第128話 壊していい場所
フォルジア公式戦の日、ガレスは工具箱を持っていなかった。
珍しい。
いつものガレスなら、工具箱は体の一部みたいに近くにある。
列車でも。
宿舎でも。
厨房でも。
訓練場でも。
水筒と同じくらい自然に、そこにある。
でも今日は違った。
工具箱は控室の椅子の上に置かれている。
留め具は閉じている。
上に、布が一枚かけられている。
ガレス自身がかけた布だ。
「持っていかないのか」
俺が聞くと、ガレスは頷いた。
「試合中、直せない」
「応急処置は?」
「今日は、壊す場所を見る」
彼はそう言った。
手ぶらではない。
水筒は持っている。
小さな布も持っている。
でも、工具箱は持たない。
直すための手を、いったん置いていく。
壊す場所を選ぶために。
それは、ガレスにとってかなり大きなことなのだと思う。
ジャックが工具箱を見た。
「預かるか?」
ガレスは少しだけ考えた。
「控室でいい」
「そうか」
「帰り、頼む」
ジャックは少し目を丸くした。
昨日は俺に頼んだ。
今日はジャック。
壊す力を持つ者同士の、妙な信頼の渡し方だった。
「わかった」
ジャックは短く答えた。
控室の外では、フォルジアの観客の声が響いている。
工房都市の観客は、手を叩く代わりに工具を鳴らす。
かん。
こん。
きん。
競技場全体が大きな工房みたいに鳴っていた。
ロイが耳を澄ませる。
「応援の音が、全然丸くないです」
「でも、悪い音じゃない?」
ミラが聞く。
「はい。作業前の音です」
「作業前」
ノルが部誌に書く。
ガレスはその音を聞いている。
落ち着いているようにも見える。
落ち着いていないようにも見える。
ただ、昨日までより呼吸は深い。
言葉を練習した分、沈黙の形も少し変わったのかもしれない。
「ガレス」
レイナが声をかけた。
「はい」
「嫌な時は、言ってください」
ガレスは頷く。
「言う」
「怖い時も」
「たぶん」
「たぶんでも」
「言う」
確認。
それは作戦の一部だった。
相手はガレスに壊させようとする。
第七部の旗や道具を、自分たちの手で壊させるように仕向けてくる。
その時、ガレスが黙って飲み込めば、こちらは何を壊さないべきか見失う。
だから、言う。
嫌だ。
怖い。
無理かもしれない。
壊す。
壊さない。
短くてもいい。
言葉にする。
「行こう」
俺が言うと、ガレスは水を一口飲んだ。
「水は大事」
「取らない」
俺が言うと、ガレスは少しだけ眉を上げた。
「よし」
珍しく許可された。
競技場へ出る。
フォルジアの競技場は、昨日よりさらに工房らしくなっていた。
中央に破片旗クラム。
四隅に炉と水槽。
可動橋。
壊れた防壁発生器。
模擬旗竿。
交換式の足場。
すべてが、昨日とは少し配置を変えている。
罠の組み合わせが違う。
オルド・ハースが向こう側に立っていた。
フォルジア代表の主将。
彼の後ろには、工房学院の選手たち。
全員、工具帯と防護具をつけている。
オルドはガレスを見る。
「工具箱は?」
「置いた」
ガレスが答える。
「直さないのか」
「壊す場所を見る」
オルドは少し笑った。
「いい顔になったな」
「試合だ」
「ああ。真面目に壊そう」
「真面目に残す」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は観客の前だ。
工具の音が少しだけ大きくなる。
審判が中央へ立つ。
「本試合は通常旗取り規則に基づく。破片旗クラムへの接触で捕獲判定。競技中の設備破壊は、指定範囲内に限り許可。相手旗本体への直接破壊は禁止。ただし、自陣道具および補助具の自己破損は競技上の判断とする」
嫌な規則だ。
自己破損は競技上の判断。
つまり、罠に乗って自分たちの道具を壊せば、こちらの責任。
ガレスの手が少しだけ動いた。
でも、すぐ止まる。
「嫌だ」
彼が小さく言った。
俺たちは聞いた。
ジャックも聞いた。
「聞こえた」
ジャックが言う。
「よし」
ガレスは頷いた。
試合開始の鐘は、金槌の音だった。
かん。
「始め」
フォルジア側が最初に動いた。
速い。
だが、走る速さではない。
仕掛けが速い。
オルドが手を振ると、競技場中央の可動橋が動いた。
橋の赤い印が光る。
同時に、クラムがその方向へ揺れる。
壊れたものを集める旗。
壊れそうなものにも近づく。
オルドが声を上げる。
「橋を落とせば旗は重くなるぞ、カルミア」
挑発。
いや、情報提示の形をした挑発。
橋を落とせば、クラムは破片を集めて重くなる。
重くなれば捕まえやすい。
ただし、水路が塞がり、逃げ道が変わる。
昨日見た罠だ。
「ガレス」
俺が呼ぶ。
「壊さない」
ガレスはすぐ答えた。
「橋は?」
「落とさない」
「じゃあ、どうする」
ガレスは橋ではなく、水路を見る。
その横に、小さな支柱がある。
赤い印はない。
壊していい場所ではない。
でも、支柱の根元に、余計な金具が噛んでいる。
橋を落とすための誘導金具。
ガレスが手をかざす。
「壊す」
「どこ」
アルフが確認する。
「罠だけ」
黒い亀裂が走る。
赤い印ではなく、支柱の根元の小さな誘導金具へ。
かん。
金具だけが割れた。
橋は落ちない。
水路は塞がらない。
ただ、橋を落とす仕掛けだけが動かなくなった。
観客席がどよめく。
オルドが口角を上げる。
「そこを見たか」
「橋は残す」
ガレスが言う。
クラムが橋の上で揺れる。
破片を集められなかった。
しかし、罠の金具の破片が一つ飛ぶ。
クラムがそれを拾おうとする。
ロイが叫ぶ。
「罠の破片です」
ノルが部誌に書いていた言葉。
守った破片。
誘われた破片。
罠の破片。
違う。
「クラムに拾わせるな」
ガレスが言った。
ミラが動く。
浅い筋力強化。
足場を踏み、破片の転がる方向を止める。
強化後に止まる。
でも、今回は止まる場所を選んでいる。
破片はミラの足元で止まった。
クラムは拾えない。
ミラは少しだけ笑う。
「場所になった」
「助かる」
ガレスが短く言う。
第一の罠は砕いた。
橋は残った。
水路も残った。
クラムは重くならない。
悪くない。
だが、フォルジアは止まらない。
次に動いたのは、三つの防壁発生器だった。
派手に火花を散らすもの。
外装が割れたもの。
静かなもの。
昨日見た配置に似ている。
だが、位置が違う。
フォルジア側の選手が、火花を散らす発生器の近くへ走る。
わざとらしく叫ぶ。
「ここが危ない!」
リリィが即座に言う。
「嘘っぽい危ないです」
「同感」
ネルが短く返す。
ガレスは静かな発生器を見る。
しかし、昨日とは違う。
静かな発生器の背面に、第七部の補助旗台へつながる細い線がある。
もし、背面の逃がし弁を壊せば、線を伝って補助旗台が歪む。
それは第七部の旗周りだ。
壊させる罠。
オルドの声が飛ぶ。
「静かなやつだろ、ガレス! 昨日覚えたな!」
ガレスの手が動きかける。
昨日なら、背面の逃がし弁。
でも、今日は違う。
同じ形に見せて、周りを変えている。
「嫌だ」
ガレスが言った。
小さいが、聞こえた。
「何が」
ジャックが聞く。
「旗台につながってる」
アルフがすぐ見る。
「本当だ。細い線がある」
クララも頷く。
「工房式の接続線です。現代式なので読めませんが、配置は不自然です」
「壊さない?」
俺が聞く。
「壊す」
ガレスは言った。
「でも、背面じゃない」
彼は手を低く構える。
狙うのは発生器本体ではない。
発生器と補助旗台をつなぐ細い線の、途中にある小さな固定環。
それは壊しても、発生器の圧は抜けない。
でも、補助旗台への伝達は切れる。
かん。
固定環が割れた。
線が床へ落ちる。
その後で、ガレスは背面の逃がし弁を砕いた。
発生器の圧が、水槽へ逃げる。
補助旗台は歪まない。
クラムが発生器の破片へ近づく。
今度は、ガレスが止めない。
「これは?」
ロイが聞く。
「守った破片」
ガレスが答えた。
クラムが破片を拾う。
からん。
旗が少し重くなる。
でも、嫌な重さではない。
ロイが耳を澄ませる。
「さっきより丸いです」
「破片の音が?」
「はい」
守った破片。
罠の破片。
音が違う。
ロイがそれを聞き分ける。
「ロイ、記録」
俺が言う。
「はい。罠の破片は尖る。守った破片は少し丸い」
ノルが部誌に書く。
クラムは重くなった。
だが、その重さは旗の動きを鈍らせるだけではなかった。
守った破片を持つクラムは、少しだけ逃げ方が素直になった。
罠の破片を拾いかけた時の嫌な揺れとは違う。
「重さにも種類がある」
クララが言った。
アストラムで分類の違いを見た後だからか、その言葉がよく響く。
重ければ悪いわけではない。
壊れたものなら全部同じではない。
守った破片は、道になる。
罠の破片は、道を歪める。
フォルジア側は、三つ目の罠を動かした。
模擬旗竿。
それが第七部の補助旗台の近くへせり上がる。
見た目は古い木の芯。
金属の補強。
少し、第七部の練習旗に似ている。
わざとだ。
俺の胸の奥が少しざわつく。
第七部の旗。
忘れられた部室の旗。
古代術式を持ち、俺たちの欠陥に反応してきた旗。
それに似たものを、壊していい罠として置く。
嫌な作りだ。
オルドが声を上げる。
「そいつを折れば、クラムは一気に重くなる! ただし、本物の旗台に触れるなよ!」
言葉だけなら親切だ。
でも、罠だ。
ガレスは模擬旗竿を見る。
俺たちの補助旗台を見る。
本物の旗を見る。
手が動かない。
迷っている。
壊していいものと、壊してはいけないものが似すぎている。
ここで壊せば、何かを間違えそうになる。
「ガレス」
ジャックが呼ぶ。
「嫌か」
ガレスは短く答えた。
「嫌だ」
「怖いか」
「怖い」
言えた。
試合中に。
観客の前で。
相手の罠の前で。
ガレスが、嫌だと、怖いと言った。
それだけで、少しだけ道が開いた気がした。
「じゃあ、見るの手伝う」
ジャックが前へ出る。
攻撃魔法を構えない。
目で見る。
壊したくない場所を見る。
ガレスが昨日教えたことを、ジャックが使う。
「本物はどこだ」
ジャックが聞く。
アルフが補助旗台の境界を示す。
クララが古代術式の反応を見る。
ノルが部誌ではなく、本物の旗の揺れを見ている。
ロイが音を聞く。
リリィがグレイを出す。
グレイは震えながら、本物の旗の匂いへ寄る。
模擬旗竿には寄らない。
「本物、こっちです」
リリィが言う。
「グレイ基準ですけど」
「十分」
ガレスが答えた。
彼は手をかざす。
模擬旗竿ではなく、その根元の影を見る。
そこに、薄い連結板がある。
折るための板。
模擬旗竿を折らせるための罠。
それを砕けば、旗竿は倒れない。
ただ、罠だけが死ぬ。
「罠だけ」
ガレスが言う。
黒い亀裂が走る。
かん。
連結板が割れた。
模擬旗竿は折れない。
本物の旗台も揺れない。
クラムは破片へ近づきかけ、すぐに離れた。
ロイが言う。
「尖った音です」
「罠の破片」
ノルが書く。
ミラが足場を踏み、破片がクラムへ転がるのを止める。
ネルが一瞬だけ動いて、破片を外周へずらす。
アルフが片側結界で、クラムの進路を閉じずに逸らす。
フォルジア側の選手たちが少し焦り始めた。
三つの罠。
橋。
発生器。
模擬旗竿。
その全部を、ガレスは壊す場所を選んで処理した。
相手が壊させたいものは壊さない。
罠だけを砕く。
守った破片だけを、クラムに渡す。
第一段階は成功だ。
だが、オルドはまだ笑っている。
「いいね」
彼は言った。
「なら、次は本番だ」
競技場の床が鳴る。
四隅の炉が同時に赤く光る。
水槽の水が揺れる。
中央のクラムが、これまでより大きく旗布を広げた。
フォルジア側が、全体仕掛けを起動したのだ。
壊れた部品だけではない。
競技場そのものが、壊れる寸前の状態へ移る。
どこかを壊さなければ、全体が歪む。
しかし、壊す場所を間違えれば、第七部の旗周りが巻き込まれる。
ガレスの顔が、少しだけ険しくなる。
「ガレス」
俺は呼ぶ。
「今のは?」
ガレスは競技場全体を見る。
橋。
発生器。
旗台。
炉。
水槽。
クラム。
壊れていいもの。
壊れてはいけないもの。
守った破片。
罠の破片。
その全部が一つの仕掛けになっている。
「多い」
彼は言った。
「怖い」
ジャックがすぐ返す。
「聞こえた」
ガレスは頷く。
水筒を一口飲む。
そして、初めて少し大きな声で言った。
「残すものを決める」
試合はまだ終わらない。
第一段階は成功した。
でも、フォルジアの本当の罠はここからだった。
クラムが、守った破片を鳴らす。
からん。
丸い音。
それが、次に壊す場所を教えるように響いた。




