第126話 修理跡を読む
ガレスの修理跡は、目立たない。
目立たないように直しているからだ。
完全に元通りにするのではない。
派手に補強するのでもない。
使う人が、次に使う時に困らないように。
壊れたことを忘れなくてもいいけれど、壊れたせいで手が止まらないように。
そういう直し方をする。
フォルジアに来てから、それが少しずつ見えるようになった。
最初に気づいたのは、宿舎の食堂の椅子だった。
ノルが座る椅子。
背もたれの右側に、細い針金が巻かれている。
ぱっと見ただけではわからない。
でも、近づいて見ると、木の割れ目に沿って、針金と薄い布が入っていた。
修理したのはガレスだ。
ノルが寝落ちして横へ傾いた時、背もたれが少し軋んだ。
誰も騒がなかった。
ガレスだけが見ていた。
その夜、椅子は直っていた。
ノルは翌朝、何も気づかずに座って、普通に寝た。
それでいいのだろう。
ガレスの修理は、そういうところにある。
気づかれなくてもいい。
でも、倒れない。
二つ目に気づいたのは、ロイの小さな音板だった。
ロイは最近、五つの小さな音を使い分ける練習をしている。
山岳校で覚えた、完成音ではなく途中の音。
リブランで、五つ目を待つことを覚えた。
アストラムで、生音が文字より残ることも知った。
その音板の端が、少し欠けていた。
ロイは気づいていなかった。
いや、気づいていたかもしれないが、練習に夢中でそのまま使っていた。
翌日、音板の欠けた端に、薄い金属がかぶせられていた。
音は変わっていない。
むしろ、少し鳴らしやすくなっていた。
ロイは「今日は音が置きやすいです」と喜んでいた。
ガレスは何も言わなかった。
三つ目は、リリィの鞄の留め具だった。
迷子一号とグレイが入ったり出たりするせいで、リリィの鞄はかなり酷使されている。
留め具は曲がっていた。
外れそうだった。
ある朝、それが直っていた。
ただし、完全には閉まらないようになっていた。
リリィは気づいて眉をひそめた。
「これ、直ってるのに少し開きますね」
ガレスは言った。
「グレイが詰まる」
グレイは鞄の中で震えた。
留め具は、閉まりすぎないように直されていた。
それも修理なのだと、俺はその時思った。
壊れているものを元通りにするだけではない。
使う人と、入っている召喚獣に合わせて直す。
四つ目は、ジャックが壊した訓練標的だった。
第125話の朝、ジャックはガレスとぶつかり、赤い印を半分砕いた。
青い線にも少しひびを入れた。
ガレスはそれを手で仮止めした。
その標的は、まだ訓練場の端に置かれている。
完全修理ではない。
青い線には、ひびの跡が残っている。
でも、ひびの周りに細い補強が入っている。
見ればわかる。
壊した場所。
直した場所。
ジャックが針金を押さえた場所。
その全部が残っている。
ジャックは、何度かその標的を見に行っていた。
何も言わない。
ただ見る。
ガレスも何も言わない。
でも、標的は片づけられていない。
あれはたぶん、壊した後を放っておかないための記録だ。
ノルが言うところの、部誌ではない記録。
俺は、そういう修理跡を見て回っていた。
理由は、自分でも少しわからない。
ただ、気になった。
ガレスが何も言わない分、跡が言葉の代わりになる気がした。
リブランで、名前の欠けた記録を見た。
アストラムで、食べられた文字の道を見た。
フォルジアでは、修理跡を見る。
どれも、本人が全部を語らなくても残るものだ。
昼前、俺は宿舎の裏手にある小さな作業台で、ガレスを見つけた。
彼は父親の補助具を直していた。
黒い岩片のはまった金具。
何度も直され、何度も使われた跡がある。
ガレスはそれを布の上に置き、じっと見ている。
手を出す前の時間が長い。
壊れた場所を見ているのだろう。
壊れていない場所も。
俺は少し離れたところに座った。
「見ていいか」
ガレスは頷く。
「いい」
俺は補助具を見る。
正直、どこがどう壊れているのか、詳しくはわからない。
でも、何度も触られた跡はわかる。
金属の色が違う。
継ぎ足した部分がある。
磨かれた場所と、あえて磨かれていない場所がある。
黒い岩片の周りには、薄い布が挟まれていた。
「これは?」
俺が聞くと、ガレスは短く答える。
「直接締めると割れる」
「だから布?」
「そうだ」
傷を直接持たない。
周りを持つ。
ここにもある。
「父親の道具なんだよな」
ガレスは頷く。
「まだ使うのか」
「使わない」
「じゃあ、どうして直してる?」
ガレスは補助具を見る。
長い沈黙。
でも、昨日の沈黙とは少し違う。
壊すのを遅らせる沈黙ではない。
言葉を探す沈黙。
「壊れたままだと、終わる」
彼は言った。
「直ると?」
「終わらない」
その答えに、俺は少し息を止めた。
使わないもの。
父親の道具。
自分が壊したもの。
それを直しているのは、使うためではない。
終わらせないため。
リブランの言葉を思い出す。
忘れたものも、なかったことにはしない。
ガレスの場合は、壊れたものも、終わったことにしない、なのかもしれない。
「それ、優しいな」
俺が言うと、ガレスは眉を寄せた。
「違う」
「違うのか」
「怖い」
「怖い?」
「壊れたまま置くのが」
優しさではなく、怖さ。
でも、怖いから手を出すことも、優しさに見える。
本人がそう呼ばなくても。
「ガレスの修理って、優しいと思う」
俺は言った。
ガレスは少し困った顔をする。
「違う」
「怖いからでも?」
「違う」
「じゃあ、何だ」
ガレスは補助具を持ち上げる。
光に透かす。
黒い岩片の周りの布が、少しだけずれている。
彼はそれを直す。
「置けない」
「置けない」
「困るものを、そのまま置けない」
その言葉で、いろいろなものがつながった。
水を置く。
椅子を直す。
スープを残す。
音板を補強する。
鞄の留め具を閉めすぎないようにする。
ノルが寝る場所を見る。
ミラが止まる床を見る。
ジャックが壊した標的を片づけない。
困るものを、そのまま置けない。
それがガレスの優しさだ。
本人は優しさと呼ばない。
怖いと言う。
置けないと言う。
でも、受け取る側には優しさとして届く。
「それを、俺は優しいって呼ぶ」
俺が言うと、ガレスは少しだけ目を逸らした。
「呼ぶな」
「嫌か」
「落ち着かない」
「じゃあ、たまに呼ぶ」
「やめろ」
珍しく会話が少し続いた。
俺は笑った。
ガレスは笑わない。
でも、補助具を持つ手は乱れなかった。
その時、ミラが作業台の近くへ来た。
手には、訓練用の足首固定具がある。
「ガレス、これ見て」
彼女は固定具を差し出す。
「昨日、強化後に止まった時、ここが当たる」
ガレスは固定具を見る。
俺との会話から、すぐ作業へ移る。
そういう切り替えは早い。
「痛いか」
「少し」
「少しは駄目だ」
ガレスは固定具を受け取り、内側を見る。
ミラが少し笑う。
「少しでも駄目なんだ」
「止まる時、大きくなる」
「なるほど」
ガレスは薄い布を切る。
固定具の内側に当てる。
直接金具を曲げない。
当たる場所の周りを変える。
ここでも、周りを持つ。
ミラはそれを見ながら言った。
「ガレスはさ、私が止まるの嫌じゃない?」
ガレスは手を止めない。
「嫌じゃない」
「止まると、邪魔じゃない?」
「場所になる」
ミラは少し黙った。
場所になる。
それは、彼女が山岳校で少しずつ掴んだことでもある。
止まることが失敗だけではなく、誰かの足場になること。
ガレスは当然のようにそう言った。
「じゃあ、ガレスの壊すのも場所になるね」
ミラが言う。
ガレスの手が止まる。
「壊すのが?」
「うん。壊す場所を選ぶと、そこが通る場所になる。昨日の炉心みたいに」
ガレスは黙った。
ミラは続ける。
「私の止まる場所を見てくれるなら、ガレスの壊す場所も、私たちが見るよ」
それは、ミラらしいまっすぐな言葉だった。
ガレスはすぐには答えない。
でも、固定具の布を丁寧に押さえる手が、少しだけ柔らかくなった。
「助かる」
短い返事。
でも、ミラは満足そうに頷いた。
作業台には、ガレスの修理中のものが増えていく。
父親の補助具。
ミラの固定具。
ロイの音板。
リリィの鞄の予備留め具。
ノルの椅子の針金の余り。
ジャックの標的に使った補強材。
どれも小さい。
でも、全部誰かにつながっている。
俺はその並びを見て、ようやく気づいた。
ガレスの工具箱は、道具入れではない。
第七部の困ったところが少しずつ入っている箱だ。
壊れたもの。
壊れそうなもの。
痛いもの。
足りないもの。
直接持つと傷つくもの。
それらを、ガレスは持っている。
黙って。
重そうにしないようにして。
でも、重いのだ。
だから、工具箱を何度も確認する。
落ち着くために。
失くさないために。
誰かの困るものを、そのまま置かないために。
「ガレス」
俺は言った。
「何だ」
「工具箱、たまに持つよ」
ガレスは即答した。
「重い」
「知ってる」
「壊れる」
「大事に持つ」
「中身、ずれる」
「じゃあ、持ち方を教えてくれ」
ガレスは黙った。
断ると思った。
でも、彼は工具箱を少しこちらへ向けた。
「ここを持つな」
留め具の近くを指す。
「ここは?」
「いい」
「斜めにしたら?」
「駄目」
「横は?」
「短い距離なら」
持ち方の説明が始まった。
かなり細かい。
リリィなら「工具箱に対する過保護」と言いそうだ。
でも、俺はちゃんと聞いた。
工具箱の持ち方を教えることは、ガレスにとって少し大きい気がしたからだ。
全部を自分で持たない。
周りを持つ人が、周りを持たれる。
昨夜の続きを、少しだけやっている。
俺が工具箱を持ち上げると、確かに重かった。
道具の重さだけではない。
中に入っている修理跡の重さ。
誰かの困ったものの重さ。
ガレスが普段、何気なく持っているもの。
「重いな」
俺が言うと、ガレスは頷いた。
「重い」
「よく持ってる」
「慣れた」
「慣れても重いものは重い」
ガレスは少しだけ俺を見る。
何か言い返すかと思ったが、言わなかった。
代わりに、短く言った。
「そうだな」
その一言が、また一つ修理みたいに聞こえた。
午後、リューネ教師が正式観察のために俺たちを呼びに来た。
破片旗クラムが、競技場で動くところを見るらしい。
ガレスは工具箱を閉める。
確認は一度だけ。
俺が横から手を出す。
「持つ」
ガレスは少し迷った。
それから、首を横に振る。
「競技場までは俺が持つ」
「そうか」
「帰り、頼む」
俺は少し驚いた。
でも、すぐ頷いた。
「わかった」
頼まれた。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
ガレスは歩き出す。
工具箱を持って。
水筒も持って。
でも、今朝までより少しだけ、背中が軽く見えた。
修理跡は目立たない。
でも、そこにある。
ガレスの優しさも、たぶん同じだ。
本人はそう呼ばれたがらない。
だから、今は心の中だけで呼んでおく。
困るものを、そのまま置けない人。
それが、ガレス・モルンの修理跡だった。




