが困ったように言う。
「標準競技旗でもありません」
クララが即答した。
「魔法生物型旗でも、完全な自律旗でもありません。反応形式だけ見るなら古代契約媒体に近いですが、現代登録区分には該当がありません」
「つまり?」
ネルが聞く。
「分類不能です」
「書類で一番困るやつ」
リメルが登録書類の上でぴょんと跳ねた。
まるで抗議するように。
「分類不能は嫌だって」
ノルが机に顔をつけたまま言った。
俺は彼女を見る。
「起きてるのか」
「半分……」
「今のは、リメルが言ったのか?」
「言ったというか……夢の端で、すごく嫌そう」
「夢の端」
「起きてる時の旗は、声が遠いから……眠いところまで行くと、近い」
分かったような、分からないような。
ノルの魔法は、夢の中で試合を再生できる。眠っている間だけ旗と会話できる。そう聞いていた。
だが今は、半分起きて、半分眠っている。
その境目で、リメルの意思を感じ取っているらしい。
「ノル先輩」
コレットが椅子を寄せる。
「リメルは、何なら嫌じゃないの?」
ノルはしばらく黙った。
寝たのかと思った頃、ぽつりと言う。
「忘れ物の旗」
部室が静かになった。
「忘れ物?」
ロイが小さく聞く。
ちゃんと小さい。
ノルは頷く。
「忘れられたものを、置いていかない旗……名前とか、約束とか、場所とか……そういうのを、たぶん、集める」
リメルが布を少し丸めた。
照れているようにも見える。
旗が照れるのかは知らない。
「忘れ物の旗」
コレットが繰り返す。
「登録区分にはないわね」
「ないでしょうね」
クララが言う。
「しかし、古代旗の性質記述としては有効です。旗種別欄には、暫定として『古代契約性を有する自律反応旗』と記載し、備考に『忘れ物の旗』と書くのが妥当です」
「妥当か?」
俺が聞く。
「妥当です」
「連盟が読んだらどう思う」
「面倒な旗だと思うでしょう」
「それはもう思われてる」
ジャックが窓枠から言った。
「うちごと面倒扱いされてんだから、今さら旗だけ優等生ぶらせても仕方ねえだろ」
「たまにはまともなことを言うのね」
レイナが言う。
ジャックが露骨に嫌な顔をした。
「たまには、は余計だろ」
「いつもではありませんもの」
「うるせえな」
いつものやり取り。
でも、リメルはその声にも逃げなかった。
今日は、書類の上から動かない。
「ノル」
俺は聞いた。
「リメルは、正式登録したいのか」
ノルは目を閉じたまま、ゆっくり首を横に振った。
「したい、だけじゃない……しないと、また忘れられるって」
「また?」
俺の声が、少し低くなった。
ノルは答えない。
寝息のような呼吸。
けれど、眠りの中で何かを追っている顔だった。
コレットが部誌を開く。
「また、ということは、リメルは以前にも登録されていた可能性がある?」
「資料上は見つかっていません」
クララがすぐに言った。
「ただし、カルミア旧競技棟の資料は欠落が多いです。特に第七部以前の補助競技部門、旗管理記録、旧地方リーグ時代の登録簿が失われています」
「失われているのか、捨てられたのか」
ネルが言う。
「それとも、誰かが隠したのか」
部室がまた静かになった。
この学校は、かつて名門だった。
今は廃校寸前。
古い戦術資料と壊れた練習場だけが残っている。
なぜ落ちたのか。
それはまだ、誰もはっきり語らない。
たぶん、語れない。
リメルが、書類の上で小さく震えた。
「夢に入る」
ノルが言った。
それは、いつもの眠そうな声より少しだけはっきりしていた。
コレットが目を見開く。
「今?」
「今、リメルが近いから」
「危険は?」
アルフが聞く。
ノルは少し考えた。
「寝すぎる」
「それはいつもだろ」
ジャックが言う。
ノルは否定しなかった。
「でも、旗の夢は深い。戻る合図がいる」
「合図」
全員の視線がロイへ向いた。
ロイはびくっとした。
「僕ですか」
「音なら起こせる」
アルフが言う。
「ただし大きすぎると旗も驚く。高音ではなく低音。一定間隔」
「はい」
ロイの顔が引き締まる。
リメルが布の端をロイへ向けた。
嫌がってはいない。
たぶん。
「ネルさん」
ノルが言う。
「私が机から落ちそうになったら、止めて」
「寝ながら落ちる予定なの?」
「夢で歩くかも」
「怖いこと言わないで」
ネルは文句を言いながらも、ノルの隣に立った。
ミラも反対側に立つ。
「支える」
短い言葉。
頼もしい。
ガレスはノルの椅子の背を確認し、倒れないように後ろへ木箱を置いた。
レイナはノルの前にあったインク瓶を下げた。
リリィは召喚ポーチを閉じる。
「夢の中に変なのが混ざったら困りますからね」
「自覚があるのか」
「あります」
クララは紙とペンを構える。
「発言は全て記録します」
コレットはリメルの前に座った。
俺は少し離れた位置に立つ。
関係ない。
そう思おうとした。
けれど、リメルがこちらを見た。
目はない。
でも、見た。
相変わらず、その感覚だけは分かる。
「俺も必要か」
聞いてしまった。
リメルが、布の端で登録書類を叩く。
こつん。
次に、部誌の俺の名前を叩く。
こつん。
ノルが目を閉じたまま言う。
「いてほしいって」
俺は息を吐いた。
「旗にまでそう言われるのか」
「好かれてますね」
リリィが言う。
「やめろ」
「照れます?」
「困る」
「なら、なおさら面白いです」
ロイが真剣に言った。
「リメルも、ルカさんのことを覚えていたいんだと思います」
その言葉は、まっすぐすぎた。
俺は返事ができなかった。
リメルが青い布を少しだけ揺らす。
ノルは、机に両腕を置き、その上に顔を伏せた。
眠る。
いつも寝ているように見えるノルが、本当に眠りに入ると、部室の空気が変わった。
少し冷える。
雨漏りの音が遠くなる。
リメルの布が、淡く光った。
「始まった」
クララが囁く。
ロイが低く光弾を発動させる。
どん。
小さく抑えた低音。
戻る合図。
ノルの指が、ぴくりと動いた。
「暗い……」
彼女が呟く。
クララがすぐに書き取る。
「木の匂い……古い布……雨……」
リメルの布が震える。
「部室?」
コレットが聞く。
ノルは首を横に振った。
「今の部室じゃない……もっと、人が多い……旗が、たくさんある……」
俺は息を止めた。
かつてのカルミア。
名門だった頃。
複数の競技部があった時代。
「誰か、走ってる……第七は、後ろ……いつも後ろ……でも、全部を見る場所……」
第七。
全部を少しずつ。
コレットが言っていた。
かつて第七魔法競技部は、雑用ではなく、全部を少しずつ担う部だった。
「青い旗……名前、違う……リメルじゃない……でも、意味は近い……残して、運ぶ……忘れないように……」
リメルが大きく震えた。
ロイが二度目の低音を鳴らす。
どん。
ノルの眉が寄る。
「消される……」
部室が凍った。
「何が?」
コレットの声が震える。
「名前……記録……旗の帳簿……第七の役目……誰かが、いらないって……」
リメルが机の上で跳ねた。
登録書類が揺れる。
ネルが思わず手を伸ばし、紙を押さえた。
「ノル先輩、戻れる?」
ネルが聞く。
ノルは答えない。
夢の中で、さらに奥へ行っている。
「白い手袋……連盟の印……違う、王立……? 書類が燃える……旗が隠される……誰かが泣いてる……」
コレットの顔から血の気が引いた。
クララのペンが走る。
アルフは無言で窓と扉を確認する。
ジャックが窓枠から降りた。
誰も茶化さない。
「旗は……覚えてる……覚えてるけど、名前がないと、呼べない……」
ノルの声が小さくなる。
リメルの光が強くなる。
まずい。
そう思った。
理由は分からない。
だが、旗の光とノルの声の細さが、危うく噛み合っている。
夢が深くなりすぎている。
「ロイ」
俺は言った。
「低音、強め。三回」
「はい」
ロイが息を吸う。
どん。
どん。
どん。
抑えた低音が、部室に三度響く。
リメルの光が揺らぐ。
ノルの指が動く。
けれど、まだ戻らない。
「ネル、机」
「何」
「揺らすな。支えろ」
「分かってる」
ノルの体が少し前へ傾く。
ネルとミラが支える。
ノルの唇が、最後に小さく動いた。
「忘れないで……第七は、最後に残す部……」
その瞬間、リメルの光が消えた。
ノルが大きく息を吸い、目を開ける。
完全に起きている目だった。
珍しい。
「……おはよう」
彼女が言った。
部室の誰も、すぐには返事をしなかった。
ロイが震える声で言う。
「お、おはようございます」
ネルが深く息を吐く。
「怖かった……」
「同感」
俺は言った。
ノルは自分の手元を見る。
部誌。
登録書類。
リメル。
それから俺たち。
「書いた?」
クララが紙束を見せた。
「全て記録しました」
「なら、大丈夫……」
ノルはまた眠そうな顔に戻りかける。
「寝るな」
俺が言うと、ノルは少しだけ不満そうにした。
「起きたばかりなのに……」
「だからだ」
コレットは登録書類を見つめていた。
その手は震えていない。
さっきまでと違う震えが、もう一段奥に沈んだようだった。
「第七は、最後に残す部」
彼女が呟く。
「全部を少しずつ、ではなく……残す部」
クララが頷く。
「第七魔法競技部の由来に関わる可能性があります。競技部というより、記録、補助、旗管理、失われるものの保存を担っていた部門だったのかもしれません」
「雑用じゃなかったってこと?」
ネルが言う。
「雑用もしていたでしょう」
クララが真面目に答えた。
「しかし、雑用という言葉で隠された機能があった可能性があります」
リリィが肩をすくめる。
「便利ですね、雑用。大事な役目も、面倒な仕事も、全部そこに押し込められる」
ジャックが低く言った。
「で、誰かがそれを消した」
その言葉で、部室の空気がまた重くなる。
連盟の印。
白い手袋。
王立かもしれない何か。
燃える書類。
隠される旗。
まだ断片だ。
だが、偶然とは思えない。
「登録しましょう」
コレットが言った。
声は静かだった。
「リメルを、正式に第七魔法競技部の旗として登録する。備考も書く。忘れ物の旗。古カルミア語で、残るもの。かつての第七部の役目に関わる可能性あり」
「連盟が嫌がるかもな」
ジャックが言う。
「嫌がるなら、なおさら記録に残しましょう」
コレットはそう答えた。
小柄な部長の声としては、ずいぶん強かった。
レイナが少しだけ微笑む。
「よろしいのではなくて。記録も品位の一部ですわ」
「品位?」
ネルが怪訝な顔をする。
「忘れられるままにしておくのは、あまりにも無作法です」
レイナらしい言い方だった。
ネルは少し黙り、それから小さく言った。
「それは、ちょっと分かる」
リメルが登録書類の上で、布を揺らした。
今度は、嬉しそうに見えた。
コレットがペンを取る。
旗種別。
古代契約性を有する自律反応旗。
備考。
忘れ物の旗。
登録名。
リメル。
意味。
残るもの。
その文字が書かれていくのを、俺は見ていた。
旗が見ていた夢。
消された記録。
忘れられた第七部の役目。
それらはまだ、何も解決していない。
ただ一つだけ、今ここで変わったことがある。
リメルはもう、ただの青い練習旗ではない。
第七魔法競技部の旗だ。
そして第七部は、勝つためだけの部ではないのかもしれない。
何かを残す部。
忘れられるものを、忘れられないようにする部。
俺は部誌の自分の名前を見た。
ルカ・ヴァレン。
仮入部。
補助。
同行予定。
消えかける名前を残す場所。
そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
リメルが、俺の名前の横を小さく叩く。
こつん。
まるで、そこも忘れるなと言うように。
「分かったよ」
俺は小さく言った。
「お前の名前も、覚えておく」
リメルは布の端を三回揺らした。
ノルが半分寝ながら、部誌に書く。
ルカ、リメルに「覚えておく」と発言。
備考、旗はとても嬉しそう。
「その備考、いるか?」
「いる……」
ノルはそう言って、今度こそ眠った。
誰も起こさなかった。
今日だけは、少し寝かせておいてもいい気がした。




