第124話 手で直す理由
その夜、ガレスは宿舎の厨房にいた。
フォルジアの宿舎には、小さな共同厨房がついている。
工房都市らしく、鍋も炉も妙に頑丈だった。
取っ手は熱くなりにくい合金。
火力調整は足元のペダル。
水場には、割れた陶器を一時的に固定するための小さな樹脂器具まで置いてある。
たぶん、料理中に何かを壊す人が多いのだろう。
あるいは、壊れたものを見るとすぐ直したくなる街だから、厨房にも修理道具があるのかもしれない。
ガレスはそこで、夜食を作っていた。
具の多いスープ。
硬いパンを浸して食べるやつ。
いつものように、量が多い。
ガレスの料理は、いつも「誰かが食べ損ねる」前提で作られている。
それは予知ではなく、経験だ。
ネルが試合後に食欲をなくす。
ロイが練習に夢中で時間を忘れる。
ノルが寝て食べそびれる。
リリィが毒舌を言いながら結局食べる。
ジャックがいらないと言って後で食べる。
そういうことを、ガレスは黙って覚えている。
だから多めに作る。
水も置く。
椅子の位置も見る。
料理というより、周りを持つことの一部なのだと思う。
俺は厨房の入口に立った。
「手伝うか」
ガレスは鍋を混ぜながら答えた。
「座れ」
「手伝いにはならない?」
「火が強い」
「俺が?」
「たぶん」
少しひどい。
でも、否定しきれない。
俺は素直に近くの椅子に座った。
厨房の机の上には、ガレスの工具箱が開いていた。
料理の横に工具箱。
普通なら変な光景だ。
でも、ガレスだと違和感が薄い。
鍋を見ながら、彼は小さな金具も直していた。
昼間の解体実習場で拾ったものではない。
自分の工具箱に前から入っていた古い補助具。
黒い岩片のはまった金具。
何度も見たやつだ。
ガレスはスープを混ぜる。
火を弱める。
金具を持つ。
歪みを見る。
針金を曲げる。
また鍋を見る。
どちらも同じ手つきだった。
「それ、ずっと直してるな」
俺が言うと、ガレスは頷いた。
「直るのか」
「使える」
「直る、じゃなくて?」
「使える」
ガレスは短く言い直さない。
そこには違いがあるのだろう。
完全に元通りになること。
まだ使えること。
ガレスが目指しているのは、たぶん後者だ。
直せるものは必ず直す。
フォルジアの案内紙にあった言葉。
でも、ガレスの修理は必ず元に戻すことではない。
まだ使う人がいるなら、使えるところまで持っていく。
それは、少し違う。
「昔のものか」
俺が聞くと、ガレスは鍋を混ぜる手を止めた。
少しだけ。
「家の」
「家?」
「親父の道具」
初めて聞く話だった。
ガレスは自分の過去をあまり話さない。
レイナの家のことや、ジャックの悪評や、リリィの元学校の話に比べても、ガレスの過去は静かに隠れていた。
隠しているというより、言う必要がないと思っているような隠れ方だ。
「親父さんも修理を?」
ガレスは頷く。
「小さい工房」
「フォルジア?」
「違う。田舎」
鍋が小さく煮立つ。
ガレスは火を弱める。
それから、金具を手に取った。
「壊れた鍬。水車の歯。椅子。鍋。何でも」
「ガレスも手伝ってた?」
「見てた」
「見てた」
「触ると、怒られた」
意外だった。
ガレスが怒られるところは、あまり想像できない。
「危ないから?」
「壊すから」
短い言葉。
でも、重い。
幼いガレスが、直したくて触る。
でも、魔法が出る。
壊れる。
怒られる。
それを何度も繰り返したのだろうか。
「最初から破壊魔法だったのか」
ガレスは頷く。
「直したかった」
彼は金具を見る。
「割れた皿。椅子の脚。水車の歯。魔法を使った」
結果は、聞かなくてもわかる。
「壊れた」
ガレスが言う。
「もっと」
もっと壊れた。
直したかったのに。
魔法を使えば使うほど。
だから、手で覚えた。
「親父さんは?」
「手を見ろ、と言った」
「手?」
「魔法じゃなくて、手。目。周り」
ガレスは針金を曲げる。
小さく、ゆっくり。
「傷を直接持つな。周りを持て」
俺は息を止めた。
ガレスの言葉。
何度も聞いた言葉。
傷を直接持たない。
周りを持つ。
それは、ガレスの父親から来た言葉だったのか。
ガレスは特に感傷的な顔をしない。
ただ、スープの灰汁を取る。
同じ手つきで。
「親父さん、いい人だったんだな」
ガレスは少し考えた。
「怖い」
「怖い人?」
「手が」
手が怖い。
また短くて、すぐにはわからない言い方。
ガレスは自分の手を見る。
「壊す手を、止めなかった」
それは、父親がガレスの手を怖がらなかったということだろうか。
直そうとして壊す子ども。
触ると余計に壊す手。
でも、その手を取り上げなかった。
魔法を使うなと言っただけではなく、手で見ることを教えた。
それは、たぶん厳しくて、優しい。
「この金具も?」
「親父の補助具」
ガレスは黒い岩片を指で押さえる。
「割れた。俺が」
鍋の音が、少しだけ大きくなる。
俺は何も言わなかった。
ガレスも、すぐには続けなかった。
厨房の外から、廊下を歩く音がする。
誰かが来かけて、止まった。
たぶん、気を利かせている。
それが誰かはわからない。
ガレスは火を止めた。
スープの匂いが広がる。
「直したかった」
彼は言った。
「親父が使うものだった」
「魔法を使ったのか」
ガレスは頷く。
「早く直したかった」
早く。
ブランが言った言葉を思い出す。
手作業だと遅い。
競技中には間に合わない。
修復魔法なら一分半。
ガレスは昔から、遅さに苦しんでいたのかもしれない。
早く直したい。
だから魔法を使う。
でも、壊れる。
「それから、手で?」
「手で」
ガレスは金具を布の上に置く。
「遅い」
「でも、悪くない」
俺が言うと、ガレスは少しだけこちらを見た。
「リューネ先生の受け売りだ」
「合ってる」
ガレスは何も言わない。
でも、否定もしなかった。
厨房の扉が少し開いた。
リリィが顔を出す。
「重い話の匂いとスープの匂いがします」
「入り方」
俺が言うと、リリィは肩をすくめた。
「空腹なので許してください」
後ろにロイとノルもいた。
ノルは半分寝ている。
でも、部誌を持っている。
ガレスは何も言わずに椀を出す。
三つ。
いや、五つ。
廊下の向こうからネルとミラも来る。
結局、全員来る。
ガレスは最初からその量を作っていた。
「やっぱり多いと思いました」
レイナが椅子に座りながら言う。
「多い方がいい」
ガレスは答える。
「水と同じですね」
ロイが言う。
「水は大事」
全員が少し笑った。
スープが配られる。
硬いパンを浸す。
フォルジアの厨房で、俺たちは夜食を食べた。
アストラムの会議室よりずっと雑で、リブランの書庫よりずっと騒がしい。
でも、ガレスの周りは落ち着く。
料理がある。
水がある。
椅子が足りている。
ノルが寝ても倒れない位置にいる。
リリィの毒舌が強すぎない。
ジャックが黙ってスープを飲んでいる。
それら全部を、ガレスはたぶん修理と同じように見ている。
「ガレス先輩」
ロイがスープを飲みながら言った。
「料理も修理なんですか」
ガレスは少し考える。
「違う」
「違いますか」
「でも、近い」
「何が近いんですか」
「足りないところを埋める」
ロイが目を丸くする。
ノルが部誌を開く。
「足りないところを埋める」
ガレスは続ける。
「腹。水。椅子。布。時間」
短い単語が並ぶ。
でも、その一つ一つに、ガレスがいつも見ているものがある。
腹が減っている人。
喉が乾いている人。
座る場所がない人。
直接持つと痛いものに巻く布。
急ぐと壊れるものに必要な時間。
ガレスは、そういう足りないところを埋めてきた。
魔法ではなく。
手で。
料理で。
水で。
工具箱で。
「修理班には置けない」
ジャックが急に言った。
空気が少し止まる。
彼は椀を見たまま続ける。
「でも、修理班の周りに置く価値がある、だっけ」
ノルが頷く。
「書いた」
「その言い方、俺は嫌いだ」
ジャックは正直に言った。
「修理班には置けないって言われて、周りで我慢しろみたいで」
レイナが少し心配そうに見る。
でも、今回は止めなかった。
ジャックは怒鳴っていない。
ただ、苛立ちを言葉にしている。
「ガレスは、それでいいのか」
ガレスはスープをよそう手を止めた。
みんなが彼を見る。
ガレスは少しだけ考える。
「よくない」
短い答え。
でも、はっきりしていた。
ジャックが顔を上げる。
「じゃあ」
「でも、合ってる」
また、その言葉。
いいことと、合っていることは違う。
ガレスはそこに立っている。
「合ってるから、嫌だ」
ガレスが言った。
厨房が静かになる。
ガレスがそこまで感情を言葉にするのは珍しい。
合ってるから、嫌だ。
修理班には置けない。
破壊魔法が危ない。
それは正しい。
だから反論できない。
でも、正しいから傷つかないわけではない。
「そう言えばいいだろ」
ジャックが言う。
「今言った」
「遅い」
「遅い」
ガレスは認めた。
少しだけ笑いが漏れる。
ジャックも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「遅くても言えたならいい」
レイナが言った。
「必要な遅さです」
リューネ教師の言葉が、少し形を変えて戻ってくる。
ガレスは水を飲んだ。
自分のために。
「魔法で直したいか」
俺は聞いた。
少し踏み込んだ質問だった。
でも、今なら聞ける気がした。
ガレスは金具を見る。
父親の補助具。
自分が壊したもの。
まだ使えるように、何度も手で直しているもの。
「直したい」
彼は言った。
「でも、直せない」
「いつか直せるようになりたい?」
ガレスは首を横に振った。
少し意外だった。
「違うのか」
「壊す魔法でいい」
ガレスは自分の手を見る。
「壊す場所を間違えなければ」
それは、昼間の解体実習場で見たことだった。
炉心を守るために、外枠だけを壊した。
破片旗クラムが、その破片を守ったものとして集めた。
壊す魔法でいい。
ただし、壊す場所を間違えなければ。
その言葉は、ガレスの章の真ん中に置かれるべきものに思えた。
ノルもそう思ったのか、部誌に大きめに書いている。
壊す魔法でいい。
壊す場所を間違えなければ。
「でも、間違えたら?」
ミラが聞いた。
彼女は、強化後に止まる自分の体を知っている。
力の使い方を間違える怖さも知っている。
ガレスは答える。
「直す」
「手で?」
「手で」
「時間がかかったら?」
「かける」
その答えは、とてもガレスだった。
速さで勝てないなら、時間をかける。
魔法で直せないなら、手で直す。
間に合わないこともある。
でも、それでも手を離さない。
ロイが小さく言う。
「ガレス先輩の修理は、諦めないのが遅いんですね」
みんながロイを見る。
ロイ自身も、自分の言葉に少し驚いている。
ガレスは考えた。
そして頷いた。
「それでいい」
ノルが部誌に書く。
諦めないのが遅い。
リリィが覗き込む。
「良い言葉ですね。ロイさん、たまにすごく刺します」
「刺しましたか」
「良い意味で」
厨房の空気が少し軽くなる。
スープはなくなっていく。
多めに作ったはずなのに、ちゃんとなくなる。
ガレスは最後に、ノル用の分を小さな鍋に残しておいた。
「ノル、寝た後に起きる」
「今食べてる」
ノルは眠そうに抗議する。
「また起きる」
「たぶん」
「だから残す」
ガレスは淡々と言う。
ノルは少しだけ口元を緩めた。
「未来のため」
「そうだ」
ガレスは頷く。
焼き菓子を残すノル。
スープを残すガレス。
どちらも、未来へ少しだけ自分を残す行為なのかもしれない。
夜食が終わった後、みんなが片づけを始めた。
ガレスはいつものように全部自分でやろうとしたが、レイナが布巾を取った。
ミラが椀を運ぶ。
ロイが水を替える。
リリィが「私は皿を割らない係です」と言いながら皿を拭く。
ジャックは無言で重い鍋を持った。
ガレスが少しだけ困った顔をする。
「俺がやる」
「周りを持つんだろ」
ジャックが言った。
「今日は周りを持たれろ」
ガレスは黙った。
それから、ほんの少しだけ頷いた。
「わかった」
その一言が、今日いちばん修理に近い音をした。
全部を自分で持たない。
周りを持つ人が、周りを持たれる。
厨房の片づけが終わった後、ガレスは父親の補助具を布で包み直した。
まだ完全には直っていない。
でも、使える。
彼は工具箱へ戻し、留め具を閉める。
確認は一度だけ。
それから、水筒を持つ。
自分のために一口飲む。
「水は大事」
俺が先に言うと、ガレスは少しだけ眉を上げた。
「取るな」
珍しく、少しだけ冗談みたいに聞こえた。
俺たちは笑った。
ガレスも、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
手で直す理由。
魔法で直せないから。
直したくて壊したから。
傷を直接持たず、周りを持つと教わったから。
そして、壊す魔法でいいと、少しずつ思い始めているから。
夜の工房都市で、炉の赤い光が窓の外に揺れている。
ガレスの工具箱は、机の上で静かだった。
今日はもう、何度も確認されていない。




