第120話 警戒記録
アストラムで勝った翌日、研究校は少し静かだった。
いつも静かではある。
でも、種類が違う。
最初に来た時の静けさは、測定するための静けさだった。
白い壁。
銀の線。
魔法板。
こちらを見る研究員たち。
分類し、記録し、処理するための静けさ。
今日の静けさは、少しだけ考えるためのものに変わっていた。
少なくとも、俺にはそう見えた。
昨日の公式戦。
作戦書を食べられた第七部は、文字になる前の痕跡をつないで字喰旗グラマに勝った。
クララは、読めない現代魔法式ではなく、グラマが食べた文字の後に残る古い道を読んだ。
欠陥魔法と分類されていたものが、古代旗術式上では意味のある痕跡として機能する可能性を、試合で示してしまった。
示してしまった。
その言い方が、一番近い。
勝ったことは嬉しい。
でも、勝ったことで開いた扉がある。
その向こうから、誰かがこちらを見始めている。
俺たちは、アストラム中央棟の会議室に呼ばれていた。
ディオン・アルグレイ主任。
研究校の副学院長。
競技連盟の観測官。
そして、通信板越しに連盟標準化部門の担当者。
肩書きが増えるほど、部屋の空気は硬くなる。
リリィが椅子に座る前から嫌そうな顔をしていた。
「会議室の名前がもう嫌です」
「名前?」
ロイが聞く。
「標準調整会議室。調整されそうです」
「されないようにしましょう」
レイナが静かに言う。
その静けさが少し頼もしい。
クララは青い栞を持っている。
ノルは部誌を抱えている。
ガレスは水を置く。
アルフは部屋の出入口と窓の位置を見ている。
ジャックは壁際に立とうとして、レイナに座るよう促され、しぶしぶ座った。
俺は水筒に触れる。
飲む。
待つ。
会議は、副学院長の挨拶から始まった。
副学院長は、白髪の女性だった。
声は穏やかだが、目が鋭い。
「カルミア魔法学園第七魔法競技部の皆さん。昨日の公式戦、勝利おめでとうございます」
「ありがとうございます」
俺が答える。
「同時に、昨日の試合は当学院の欠陥魔法分類研究に大きな課題を投げかけました」
課題。
研究校らしい言い方だ。
「クララ・ヴェルムさんの古代旗術式読解、字喰旗グラマへの対応、分類語の摂取後に残る非文字痕跡の活用。いずれも、現行分類では説明が不十分です」
クララは黙って聞いている。
褒められているようでもあり、研究対象にされているようでもある。
たぶん、両方だ。
ディオン主任が資料を表示する。
昨日の試合記録。
グラマが食べた作戦書。
分類文字。
白紙。
停止合図。
ルカという戻り言葉。
壁に、すべてが整然と並ぶ。
整然と並べられると、昨日の熱が少し遠くなる。
でも、ノルが部誌に書いた言葉も、資料の端に引用されていた。
文字になる前の第七部で勝った。
その一文だけ、会議室の白さの中で少し浮いている。
「この表現は」
通信板の向こうから声がした。
連盟標準化部門の担当者。
姿はぼんやりしているが、声は硬い。
「競技記録としては詩的すぎます。公式報告では、非文字痕跡連携による即興戦術成功、程度に整理すべきでしょう」
ノルが目を細めた。
危ない。
眠そうな記録係が、不機嫌な記録係になりかけている。
「整理しすぎ」
ノルが言った。
会議室が少し止まる。
通信板の向こうの声が一拍遅れる。
「何か」
「非文字痕跡連携、だけだと、誰が何をしたか消える」
ノルは部誌を開く。
「ロイの音。レイナの失敗。グレイの匂い。ミラの足場。ガレスの周り。アルフの片側。ジャックの壊さない圧。コレットの戻る未来。クララの栞。ルカの戻り言葉」
一つずつ言う。
眠そうなのに、はっきり。
「それをまとめすぎると、また欠陥になる」
また欠陥になる。
その言葉は、会議室の白い壁にぶつかって、少しだけ反響した。
副学院長が静かに頷く。
「ノル・フェインさんの指摘は妥当です。公式報告は、過度に要約しない方向で調整しましょう」
通信板の向こうは、少し沈黙した。
それから、硬い声が返る。
「検討します」
「検討、記録」
ノルが書く。
リリィが小声で言う。
「強い」
本当に強い。
会議は続く。
議題は三つ。
一つ、昨日の公式戦報告。
二つ、欠陥魔法分類の見直し提案。
三つ、カルミア魔法学園関連資料の上位閲覧申請。
三つ目で、部屋の空気がさらに硬くなった。
ディオン主任が資料を出す。
連盟標準化事業。
地方校競技旗運用統一計画。
カルミア魔法学園関連。
白い空白。
第七運用班。
旗道を閉じるな。
欠陥判定保留。
共同試験結果、抜けている。
昨日見つけたカルミアの空白。
それが会議室の中央に置かれる。
「この空白について」
ディオン主任が言う。
「当学院として、上位閲覧申請を提出します。理由は、欠陥魔法分類の歴史的再評価および古代旗術式上の機能評価のため」
通信板の向こうの声が、少し低くなった。
「カルミア関連資料は、連盟標準化事業の機密を含みます」
「承知しています」
「再評価は慎重に行うべきです。過去の標準化事業は、事故防止と競技公平性のために行われました」
正しい言葉。
事故防止。
競技公平性。
それを否定するのは難しい。
でも、正しい言葉の下に空白がある。
クララが青い栞に触れる。
「慎重に行うために、空白を確認する必要があります」
彼女は言った。
通信板の向こうが、少し黙る。
「クララ・ヴェルムさん」
「はい」
「あなたの古代旗術式読解は、現時点では正式資格として認定されていません」
その言葉に、俺は少しむっとした。
クララが昨日勝ち筋を作ったばかりなのに。
でも、クララは揺れなかった。
「はい。正式資格はありません」
「では、あなたの読解を根拠に機密資料の上位閲覧を求めるのは、手続き上難しい」
「私の読解だけではありません」
クララは答える。
「アストラム高等魔法理論学院の観測記録、字喰旗グラマの空白反応、欠陥魔法分類の現行説明不足、そしてカルミア資料そのものの不自然な欠落。複数の根拠があります」
ディオン主任が頷く。
「当学院も同意見です」
副学院長も頷く。
「研究校として、上位閲覧申請を支持します」
通信板の向こうの気配が、少し硬くなる。
見えない相手の表情はわからない。
でも、警戒されたのがわかった。
「第七魔法競技部の皆さん」
声がこちらへ向く。
「あなた方は、連盟資料の扱いについて、十分な教育を受けていますか」
質問の形をしている。
でも、少し違う。
信用していない。
そういう響きがある。
俺は答えようとした。
その前に、アルフが口を開く。
「十分ではありません」
正直すぎる答えに、ロイが少し驚く。
でも、アルフは続けた。
「だから、リブランで補足記録の扱いを学び、アストラムで読む前手順を作りました。教育を受けていないから扱えない、ではなく、扱うための手順を作っています」
通信板の向こうは黙る。
「手順は記録されていますか」
「はい」
ノルが部誌を持ち上げる。
「部誌に」
「公式書式ではありません」
ノルが目を閉じた。
圧。
かなり強い。
「公式書式にすると、消えるものがある」
ノルは目を閉じたまま言う。
「でも、公式にも出す。両方いる」
副学院長が少し笑った。
厳しい顔のまま、口元だけ。
「その通りです。公式報告と部誌記録の両方を添付しましょう」
「部誌を連盟に出すんですか」
リリィが嫌そうに言う。
「全部ではなく、該当部分の写しです」
「珍獣発言とかは伏せてください」
「書いたのか」
ジャックがノルを見る。
ノルは目を逸らした。
「少し」
「書いたのか」
重い会議室に、少しだけ笑いが起きた。
通信板の向こうだけは笑わなかった。
「第七魔法競技部は、今後の競技連盟監査対象となる可能性があります」
硬い声が言った。
笑いが止まる。
監査対象。
警戒。
その言葉が、会議室に置かれる。
リリィが小さく「来ましたね」と呟く。
俺も、来たと思った。
これまで、俺たちは弱い地方校の変わった部活だった。
欠陥魔法の集まり。
忘れられた第七部。
でも、リブランで記録を補足し、アストラムで分類を揺らし、カルミアの空白に触れた。
もう、ただの弱い部活ではない。
連盟の一部にとって、警戒すべき相手になり始めている。
「監査対象というのは」
俺は聞いた。
「具体的には何を意味しますか」
「競技記録、魔法特性、外部資料閲覧履歴、連盟資料への接触範囲の確認です」
「試合に出られなくなる?」
「現時点では、その予定はありません」
現時点では。
便利で嫌な言葉だ。
クララが青い栞を握る。
レイナが姿勢を正す。
ネルが眉をひそめる。
ジャックは拳を握りかけ、開いた。
ガレスが水を中央へ置く。
その水が、かなり助かった。
「監査も記録します」
ノルが言った。
「第七部が何を見て、何を見なかったか。何を読んで、何を読まなかったか。全部」
「連盟監査記録と照合するためですか」
通信板の声が聞く。
「違う」
ノルは首を横に振る。
「なかったことにされないため」
また、部屋が静かになった。
忘れたものも、なかったことにはしない。
リブランで得た言葉。
カルミアの空白で再び出てきた言葉。
それが、今度は連盟監査に向けられる。
通信板の向こうは、しばらく黙った。
「……記録は自由です。ただし、機密情報の持ち出しには制限があります」
「制限も記録」
ノルは言った。
少しだけ勝った気がした。
会議の最後に、ディオン主任が研究校としての報告案を読み上げた。
カルミア第七魔法競技部は、字喰旗グラマとの公式戦において、作戦書摂取後の非文字痕跡を利用した即興戦術により勝利。
クララ・ヴェルムの古代旗術式読解は、現代標準式読解不能という欠陥分類を補完、または再評価する可能性を示した。
欠陥魔法分類は、現代標準式からの偏差のみならず、古代旗術式上の機能を含めて再検討すべきである。
カルミア魔法学園関連の連盟標準化事業資料には、不自然な欠落が存在する。
上位閲覧申請を提出する。
最後に、注記。
第七魔法競技部は、記録の要約により個人の行動が欠陥分類へ還元されることを警戒している。
そのため、公式報告には、部員個別の行動記録を補足として添付する。
ノルが満足そうに頷いた。
眠そうだが、満足そうだった。
「良い」
ノルが言う。
ディオン主任が少し安心した顔をした。
いつの間にか、彼はノルの評価を気にしている。
「クララさん」
副学院長が言った。
クララが顔を上げる。
「あなたには、アストラムの臨時読解協力者として登録する資格があります。希望すれば、古代旗術式読解の正式研修を受ける道もあります」
クララは驚いた顔をした。
ロイが目を輝かせる。
リリィは少し警戒した顔をする。
俺も、喜んでいいのか少し迷った。
研究校がクララを認める。
それは大きい。
でも、研究校に囲い込まれるようにも聞こえる。
クララは青い栞を見る。
少し考える。
そして、言った。
「今は受けません」
副学院長は表情を変えない。
「理由を聞いても?」
「私は、第七部で読んだ時に止まれました。一人で読めるようになる前に、誰と読むかを大事にしたいです」
その答えは、クララらしかった。
読めることと、読んでいいことは別。
そして、誰と読むかも別。
副学院長はゆっくり頷いた。
「わかりました。資格案内は保留にします」
「保留」
ノルが書く。
「良い保留」
クララは少しだけ笑った。
会議が終わった後、俺たちはアストラムの中庭へ出た。
白い校舎の間に、小さな芝生がある。
白と銀ばかりの街で、緑を見ると少しほっとする。
リリィが大きく伸びをした。
「監査対象になりましたね」
「嫌な言い方をするな」
ジャックが言う。
「事実です」
「事実でも嫌な言い方はある」
「では、注目度が上がりました」
「それも嫌だな」
ロイが不安そうに言う。
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫とは言い切れない」
俺は答える。
「でも、見られるなら、こっちも記録する」
ノルが頷く。
「監査を監査」
「強いな」
ネルが笑う。
「でも、必要ね」
クララは中庭の端で、青い栞を見ていた。
俺は隣に立つ。
「研修、受けなくてよかったのか」
「今は」
クララは言った。
「いつかは受けるかもしれません。でも、今は第七部で読んだ方がいいと思います」
「どうして?」
「研究校では、読めることを評価してくれます。でも、第七部では、読まないことも見てくれます」
それは、少し胸に残る言葉だった。
読めること。
読まないこと。
どちらもクララだ。
欠陥でも、高適性でも、臨時協力者でも閉じない。
「クララの章、終わり?」
ノルがいつの間にか近くにいた。
クララは困った顔をする。
「私の章という言い方、最後まで慣れませんでした」
「慣れなくていい」
ノルは部誌を開く。
「章は締める。でも閉じない」
「リブランで覚えた言い方ですね」
「便利」
ノルは書く。
クララの章。
現代魔法式は読めない。
古代旗術式は読める。
読めるけど、全部は読まない。
作戦書は食べられた。
文字になる前の第七部で勝った。
連盟が警戒を始めた。
それから、少し間を空けて、最後の一行。
読めなかったものも、道になる。
クララはその一行を見て、しばらく黙った。
「それ、グラマの言葉ですね」
「少し変えた」
「はい」
「クララにもいる」
クララは青い栞を押さえた。
現代魔法式が読めなかったこと。
落ちこぼれ扱いされたこと。
研究校で分類されたこと。
それらは消えない。
でも、道になる。
昨日の勝利は、そういう勝利だった。
「残してください」
クララが言う。
「残す」
ノルが頷く。
アストラムの白い塔の上で、遠く字喰旗グラマが保管塔へ戻されていくのが見えた。
黒い旗は小さく揺れた。
こちらへ向けたものかどうかはわからない。
でも、クララは小さく頭を下げた。
読めるものを読んだ。
読めないものも道にした。
読んではいけないものは、今は読まなかった。
その全部を持って、俺たちはアストラムを出る準備を始める。
連盟の警戒は始まった。
カルミアの空白はまだ閉じていない。
ルカとエレナの線も、まだ途中だ。
でも、第七部は一つ、確かに勝った。
分類より複雑なまま。
欠陥で閉じられないまま。
次の街へ進むための、古い道をひとつ手に入れて。




